はるばるイギリスから日本まで飛んできたフクロウは息絶え絶えに、怜の文机の上に転がってしまった。
「死んだ?」
怜がそう言うと、ふるふると震える片羽を挙げて応える。どうやら死んではいないらしい。
怜はホグワーツからの封筒を口にくわえ、フクロウをそっと両手で持ち上げると、ゆっくり階段を下りた。
「あら、教科書のリストが届いたの? もうそんな時期かしら」
母が怜の口から封筒を取り上げる。
「そんなの後回しでいいから、フクロウをどうにかしてあげて。死にかけてるわ」
封筒をかさかさと振る母が「怜、なにかいいものが入っているわよ」と笑い、差し出されたフクロウを受け取った。
「いいもの?」
ちゃぶ台に置かれた封筒を手に取り首を傾げている間に、母が風呂場へフクロウを連れて行った。
封を切り、中身をちゃぶ台にあけると、コロンとバッジが転がり出てきた。「プリフェクト」と書かれたバッジに、怜は顔をしかめる。
ちっともいいものなんかではなかった。
レイブンクロー寮の監督生と首席には、避け難い宿命がある。嘆きのマートルと入浴するという宿命だ。3階女子トイレには入学してこのかた入ったことはない。怜は避けられるトラブルは避ける方針だ。
菊池家の娘が「祓う」能力を持っていることはゴーストに知られていて、おそらくそれは怜の祖母のせいらしいのだが、ゴーストは怜に一定の敬意を示してくれる。
だからといって、トイレの水を撒き散らすゴーストとなれば話は別だ。そんなトイレに好き好んで入るつもりは怜にはさらさらなかったので、これまで避けてきたのだ。
ホグワーツ特急の監督生専用コンパートメントに入ると「やっぱりだ!」と叫んで誰かが飛びついてきたので、顔も確かめずにぶん殴った。
「ウィンストン」
スリザリンのネクタイを締めたアンドロメダ・ブラックが額を押さえて頭を振る。
「ドロメダ、久しぶり。サマーホリデイは楽しかった?」
「まあまあね。姉の結婚式があったけれど、大して面白くもなかったわ。見慣れた顔ばかり」
足元に倒れ伏したグリフィンドールのコンラッド・ウォレン・ウィンストンを踏みつけながら、親友のドロメダと再会の挨拶を交わす。
「あなたには、テッドがいるからでしょう?」
スリザリン生には珍しくドロメダはマグル生まれのテッド・トンクスと付き合っている。
「だからサマーホリデイはつまらないのよ。わかるでしょう? 分家とはいえ所詮ブラック家ですもの」
そのとき、怜に遅れてアリス・プルウェットが入室してきた。
「ハイ、怜、ハイ、ドロメダ。ねえ怜、その足元の変質者をそろそろ解放してあげて。ここにいるからには、わたしの監督生仲間みたいだから」
「グリフィンドールの人材不足は深刻ね」
そう言って怜が脇に避けると、コンラッドは幸せそうに立ち上がった。
「なにニヤニヤしてるのよ、ウィンストン」
「レイ、君、もう制服に着替えてるのを忘れてただろ?」
再び怜の拳がコンラッドを襲った。
「フェビアンが監督生だと思ったのに、なぜウィンストンが?」
「わたしが女子の監督生だからじゃない? コンラッドとフェビアンは成績なら同じぐらいだし、わたしとフェビアンは従兄妹だもの。プルウェット家からグリフィンドールの監督生が2人とも出るんじゃ、なんとなく出来レース感があるでしょう」
怜は目を丸くして、壁に凭れた背の高いコンラッドを見つめた。「フェビアンと同じぐらいの成績? これが?」
箒で夜中に君の部屋まで行けたら付き合ってくれ、スラグホーンのオールド・シングル・モルトを盗み出せたら付き合ってくれ、フリットウィックの髭を剃ったら付き合ってくれ、マクゴナガルの眼鏡を釣り上げたら付き合ってくれ、ダンブルドアの髭を夕食の最中に抜いてみせるから付き合ってくれ。
数々の迷惑行為が脳裏を駆け巡る。
「グリフィンドールの中では比較的優秀なの」
「・・・本当にグリフィンドール、大丈夫?」
訝る怜の肩をドロメダが叩いて「ウィンストンを馬鹿扱いするのはあなただけだから、そのぐらいになさい。ウィンストン、あなたもよ。怜と付き合いたいなら、もう少し真面目にアプローチしたら? 単なる迷惑野郎だと思われてるわよ」と仲裁した。
しかし、コンラッド・ウィンストンはどこ吹く風だ。「レイに当たり前のアプローチする男は掃いて捨てるほどいるだろ? 毎年、レイブンクローではクリスマスとバレンタインにレイがガレージセールやってるって評判だ。俺はそんな扱いされたくないだけさ」
だからといってバレンタインにタランチュラのゴム模型を贈る男を信じるほど怜の趣味は悪くない。あれはニュートラルに考えてもただの嫌がらせだ。
「やあ、これはこれは。今年の監督生は不作だな。血を裏切る者ばかりじゃないか? 嘆かわしいことに我がスリザリンの監督生まで血を裏切る者だ、姉上とは大違いだな」
怜は無言で杖を振った。「さあ、6年の監督生のコンパートメントに行きましょう。何をするのか引き継ぎしてもらわなきゃ」
ルシウス・マルフォイはホグワーツ特急がホグズミード駅に着くまで泣きながらナメクジを吐き続けていた。
門限後の見回りを終えて、いったんレイブンクロー寮のある西塔の部屋に戻ると、怜は溜息をつきながら長い髪をアップにまとめた。
「あいつら。アリスに言って外出禁止令を出してもらわなきゃ」
グリフィンドールの新入生4人組を今夜も見つけたのだ。中の1人は、ブラックの一族では唯一ドロメダが可愛がっている従弟だというから、これまで3回は捕獲して見逃したが、来月からは見回りの当番がスリザリンになる。
ドロメダならば見逃すだろうけれど、ルシウス・マルフォイが密告したらおしまいだ。
「甘く見やがって」
今度見つけたらピーブズをけしかけてやる、と決めて監督生専用浴室に向かった。
髪や体の汚れを落とし、幻想的なゆったりした浴槽の中で体を伸ばした。
この風呂場を使えるだけで監督生になる価値がある、と言われる浴室だが、レイブンクロー生にとっては油断ならない場所でもある。
「見つけたわ!」
いきなり甲高い大声で叫ばれ、両腕を上げて筋肉をほぐしていた怜はバランスを崩して、ガボっと浴槽に沈んだ。
「あらあら大丈夫?」
なんとか水面に顔を出して座り直すと目の前に、古臭い眼鏡をかけた少女のゴーストがいた。
「うん、やっぱりあなたよ。ずっと探してたの」
「ず、ずっと?」
すすすっと怜の脇に寄り添ってくる。
「わたし、レイブンクローの監督生を探してたのよ。みんな偽者ばっかりだったわ。みんなしてわたしをからかうの」
「・・・はあ」
「でもあなたはわたしをからかわないから好き」
もう訳がわからない。
「ずっと探してたって?」
「わかってるくせに」
「いや全然わからない」
「30年は探してたはず。たぶんね。50年かもしれないけど」
「マートル?」
「なあに?」
「あなたが今の姿になった時点で、わたくし、生まれてない」
嘘よ! と叫んだマートルがあらゆる水栓を瞬時に全開にして消えてしまったため、怜は後片付けに追われて風邪をひいた。
両手を叩いて喜ぶのはドロメダとアリスだ。
厨房の片隅、ハウスエルフが用意してくれたアフタヌーンティのお茶会で、怜は嘆きのマートルの被害について訴えた。
「さすが歩くマーリンの髭ねえ。マートルに愛され過ぎ」
「あなたがたの入浴中は出て来ないの?」
出てはくるけど、とアリスがドロメダに目を向けた。
「あなたじゃない! って叫んで水をひっかけられておしまいよ。そのあとは出て来なくなったわ。基本的に彼女、3階トイレで暮らしてるから」
「たまに湖に流されてるけどね」
わたくしだけなの? と怜は珍しく気弱に眉を下げた。
「マートルといい、ウィンストンといい、あなたって変なのに好かれるわよね」
ドロメダの言葉にアリスが笑って「コンラッドがレイに対して挙動不審なのは認めるけど、変なの扱いはかわいそうよ。あれでも人気あるんだから」とたしなめた。
「そうなの?」
「まあ、スリザリンでは不人気でしょうけど、グリフィンドール、ハッフルパフ、レイブンクローではね。クィディッチ選手でもないのに」
「へえ、意外。でもないか。顔と頭は、客観的に見れば良いものね。紳士的だし」
「紳士的?」
怜は本気で親友たちの頭に聴診器を当てる必要を感じた。
「たまにブラック家のパーティにご両親と一緒に来るわよ。彼、お母さまがフランス人だからか、そういう席ではマルフォイより洗練されてるわ。マルフォイはパーティ慣れしてるみたいに見えるけど、態度が傲慢だからエスコートされてる感じになれないの。3歩下がってついて来いって感じね。ウィンストンは同席している女性のために飲み物を取りに行ったり、椅子を引いてくれたり、かなりマメよ。わたくしと同席したら、レイの話ばかりだけど。シリウスも、ウィンストンみたいに上手くやればいいのにっていつも思うわ。ブラック家の純血主義が窮屈なのはわかるけど、あの子ったら必要以上に攻撃的ですもの。パーティが自分の家で開かれていても顔も見せない」
ドロメダの最愛の従弟の話題に変わってしまったが、怜はウィンストンがドロメダのために飲み物を取りに行ったり椅子を引いたりしている姿を想像して、なんだかイライラしている自分に気づいた。
ーーわたくしにはタランチュラのオモチャでドロメダには紳士的なエスコート?
ムカムカするわ、とスコーンを紅茶で無理やり飲みくだした。
クリスマスホリデイには日本には帰らない。
リヴァプールのフラメル家で過ごすのが毎年恒例だ。両親はクリスマスにだけ姿現しで日本からやってきて、新年を迎える支度のために一晩か二晩で帰ってしまう。田舎の神社とはいえ、神社業の年末は忙しい。
ニコラスおじいさまにお願いして防音の魔法を施した部屋で、大音量でビートルズを流しながら魔法薬学のレポートを書いていると、窓の外にフクロウの姿が見えた。
レコードの針をあげて窓を開けると、フクロウは怜の机に舞い降りる。
「誰かしら?」
フクロウの脚の羊皮紙を取ると、怜は顔をしかめた。「なんですって?」
慌ててダッフルコートを着込んで外に出る。
「やっぱりここが君の家だった」
嬉しそうに鼻の頭を赤くしたコンラッド・ウィンストンがいた。
「・・・まともなプレゼントをありがとう。ビートルズの新しいLPなら喜んで受け取るわ」
「だったらこのままリヴァプールでデートしないか?」
「はい?」
「アンドロメダ・ブラックに注意されたんだ。子供じゃないんだから、君をレディとして扱えって。僕のアプローチは子供っぽすぎて嫌がらせだと思われてるってさ。本当なら一大事だ」
黒いコートを着たコンラッドは確かに少し大人びて見えた。
「あなた、この近くに住んでるの?」
「いや。コーンウォール」
「はあ?! どうやってここに来たのよ?」
汽車を乗り継いだに決まってるだろ、とコンラッドが笑った。
「汽車の乗り方、知ってるの?」
「僕はホグワーツ入学前までロンドンに住んで、マグルの学校に通っていたからね。マグルの男は子供時代に国中の列車に詳しくなるんだぜ」
光に透けて、コンラッドの淡いブラウンの髪がブロンドに見えた。
ホグワーツに戻り、また日常が始まったが、怜はもうコンラッドを出会い頭に殴りはしない。
一応、レディらしく扱われたのだから、殴るわけにはいかないのだ。そういうことだ。そういうことにしておく。
その分の被害はルシウス・マルフォイに向けられたが、これは誰も困らないので問題ない。
「マートル」
「なあに?」
浴槽で冷えた体を温めているときにマートルに寄り添われるのは非常に困る。
たまたま入浴時間が重なったドロメダとアリスは、浴槽の端に寄ってしまった。まったく友達甲斐のない。
「あなたの好意は嬉しいけれど、わたくし、体を温めたいの。少し離れてくれるとありがた」
「あの男の子が原因?」
離れたはいいが、マートルは高く舞い上がり、腰に手を当てて怜を睨んでいる。
危険信号だ。怜は青くなった。
「い、え? 男の子? そうじゃなくて、あなたの体温の問題なの」
「あの男の子が話していたわ! グリフィンドールの男の子よ! あなたはわたしに迷惑してるって! あなたのお風呂を覗くなって!」
「グリフィン・・・あなた、コンラッドのお風呂を覗いてるの?!」
「わたし、どうせゴーストですからね! 行こうと思えばどこにだって行け」
怜は思いっきり洗面器でマートルに浴槽のお湯をぶっかけた。
マートルはゴボゴボと音を立てて排水口に吸い込まれていく。
「さすが歩くマーリンの髭。洗面器ひとつでマートルを湖に流しちゃった」
「これだから、ゴーストがあなたに最敬礼するのねえ」
「もはや祓い屋のレベルね」
「ウィンストンのお風呂覗きがマートルの敗因になるとは」
勝手なことを言う友人たちを睨み、怜は鼻息荒くザブンとお湯に浸かった。
「嘆きのマートル? ああ、あのゴーストか。うん、よく来るよ。最近は見てないけど、まさかまだ君のお風呂に? 君を覗かずに俺を覗けよって言ったのに」
ハグリッドの小屋近くで見つけたコンラッドはのんびりと答えた。
「あなた、マートルにお風呂を覗かれて平気なの?」
「平気か平気じゃないかで言えば、平気じゃない。でも、女の子のゴーストとは言え、女の子の風呂に出入り自由なのは問題だ。そのぐらいなら、男の裸を見ろと言うべきだ」
ダンブルドアに男女の監督生の風呂を入れ替えてもらうことはもう頼んであるけど無駄になった、とコンラッドは言った。
「どうせ入れ替えても、あんまり意味がないわ。あの子、水周りならどこにだって出るんだから」
「それは違うな」
コンラッドは苦笑した。「ホグワーツのゴーストバスターが女子監督生専用浴室から、マートルを祓ってしまったという噂だ」
はた、と怜は立ち止まった。
「心当たりは?」
「なくはない、わ」
「だろ? だから、しばらくは君たちの風呂は安全なはずだ。ダンブルドアに陳情取り消しに行かなきゃ」
「どうしてあなたが? 嘆きのマートルの件は、割と女子だけの問題よ。トイレにお風呂に。女子のプライベートな場所にしか住みつかないんだから」
「わからないのか?」
何が、と怜はコンラッドを見上げた。
「俺は女の子のゴーストとは言え、君と毎日寄り添って風呂に入る奴は許せないんだ! 俺だってまだそんなことしたことないのに!」
怜は肩を落とした。「あなた、馬鹿なの?」
「君に関してはね。だから俺と結婚して」
「はい?」
いろいろすっ飛ばし過ぎだ、と思った。
「コンラッド、わたくし、ホグワーツを卒業したらマグルの大学に行くつもりなの」
「俺もだ」
「だから、結婚のことなんてまだ先の話すぎて」
「問題ない。君がイエスと言うまでプロポーズするから。ただそれまで君にまとわりつく奴は、たとえゴーストでも追い払うからね」
ハグリッドの畑の脇で、コンラッドと初めてのキスをした。
「ちょ。やめて、本当にやめて」
オックスフォードのクライストチャーチの図書館で、コンラッドは跪いていた。
怜は青くなればいいのか、赤くなればいいのかわからない。
「133回目のプロポーズだ。今度こそイエスと言わせる」
「やめてったら! 場所を考えて!」
コンラッドは、にや、と笑った。「場所は十分に考えてあるさ」
そして芝居がかった声を張り上げた。「レイ・エリザベス・キクチ、どうか僕と、その人生が長かろうと短かかろうと、共に歩んで欲しい。結婚してくれないか?」
どこからともなく、ピュウイ、と口笛が聞こえた。セイ・イエス、セイ・イエス、と囃し立てる声が大きくなる。
ーーやられた
怜は唇を噛んだ。「みんなグルなのね」
「協力者さ」
「わかったわ。答えはイエスよ!」
コンラッドは立ち上がり、怜を足が床から浮き上がるほど抱きしめてキスをした。
「マートルにお礼を言わなきゃ」
「マートルに?」
「彼女が君のお風呂を覗く趣味がなかったら、こんな日は来なかった。だからね」
「そうね、そうして」
「また湖に流されてなきゃいいけど」
ミセス・グレンジャーとアフタヌーンティを楽しみながら、話題は夫のプロポーズだ。
「トラファルガースクエアの噴水の前のほうがまだマシですわ」
ミセス・グレンジャーは可笑しそうに笑いながら「うちの夫も無駄に鉄道に詳しいのですけれど、ご主人とプラレールで遊んでいたに違いありませんわね」と言った。「ハーマイオニーと2人でホグワーツ特急が蒸気機関車かどうか議論していますの」
「それで、その嘆きのマートル? 彼女はお元気なのかしら?」
「元気なはずですわ、なにしろゴーストですもの」
「レンの顔を見たら、またレディの学生時代のようにお風呂を覗きに来るのでは?」
どうかしら、と怜は肩を竦めた。顔が似ていることは認めるが、蓮はまだ2年生だ。お風呂を覗いて楽しい体つきではまだない。
その日、帰宅した怜は「嘆きのマートルに強制的に誘われてパートナーとして、ほとんど首無しニックの絶命日パーティに行くことになりました。絶命日パーティでの正式な挨拶の仕方を教えてください。おめでとうって言っていいの?」という娘からの手紙を読んで笑い転げることになるのだった。
どうやらマートルはまだまだ元気いっぱいらしい。