荻野は翌日から時雨を秘書艦に任じ、それなりに佐世保鎮守府の司令官としての仕事を始めた。佐々木のように時雨を囲うこともなく、時に非番を与え、夜になれば部屋に帰しと、当たり前ではあっても時雨には特別に思えるような待遇を与えている。五月雨と涼風の訓練も再開され、神通と那珂が二隻の教導も兼ねて護衛任務を精力的にこなしてくれていた。
そんなある日、荻野が所用から司令室に戻ってくると、そこには時雨ではなく江風がいた。
「おっす。お帰り、提督」
「江風じゃないか。時雨は?」
そう聞く荻野に、江風は意味ありげに笑って、ソファをちょんちょんと指さす。そこへ目をやると、時雨は横になって気持ちよさそうに眠っていた。
「時雨も疲れてるんだな。明日あたり休ませてやるか」
コートを衣紋掛けにかけながら、荻野はそう江風に言った。江風はキシシと笑う。
「どっちかってえと退屈で寝ちゃったンだと思うぜ。提督事務官としてはそれなりだもンな。時雨姉貴、前ほど仕事ねえから」
「それなりはねえだろ」
荻野は笑いながら席に腰を下ろした。自分が置いていった書類は、ほぼ片付いている。自分は確かにそれなりだが、時雨は間違いなく優秀だった。
「じゃあ、このまま寝かしといてやるか」
荻野はそう言うと、衣紋掛けにかけたばかりのコートを持ってくる。
「毛布持ってくりゃいいのに」
「毛布取りに行くのは面倒なんだよ…。でも風邪ひいたらかわいそうだろ…って、風邪ひかないんだっけか、お前ら」
荻野は時雨の目の前で立ち止まって江風にそう聞く。江風は「考えたこともねえよ」と首をかしげた。白露型の制服は半袖かノースリーブだ。冬になった今、見た目はとにかく寒そうに見える。
「まあいいか」
荻野は考えるのやめて、コートを眠る時雨にかけてやった。コートの襟元を時雨の襟元に上げてやろうと近づいた時、時雨が目を覚ました。寝ぼけ眼が焦点の合わない状態で荻野を見上げている。
「…え…と…提督!?」
時雨は慌てて起き上がろうとして、荻野の顔がそれなりに間近にあったことに気づく。荻野は時雨が起きたことに気づいても、そのままコートをかけてやると、ニッと笑いかけた。
「よう、時雨。おはよう」
「お、おはよう、提督」
時雨は真っ赤な顔でそう言うと、荻野が身体をきっちり起こすまで待った。今のまま身体を起こすと、間違いなく衝突してしまう。
「眠かったらそのまま寝てていいぞ。きっちり書類作ってくれたおかげで、特にしてもらうこともなさそうだしな」
荻野は身体を起こすと、そう言ってまた笑う。その笑顔を確認してから、時雨はコートを押さえながら身体を起こした。
「晩ご飯の支度とかあるし、もうずいぶん寝たと思うからいいよ」
「提督の相手なら、この江風がやっとくぜ、姉貴」
江風が時雨の様子を楽しみながら、意地悪く笑う。時雨は苦笑いを浮かべた。
「ま、今日の残りと明日は休んでいいぞ。飯も海風か春雨に頼むし、ゆっくりしてろ」
荻野はそう言うと、席に戻って腰を下ろした。そう言われてしまうと、時雨は何となく寂しい気持ちになる。休んでいいと言われても、特にすることもしたいこともない。
「僕は、ここにいちゃ迷惑かな…?」
荻野のコートを腰のあたりで抱きしめるようにして、時雨は聞く。荻野も江風も一瞬きょとんとした顔を時雨に向けた。
「時雨がいたいなら構わないぞ。俺も退屈しなくてすむ」
「そンじゃあ、江風は退散しようかな。あとはごゆっくりー、姉貴ー」
江風は茶化すようにそう言うと、キシシと笑ってから舞うように司令室から出て行く。扉を閉める前に時雨に意地悪く笑い、ゆっくりと扉を閉めた。
「なんだ、江風のやつ」
荻野が不思議そうな顔をして江風が出て行ったドアを眺める。時雨は思わず溜息をついた。
「江風は僕で遊んでるんだよ。提督にコートかけてもらったりしたから」
時雨は苦笑いを浮かべながらそう言う。荻野は思うところがあるらしく、苦笑いを返した。
「晩ご飯作るよ。なにか希望はある?」
「まだ時雨のカレー食べてなかったな。今日はカレーを頼む」
「うん。待ってて」
荻野の笑顔にそう頷くと、時雨も笑顔になってソファを立つ。そのソファには、綺麗に畳まれた荻野のコートが残されたままになっていた。
時雨が調理室へ行くと、そこには江風と海風がいた。いや、待っていたと言う方が正しいのかも知れない。
「海風に江風…」
時雨はさすがに予想していなかったようで、驚きを隠さずにそう声に出す。
「姉さん、夕飯の支度、手伝います」
「江風は見てるだけだけどな」
既にエプロンを着けている海風と違って、江風は調理場にいるというのに全くいつものままだ。
「江風は邪魔になるからとりあえず出とこうよ」
「へーい」
壁にかかっていたエプロンを取る時雨に言われ、江風は素直に調理場から出て行き、調理場と繋がっている食堂から調理場をのぞき込んだ。
「なにを作るんですか?」
「提督はカレーがいいって。簡単なので助かったよ。みんなの分まとめて作れるし」
時雨はそう言うと、冷蔵庫をのぞき込む。材料は揃っているようだった。
「海風は皮むき頼むよ。僕は道具とかルーの用意するから」
「わかりました。ご飯は炊けてます」
そう言っててきぱきと調理を始めた姉妹艦を、江風はぼんやりと眺めている。時雨の表情は以前に比べて格段に穏やかになっており、海風と一緒にカレーを作るのも楽しそうだ。その時雨を見て、さっきの司令室で眠りこけていた時雨を思い出して、江風はようやく安心するのだ。これで、もう大丈夫だと。
「江風、本当に見てるだけのつもり?」
「味見くらいは手伝うぜー。せっかくのカレー台無しにされたくなけりゃな」
江風はそう言うと時雨に笑う。その答えは、時雨も苦笑いを浮かべるしかない。海風も、仕方ないなと少しむっつりしていたが、やがては苦笑いを浮かべるしかなかった。
この時は江風も、海風も、当の時雨自身もまだ知らなかった。
今はまだ走り出したばかりの荻野と時雨の物語が、この先七十年にもわたって紡がれていくことに。