午前中をロンドンの事務所でクライアントと過ごしていた。飼っている猫が隣の花壇を荒らしたとして訴えられている初老の紳士は、怜にハグリッドを思い出させる。
紳士の猫はお世辞にも行儀が良いとは言えないし、人相ならぬ猫相も良いとは言えない。平たく言えば、ちっともかわいくない。しかし、紳士にとってその猫は「ちっちゃなちっちゃなキティ」なのだ。
紳士に法廷での徹底抗戦ではなく、然るべき示談金で解決するよう説得しながら、内心で「顧問先の歯医者が親知らずと間違えて患者の奥歯を2本ぐらい抜かないものか」とさえ思った。グレンジャー・デンタル・クリニック以外で。
ハグリッドのペット事件の数々を想起させるクライアントは、いつもなら無駄に金を落としてくれる上客だが、今日ばかりは不吉に過ぎた。
午後にはホグワーツの3月定例理事会が開かれる。
いつもなら、退屈このうえない定例理事会には絶対に出席しないのだが、近頃何かと不穏なホグワーツでは、そろそろハグリッドが槍玉に上げられる頃合だ。
ハグリッドに傷が付けば、ハグリッドを重用するダンブルドアを引きずり下ろす手掛かりが出来るとルシウス・マルフォイがせっせと暗躍しているのが目に見えるようだ。
ルシウス・マルフォイにとってダンブルドアは目の上のたんこぶだ。
ヴォルデモートの失脚の後、マルフォイは、ありがちな申し立てを行なった。服従の呪文により操られていた、と。
もちろん、それを信じる者はいなかったが、肝心のヴォルデモートがいなくなったならば、あえてマルフォイをアズカバンにぶち込むよりも、マルフォイから袖の下を引き出すほうを選ぶ者は少なくなかった。
ヴォルデモートの下で、様々な人々を脅し、支配の美酒を一口二口と味わったマルフォイは、金を使い、脅しをかけ、やはり様々な人々を配下に置こうとしている。ヴォルデモートなどおそらく関係無しに、あれはそういう男だ。
しかし、ダンブルドアへの信頼が厚い状況では、マルフォイの思うままに便宜を図る人間ばかりではない。力弱くも実直な人々にとってダンブルドアは大きな砦であり続けている。「ミスタ・マルフォイ、これを受け取るわけにはまいりません。私は職務に忠実でありたいので」と言うのに勇気を振り絞る人々の心の支えがダンブルドアなのだ。
だから、マルフォイはハグリッドとダンブルドアを度々攻撃する。
ハグリッドへの訴えの多くは、被害らしき被害のない、いわば希少な(ある意味では危険な)魔法生物への偏見によるものだ。怜がその全てのケースでハグリッドを無罪放免にしてこられたのは、怜の法律家としての能力以前の問題だ。マグル界ならば、そのような訴えは、立件すらされなかっただろう。物証が何もないのだから。
だが今回ばかりはわけが違う。
僅か50年前の事件当時ホグワーツに在籍していた人々が、今は孫たちをホグワーツに通わせている。
「秘密の部屋が開かれ、マグル生まれの少女が1人殺され、ハグリッドが退学処分になった」ことを直接知る人々が生徒の家族にはまだ大勢いるのだ。偏見だろうと何だろうと、孫の安全のためならばマルフォイの提案するハグリッドの排除ぐらい躊躇わない、そういう世代はまだ死んでいない。
まったく反吐が出る、と怜は思う。
怜自身も、またその両親も、あるいは夫の両親も、子供の安全を望まないわけではないが、誰かを排除することで得られる安全は単なる現実逃避に過ぎないことを知っている。一見孫を溺愛するだけに見えるクロエでさえ、かつて呪い破りとして、古来の忌まわしい魔術を解析してきた経験を持つ。闇祓いも呪い破りも、無論法律家も、現実を直視することにかけてはプロフェッショナルだ。
ハグリッドを排除することは、仮初めの安心のために人様を犠牲にする最も卑劣な現実逃避に過ぎない。
「ハグリッド」
マグルのロンドンからホグズミードに直接姿現しをしてホグワーツに来たので、マグルのスーツ姿だ。そもそも怜は魔女のローブが好きではない。あの仰々しさが性に合わない。学生時代のローブは制服なので受け入れられるものに過ぎないのだ。イートンやハーロウの学生がスワロウテイルにカンカン帽で生きられるのと同じだ。
ただその姿は、ハグリッドの小屋では浮き過ぎる。
「よう」
今日の理事会の成り行きを彼なりに予想しているのか、ハグリッドの表情は冴えない。
「おまえさんが理事会に来るなんざ、やっぱりアレだろうな」
「たぶんね」
「秘密の部屋が開かれたっちゅう時から覚悟はしてたからよ、俺あ、ひとまず森を出なくちゃなんねえ」
「なんねえかどうかは別にして、あなたの希望は?」
ハグリッドはマグカップに熱くて濃い紅茶を注ぎながら、髭もじゃの顔で苦笑いをした。
「ただのハグリッドとしては、森にいてえけんどな、これでも不死鳥の騎士団のつもりでいっからよ。ダンブルドアの邪魔になっちゃなんねえと思っちょる」
「わたくし、理事会でひと暴れしても良いのよ?」
ハグリッドは「はっは」と笑いながら首を振った。
「おまえさんがひと暴れしたんじゃ、マルフォイもカッコがつかねくなっからよ。たまにゃ花持たせてやれや。法廷じゃまた被告側証人をやってくれるんだろ?」
「わたくしをタダでこき使うのはあなたぐらいよ」
熱くて濃い紅茶を飲んで、怜は溜息をつく。
「俺あ、いつも肝心なときに蓮やハリーの傍におってやれんのが悔しい」
「ハグリッド?」
「ダンブルドアの足を引っ張るのもな」
ハグリッド、と怜は毅然として言った。「あなたが足を引っ張ると、ダンブルドアがもしそう考える男だと思うならば、ダンブルドアを見限りなさい。あなたに楽しく暮らせる森を用意するぐらい、イギリスでも日本でも簡単なことよ。いいこと? あなたがここの森番であることは極めて重要なことなの。滅多に褒めないから聞きなさい。あなたがいなかったら森はどうなっていたと思う? アレがこの森に余計な手出しが出来ないのは、あなたがここにいるからなのよ。ダンブルドアがホグワーツを守るように、あなたは森を守っているわ。違って? 腐れマルフォイは何を守っているかしら? 大事な大事な家名とやらさえ守れていないじゃない。マルフォイ家はアレの配下でありながらアズカバン行きから逃げたと、誰でも知っているわ。マルフォイ家は尊敬を集めているのではない、便宜を金で買っているの。その違いがわからない大バカ者よ」
ハグリッドが「おまえさん、あんまりハッキリ言ってやるんじゃねえぞ」と笑いながら言った。「マルフォイ家の者はそういう生き方しか知らねえんだ」
昼食時間の終わりを告げる鐘が鳴った。
「そろそろ茶番の時間だわ」
「おう」
「マルフォイが意気揚々とあなたを連行しに来るつもりならば、わたくしは法律家として同行しますからね」
「頼まあ」
「然るに、過去に類似の事件で罪に問われた森番のルビウス・ハグリッドを魔法省で尋問すべきでしょうな」
緑色のベルベット張りの肘掛椅子にふんぞり返って得意満面の笑みを浮かべたルシウス・マルフォイが理事たちを見回す。
誰も顔を上げない。最初から結論は決まっているのだから。マルフォイの演説を聞く必要もないらしい。
怜は自分の濃紺のベルベット張りの肘掛椅子で膝を組んだ。
理事会の円卓の席には12の椅子があり、理事それぞれの出身寮の色のベルベットが張られる。ハッフルパフの黄色は滅多にないので、義父が理事だった頃はさぞ目立っただろうと思う。
ハッフルパフのカナリアイエローの明るさがこの腐敗した魔法界には必要だ。どうも緑と濃紺の椅子が多いと陰鬱な雰囲気になってしまう。グリフィンドールの深紅は、あれは闘牛士の振る布のようなものだから、会議が乱闘で終わりかねない。
グリフィンドールの男は悪い男ではないが、と怜は意識を遠くに飛ばした。まあ悪い男だと言えるはずもない。死んだ夫はグリフィンドールの出身だ。ともかくグリフィンドールの男は悪い男ではないのだが、行動してから思考するという始末に負えない悪癖がある。順番が逆だ。
グリフィンドールの女性陣はまだ比較的マシなほうだと思っていたが、我が娘たちの行ないを見るに中身に大した違いはないのかもしれない。決闘クラブでレスリングを始めるハーマイオニーも、それを助けるのにボクシングを始める馬鹿娘も。
しかも馬鹿娘ときたら、どこからかリドルのホークラックスを拾ってきたと言う。クロエの孫であり、柊子の孫だから、闇の魔術に染まった品をそれと識別できるのは当然だし、ホークラックスについて詳しく教えないままに「バックアップがある」という比喩で説明したことならある。
しかし、誰が拾ってこいと言った?
ーーわたくしは、ホークラックスを探して発見してから、あらかじめ覚えておいた悪霊の火で焼いたのよ
悪霊の火なんか教えていないし、教える気もまだない。成人が近づいたならともかく、決闘クラブでボクシングを始める馬鹿娘にはまだまだ教えるわけにはいかない。
ーーホークラックスを取り扱うのは100年早いわ、あの馬鹿娘!
塩漬けにした、とウェンディを通じて連絡が来たのでひとまず安心しているが、サマーホリデイには自分が取り上げて破壊しなければならないだろう。
ーーいやだわあ、アレ。ホントに不愉快な目に遭うのよね
作った人間の質が知れるというものだ。
そこまで考えたとき、ルシウス・マルフォイの不快な声が耳に入った。
「レディ・ウィンストン、ご意見を拝聴する。あなたはルビウス・ハグリッドを法廷で擁護するのがご趣味だ」
「あら、わたくしの趣味にご関心が?」
「・・・大してない」
「ルビウス・ハグリッドを法廷で被告側証人として擁護する機会が多いのは事実ですわ。趣味ではなく仕事としてね。ですから、理事会の席上で理事のお歴々の過ちを撃ち抜いて回ることはいたしません」
「法廷ではすると?」
眉を上げて「仕事ですもの」と笑いながら言った。「例えばこの理事会には、逮捕権がないことだとか、捜査権もなく、したがって何ら物証のないままにハグリッドを休職させ、猫の手も借りたいほどお忙しい魔法省にそれらの証拠固めを丸投げしたことだとか、そうしたことを指摘するのは、魔法界でもマグル界でもわたくしの仕事よ」
「得意そうにしているところ申し訳ないが、魔法大臣からはハグリッドをお引き受けいただくとのお言葉をいただいている」
「高かったでしょう? ファッジ大臣がダンブルドアに反抗するんですもの、ちょっとやそっとのガリオンでは頷けないわ」
「私の名誉をいたずらに傷つけるのはやめていただきたい」
「失礼。まだ名誉が残っていたとは存じませんで。さ、皆様お忙しい方ですもの。結論ありきの会議なんてサッサと済ませません? わたくし、このあとも仕事が控えていますの。無職のマルフォイと違って」
冷たい色の瞳がギラと光り「ハグリッドも哀れだな、専属法律家からも見捨てられたらしい」と口元だけで笑った。
コーネリウス・ファッジが、ダンブルドアの視線を気にしながら、つっかえつっかえハグリッドを連行する旨を告げる。
それを確かめて怜はノックもせずに小屋に入った。
「失礼、大臣。魔法法執行部での執務のご経験のない大臣にこんな使い走りをさせるなんて、どこの馬鹿の仕業かしら」
「れ・・・レディ・ウィンストン!」
「大臣。ルビウス・ハグリッド氏の権利を読み上げる手順を省略なさってはいけませんわ。法律上のアドバイザーの同席を求め、アドバイザーの同席無しには尋問に応じないと主張する権利を無視した尋問は、内容の如何に関わらず不当な訴えとして却下する理由になりますのよ」
なぜここに、とコーネリウス・ファッジが呟いた。「君は仕事に戻るとマル」
「これ、仕事ではありませんかしら? ルビウス・ハグリッド氏は、誤解されがちな経歴をお持ちですから、秘密の部屋の事件が起きたときから、法律上の相談を受けておりましたの。わたくしがたまたま理事会でホグワーツにおりまして幸運でしたわね、大臣。わたくし抜きで連行してアズカバンの待機房にぶち込んでいたら、賠償額が跳ね上がりましたわ」
さて、と言いながら怜は準備しておいたガリオン金貨の袋をファッジに握らせた。「お確かめください。ルビウス・ハグリッド氏の保釈保証金です。このまま、わたくしのコーンウォールの邸で裁判までの期間を待機させます。また、秘密の部屋に関してはトム・マールヴォロ・リドルの関与が疑われますので、監視のために、コーンウォールの邸に闇祓い局からキングズリー・シャックルボルトを配置してもらうことになっています」
「い、いや、いや。そこまでの手間はかからぬよ。少し話を聞いて、事件が落ち着くまで、そのぅ・・・アレだ・・・ナニに・・・」
大臣、と怜は微笑んだ。「どさくさにまぎれてアズカバンに収監させないために保釈の制度があることは、当然ご存知ですわね?」
「君、それは、ヒトたる魔法族にのみ」
「ヒトたる魔法族と認められてルビウス・ハグリッド氏はホグワーツに入学した経歴がございますわ。また、ヒトたる魔法族として遵守すべきアクロマンチュラ実験飼育禁止法違反のペナルティを未成年ながら受け入れ、その後、アクロマンチュラ飼育資格を取得しております。これでもルビウス・ハグリッド氏はヒトたる魔法族ではないと? ヒトたる魔法族だからこそペナルティがあり、同時に権利があるのです。恣意的にそれを操作していては秩序が維持されません。大臣とは、秩序の上に立つお立場ですもの。法的秩序の重要性はご理解いただけますわね?」
ファッジは自信なげに頷きかけ「マルフォイが何というか」と呟いた。
「大臣。ルシウス・マルフォイ氏は、単なる一個人ですわね? 一個人の高潔極まりないご意見に左右されるようでは、魔法界は法治社会とは申せません。大臣職は、高潔かつ高名な一族の当主個人によって成るものではなく、法治社会の頂点にあるのです。大臣が優先なさるべきは、腐れマルフォイの指示ではなく法律です」
「怜、最後のほうの言葉は慎むべきじゃな」
「あら、ダンブルドア、失礼いたしましたわ。つい本音が」
「済まねえ、怜」
コーンウォールの邸の中は落ち着かないというので、食事を済ませると、庭の奥の森番小屋にハグリッドとキングズリーを案内した。
「キングズリー、本当にここでいいの?」
「構わない。私は一応ハグリッドの監視だからね。本音を言えば、ハグリッドと久しぶりに飲みたいだけだが」
ハグリッドは森番小屋の中の広いほうの部屋をキングズリーに使わせたがったが、キングズリーが「ハグリッド、君のほうが大きいんだよ」と指摘すると「済まねえなあ」と呟いた。
「済まねえ済まねえって、さっきから何を言ってるの?」
「だっておめえ、今までこんなこたあしなかったじゃねえか。保釈保証金払ってホグワーツの森に帰してただろ?」
「あなたはしばらくホグワーツにいちゃいけないからよ」
んでもよお、とハグリッドがぐずぐず言う。
「ハグリッド、これは今までのあなたのペット事件とは違うの」
「ホグワーツが危ねえっちゅうなら、生徒たちを連れて帰れるようにしたほうが」
「ルシウス・マルフォイは、あと何人かマグル生まれの被害者が出たほうが嬉しいでしょうよ。だから、学校の閉鎖は自分からは言い出さないはず」
相手は怪物だぞ? とハグリッドが怪訝な顔をした。「純血を避けて通るとは限らねえってのに。あいつぁ、息子が心配じゃねえんかい」
「スリザリンの用意した怪物なんだから、純血を避けて通ると思っているのよ」
馬鹿か、とハグリッドが口を開けた。
「あいつが馬鹿なのは今に始まったことじゃないわ」
それは多くの保護者も同じことだ、とキングズリーが静かに言った。
「純血の子供が被害に遭って初めてわかるんだよ。怪物にとっては、自分以外は全て獲物に過ぎないことがね。逆に言えば、自分以外を食い潰す者こそが怪物なのだ」