正直言って、少し前まではカリエはエリカのことを苦手にしていた。自分と同じ顔、同じ声、同じ背丈等々、まるで自分の映し鏡のような彼女のことが苦手で仕方がなかった。
ただでさえ前の人生との性別の差異に苦労しているというのに、エリカが目の前に立つとそんな自分の無残な現状がありありと突きつけられているような気がしたからだ。
エリカを通して「逸見カリエ」という認めがたい現実を突きつけられ続けていた。
そして、その苦手意識のピークはちょうどカリエが戦車道と出会った頃だった。
両親によって戦車道博物館に連れてこられていた彼女は、自分の手を引っ張り続ける姉のエリカを疎ましく感じていた。戦車道なんてやりたくないのに、もうその世界に飛び込むことが規定事項であるかのように振る舞うエリカが嫌だった。
俺のことはないも知らないくせに。
本当の年齢からしたら、まだまだ幼いガキのくせに。
この苦しみに気がつくこともないくせに。
だから振りほどいていた。
しっかりとこちらを握りしめていた姉の手を、力の限り突き放した。
こんな反抗の仕方、この人生においては初めてのことだった。
でもそうでもしなければ、どんどん自らの何かが蝕まれていくようなきがして、我慢ならなかったのだ。
01/
エリカは痺れるような痛みが走る己が手を見つめた。
カリエとは違い、きちんと毎日学校に通い、地元のスポーツクラブに入団しているエリカの力は引き籠もりがちなカリエよりも遙かに強い。だからその気になればカリエを捕まえ続けることなど造作もないことだったが、呆気にとられたエリカは妹との繋がりが断たれた己の手を再度動かすことが出来ないでいた。
カリエがそんなエリカに冷たく言い放った。
「触るな。何も知らないくせに、姉面なんて真っ平だ」
案内を続けていた博物館の職員が、逸見姉妹間の決定的な亀裂に「しまった」と感じても後の祭りだった。カリエはただ立ち尽くす姉を一瞥することもなく、全く見当違いの方向に歩みを進め始めたのだ。
当初のルートから外れていることと、そして何より、このまま姉妹を別れさせてはいけないと感じた職員が慌てて後を追おうとする。
しかしながらその足取りが前に進むことはなかった。
「だめよ、今は独りにしてあげなさい」
職員をその場にとどめたのは一つの声だった。凜としていて、それでいて何者にも動じないような巨岩のような芯の強さが感じられる、そんな声。
妹に拒絶されたショックから、思考が真っ白になっていたエリカですら、その存在感の大きさ故にそちらに視線を向けざるを得なかった。
「全く、旧知の親友に泣きつかれて何かと思えば随分と厄介な子ね。うちのみほとは違った意味で手が掛かるタイプだわ。でもあの子、ただの我が儘な性分とは少し違うみたい」
展示されている戦車の陰から歩み出てきたのは、黒髪が靡く美しい女性だった。この時エリカは、何となくではあるが、この人物が母が昔から口にしていた「親友」であると察していた。
そしてそれはつまり、
「に、西住次期家元候補!」
これまでの職員の立ち振る舞いも、子供相手ながら随分と丁寧なものだったが、彼女の前では殊更だった。「西住」と呼ばれた女性は職員に「楽にしなさい」と告げると、こちらを見上げていたエリカの正面に立った。さらにあろうことかそのまま膝をつき、エリカに目線を合わせる。
職員は「西住」のその行動に目を剥いていた。
「初めまして。当館の管理を任されている西住しほと申します。そしてあなたのお母様の旧友でもあります。あなたたちのことはお母様から聞かされているわ」
やっぱり、とエリカは息を呑んだ。この人物こそが、母が昔からことあるごとに口にする「しほちゃん」なのだと確信した。
だがそれだけだった。母からはこの西住しほに大恩があることを聞かされてはいるが、それはエリカには関係のないことだ。今は初対面の大人を相手取るよりももっと重要なことがあったのだ。
エリカは会釈を一つだけ零し、すぐさまカリエが消えた方角に足を向けた。一刻も早く、妹を見つけ出して話をしなければならないと、彼女は考えていた。
しかしながら、そんな小さな蛮勇の足取りはすぐに途切れる。何故なら、しほの白い手がエリカの肩をがっちりと掴んでいたからだ。その細指からは想像も出来ないような力強さに、エリカは一瞬狼狽えた。
「あなたが妹さんのことを心配する気持ち、よくわかるわ。でも今は少しばかりそっとしてあげなさい。妹さんはね、ちょっと自分一人で考える時間が必要なのよ」
エリカは「カリエのことも碌に知らないくせに、偉そうなことを言わないで!」と口走りそうになった。ただそれを口走らなかったのは、その言葉が自分にも返ってくる諸刃の剣だと思い至ったからだ。エリカは自分すらも、カリエの内心を全く何も知らなかったことに気づかされていた。
しほもそんなエリカの葛藤を見抜いているのか、表情を少し和らげてこう告げた。
「大丈夫よ。あなたのその妹さんを想う気持ち、必ずいつか伝わるわ。だからその時を待ちなさい。戦車道の真髄は圧倒的な装甲火力で相手を叩きつぶすこと。でもそのためには、相手が一番気を許すその瞬間を待ち続ける忍耐も必要なの」
しほの言葉の意味を、今のエリカが完璧に理解することはできない。それでもしほの超然とした雰囲気がそうさせているのか、その言葉の重みと説得力だけはエリカに伝わっていた。
事実。
この時のしほの行動と、エリカの思いとどまりがカリエの運命を大きく変えた。カリエが戦車道の世界に足を踏み入れるには、あるキーパーソンに出会う必要があったからだ。
もしその出会いがなければ、カリエは戦車に乗ることもなかったし、姉との良好な関係を築き上げることも出来なかった。
運命は浮気者。
ちょっとした出来事の差異で、その後の結果は大きく変貌していく。
それはカリエの過去のみならず、現在も、未来も同じことだった。
だが結果そのものは、足掻き続けたその先でしか見つけることはできない。
おそらく、
なんとなく、
カリエはそんな世界の真理に気がついているからこそ、日々を戦い続けている。
それは戦車道はもちろんのこと、
二度目という、本来ならばあり得ない人生そのものすら、カリエにとっては戦いなのだ。
02/
薄暗い車内を支配しているのはあまりにも重たい空気だった。通信手の側に設置された無線機だけが、決勝戦の戦況を如実に伝えるような味方同士の交信を垂れ流し続けている。逆に言えば、無線機のスピーカー以外に誰も物音を立てることがなかった。
その理由は至極簡単なものだ。
普段から自然体の柔らかな雰囲気を持ち続け、一つ一つの言動そのものに不思議な包容力を纏わせていた黒森峰女学園戦車道の副隊長、逸見カリエが不気味な沈黙を保っているからである。
決して普段から饒舌というわけではないが、無意味な沈黙を保ち続けるような緘黙さではなかった。むしろ、こういった気不味い場面こそ積極的に口を開き、場を和ませることの出来る資質を持っていたのだ。
そんなカリエの居心地のよいコミュニケーション能力が、今完全に死滅している。
彼女の瞳は虚空を睨み付けており、がりがりと己の爪を噛み続けていた。
負の沈黙の権化とも言うべき彼女の姿勢に、パンターの隊員たちは噴火前の火山を幻想していた。
「——————。————」
ふと、カリエが何かを呟いた。
やっと出てきた副隊長の言葉に、全隊員が耳を傾けた。それほど、彼女たちはカリエの次の言葉に飢えていた。だがその健気さを彼女たちはすぐさま後悔することになる。
「馬鹿エリカ、馬鹿エリカ、馬鹿エリカ、馬鹿バカバカ。アホ、ボケ、スカポンタン、考えなしのイノシシ姉」
カリエに振り返っていた全員が、一斉に前を向いた。そして、副隊長が抱え込んでいる怒りの余りの大きさに、身を震わせた。
「何が強行突破だ。危険を冒してまで橋を渡ってくる価値がどこにある。アホか、アホなのか。あの馬鹿姉は」
ふつふつと沸き上がってくる怒気を押さえ込むことに必死なのか、カリエは周囲の隊員たちがドン引いていることに気がついていない。いや、たとえ気がついていたとしても、彼女がその行いを改めたかは疑問だ。
それほどまでに、カリエの思考は怒りで茹で上がっていた。
静かに、けれども圧倒的な威圧感をもってカリエの手が通信手の眼前に突き出された。
悲しいかな、ここまで辛苦を共にしてきた戦友だからこそ、カリエの意図に通信手は気がついてしまった。
だが抵抗するという選択肢は端から存在していない。通信手は恭しく、それでいて出来るだけ刺激を与えないように無線機をカリエに手渡していた。
乗員すべてがごくり、と唾を呑んだ。
逸見姉妹の姉妹喧嘩は日常茶飯事の、それこそ黒森峰女学園戦車道の名物みたいなものだ。しかしながら、その喧嘩は姉妹間の絆の確認でもあり、二人の親密さのパフォーマンスでもある。
本気でどちらかが相手を弾劾する喧嘩など、隊員たちは誰一人として目にしたことがないのだ。
そしてその機会がまさかこんなタイミングで訪れてしまうとは夢にも思っていなかった。
降って湧いた波乱の予感に、車内の緊張感がピークに達した。
すっと、カリエが息を吸った。
チャンネルは逸見姉妹専用に用意された回線に合わされている。
雷が。
落ちた。
「馬鹿! 馬鹿エリカ! お前の頭には何が詰まってるんだ! 考えなしの蛮勇がどれだけ危険なのかわかっているのか!? アホ! 間抜け! 大間抜け! そこまでリスクを張って無茶する場面ではないことくらいどうしてわからない!?」
崩落する橋を強行突破してきた蛮行を、もっと言えば安全牌である迂回路を進まなかった姉をカリエは責めに責めた。他人に対してはどこまでも寛容に接してきたあのカリエが罵倒を口にしていた。
そして、その目尻には薄らと涙を浮かべていた。
「こんなくだらないことで、エリカが脱落したらどうなる? こんな無茶苦茶な作戦で、怪我でもしたらどうする? 黒森峰には――、いや、俺にはエリカが――、」
ただ、威勢が続いたのは最初の十秒もないくらいだった。空気の入れすぎた風船が急速に萎んでいくかの如く、カリエの語気も弱々しいものに変化していく。
結局のところ、彼女の雷は雷らしく、一瞬のものだった。
だが、燻り続ける負の感情だけはそうもいかない。
カリエは縋るように、それでいて懇願するかのように続けた。
「エリカがいてくれないと、安心して戦えないんだ。エリカが先に脱落するなんて嫌だ。エリカがいない戦車道なんて嫌いだ」
しん、と先ほどとは別種の沈黙が世界を支配した。
パンターと、無線越しに聞こえてくるティーガーⅡのエンジン音すら、乗員たちの耳には届いていなかった。
冷静沈着な副隊長の独白が、本音がそうさせていた。
『——』
ふと、エリカが口を開いた息づかいだけが伝わってきた。
カリエの癇癪にも近い罵倒に、さらなる大音量で返礼してくるのかとパンターの乗員たちは身を竦める。
しかしながら、息づかいの少し後に届いた声音は、ひどく優しいものだった。
『——馬鹿はあんたよ。私が戦車道を続ける理由はね、あんたを支えるためよ。姉としてあんたを支え続けるのが、私の戦車道なのよ。あんたが勝てるのなら、あんたが戦車道で楽しいと思えるのならば、崩れる橋だって、火砕流の中だって——川の底すら走ってきてあげるわよ』
それはエリカの原風景だった。
博物館で拒絶されたときも、最後までカリエのことを案じていた。カリエが戦車道を始めるという決意を固めても、彼女の考えは変わらなかった。
ただ愛しい妹を支えたくて、今日まで生きてきていた。
例えそれが黒森峰の命運を賭けた決勝戦でも変わりない。カリエが勝てるのなら、カリエが幸せになれるのなら、どんな危険を冒してでも妹の元へ駆けつけようとする。
そしてそれは、ティーガーⅡの乗員たちも同じことだった。
敬愛するエリカが望むことならば、どんな苦行にも耐えられるよう研鑽を積んできた精鋭たちだった。エリカが「黒」と言えば「白」が「黒」になる、そんな隊員たちだ。
エリカのカリエに対する愛情と、
隊員たちのエリカについていくという覚悟。
この二つが揃って初めてなし得た奇跡だったのだ。
余りに大きく、そして数の多すぎる他人からの優しさを受けて、カリエは言葉を詰まらせた。
エリカのことを罵った自分が悪人になってしまったみたいで、居心地の悪さに吐き気すら覚えた。だがそんなカリエの心情すら、姉のエリカは見抜いている。
『……ありがとう。心配してくれて。でも、カリエが川の底を怯えながら這いずって来てくれたときからいつか恩返しはしたいと思っていたのよ。あんたのお叱りは全部終わってから聞いてあげるわ。だから今は戦いましょう。私たち逸見姉妹が挟撃するのよ? この攻勢に耐えられる学校なんてこの世界のどこを探しても存在しないわ』
そうだ、切り替えろとカリエの本能が囁いた。
対戦相手との駆け引きを続けてきたカリエの本能が急くのだ。
姉に本音を伝えた。姉からの愛を受け取った。
ならばそれに報いるには、今日のこの物語を完結させるためには成さなければならないことが残っている。
カリエは再び無線機を手に取った。そして素早く車内のホワイトボードを確認する。さすがと言うべきか、あの混乱の中でも通信手はエリカの現在位置を正確にマークしていた。
さらにカリエは大洗女子学園の主力が潜んでいるであろうポイントを予測し、ホワイトボードに書き連ねていく。そこから先は彼女の頭脳の高速回転。
「あちらはエリカが橋を強行突破してくることを予想していなかった筈。なら、エリカ側――南側に展開している戦力は微少。ただエリカは重戦車中心の構成。機動戦をとられると若干不利か」
彼我の戦力の特質、力量差を一つ一つ確認していく。
これまで何千、何万と繰り返してきたルーティン。カリエが誰かに誇れることがあるとすればその試行回数だろう。
エリカのような思い切りの良さ、状況判断の的確さがなかった。
みほのような戦術眼、カリスマがなかった。
小梅のような丁寧さ、慎重さを持てなかった。
黒森峰の誰よりも凡庸ながら、彼女が副隊長であり続けられるのは分析力がずば抜けているからこそ。そしてカリエもそのことを痛いくらいに理解しているから、今この瞬間に全力を投じる。
「よし、エリカ。二人で挟撃しよう。小梅の部隊は後詰めを。みほの部隊は挟撃後の残存戦力を殲滅する包囲網を敷いてほしい」
みほと小梅、それぞれから了承の意が帰ってくる。その証拠に、カリエの前方に展開していた小梅の隊が徐々に後退を始めた。このまま、カリエの隊との入れ替わりを遂行するためだ。
ナナを初めとしたカリエの部隊の操縦手たちも、直接命令された訳ではないが、カリエの真意をしっかりと汲み取ってパンターの前進を開始していた。そしてよく訓練されたブラスバンドの隊列の如く、互いの車両間の距離が殆ど存在しないようなギリギリの間隔で前後の部隊が完璧な入れ替わりを果たす。
この黒森峰の神業には、観戦していた一般人ですらも感嘆の声を上げていた。
「これぞ戦車による『集団行動』――なんちゃって」
『馬鹿なこと言ってないで挟撃を始めるわよ。侵攻のテンポはどうする?』
「中速、やや急ぎ足で。時折緩急をつけつつ。軟投派の意地を見せつけてやりましょう。お姉様」
『残念、私は速球派なのよ』
互いの緊張感をほぐすやり取りが数度。それに一区切りついたそのときが、黒森峰の攻勢の合図だった。カリエを中心に、パンターを基本とした中戦車部隊が歩みを進めたのと完全に同時、エリカを先頭にした重戦車部隊が進撃を始めた。
王者の闘争心に、いよいよ灯が点った。
03/
優花里は無線越しに届けられる砲声と泣き言に頭を悩ませていた。
エリカがカリエとの合流をほぼ成し遂げたという特大のバッドニュースは、その絶望の度合いにふさわしい結果を運んできていたのだ。
特に、なんとかカリエの進行速度を押しとどめていた北側の戦線崩壊が著しい。
もともとカリエの攻勢に押され気味だったが、エリカ合流の報を受けて士気の向上した彼女たちの勢いに呑まれる形になっていたのだ。防衛戦を展開していたウサギさんチーム、カメさんチームはそれぞれ立ち止まっての防衛を放棄し、市街地を逃げ回る遊撃戦に移行しようとしていた。
しかしながら、相手は大洗に遊撃戦は何たるかを散々見せつけてきた逸見カリエである。2チームの頑張りがどこまで通用するかは、ハッキリ言って儚い望みだった。
事実二つのチームから下りてくる報告は、「逃げ回って翻弄していると言うよりも、追い立てられている感じがする」という嫌な予感しかしないものだった。
優花里は脂汗をたっぷりと浮かべた額を、タンカースジャケットの袖で乱雑に拭い、口を開く。
「……これは相当不味いです。まだ完全な合流は果たしていませんが、それも時間の問題です。お二方が同時に我々を挟み込んでいる今、両者を押しとどめるだけの戦力も力量も、我々にはありません」
沙織が提示したホワイトボードを睨み付けながら、優花里は続ける。
「伏兵の配置は完了していますが、それだけで対応できるキャパシティを完全に超えてしまっています。わたくしたちは一番やってはならなかった二正面作戦に足を突っ込んでしまったんです」
あんこうチームのメンバーが不安げに優花里を見上げる。彼女たちはこの期に及んでも、優花里の指揮を信じていた。優花里ならば、どうにかこうにかこの場面を切り抜けられる秘策が思いつくと信じていた。
優花里も自身の発想力に悲観しているわけではない。むしろ皆が信じてくれているからこそ大丈夫なんだ、と自分に言い聞かせて虚勢を張り続けている。
事実、口では悲観的な事実ばかり述べていても、その瞳はまだ死んではいない。
「アヒルさんチームのみなさん。西住殿が市街地に突入してくる凡その時間はどれくらいかわかりますか?」
沙織から無線を受け取り、思考に必要なピースを掻き集めていく。黒森峰の動態を最後まで偵察し続けた典子たちに優花里は問うていた。
『およそ40分ほどだと想います。それほど機動力が高いようには見えませんでした』
ここまで判明している黒森峰の編成表に沙織が目を走らせる。そして、戦車のスペックについてまとめたお手製のノートをぱらぱらと開いた。
「あちらの隊長はこのティーガーⅠていうやつに乗っているんだよね。ならアヒルさんチームの予測は正しいと思う。まさか隊長だけを置いて、他の戦車が進軍してくるなんてあり得ないから」
確かに、と優花里は相づちを打った。
黒森峰のフラッグ車——つまり失ってはならない心臓部は逸見カリエのパンターだが、アキレス腱は隊長車たるみほのティーガーⅠだ。黒森峰はみほのカリスマによって纏められているチームでもある。例え副隊長二人の手腕がずば抜けていようとも、みほを欠いてしまっては本来の戦い方が出来るチームではなかった。
「だからこそ、それなりの護衛が必要、か。成る程、理に適っています。皆さんの仰るとおり、黒森峰最後の部隊の到着はそれくらいになるでしょう。つまり我々に残された時間もそれくらいということになります」
優花里の言葉に、大洗女子学園すべてのメンバーが身震いをした。逸見姉妹だけでもここまで押され続けているのに、西住流を修めるみほまで相手にしていては、万が一にも勝ち目というものがなかったからだ。
誰もがそのことを理解しているからこそ、優花里の言葉は重々しくそれぞれにのし掛かってくる。
ただ、負けた、という感情は不思議となかった。
ここでおしまいだ、というプラウダ戦に感じていた絶望はなかった。
前回よりも遙かに状況が逼迫しているのに。
負けたら廃校なのに。
誰も敗北に関する弱音や、諦めは抱いていなかった。
いや、その理由はハッキリとしていた。
優花里と沙織の目が合った。彼女は力強く頷いていた。
華が振り返っていた。彼女は優しく優花里に微笑んでいた。
麻子が背を向けながらも親指を立てていた。彼女はただ優花里の言葉を待っていた。
ああ、これだ。
優花里はぐっと拳を握った。
これがあるから、諦めてしまう気にはならないんだ、と優花里は前を見た。
「良いでしょう。わたくしたちは学校を、いえ、大洗女子学園戦車道を救おうとしているんです。ならこれくらいの障害なんてあって当然なんです。乗り越えなければならないんです」
あちらが姉妹の絆を取り戻したから何だと言うのだ。
こちらは仲間同士の絆を抱いて、ここまで戦ってきたのだ。
泥臭く、栄光とは無縁に頑張ってきたのだ。
「逃げるは恥だが役に立つ。ええ、いいでしょう。思いっきり恥を掻いてやるんです。掻いて掻いて掻きまくって、最後の最後に勝利を掴み取って見せましょう」
これは宣戦布告だ、と優花里は無線機を握りしめた。
「――逸見カリエ殿、いざ尋常に勝負です」
04/
逃げ回る大洗の車両の動きがおかしい、と最前線のⅣ号戦車から無線が入っていた。
カリエはその言葉の意味を吟味しながら、この街のどこかに潜んでいる優花里のことを考えた。
「……妙だ。彼女たちはみほが合流するその時がタイムリミットであることを理解している。悪戯な時間稼ぎは自分たちの首を絞めるということぐらい気づいていなければならない。破れかぶれの反撃ならまだしも、散発的な誘導で何になる? 何かの罠に誘っているのか?」
じっ、とカリエは街の地形図を見つめた。
無線越しに伝えられる大洗の逃走経路を見定めているのだ。
「――いや、勝負事での長考は危険だ。ドツボにはまる可能性がある。ここはあちらの誘いを無視して、エリカとの合流を目指す。隊周辺部からの奇襲を警戒しつつ、このまま挟撃を続けよう。ペースはこのまま。中速やや急ぎ目を崩さないように」
カリエが選択したのは、撃破しても勝利に直結しない部隊を完全に無視することだった。
街の北端と南端から姉妹でしらみつぶしに探索と侵攻を行って、大洗のフラッグ車を燻り出そうと考えたのだ。
それぞれの部隊の進行速度を均一にしなければ綻びが生まれてしまう難易度の高い作戦ではあったが、彼女は「必ず成功させられる」という自信と確信を持っていた。
それは双子の繋がりが生み出す神業でもある。
「包囲の輪をこのペースで狭める。大丈夫、勝利はすぐそこまで来た。あなたたちとなら、エリカとなら必ず勝てる」
05/
逸見カリエ、こちらの誘導を完全に無視。
最前線でカリエの周りをちょこまかと動き回っているカメさんチームからもたらされた報告を優花里は聞いた。そして、彼女は何度もその報告の是非を問うた。
それはすなわち、「確実にカメさんチーム」は無視されているのか、と。
杏の答えは何度問われても「是」のみ。
優花里は静かに息を吐いた。
それは、一つのプロセスを乗り越えた安堵の息だった。
06/
あ、と声を上げたのはカリエだった。
彼女は咄嗟に自身のパンターの停止を命じていた。
キューポラから半身を乗り出していた彼女は、あるものを見つけていのだ。
それは何の変哲もない民家だ。
万人の殆どが、その民家に対して大した感慨を抱くことはないだろう。
だがカリエはその民家を視界に入れたその瞬間には、全身を覆い尽くす寒気を感じていた。
そしてカリエのその直感は正しかった。
パンターが停止したその瞬間、眼前を砲弾が横切った。
07/
「何故今の砲撃がわかった!?」
車長たるエルヴィンが頭を掻きむしる。ここまでとことん息を潜め続け、好機を伺い
続けていただけにそのショックも大きかった。
そう、カバさんチームたる歴女のメンバーは、仲間が苦戦し続けようとも決して動くことなくこの一瞬を待ちわび続けていたのだ。
動かざること山の如しを体現し続けた彼女たちだったが、その努力は実を結ばなかった。
カリエの超人的とも言える直感に敗北したのだ。
「かの御仁の第六感にはもうこりごりぜよ!」
カリエを狙われたことに怒り狂った黒森峰車両たちが殺到してきている気配を感じて、おりょうは慌てて操縦桿を操作した。
果たして、その判断は正しく、Ⅲ号突撃砲が急後退したその直後に砲弾の雨が降り注いだ。
「不味い! 背後は家屋だ! これ以上の後退は無理だ!」
砲手の左衛門佐が照準越しに吹き上がる爆炎を見つめながらそう叫んだ。彼女が警告した通り、後退するⅢ号突撃砲の背後には家屋が迫っている。だが、ここで後退を止めてしまえば砲弾の雨の餌食になることは確実だった。
だがエルヴィンは不敵に笑う。
「我々が黒森峰から学んだことを思い出せ! 逸見妹はこう言った! 『退路は常に確保しろ』と! そして彼女は実戦で教えてくれた! 民家はぶち破れる!」
エルヴィンの言葉を受けて、おりょうは腹を括った。
括って、躊躇することなく背面から民家に突っ込んだ。
カリエほど、戦車で突破可能な民家を見分けられる分析力があるわけではない。
だが彼女たちは持ち前の度胸と根性、そして思い切りの良さで恐れ知らずに後退を続けた。
「操縦桿が言うことを聞かないぜよ!」
「さっきから天蓋がきしみっぱなしだ!」
「ええい! こんなことなら六文銭を懐に忍ばしておくのだった!」
「『賽は投げられた!』 今更うだうだ言っても仕方がない!」
それぞれの悲鳴を抱きながら、Ⅲ号突撃砲は民家を食い破っていく。技量も何もない、我武者羅な後退は民家の砕いてはいけない柱を朽ち壊し、全体の倒壊を招いていた。
しかしながら完全倒壊の一歩手前のその瞬間、Ⅲ号突撃砲は瓦礫の山を抜け出していた。
そして幸か不幸か、背後からの包囲を行おうとしていた黒森峰のⅣ号戦車の左舷側に追突する。
「ついに瓦礫に埋もれたのか!?」
世界がひっくり返らんばかりの衝撃に、カエサルが砲弾を抱えながら焦りの声を上げる。だがエルヴィンは自分でも不思議に思うくらい落ち着いていた。
「いや、黒森峰の車両にぶつかった! おりょう、やや前進したのち右に90度だ!」
エルヴィンの言葉通りの挙動を遂げたⅢ号突撃砲のすぐ真後ろを、衝突されたⅣ号戦車の砲弾が通過していった。
その様子を防弾ガラス越しに確認したエルヴィンは雄叫びに近い声を発した。
「さらに90度! そして停車! 動きが完全に止まったら左衛門佐、ぶっ放せ!」
果たして左衛門佐はオーダー通りの射撃をなし得た。
Ⅲ号突撃砲が放った砲弾が、Ⅳ号戦車の脇腹に直撃する。
それなりの装甲を有しているとはいえ、Ⅲ号突撃砲の直撃はⅣ号戦車のダメージ許容量を優に超えてきた。
黒煙を吐き出しながら、Ⅳ号戦車が停車する。
数秒遅れて天に翻ったのは撃破を告げる真っ白な旗だった。
まさかの黒森峰車両初撃破は、カバさんチームが成し遂げていた。
08/
「落ち着いて囲んで。Ⅳ号が道を開いてくれた」
ふと、エルヴィンはそんな声を聞いたような気がした。
そこから先は、殆ど無意識下の行動だった。
車内の全員に、何かに掴まるよう叫んだ。
自身も、車長席の取っ手にしがみついた。
初撃破に喜びを感じたのもほんの一瞬の出来事。
Ⅳ号戦車と衝突したときよりも、遙かに強烈な衝撃がⅢ号突撃砲を襲った。
すぐさまそれが、砲撃に晒された証拠なのだと、歴女チームの全員が理解していた。
さらにこの一撃が自分たちの致命傷になるということも。
車体の振動が鳴り止んだその直後、エルヴィンはおそるおそるキューポラから外の様子を伺いでた。撃破されたことは確実だったが、それでも状況を確認したかったのだ。
そして目が合った。
翡翠色の瞳がこちらを見ていた。
「……あなたたちが垣根を崩さずに民家の庭に侵入していたら気がつかなかったかもしれない。ここまで成長してくるなんて思っても見なかった」
カリエの言葉はそれだけだった。恐るべき集中力を発揮しているのか、撃破されたⅣ号戦車にもⅢ号突撃砲にも目もくれず、そのままパンターを前進させていった。
だがエルヴィンにはそれだけで十分だった。
あのカリエに、「ここまで成長した」と言わせただけで十分だった。
救助の情けまで掛けられてしまった、冬の合宿の雪辱は果たしていた。
感謝と共にあった無念の気持ちが綺麗さっぱり吹き飛んでいたのだ。
カバさんチーム全員が、Ⅲ号突撃砲から這い出て空を見上げる。
いつかの曇天とは違う、目映いばかりの大空。
「我らが隊長、グデーリアン。どうやら、我々は彼女たちの足下くらいには届いたみたいだぞ」
夏の光の下、まだ戦いを続ける優花里にエルヴィンは言葉を贈った。
自分たちでもここまでやれるんだ、と万感を込めて口を開いていた。
だから告げる。
自分たちの隊長ならば、必ずやり遂げると信じて告げる。
「グデーリアン、足下にさえ届けばその足を掬える。頑張れ、ここからが踏ん張りどころだ」
09/
思わぬ伏兵の襲撃は、カリエの立てていたスケジュールを僅かに狂わせていた。
別段、それに苛立ちや焦燥を覚えることはないのだが、無視が出来るほどカリエも余裕を抱いているわけではない。
「佐久間さん、エリカとの連携を維持するため少しばかり進軍を早めてほしい。待ち伏せや伏兵は私が見張るから」
だからこそ行軍のスピードを速める。自身はキューポラから見える景色を注視し、どんな些細な異変でも見逃さないよう神経を研ぎ澄まさせる。
先ほどは、僅かに乱れていた民家の垣根の様子から伏兵に気がつくことが出来た。
もしもその乱れがなければ、あの場で撃破されていた可能性すらある。
その幸運を偶然として処理するほどカリエは愚かではない。
偶然を必然のものとするべく、大洗の車両たちは必ずや痕跡を残している筈だ、と自分に言い聞かせながら指揮を執り続けるのだ。
「副隊長、エリカ副隊長の隊が一つ向こうの通りまで来ています。このままだと残り一分ほどで街の中央広場にて合流すると思われます」
通信手の言葉を受けて、カリエは耳を研ぎ澄ました。すると聞き慣れたエンジン音がかすかに聞こえることに気がついた。まさかただのエンジン音にここまで安心感を覚えるなんて、とカリエは無意識のうちに苦笑を漏らす。
邂逅は通信手の告げた通り、ちょうど1分後だった。
黒森峰の重戦車隊が、続々と広場への侵入を果たしていく。
広場の中心を支点に、両者対極に相対した。
「さて、そちらは脱落がひとつ、というところかしら。こちらはポルシェティーガーを一両見つけたけれど深追いはしなかったわ。あれは欠陥車両だけれども、攻撃力だけは本物だから」
久方ぶりのエリカは相変わらずの調子だった。
開口一番、彼女は戦況について語った。ついさっきまで、壮絶な姉妹喧嘩をしていたとは思えないような、自然体の様子だった。そしてそれはカリエも同じこと。
エリカを罵倒し続けていた唇は、いつもの気だるげな、それでいて姉への信頼感を滲ませたそれに戻っていた。
「こっちはⅢ号突撃砲を撃破した。代わりにⅣ号が一両やられたけれど。——これで残りはヘッツァー、八九式、ポルシェティーガー、M3リー、そしてⅣ号。逃げ回られている割には、順調に数を削れていると思う」
それぞれの肉声で会話が出来るくらいまで、車両を近づけ合い、姉妹久々の会話を続けた。
そしてカリエは、姉妹の再会に安心したのが自分だけではないことを知る。
エリカもまた、どこか息を吐いたようにカリエに微笑んでいたから。
「ま、新設校相手に手こずっていることは否めないけれども、戦況としてはまあまあね。泥沼に陥りかけているところを、何とか踏みとどまってはいるわ。今まで、ここまでゲリラに徹してくる学校は存在しなかったから、厄介なことには変わりないけれど」
エリカの告げた通り、黒森峰の定石がとことん通用しにくい対戦相手であることは間違いなかった。伝統も変なプライドもない所為か、自分たちの戦略に迷いがない。
逃げて逃げて逃げ続けて、時折奇襲を仕掛けてくる、もっとも厭らしい戦い方を体現しているのだ。
ただ、逸見姉妹の二人は特別それを意識しているわけではない。
やりにくい対戦相手であることは間違いなかったが、自分たちの実力ならばいつかは漸減させられると考えているからだ。
だが二人に引っかかりがないわけではなかった。
双子故の共感性か、両者共に同じ疑問を抱いていた。
「ねえ、カリエ」
切り出したのはエリカ。彼女は疑問を疑問のままで終わらせない性分だった。
そして妹ならば自分の疑問に答えを必ずくれると信じているから、率直に言葉を口にした。
さらにカリエも、姉に被せるよう、彼女の疑問に答えるよう、口を開く。
「「大洗のⅣ号はどこに行った?」」
10/
カバさんチーム、つまりⅢ号突撃砲が撃破と被撃破の判定を受けたことを聞かされて、優花里は一言「お疲れ様でした」と呟いた。
そしてその場で深々と頭を下げる。
「……これでようやくピースが、いえ、歯車が揃いました。わたくしたちの勝利に必要な、最低限の駒が揃ったんです」
優花里はまず、周囲を見渡した。そして頼りになる仲間たちの顔を一人一人しっかりと目に焼き付けていった。
泣いても笑ってもこれで最後。
ここが正念場なのだ、と自分に言い聞かせる。
「……『逃げるは恥だが役に立つ作戦』の最終フェイズを開始します。冷泉殿、エンジンに火を。武部殿、全車両に作戦開始の合図を。五十鈴殿、狙いはさっきお伝えしたとおりです」
ぐおん、と車体が一つ振動した。
ようやく自らの出番が来たのだと、歓喜の身震いをしたかのようだった。
優花里もまた、これから訪れるであろう激戦の予感に武者震いをした。
「行きましょう。これがわたくしたちの最後の戦いです。――パンツァー、フォー!!」
11/
周囲に斥候を飛ばそう。
姉妹の結論は結局のところそこに落ち着いていた。
カリエとエリカを中心に、偵察隊を展開。市街地に潜んでいるⅣ号戦車を見つけ出す作戦だ。
偵察の目をすり抜けて奇襲を受けても、姉妹二人の連携で叩きつぶす腹積もりでもある。
むしろ、それが作戦の主眼だった。
カリエを餌にⅣ号戦車を釣り上げるのだ。
大洗の取り巻きの車両が一斉に攻勢を仕掛けてきても、適当にあしらいながら展開している斥候を呼び戻し、逆包囲を仕掛けるという、二段構えの策まで用意している。
「乗ってくれば私たちの勝ち。乗らなければ、みほとの合流を果たした私たちの粘り勝ち」
カリエの告げた通り、二人は状況がどちらに転んでも黒森峰が勝利できるように場面を整えていた。みほが率いる隊との合流を果たせられれば、どれだけ時間を掛けようとも、一両一両殲滅していけばいいと、姉妹間の考えを摺り合わせる。
「さて、どちらをあいつらは選んでくるのかしらね。でも、どちらを選ぼうと全力で叩きつぶすわ。ここまで来たらそれが王者の義務であり、私たちの矜持でもある」
エリカの言葉にカリエが頷きで肯定を返したとき、二人の随伴車両から、偵察の準備が完了したとの知らせが入った。
作戦開始の合図を告げるのはカリエの仕事だった。彼女は無線機を手にし、今一度周囲を見渡した。これから最後の三〇分を戦い抜く仲間たちを目に焼き付けた。
「では、作戦を開始します。『オペレーション ワルキューレ』始めてください」
全車一斉に歩みを進めた。
黒森峰だけがなし得る鉄の連携を持って、前進を開始した。それぞれが見えない鎖で結ばれているかのような、化け物じみた連携で進軍した。
だが、その鎖を飛び越えてくるものがいた。
いや、正確には既に鎖の内側に、魔物が潜んでいた。
「「!!」」
カリエとエリカ、両者同時に行動に移った。
天性の勘故か、魔物を視界に収めるよりも先に、動いていた。
カリエはフラッグ車らしい防御機動を。
エリカは護衛として盾になるべく、妹を庇う機動を。
その鋼鉄の獣は、広場のすぐ側にあった大きめの民家のガレージに潜んでいた。
シャッターを無理矢理突き破って、姉妹の眼前に姿を現していた。
Ⅲ号突撃砲の時のように、民家に異変はなかった。垣根も乱れておらず、履帯痕も存在しなかった。忽然と、そこに出現したとしか思えないような挙動で、Ⅳ号戦車が二人に突進していた。
大洗が奇襲を仕掛けるとき、必ず痕跡がある。
深層心理にそう刻まれていたカリエの、完全に虚を衝く形だった。