演習場には監視塔が幾つか備え付けられている。戦車道の訓練、或いは試合の様子を俯瞰するために造られたものだ。
そのうちの一つに上っていた秋山優花里は、双眼鏡片手に下界の様子を眺めていた。
「秋山ちゃーん」
背後から声がした。
振り返ってみれば、簡素な階段を上ってくる杏の姿があった。38t戦車B/C型の車長をしている筈の彼女が、何故こんなところに、と優花里は疑問の声を上げた。
「いやー、一応用意していたメニューはこなしたからさ、車両整備を兼ねて河嶋たちには休憩を取らせているんだよ。秋山ちゃんこそⅣ号戦車の車長はいいの?」
杏の言うとおり、本来ならば優花里はⅣ号戦車の車長としてチームーーあんこうチームの指揮を執っていたはずなのだ。それが今、こうして一人して訓練場を眺めている。
「いえ、車長は磯部さんに代わってもらってます。彼女、八九式中戦車に乗りたがっていましたけれど、人員の都合で我慢してもらっていますし、将来的には新入生をそこに編入して車長を任せたいと思っていますから、その練習です。それに、ここで黒森峰側の訓練を観察することもわたくしの責務だと思いましたから」
優花里の視線の先には一糸乱れぬ行軍と射撃を繰り返している黒森峰の車両たちがあった。戦車道素人の自分たちとは比べるべくもない、完璧な運用に杏ですら舌を巻いた。
「うひゃー、あれですら実質二軍みたいなものらしいからやっぱりやばいね黒森峰は。十連覇組はさすがに格が違うや」
杏の驚きは決して大げさなものではなかった。事実、大洗と黒森峰の間ではそれほどの技量の差が存在している。ましてやその比較対象が実質二軍とあれば、黒森峰の主力との差は考えれば考えるほど馬鹿らしいものだった。
「……会長は最初から知っていたんですか?」
この合宿所に来てからずっと抱いていた疑問を、優花里は杏にぶつける。疑念というわけではないが、それでもこれからの信頼関係を考えれば是非とも聞いておきたいことだった。
杏は茶化すような表情からは一転、すぐに口元を引き締めて優花里に応えた。
「先に言っちゃうと秋山ちゃんが萎縮すると思ってね、黙ってたことは謝るよ。でも、二軍とはいえあの王者黒森峰が練習試合を引き受けてくれると言っているんだ。これを利用しない手はないと思ったんだよね」
杏の言うとおり、これは千載一遇のチャンスなのかもしれない。黒森峰と練習試合を行いたがっている学校はそれこそごまんと存在している。でもその殆どが日程や黒森峰の都合で願いを叶えられていない。
そんな中で、たとえ二軍でも矛を交えることができるのはこの上ない幸運と言っても良かった。
「……黒森峰はわたくしの憧れであり目標なんです。わたくしに戦車道をやりたいと思わせてくれた大恩ある学校なんです。そんな相手と練習試合が出来るなんてまるで夢みたいで、会長には感謝してもしきれません。ですが一つだけ心配があるんです」
優花里の懸念を杏は正確に読みとっていた。彼女は口を開き掛けた優花里を制すると言葉を続ける。
「私たちが為すすべもなくあちらに惨敗して、大洗の皆が戦車道から離れてしまうことを怖がっているんだね」
杏の言葉は優花里の考えていたことそのものだった。
「ええ、間違いなく手も足も出ずに敗北するでしょう。ズタボロにやられて、怖い思いをする人も出てくるかもしれません。そうなればわたくしは戦車道から離れていく皆さんを引き留めることは出来ません」
優花里の表情は明るくなかった。いや、むしろここ数ヶ月では間違いなく一番憂いを帯びていた。忙しく、肉体的に辛い毎日ではあるが、それを憂鬱だとは考えたことがなかったのだ。
けれども黒森峰と一戦を交えた後に起こるであろう、大洗女子の面々の変化が怖かった。
「わたくしは隊長として、大洗女子を率いるものとして黒森峰に挑みたいです。個人的な感想を吐き出してしまえば、練習試合をとても楽しみにしています。だってあの黒森峰ですよ。わたくしたち弱小校なんて本来ならば絶対に相手をしてくれないような遙か天上の学校なんですよ? そんなところが練習試合に応じてくれるなんて、わくわくしなければ嘘じゃないですか」
けれども、と続ける。
「折角初めての友人が出来たんです。戦車道のおかげで友人が初めて出来たんです。そんな大切な方々を、わたくしの身勝手な戦車道で失いたくはありません」
優花里の独白に、杏はそっか、と頷いた。
冬の凍える風が監視塔を吹き抜けていく。近くで砲声がした。見ればⅣ号戦車が演習場に置かれた標的に砲撃を行っている音だった。
下で頑張っているチームメイトをほったらかしにして、自分はうじうじ何を言っているのだろうと、優花里は自己嫌悪を深めた。
「……こんなのが慰めになるかはわからないけれどさ、もし大洗の皆が今回の練習試合で秋山ちゃんから離れていっても、私はそうはならないよ。どれだけ惨めな敗北をしようと、怖い思いをしようと、私は秋山ちゃんの戦車道につき合うよ。それに、これは私の勘だけれど、秋山ちゃんが思っているほど、あの子たちは柔じゃないよ」
どういうことでしょう? と首を傾げる優花里に杏は眼下を指さした。
「だってもう二十年もほったらかしにしていた戦車道をやってみようっていう奇特な子たちだよ。いわば私たちの戦車道は茨の道であることは確定しているんだ。そんな道を自ら進んでいこうとしている仲間なんだ。秋山ちゃんが信じてあげれば、きっと大丈夫さ」
杏の言うことも一理あるかもしれない、と彼女は眼下を見た。するとそんな優花里の視線に気がついたのか、Ⅳ号戦車が砲撃を終えて進路をこちらに取る。車長席に収まる典子も、ハッチから顔を出す沙織や華も、皆がそれぞれ、優花里に向かって手を振っていた。
「ゆかりーん、華ったらスゴいんだよ! あれだけ遠くの的を一発で命中させちゃった!」
「冷泉さんの操縦も凄かった! 戦車ってこんなに軽やかに動くものなんですね!」
Ⅳ号戦車が監視塔に接近していることを察知した他の車両も続々と集結してくる。
「おい、秋山ー!! 指示通りの訓練は終えたぞ! 次は何をすればいい?」
「終えたって、桃ちゃんはまだ一発も命中させていないんじゃ……」
38t戦車B/C型に続き、車高の低いⅢ号突撃砲も到着した。車長席ではエルヴィンが親指を立てて微笑んでいる。
「秋山さん、こちらもメニューを消化した。次の指示をくれ」
最後に不慣れながらルノーB1bisも集合に加わった。こちらは車長席越しではなく、無線機を使って言葉を零した。
「ちょっと秋山さん、あれほど合宿の日程はしっかりと詰めておきなさいと言ったはずよー! 風紀に関わるわ!」
一番戦車の扱いには手こずっているが、人一倍真剣に訓練をこなしている生徒会チームだった。
わずか四両ばかりの大洗戦車道だったが、一同に介する姿を俯瞰してみれば、胸にこみ上げてくるものが優花里にはあった。
「大丈夫だよ。秋山ちゃん」
ね? と杏が隣で笑っているのを優花里は感じた。
確かにもう少し自分は大洗の皆を信じてもいいのかもしれないと思った。黒森峰という一つの壁を前にして、一番怯えていたのは彼女だった。
「……会長、練習試合は明日なんですよね」
「先方にはそう伝えてるね」
ならば、と優花里が杏に振り返った。その瞳は何かしらの覚悟を称えていて、先ほどまでの不安に揺れていた瞳とは全くの別物だった。
「申し訳ありませんが、午後は会長が合宿の音頭を取ってください。わたくしは明日に向けて少しばかり準備することができました」
先程までの彼女とは別人であることを察した杏が了承の意を返す。
「でもどうして? 誰かにやらせたりとかはできないの?」
「いいえ。こればかりはわたくしが体を張らねばなりません。古来より情報は宝と言われてました。ならば指揮官たるわたくしがそれを頭に叩き込まなければ意味がないんです」
そこまで足早に告げると、優花里は一目散に階段を下りていった。ただ一人取り残された杏は「やれやれ」と苦笑を零した。
「副隊長は河嶋なんだけどなー。ま、いっか」
01/
長野にやってきて早三日。残り一週間ほどの日程だったが、カリエは若干の疲れを滲ませながら大浴場にやってきていた。
いつもなら個室に備え付けられたシャワールームを使用しているのだが、明日の練習試合の編成や作戦を一人会議室で練り続けていたら0時を越えてしまっていたのだ。その為、この時間からシャワーを浴びるのは同室の隊員に申し訳ないと考え、一人大浴場に足を向けているというわけだ。
さすがにこの時間になると人気は皆無で、一人きりの入浴が始まる。
入浴とは言っても、まだ若干水が苦手なので洗い場のシャワーを使うだけに止めようとしていた。だが、一日の訓練で冷え切った体と気疲れした精神が、少しくらい浴槽に浸かってもいいんじゃないか、とカリエに語りかけてきていた。
以前のように水に触れることによるパニック障害はある程度克服しているため、一応世間一般で言うところの入浴は可能だ。
だが、だからと言って積極的に水に触れようとは思わないのも事実だった。
「うーっ」
浴槽の縁に腰掛けて足だけをお湯に浸す。冷え切っていた体の末端が仄かに暖かくなっていくのを感じた。それだけで、カリエの中の天秤は入浴に前向きな方に傾いていく。
このまま全身浸かってしまおうか。
両足が大丈夫なら、完全に体を沈めても大丈夫だろう。
傾きだした天秤に特に疑問も抱かないまま、カリエは体を前のめりに倒していった。ゆらゆらと揺れる、湯気が立ち上る水面に彼女の顔が映える。
だがそのとき。
「失礼します!」
やけに威勢の良い、ハキハキとした声が背後から降ってきた。がらりと大浴場のガラス戸は開け放たれ、素っ裸の女子生徒が一人、入浴道具を脇に抱えて立っている。
端的に言ってしまえば、カリエ以外の浴場利用者が訪れただけだったのだが、如何せんタイミングが悪すぎた。
体重を前に傾けていたカリエは、突然の大音量に飛び退いて浴槽に落ちた。
「わああああああああああ!!」
いくらパニック障害を克服したとはいえ、それは完全なものではない。今でも不意打ち気味に水を浴びせれば恐慌状態に陥るし、ましてやお湯の張った浴槽に頭から突っ込めばそりゃもう一発だった。
訳も分からないまま、悲鳴を上げてばしゃばしゃと暴れ回るカリエを見て、訪問客はただ事ではないことを瞬時に悟り、慌てて救助に飛び込んだ。
「わわっ、大丈夫ですか!?」
戦車道を始めてから少しばかりついてきた筋肉を総動員し、浴槽からカリエを引き上げる。カリエの体は華奢だったが、どこにそんな力が秘められているのかと驚くくらいには、凄まじい暴れっぷりだった。
ずるり、と洗い場までカリエを引っ張り上げたとき、訪問者は誰を救い出したのか理解した。
「い、逸見殿?」
己の体が陸にあることに気がついて、正気を取り戻したカリエが視線を上げる。見れば、こちらをのぞき込んでいるのは今朝方挨拶を交わした大洗の隊長だった。
「えと、秋山さん?」
思いも寄らない二人の邂逅は、大浴場から始まった。
02/
大浴場前のロビーで、カリエは自販機で購入したペットボトルを傾けている。そのすぐ隣ではソファーに腰掛けた優花里が申し訳なさそうに頭を下げていた。
「本当にごめんなさい! 逸見さんが水が駄目なのを知っていながら余計なことをしてしまいました!」
カラスの行水のごとく、瞬時に入浴を済ませた優花里は、先に大浴場から上がったカリエにすぐさま追いついて謝罪の言葉を連ねていた。
謝罪を受けたカリエも罰が悪そうに、頭を下げる。
「いや、余計なことをしていた私が悪いよ。秋山さんはただ挨拶しただけだし。驚かせてごめんね。それにすぐ助けてくれたから大事には至らなかった」
外面用のメッキが剥がれた、丁寧語を話さないカリエだった。優花里は何となく、こちらが本来の彼女であるということを感じていた。
「でも秋山さんもずいぶんと遅くにお風呂に来たんだね。大洗の人たちは日が暮れる前には撤収していたと思うけれど」
「わたくしたちには黒森峰の方々のように夜間訓練が出来るほど練度は高くありませんからね。日が暮れると店仕舞いであります。あとわたくしは隊長として個人的な責務に追われていまして、気がつけばこんな時間でした」
どことなく余所余所しい態度の優花里を見て、カリエは首を傾げた。けれどもまだ自分に負い目があるのかもしれないと思った彼女は、もう一度「気にしなくて良いよ」と優花里に告げた。
「……私も明日の練習試合に向けて準備をしていた。如何せん癖の強い人たちばかりで彼女たちを纏めるのは骨が折れるよ」
そう言って、カリエは合宿に連れてきた仲間たちのことを振り返る。もともと真面目な気質が多い隊員たちではあったが、ここに来てカリエの指示を馬鹿正直に守る嫌いがあり、おふざけで砲撃精度90パーセントを要求すれば、それを達成するまで宿舎に帰ってこないと言い張る事件があった。初日から砲弾が尽きて、浜松港に停泊している黒森峰学園艦に届けてもらえるよう申請した暁には、エリカからどやされることが目に見えていたのである。慌てて指示を撤回して、丁度良い塩梅の命令を考えるのに半日も費やしてしまっていた。
「あはは、いくら天下の黒森峰も予算は無限というわけではないんですね」
「そりゃそうだよ。結局は同じ女子高生の一競技でしかないんだから。野球の甲子園常連だって、万年予算不足でOBたちからのカンパで成り立っていたことがあったし」
何故高校野球に例えてくるかはわからなかったが、優花里は初めて挨拶を交わしたときよりも、カリエに対して明らかに親近感を覚えていた。
天上の黒森峰と言えども、自分たちのような人間臭さを感じるエピソードを聞いたからだろうか。
「……ところで明日の練習試合なんだけれど」
ペットボトルを空にして、自販機備え付けのゴミ箱に突っ込んでいたカリエが口を開いた。若干気が抜けていた優花里だったが、「練習試合」という言葉を耳にして、瞬時に背筋を正す。
「あなたたちは最大四両、用意できるんだよね?」
「は、はい。お恥ずかしい話ですが、まだまだ履修生が少なくて、動かせる車両はそれだけなんです」
優花里の返答を受けて、カリエは「そう」と何かを考えるように口元へ指を寄せた。そしてやや間を空けたのちに、優花里へと向き直る。
「ならば私たちもそちらに合わせて四両の編成で試合に挑む。ルールはこちらは殲滅戦、そちらはフラッグ戦」
「というと?」
優花里の疑問の声に、カリエは「ハンデ」と応えた。
「私たちの勝利条件はそちらの車両を全て撃破すること。あなたたちは私たちのフラッグ車を撃破すること。フラッグ車だけれども、Ⅲ号戦車に任せる予定」
思ってもみない提案に優花里は「本当ですかっ!?」と食いついていた。舐められているとは思わない。それくらいのアドバンテージを貰えてようやく試合として成立するかどうか、という現状を理解していたからだ。
「それに加えてもう一つ。私たちは満載できる燃料の半分と、それぞれ五発の砲弾のみを積んで試合に参加する。いや、私の車両は四分の一の燃料と二発の砲弾でいいか。こっちはそれなりに腕利きの生徒を連れてきてしまっているから」
まさに出血大サービスとも取れるカリエの提案に、優花里は戦慄を覚えた。何故ならそれほど自分たちに枷を加えても、こちらに絶対勝てるという自信をカリエは見せていたからだ。
たとえ非公式の練習試合と言えども、王者黒森峰に敗北は許されない。これだけハンデを与えて負けたとなれば、カリエの黒森峰内での進退問題にも関わるだろう。それなのに、目の前の彼女は飄々としていて、黒森峰に恐れを感じる優花里の内心なんかそっちのけにして、カップラーメンの自販機と睨めっこを始めていた。
「うーん、ちょっと小腹が空いたな。いや、隊員たちに食事も訓練のうちと言ってしまったから、私一人が食べるのは不味いか」
やはり次元が違う、と優花里は唾を飲み込んだ。
けれども折角降って湧いたハンデの提案だった。
彼女はそれに大人しくあやかって、どうにか試合として成立させるプランを早速練り始めていた。
「というわけで秋山さん、明日はよろしく。ところでさ、このカップラーメン半分ずつ食べない? 半分だけなら無罪だと思うから」
ただ、頭の回転には栄養が必要だったのか、二人して一つのカップラーメンを食してから、それぞれの宿舎へ戻っていった。
03/
試合当日。早朝から演習場は冷え込み、芝には霜が降っていた。優花里が黒森峰側に挨拶へ訪れたとき、上等そうなブーツを使って足下のぬかるみ具合を確かめているカリエがいた。
他の隊員はそんなカリエの意見を聞き取って、ドキュメントボードに備え付けられた何かしらのチェックシートにペンを走らせている。
「あの、おはようございます」
「ああ、おはよう。わざわざごめんね。そちらの陣地に帰るときはワーゲンで送るよ」
カリエの背後にはアイドリングを開始している四両の車両が並んでいた。ただでさえ燃料を減らしているのに、そんなことをしても大丈夫なのかと優花里は考えたが、自分なんかよりも遙かに実戦に精通している彼女たちがしていることなので、正解ではあるのだろう。
「見ての通りこの四両がこちらの編成。パンター一両、Ⅲ号二両、Ⅳ号一両。Ⅳ号はシュルツェンを外している。私の乗っているのはそこのパンター」
カリエが指さした先へ視線をやれば、整備の行き届いているのであろうパンターG型が鎮座していた。あれが夏の激戦を戦い抜いた伝説の戦車だと意識したとき、優花里は体の芯からかーっと熱くなっていくのを感じた。冬特有の、少し遅めの朝日を受けて、ウロボロスのエンブレムが鈍く輝いている。
「では試合開始の準備をしようか。審判はこちらの隊員が勤めるけれど、公平に判断するように厳命しているから心配しないで。あなたをそちらに送り届けてからきっかり十五分で試合を始めよう」
カリエの命令を受けた隊員が優花里を黒森峰の移動車両のところまで連れて行く。
独特のエンジン音と共に移動車両が発進したとき、優花里は黒森峰陣営を振り返った。すでに隊員たちは戦車への乗車を始めており、カリエ一人だけが最後の確認なのか、巨大な戦車たちを静かに見上げていた。
低い唸り声を上げる戦車の中に佇むカリエの姿に、優花里は神話の中の戦女神を幻視していた。
04/
テーブル一杯に広げた地形図を使って、優花里は作戦の概要を説明した。
「とにかく逃げ続けることが我々に残された唯一の勝利の可能性です。向こうは燃料を半分しか積んでいませんから、撃破されずに逃げ続けることが勝利につながるでしょう」
言って、赤いマーカーで地図の一点を指し示す。
「ここに戦車道演習の為の仮設の町があります。小さな町ですが、逃げながらゲリラ戦を仕掛けるのに向いています。逆に開けた平地では絶対に直進をしないでください。ジグザグに逃げて、少しでも被弾の可能性を減らすんです」
「つまりはあれか。試合開始と共に、全速力でこの町を目指せばいいんだな? そして町中を逃げ回り、相手の息切れを待つ」
エルヴィンの問いに優花里は「はい」と返した。
「また町中では同士討ちをさけるために、通信手同士、綿密な位置情報のやりとりをお願いします。特に敵フラッグ車を発見したチームは決して深追いせず、他のチーム全てにその位置情報を報せてください」
優花里の指示に全員が肯定の意を返した。
まだ黒森峰という学校のブランドを理解していない殆どの面子が、「もしかしたら勝てるかも」と淡い期待を抱いている。その様子を見て、優花里は一人小さく「大丈夫、誰も怖い目には遭わせません」と零した。
「残り時間が五分を切った。今すぐ全員戦車に搭乗。作戦通りに進めるぞ」
副隊長である桃がその場を締めて、それぞれが持ち場についた。
車長席に収まった優花里は、初の本格的な実戦に震えている己の手をみた。戦車の揺れとは明らかに違う自分のそれを見て、優花里はぐっと拳を強く握る。
「愛理寿さんは言いました。戦車道に必要なのは冷静な思考と、ちょっとした勇気。わたくしは怯えているのではありません。これは武者震いなんです!」
どん、と何処かで空砲が鳴った。一瞬、砲撃が始まったのかと大洗チームに動揺が走ったが、「試合開始の合図です!」と優花里が無線に語りかけることで、すぐに落ち着きを取り戻した。
「それでは私たちから見て右側、東の方角に進路を切ります。森の合間を縫って、町を目指しましょう!」
優花里の指示を受けて、Ⅳ号戦車を先頭にⅢ号突撃砲、38t戦車B/C型、ルノーB1bisの順番で進軍を開始する。少しでも黒森峰に発見されることを防ぐために、森の合間を通っている小さな街道をそれぞれ進んだ。
ごくりと飲み込んだ唾の音が、咽頭マイクを通して何倍も増幅されているのを優花里は聞いた。
大丈夫だ、このまま逃げ切れればゲリラ戦に持ち込めると彼女は地図に目線を走らせた。街道は残り200メートルほどで途切れている。そこを抜ければ高低差のややある丘を下って、町まで一直線だった。
丘まであと100メートルと迫った。
まだ黒森峰の気配はない。このままいける、と速度維持したまま街道を抜けるように、優花里は全車へ通達した。
だがーー。
「おい、何か変な音が聞こえないか?」
Ⅳ号戦車のすぐ後ろを走っているⅢ号突撃砲の車長であるエルヴィンが疑問を挟んだ。何事か、とヘッドセットを外した優花里は背後に振り返る。聞こえる音と言えば、追従してくる戦車のエンジン音のみ。
けれども生粋の戦車マニアである優花里の耳は、ある違和感にすぐに気がついた。
「麻子さん! 全速前進!」
咄嗟に指示を飛ばせたのは、そして麻子がそれに応えることが出来たのは奇跡のようなものだった。急加速したⅣ号戦車のすぐ後ろで土煙が吹き上がり、Ⅲ号突撃砲のエルヴィンが悲鳴を上げた。Ⅲ号突撃砲が落伍しなかったのは、操縦手であるおりょうが外の状況をよく理解できないままに、余計な操作をしなかったからだ。
さらにある意味で一番冷静沈着な杏の乗った38t戦車B/C型も、どうにかして車列に食らいついていく。車内の桃はパニック状態に陥っていたが、操縦手の柚子が進軍に躊躇しなかったのが幸いした。
しかしながら、最後尾だった典子とそど子、そしてゴモヨとパゾ美を乗せたカモさんチームは車列を乱してしまった。
見るからに速度を落としてしまったルノーB1bisを見て、優花里は「しまった」と無線機に叫ぶ。
「背後から迫っています! 加速急いで!」
優花里の必死の呼びかけは、果たして徒労に終わった。
街道脇の森から出てきた三両の黒森峰車両ーーⅢ号戦車二両とⅣ号戦車戦車一両が無慈悲にも、ルノーB1bisの進路上に出現し、砲の照準を合わせていた。三両同時に放った砲弾は、ルノーB1bisの装甲をいとも簡単に破壊し、走行不能の白旗を引きずり出す。
着弾の衝撃からか、大きく吹き飛ばされたルノーB1bisは街道上で横転し、黒煙を吐き出していた。
04/
『副隊長、ルノーB1bisの撃破に成功しました。残りの三両が丘に出てきます』
無線越しに受け取る撃破報告を受けて、カリエはパンターの前進を止めさせた。そして砲手に何かを耳打ちし、砲塔をある方向へ向ける。
「Ⅳ号、敵が街道を抜けるタイミングを知らせて」
『残り二十秒ほどです』
「もっと正確に」
『失礼しました。あと十三秒です』
報告を受けて、カリエは懐から懐中時計を取り出した。一秒、一秒と時を刻むそれを目にしながら、彼女は大洗にとって絶望的とも取れる指示を下す。
「五・四・三・二・一、撃て」
パンターの主砲が火を噴き、車内に火薬の臭いが充満する。後退してきた砲塔後部に次弾を装填する砲手の動きには淀みはない。
カリエはひりつく主砲の熱を車長席で感じながら、「あと二両」と淡々と呟いていた。
05/
最後尾の38t戦車B/C型が突如吹っ飛んだ。
何が起こったのか大洗女子で理解していたのは、先頭を走っていた優花里だけだ。
スピーカー越しに、イヤホン越しに、何百何千と聞いてきた雷の如きパンターの主砲が炸裂したのを全身で感じ取っていた。
「これが……黒森峰」
丘の向こう側、優花里たちから見て左側に陣取るパンターを見て、優花里は寒気を覚えていた。
あのパンターは、いや、逸見カリエは、こちらが通り抜けるであろうルートを完璧に予測し、最短時間で待ち伏せが出来るポイントに展開。
ルノーB1bisを三両掛かりで確実に撃破した後、慌てて街道から飛び出してくる車両のタイミングを予測して、自ら撃破したのだ。
「ば、ばけものじゃないですかあ」
じわりと滲んだ涙で景色がぼやける。
止まりかけていた震えが再燃し、次の指示を飛ばすための口が使い物にならなくなった。
ぴたりとこちらに追従するパンターの砲塔を見て、「ひいっ」と情けなくも悲鳴を上げた。
もうやめましょう。もう降伏しましょう。
そう全軍に通達するために、優花里は咽頭マイクを掴む。これ以上自分の身勝手な戦車道に付き合わせてはならない。これ以上、友人たちに怖い思いをさせてはならないと、彼女は震える唇を開いた。
『秋山!!』
ぴたり、と優花里の手が止まった。何事か、と思えば車内の通信装置を通して聞こえる杏の声だった。
『あきらめるな! 私たちはまだ負けていない! カモさんもアヒルさんも中は無事だ!』
『ごめんなさい! 秋山さん、私たちやられちゃったけれど、怪我はしてないわ!』
杏の声に続いてルノーB1bisに乗っていたそど子が応える。
『秋山さん! とにかく町を目指そう! あのパンターはあと一発しか弾を持っていないんだろう!? なら早々撃ってこない筈だ!』
振り返れば、後続のエルヴィンが優花里に手を振っていた。その表情は恐怖に引き攣っていたが、戦意までは失っていなかった。
『大丈夫だよ、秋山ちゃん。私たちは最後まで秋山ちゃんについて行くよ。だから私たちに、大洗戦車道チームに指示を与えてくれ!』
正直言って、恐怖感はまだあった。
いくら怪我人がいないと聞かされていても、次は自分たちだと考えると怖くて怖くて仕方がなかった。
震えも止まっていない。
ぴたりとこちらを向いたパンターの砲塔は怖い。
でも、降伏の言葉は優花里の頭からすっぽりと抜け落ちていた。
「Ⅳ号、Ⅲ号突撃砲共に出来る限りジグザグに走行してください! 幸い足下は若干の砂地です! 履帯で土埃を巻き上げれば、天然の煙幕になります」
Ⅳ号戦車のエンジンが唸りを上げ、履帯が吹き飛ぶぎりぎりの動きで丘を駆け下りる。街道から三両の黒森峰戦車が顔を覗かせたが、発砲はしてこなかった。
徒に砲撃を繰り返すことを禁止しているのだ、と優花里はカリエの指示を何となく予想していた。
試合開始からおよそ二十分。
早速半数の車両を失ったが、大洗は降伏の旗を揚げなかった。
反骨精神ではない、勝機を見いだしているでもない。
だが隊長としての責を果たすことを求められているから、なけなしの勇気を振り絞って、優花里はⅣ号戦車戦車を走らせた。
もう一度、丘の上に座するパンターに振り返る。車長席には冬の風に銀髪を靡かせたカリエがいた。
先程戦女神を幻視させたその姿は、今見てみれば、こちらを執拗に追いつめる、悪魔のようだった。