黒森峰の逸見姉妹   作:H&K

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秋山優花里の戦車道 22

 

 目があった。

 

 刹那のその時、カリエはそんなことを考えていた。

 

 

 01/

 

 

 両者の距離が急速に縮まっていく。

 冬の時とは違い、優花里の瞳は射殺さんばかりにカリエに固定されていた。

 フェイントを狙った目線ではなかった。

 優花里の視線を真っ向から受けたカリエは己を叱咤する。

 叱咤して、すぐさま車内に高速でジェスチャーを展開していた。目標の位置、速度、そしてどういった軌道を取り得るのか全て伝えていた。

 

 狙いは自分だ。

 衝撃に備えつつ、迎え撃て。

 エリカが盾として割り込んだその隙に、打ち砕け。

 

 言葉としてはそれだけ。

 けれどもその短節に込められた感情、意思、想いは並々ならぬものがあった。

 必ずやこの窮地を乗り越えてみせるという、力強い決意があった。

 果たしてパンターの乗員たちも、そんなカリエの意気込みに答える。

 これまでの鍛錬の全てを動員して、滝のような汗でジャケットを濡らしながら、それぞれの役割に身を捧げた。

 成果は出た。

 パンターの主砲がギリギリのタイミングでⅣ号戦車に狙いを定めたのだ。

 カリエは瞬きすら放棄して、Ⅳ号戦車の影を追った。

 確実に撃破が可能な距離になるまで、カリエは砲撃を命じない。

 それと同時。

 盾としての役割を担ったエリカのティーガーⅡがパンターの前に陣取った。これで優花里がカリエを撃破するには、無理な挙動を持ってパンターの側面に迂回しなければならなくなった。

 Ⅳ号戦車の機動に合わせて主砲を操作しなければならないというデメリットが発生してはいたが、自動追尾装置のような正確さで的を追従する訓練を受けてきた黒森峰の砲手ならば、さして問題のあるシチュエーションではない。

 つまり、寸での所ところで逸見姉妹の連携が成ったのだ。

 鉄壁の防御陣と一撃必殺のカウンターを整えられたのだ。

 

 これで万が一にも優花里の勝利はなくなった。

 

 事実逸見姉妹はそう考えていたし、試合を観戦していた観客たちも同じことを考えていた。

 

 やはり今年も黒森峰か。

 

 それは、彼女たちを見守る万人が共通して抱いた感情だった。

 

 

 02/

 

 

 ちりり、と頬を焼くような何かを感じてカリエは不安を抱いた。

 あと二秒もしない間に、自分たちの勝利が確定するところまで来ているというのにその心情はささくれ立っていたのだ。

 

 何故? 

 何か見落とした?

 どうしてこんなにも勝利の実感がない?

 

 疑問と迷いに苛まれつつも、カリエは発砲準備のハンドサインを形作った。

 あとはそのサインを少しばかり変化させ、発砲を指示するのみ。

 

 Ⅳ号戦車の車体先頭がカリエから見て左に動いた。

 やはりエリカの盾を迂回するのか、と回転する主砲に合わせてカリエも視線を動かす。

 

 だがカリエの視線は空を切った。

 視界の左側には何も存在しなかった。

 

 カリエの視界の右端では、同方向に進路を切ったⅣ号戦車が写っていた。

 Ⅳ号戦車はエリカのティーガーⅡに突進していたのだ。

 

 カリエは無意識のうちにこう叫んだ。

 

「お姉ちゃん!」

 

 

 03/

 

 

 優花里の作戦は徹頭徹尾、逸見姉妹の分断に終始していた。

 それは姉妹が合流を成し遂げても変わることのない不変の方針だった。

 優花里は逸見姉妹に対する徹底的なメタをもって、黒森峰に勝利しようとしていたのだ。

 それはカリエから学んだ戦術でもあり、彼女自身の戦車道の体現でもあった。

 

「ティーガーⅡの装甲を打ち砕けるかは、五分五分の賭けです! ですが修理されたばかりの転輪なら別! 必ずや撃ち抜けます!」

 

 揺れる車内で、華の感覚は研ぎ澄まされていた。怒声にも近い声量を誇る優花里の言葉をしっかりと受け止めつつも、その心は風に揺れる水面のように澄み切っていた。

 視界が目まぐるしく変化する中、ティーガーⅡの転輪がいよいよ視界一面に広がった。

 反射的に引き金を引きそうになるのをぐっとこらえ、さらなる接近を待つ。

 麻子もそんな華の意図を読み取っているのか、さらにティーガーⅡにⅣ号戦車を肉薄させた。

 

 そして、その時が来た。

 

 秋山優花里が逸見カリエに一矢報いるその時がやってきた。

 

 

 04/

 

 

 Ⅳ号戦車の主砲によってティーガーⅡの転輪が吹き飛ばされる様子を、カリエはしっかりと見ていた。言葉に表すことも出来ないような数多の感情が押し寄せ、カリエの思考を数秒の間停止させる。

 奇襲に成功したⅣ号戦車が逃げ出すには、それだけの時間があれば十分だ。

 カリエはこちらから遠ざかりつつあるⅣ号戦車をすぐに追うことは出来なかった。

 

 その僅かな時間ロスから生まれる焦りが。

 姉を手に掛けられたという屈辱が。

 そして油断を喫してしまったという後悔が。

 

 カリエを突き動かした。

 

「全軍、Ⅳ号戦車を追跡しろ! ポイントはEー23! 進行方向は北東、速度35! 私もすぐに追撃を開始する!」

 

 カリエのオーダー通り、パンターが動きを再開した。

 それは姉妹を殺された豹の姿そのものだった。

 凄まじいまでの怒りと後悔がパンターの原動力。

 

「砲手、左に20度、徹甲弾、撃て!」

 

 パンターの主砲が咆哮を上げる。

 逃げ続けるⅣ号戦車のすぐ足下を砲弾が穿っていく。

 正確かつ苛烈な砲撃がⅣ号戦車に殺到していた。

 だが、激情に支配される思考であっても、カリエ本来の冷静さを失っている訳ではなかった。彼女は砲手に絶え間ない砲撃命令を告げつつも、無線機で周辺に展開した斥候たちに細やかな指示を飛ばす。

 

「目標はF-11に移動。16号車——小梅と11号車で道路を封鎖。背後から12号車と私の車両で挟撃する」

 

 何としてもⅣ号戦車を討ち果たさなければならないと考えているからこそ、カリエの思考回路は澄み切っていた。ふつふつと滾るマグマを原動力に、何処までもクリアな視界で世界を見ていた。

 

「砲手、Ⅳ号戦車が右にフェイントを取ろうとしている。乗せられているフリをしながら左に砲弾を外して。こちらが合図をしたその時に、右に砲撃を叩き込んでほしい。相手の挙動が乱れたその瞬間、四両の車両で包囲しとどめをさす」

 

 だからこそ、結果の定まっている詰め将棋のように一手一手、確実に勝利への布石を敷き詰めていく。それは小さな歩幅で階段を上り続けるような地味な作業。

 

 みほのような鮮やかで天才的な用兵ではない。

 エリカのようなカリスマに溢れた鮮烈な用兵ではない。

 

 カリエがこれまでの人生で少しずつ積み重ねてきた彼女だけの戦車道なのだ。

 

 刻一刻と、包囲陣の完成が近づいてくる。

 珍しく手に汗をカリエは握っていた。

 今まで、幾度となく緊張感に苛まれながら戦ってきたが、こんな感覚は初めてだった。

 先の見えない未来。

 定まっているはずなのにあやふやな勝利。

 それら全てが彼女を必要以上に発汗させ、心臓の鼓動を始めていた。

 

 時が来る。

 もう数秒もない間に決着がつく。

 カリエは小さく息を吐き出し、

 目を閉じた。

 

 未来が成った。

 

 

 05/

 

 

 ――これが静寂なのかと、カリエは車長席に深くもたれ掛かった。

 前方にはこちらとの距離を徐々に開きつつあるⅣ号戦車が見える。

 砲手には砲撃を一時中断するように指示していた。

 

「……状況報告を」

 

 カリエ自ら無線機を操作して周囲の様子を伺う。すると包囲の為に移動させた三両の車両から、悲痛な返答が届いた。

 

『カリエさん、こちら赤星! 奇襲です! 先回りされ、指定ポイントに近づけません!』

 

『ごめんなさい! こちらもです! ヘッツァーの砲撃を受けて、履帯がやられました! 申し訳ありません!』

 

『12号車、予定の進路を民家の瓦礫で埋められていました。……迂回して何とかそちらに向かいます』

 

 嗚呼、と声を漏らした。

 前方のⅣ号戦車に座しているであろう優花里のことを、カリエは想った。

 詰め将棋をしていたのは自分だけではなかった。

 優花里もまた、自らが望む勝利を目指して一つ一つ手を打っていたのだ。広場に潜み続けていたときから、彼女の道は成っていたのだ。

 カリエはそんな道にまんまと乗せられてしまっていた。

 策士として生きてきた彼女が、生まれて初めて策に嵌められた。

 

「――これは堪えるな。悔しく、腹立たしく、悲しく、そして清々しい。ここまで綺麗に嵌められると、こんなにも不思議な気持ちになるのか」

 

 カリエは全てを察する。

 優花里の策の全貌を完全に悟ったのだ。

 

 優花里は結局のところ、最初から最後まで逸見姉妹の分断だけに終始していた。こちらが合流を果たしてしまっても、最終的に分断できればそれでよしとしたのだ。

 Ⅳ号戦車が戦線に一切参加せず傍観と隠密に徹していたのも、分断する最高のタイミングを待ち続けるため。

 逸見姉妹ならば、必ずや鉄の連携を持ってあの広場に辿り着くと予想していたのだ。

 おそらく街に逃げ込んだその瞬間から、その方針が定まっていた。大洗女子学園のメンバー全員でⅣ号戦車をあの民家に隠した。

 

 戦車の操作に優れるものが、周囲の堀や街灯を傷つけないように、気の遠くなるような慎重さを持ってⅣ号戦車をガレージに運んだのだろう。

 偽装工作に優れるものがⅣ号戦車の履帯痕を一つ一つ消していき、カリエの目を欺いたのだろう。

 通信技術に優れるものが、各車両の位置関係を常に把握し、黒森峰に強襲されて逃げ回る大洗を演出して見せたのだろう。

 

 見事だ。いや美事だ、とカリエは感嘆した。

 そして大洗女子学園の成長を自分勝手に評していた自分を恥じた。

 彼女たちはカリエが思い描いてきたレールを、道を辿ってきたのではない。

 大洗女子学園は、カリエとはまた違った方向に自分たちの戦車道を見つけ出し、ひたすらその道を邁進してきたのだ。

 カリエからのアドバイスなど、踏み台でしかなかった。カリエが大洗女子学園を引き上げたのではなく、いつの間にか次のステップへの足がかりにされていただけなのだ。

 勘違いも甚だしかった、とカリエは自らの負けを認めた。

 

 だが――、

 

「私の策が負けても黒森峰は負けていない。ここには黒森峰選りすぐりの精鋭たちがいる。私たちはまだ負けていない」

 

 その瞳の闘志は失われるどころか、より苛烈に燃え上がっていた。

 こんな気分になったのは、ダージリンを奪いに行った時くらいだと、カリエは笑って見せた。

 前方にⅣ号戦車がいる。

 新しいライバルがそこにいる。

 

「決着をつけよう、優花里さん」

 

 

 06/

 

 

 転輪の修復、西住隊長の部隊が合流するまで不可能です。

 

 乗員たちから告げられた言葉に、エリカは「そう」とだけ答えた。

 彼女はただ、足を失ってしまった王虎を静かに見上げる。

 

「……予備の部品をみほたちから工面してもらうしかないのね?」

 

「ええ、残念ながら。初回の修理で殆ど使い切ってしまいました」

 

 エリカはちらり、と腕時計を見た。みほが合流を果たすまであと十数分残されている。

 僅か十数分。

 されど今のエリカにとっては永遠にも等しい長いときだった。

 

「カリエから連絡は?」

 

「我々に対しては何も。ただ、周辺に展開していた車両に細かな指示を飛ばされています」

 

 ならばよしとするべきなのか。

 

 エリカはそっと瞳を閉じた。

 この結果でよかったのだ、と己を納得させる。

 あの場面でカリエを庇わないという選択肢は一ミリも存在しなかった。

 カリエがやられればその時点で黒森峰の敗北だった。

 そして何より、妹が目の前でターゲットにされているというのにただ黙って見ている姉など、エリカにしてみたらあり得ないものだったのだ。

 

 だからあの選択は最善だった。

 自身が狙われていると気がついても、決して回避機動を取らなかった。

 

 流れ弾がカリエに向かえば?

 無理に動いてカリエに衝突していれば?

 

 全ての可能性をあの一瞬で類推し、エリカは判断を下したのだ。

 例え自分が倒れてもここから逃げてはならないと。

 だから胸を張ってこう告げることが出来る。

 

 自分は最善を戦った、と。

 

 だが——。

 

「エリカ副隊長、西住隊長と合流したら速やかにカリエ副隊長のあとを追いましょう。それからでも遅くはありません。カリエ副隊長は必ずやエリカ副隊長のことを待ち侘びているはずです。私たちも全力でことの復旧に当たります。なに、訓練で散々やってきたことじゃないですか。ティーガーⅡの転輪の交換なんて。朝早くから日が暮れるまで。手元が見えなくなったら皆で懐中電灯を咥えて。その様子を見た他の課からは『幽霊が戦車に群がってる』って怖がられましたっけ。確かにあの光景は異常でしたかもしれませんね。でも、私たちは少しでもタイムを縮めようと必死で、勝ちたくて、くろ、もり、みねを……十一連覇にみちびき、たくて、かちたくて、少しでも、エリカさんの役に立ちたくて、勝ちたくて、みんなで優勝したくて、ああああああああああああ」

 

 嘆きは連鎖していた。ティーガーⅡの周囲ではこれ以上戦うことが出来ないと悟った乗員たちが慟哭を上げている。

 エリカはそんな乗員たちを叱咤しない。

 いや、することが出来ない。

 いつもなら「軟弱よ」と喝を入れていた唇が震えて言うことを聞かない。

 彼女もまた、タンカースジャケットと足下の地面に特大の染みを作り出してしまう大粒の涙をぽろぽろと零していたのだ。

 

「ごめんね。カリエ。最後まで一緒じゃなくて。ごめんね、みんな。私の我が儘で最後まで戦わせてあげられなくて」

 

 嘘偽りの無い言葉は蝉の声の中に消えていく。

 蜻蛉のような儚い夏の空気に、彼女たちの慟哭は溶けて無くなっていった。

 

 

 07/

 

 

 ナナは必死だった。

 大洗女子学園のフラッグ車を追撃することが出来るのが、自分たちだけだと知らされ覚悟を決めていた。

 自分の操縦、一挙手一投足がこの後の運命を左右するのだと自覚していた。

 

 ふと、背後の車長席から指示を飛ばすカリエの気配を感じる。

 

 彼女もまた覚悟を決めていた。

 ここで勝負を決めなければならないと、ここで勝利しなければならないと覚悟を決めていた。

 

 ナナは自分が何故、この副隊長について行こうと思ったのか、思考の片隅で思い出す。

 

 中学生の頃までは戦車と無縁の生活を送っていた。

 代わりにナナがのめり込んでいたのはジュニアモトレースだ。

 祖父と父は世界的に有名なレーサーだった。

 優秀なサラブレッドの血を引いたナナもまた、超人のような才能を有していた。

 面白いくらいレースに勝ち続けた。練習すればするほどあらゆるテクニックが爆発的な伸びを見せ、走れば走るほど高みに登っている感覚があった。

 祖父も父もそんなナナの活躍を喜び、これからの将来を大いに期待していた。

 ナナは人生が楽しかった。

 この一度きりの人生が楽しくて楽しくて仕方が無かった。

 世界中、何処を探してもここまで幸せな毎日を送っている人間など存在しないと疑わなかった。

 

 ——だからかもしれない。天罰が下ったのは。

 

 大雨の翌日のレースだった。

 本来ならばアクシデントの発生を危惧しなければならないコンディション。

 されどもそれは常人にとってのこと。

 ナナにとってそれは考慮すべき事象では無く、自身の人生にさらなる彩りを添えてくれるスパイスでしかなかった。

 事実、ナナは独走した。

 危なげも無く、一度も足を路面に囚われることも無く、ただ圧倒的なスピードでレースを支配していた。

 前方に周回遅れのマシンが見えた。

 大会のルール上、ここでナナが相手を抜き去ってしまえば、その相手は失格となりレースの続行が不可能になる。

 その為か、背後にナナが迫っていることに気がついた相手は、何とか抜かせまいと必死にスロットルを回していた。

 ナナはそんな相手をあざ笑うようなことはしない。

 ただ自身の全力を持って抜き去りに掛かった。

 それが勝負の世界の礼儀であることくらい、既に理解していたから。

 天才と凡才のデッドヒートが始まる。

 火事場の馬鹿力か、追い詰められたネズミなのか、ナナも内心舌を巻くほど、相手は粘った。

 粘りに粘って、本来の実力以上の走りを、相手は展開していた。

 ナナもその健闘を称えながら、ここぞというタイミングを虎視眈々と見定め続けた。

 

 そして時はやってくる。

 

 左に大きく展開したハイカーブ。

 

 ここが狙い目だと、ナナが距離を詰めた。

 相手も己の危機を察し、何とかブロックしようとマシンを操作した。

 

 ふと、マシンが空を飛んだ。

 

 極限まで追い詰められて視野が狭くなっていた相手のマシンが空を飛んでいた。

 

 スリップだ、とナナは呟いていた。

 だが焦ることはなかった。彼女の思考は至って冷静だった。

 何故なら彼女には勝算があった。あの角度で滑っていったのなら、こちらは安全であると理解していたから。

 事実、スリップしたマシンはナナの進行方向からは消えていた。

 ナナのレースを妨害するものなど、何一つ残されていなかった。

 

 結局、勝負は天才が勝利する。

 大番狂わせなどなく、当たり前の結果がそこにはあった。

 

 だが、ナナの悲劇はここから始まっていた。

 

 あ、とナナは声を上げた。

 相手の実力が自分と拮抗しうるものだと勘違いしていたナナの失態がそこにはあった。

 突然のスリップにパニックになった相手が、何とかもがこうとしてマシンから放り出されていた。

 マシンにしがみついてさえいれば、安全にコースアウト出来たのに、下手に暴れたから体だけコースに取り残されていた。

 そしてそれはナナの進行方向直上。

 なんとか接触を避けなければ成らないと、ナナはマシンを操作する。右と左が運命の分かれ道。

 右には、まだスリップを続ける相手のマシンがあった。

 左には、何も無かった。

 ナナは左に意識を傾ける。けれども、その最中に見てしまった。

 マシンとは全く違う動きでコースを転げ回っている相手が徐々に左に移動しているのを見てしまった。

 九割で接触しないと判断した。

 相手がナナのマシンの目の前を横断するよりも、ナナがその場を走り抜ける方が早いと判断していた。

 事実ナナには実力があった。

 最悪の事態を回避するだけの神業をナナは有していた。

 

 だが悲しいかな。

 ナナは天才の器に、凡人の、心優しいただの少女の魂を持っていた。

 残された一割に踏み込めなかった。一割の可能性を無視して勝利することを恐れてしまった。

 

 右にマシンが傾く。

 スリップした相手のマシンが迫り来る。

 なんとか衝撃を殺そうと、頭を腕で守った。

 世界が目まぐるしく変化する。空に投げ出されればこんな気持ちになるのか、とナナは漠然と考えていた。

 右腕から地面に落ちた。

 今までの人生で一度も聞いたことのないような音を、自分の肉体から聞いた。

 初めての体験だった。

 

 ただ一つだけ理解していたことがある。

 

 これが自身のレーサーとしての終わりなのだ、とナナは感じ取っていた。

 

 

 そこから先は地獄だった。

 目の前に広がっていたあらゆる道が閉ざされ、人より優れていた才覚は失われていた。

 残されたのは人よりも不自由な右腕だけだった。

 バイクにはもう、乗れなかった。

 走らせることは出来ても、ナナの感覚に体がついてきてくれなかった。

 レースに耐えられる体では無くなっていたのだ。

 中学校最後の一年間を全てリハビリに当てても、完全に回復が出来なかったとき、ナナは呆気ない終わりに絶望していた。

 

 丁度その頃、俄にテレビを騒がす人物が現れていた。

 名門黒森峰女学園新進気鋭の副隊長である逸見カリエである。

 ナナは戦車道に詳しくなかった。

 いや、全くといって良いほど知らなかったと言っても良い。

 それでも、連日テレビや雑誌を賑わしているほぼ同世代の有名人の話は、嫌でも彼女の耳に入ってきていた。

 最初の頃は、一切興味を抱けなかった。

 同じ乗り物を乗り回す競技でもモトレースと戦車道は余りにも世界が違いすぎて実感が湧いてこなかったからだ。

 だから無視した。

 何かしらの競技を続けさせてやりたいと、ナナを気遣って戦車道の話題を持ってくる父を無視していた。戦車道の講習会に赴き、競技の世界を何とかナナに伝えようとする祖父を無視した。

 二人とも、ナナを戦車道の世界に放り込んでしまいたいという魂胆が明け透けで、ナナは不快だった。

 もうモトレースに出ることも出来ないのだから、競技の一切から手を引きたいと考えていたのだ。

 ただ、そんなナナの心情は、彼女が父と祖父を無視したように、また無視されつつあった。

 どれだけ耳を閉ざし目を塞いでいても、逸見カリエの話はナナに飛び込んでくる。

 

 やれ、水恐怖症を克服しただの。

 やれ、美しい姉妹愛で勝利しただの。

 やれ、ナナの地元である熊本県の英雄なのだと。

 

 ナナは普通の少女だった。

 どれだけモータースポーツの天才でも、根は何処にでもいる普通の少女だった。

 全ての情報をシャットアウトし続けることなど、土台無理な話だった。

 一度興味の扉を開いてしまえばそこから後戻りは出来なくなっていく。

 

 最初は、見舞いにきた友人が持っていた雑誌かもしれない。

 もしかしたらぼんやり見ていたテレビの特集だったかもしれない。

 一番可能性が高いのは、やっぱり父と祖父が持ってきたあらゆる情報だろう。

 

 とにもかくにも、ナナは気がつけばカリエについて調べていた。

 どういった経歴で、どういった思想で、どういった競技観を抱いているのか徹底的に調べ尽くした。そして調べ尽くせば尽くすほど、逸見カリエという存在にのめり込んでいた。

 

 カリエはナナにとってIFの存在だ。

 事故で抱えた障害を乗り越えていった憧れのIF。

 カリエは先天的、ナナは後天的という違いこそあれど、

 自分が進むべき道を示してくれていることは確かだった。

 

 あとはもう、とんとん拍子だ。

 

 モトレース並みの繊細さが要求されない戦車の操舵など、ナナにとっては朝飯前だった。

 彼女の天性の才能が、あっという間にナナの肉体を戦車道専用のものに作り替えていった。

 黒森峰の高校編入試験は実技であっさりとパスした。

 彼女の操縦センスに敵うものなど、高校戦車道の世界を見渡しても一握りしかいない。

 ナナにとっての心配事など、どの車両に配属されるか、くらいだった。

 そして、ナナの夢が、これからの人生の一歩目が、叶うことになる。

 

 ——他ならぬカリエの手によって。

 

 ナナは覚えている。

 それは一生忘れることの出来ない、世界で一番美しい光景。

 

 戦車道練習の初日、緊張で固まっていたナナを後ろから優しく突き飛ばす影がいた。

 何事か、と振り返れば「くすくす」と笑みを零すカリエがいた。

 突然のことに、思考停止しているナナの手をカリエはさっと握りしめ、そのまま歩き出す。

 カリエはナナに振り返らずに、悪戯が成功した子供のように口を開いていた。

 

「新入生の乗員のドラフトなんて、完全ウェーバー制の早いもの勝ち。というわけで、うちにおいでよ。こっちには小言の五月蠅いエリカもいないし、笑顔で怖いことをいうみほもいないよ。アットホームでのほほんとした車両だから」

 

 その小さくて大きな背中を、ナナは涙交じりの瞳で目に焼き付けていた。

 

 

 08/

 

 

 カリエにとっては、考えなしの、それこそ気まぐれだったのかもしれない。

 それでもナナにとっては万の言葉に勝る、明るい未来を教えてくれる一瞬だった。

 

 そしてその未来が成就する瞬間がすぐそこまで迫っているのだ。

 カリエとナナ、そしてパンターの乗員たちで掴み取らねばならない未来が眼前まで来ている。

 

 ナナは滝のような汗をまき散らしながら、カリエの一言一言を決して聞き逃さないよう全ての神経を極限まで研ぎ澄ましていた。

 カリエの手足となるべく、全身全霊を注ぎ込んでいた。

 いつもは鈍痛にしかめながら動かしていた右腕も、すこぶる調子が良い。

 まるで全盛期に戻ったかのように、カリエの、ナナの願いを聞いてくれていた。

 

 黒森峰を、逸見カリエを勝利させるため、

 佐久間ナナはパンターをただただ前に進めていた。

 

 

 09/

 

 

 優花里が何かを口にした。

 それは決して大きな声量ではなかったが、Ⅳ号戦車の乗員たちには確かに伝わっていた。

 まず最初に動きを示したのは麻子だった。

 それまでほぼ全速力で逃げ続けていたのを、少しずつ速度を落とし、追いすがるパンターとの距離を縮めた。

 次に優花里がキューポラから身を乗り出して背後を見た。すると当然と言うべきか、自身と同じようにキューポラからこちらを見ているカリエがいた。

 両者の視線が重なる。優花里の動きの全てを、カリエが見つめている。

 

 そうだ。それでいい。

 

 優花里は振り返ったまま、車内にジェスチャーを送った。

 手信号を読み取った沙織が何かを叫ぶ。

 すると麻子が進路を思いっきり右に切った。だが、華は主砲を左に向けた。

 

「!」

 

 それは二方向に分岐している分かれ道で成された。

 Ⅳ号戦車は分岐のうち右側に進路を変えている。だが、カリエは左へ進んだ。

 いや、進まされていた。

 進路を右に取ったのと同時に主砲を左へ。

 それは目の錯覚を応用した高度な操縦テクニックだった。人間という生き物はどうしても、戦車のシルエットで最も判別が容易な主砲部でその戦車の進路を判断してしまうのだ。

 優花里はその特性を利用した。彼女が昔に見た、富士の総合火力演習で活躍する90式戦車をモチーフにした作戦だった。常に一定の方向に主砲を向け続けることの出来るかの戦車の挙動を観察してみると、どちらの方向に進んでいるのか判別しにくいという経験を思い出していたのだ。

 右の分岐は坂を上っていく。

 行き先はとある運動公園。

 優花里はその中心に座しているスタジアム——野球場を目指した。

 彼女の思い描く最終決戦の舞台がすぐそこまで来ていた。

 

 あともう少し。

 

 それはあんこうチーム全員の気持ちそのもの。

 しかしながら、優花里は咄嗟に停止を命じた。

 

「!?」

 

 眼前を砲弾が通過する。

 左側へ視線を走らせれば、併走するパンターがいた。

 事前の調査では、左側の道も最終的には運動公園へと続いている。それでもその道は非常に狭く、パンターで通過するのは殆ど困難だという結論に至っていた。

 もし通ることが出来ても、亀のような歩みであり、スタジアム周辺で再び奇襲の準備をする時間くらいは稼げると考えていたのだ。

 パンターの操縦手であるナナが、神がかりな操舵を見せて、ほとんどトップスピードで駆け抜けてくるなど、優花里の完璧な想定外だった。

 

「      」

 

 けれども優花里は狼狽えない。

 それでこそカリエ殿、と言わんばかりにⅣ号戦車を前進させた。互いに併走しあいながら砲弾の応酬を繰り広げる。眼前にスタジアムが迫ってきても、それぞれ速度は中々緩めなかった。

 ただ、ここで右に進路を切ったあんこうチームと、左へ進まされたカリエに差が生まれていた。

 優花里の進行方向は、スタジアムの柱となっており突破が困難なものだった。

 対するカリエは、ちょうどスタジアムの入り口となっており、閉ざされたシャッターも戦車ならば突破可能な代物だった。

 優花里とカリエ、それぞれ一瞬だけその事実を確認する。

 そして優花里は急停車を、カリエはそのまま前進を選択した。

 カリエのパンターだけがスタジアム内に突入したのだ。

 

 この方針の違いは、両者の有利不利を決定づけた。

 すなわち、スタジアム内で万全の態勢で優花里を迎え撃つことが出来るカリエと、

 迎撃態勢を整えたカリエに挑まなければならない優花里に分かれたのだ。

 短期決戦でカリエを討ち取らなければならないという状況に追い込まれた優花里としては、この上なく不利な展開だった。

 

 

 10/

 

 

 シャッターを突き破り、途中あった自販機を挽きつぶし、砲撃を一つ加えて吹き飛ばした薄壁の向こう側にはいつかの夏があった。 

 何処までも広がるだだっ広い青空。

 白く、重々しい質量すら錯覚させる特大の入道雲。

 観戦スタンドを取り巻くのは夏の熱気に当てられた陽炎たち。

 そして眼前には、バッターボックスとその延長線上に形作られたマウンド。

 

 懐かしさすら覚えるその光景に、カリエは息を呑んだ。

 

「野球場、ですか」

 

 何故かナナの呟きがよく聞こえる。パンターのエンジン音があるはずなのに、何故かその言葉だけが耳に届く。

 カリエはちょうどマウンドのその位置でパンターを停止させた。

 そこから見る景色に、彼女は目眩すら覚える。

 

「そうか。ここが終点なのか」

 

 どこか遠くでⅣ号戦車戦車のエンジン音が聞こえる。

 カリエは静かに球場を見渡して、Ⅳ号戦車の侵入経路を絞った。

 自身が通ってきた道をトレースしてくることはあり得ない。

 ならば、選手控え室など小部屋が多数配置され、戦車で強行突破が可能な一塁側ベンチと三塁側ベンチのどちらかだった。

 マウンドの上で、バッターボックスを、いや、キャッチャーが座す位置にパンターを回頭させる。

 この位置取りならば一塁側ベンチと三塁側ベンチ、どちらからⅣ号戦車が突入しても迎撃が可能だった。

 

「すぅー、はあー」

 

 高鳴る鼓動を押さえ、呼吸を整える。

 Ⅳ号戦車のエンジン音がカリエの耳から不意に消えた。

 一瞬の静寂。

 それはスタジアムへの突入を果たした合図だろうか。

 

 そこから先、カリエの人生でもっとも長い十秒間だった。

 

 十秒——カリエはここまで来た道のりを振り返っていた。

 九秒——カリエは感謝した。ここまでついてきてくれた仲間たちに。

 八秒——カリエは謝罪した。自分のために盾になってくれたティーガーⅡの乗員たちに。

 七秒——カリエは思い出していた。いつか通った、遠い夏の勝負のことを。

 六秒——カリエは女としての人生も案外楽しいものだと笑った。

 五秒——カリエはダージリンにありがとうと告げ、胸元のラッキーベルを握りしめていた。

 四秒——カリエは両親に思いを寄せていた。今この瞬間を見てくれているだろうか。

 三秒——カリエはみほに嘯いた。悪いけどMVPは私だ。

 二秒——カリエはエリカのことを考えた。言葉には出来ない深い愛情があった。

 

 そして一秒。

 

 カリエは気がついた。

 その昔、自身を戦車道の道に引き込んでくれた人物の正体に。

 誰が自分の原風景なのか、思い出していた。

 

 

 11/

 

 

 Ⅳ号戦車が出現した。

 けれどもその出現地点は、カリエの予想を二つとも外していた。

 Ⅳ号戦車はカリエの背後。

 外野席の真下、ライトフェンスの中から出現していた。

 カリエは、己の失態に今更ながら思い至る。

 優花里が出現したそこは、緊急時に救急車両がスタジアム入りする非常口が隠されているところだった。

 

 完全に失念していた。

 

 もしも、カリエが。

 遠い夏に後ろめたさを感じずに、キャッチャーが座すポイントに停止していれば結果は大きく

変わっていた。

 もしも、カリエが。

 逸見カリエとしてでは無く、○○○○としての意識で戦えていたのならば、そんな抜け道を見落とす筈が無かった。

 野球人とは名ばかりの、戦車道の逸見カリエになっていたからこそ、生まれた隙だった。

 皮肉なことに、逸見カリエは戦車道を通して、勝利に必要な「昔の自分」という大切なピースを失っていたのだ。

 本能的に、キャッチャーの守備位置へ立つことを嫌がってしまったからこそ、これからの未来が収束してしまった。

 

 

 12/

 

 

 Ⅳ号戦車が急速に接近する。

 カリエは背後への旋回を命じる。

 土のグラウンドを横滑りしながら、Ⅳ号戦車はパンターの周囲をドリフトした。

 パンターの主砲は必死にそんなⅣ号戦車を追いかけた。

 やがて、両者の動きが一瞬だけ止まる。

 互いの砲口がそれぞれにぴたりと向けられていた。

 カリエと優花里、ごく至近距離で視線が交じり合う。

 

 ああ、やっぱり。

 

 砲撃のその瞬間、カリエは泣き笑いの表情を形作っていた。

 それは、長年見つけられなかった探し人をようやく見つけられた、安堵から来る笑みだった。

 

 

 13/

 

 

 砲声は夏の空の下、世界の何処までも響き渡る。 

 それはとてもとても美しい音色だった。




間に合えば、本日中にエピローグを投稿します。

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