夕立が横須賀から移籍してきた佐世保では、大規模な部屋の入れ替えが行われた。元々は時雨が佐々木に囲われていたこともあって、第二駆逐隊として白露、村雨、春雨が一部屋で、第二十七駆逐隊として五月雨、海風、江風、涼風が一部屋になっていた。九隻の白露型を二部屋に押し込むわけにもいかず、部屋もあまっていることから、結局白露と時雨と春雨、村雨と夕立、五月雨と涼風、海風と江風が同室となった。。荻野の私室も佐々木が使っていた部屋ではなく、別に使っていない倉庫だった部屋が掃除の上で用意され、荻野はそこに荷物を入れている。
翌日、荻野の歓迎会が祝勝会を兼ねて行われた。荻野は厳格なところがあまりなく、頼りないところ、砕けたところばかりが目立つ宴となった。それは、佐々木の元で閉塞感の漂っていた佐世保の空気を一変させた。
宴もずいぶんと時間が経ち、そろそろ銘々に行動するようになってから、江風はグラスを片手に会場を抜け出す。岸壁まで行くと、川内が海風に当たりながらグラスを傾けていた。
「川内さん、お疲れっス」
そう声をかけながら、江風は川内の横に腰を下ろす。
「江風。お疲れさん」
そう言って、川内はグラスの中身を開けた。よく見ると、隣には日本酒の一升瓶がある。
「うわ、川内さん抱え込みっスか」
「今日ぐらいはね。普段はあんま呑まないんだけど」
そう言いながら、川内はグラスに酒を注いでいく。言葉もしっかりしているし、赤くなったところもないから、元々酒には強いんだろうなと江風は想像する。
「楽そうな提督っすね、荻野大佐」
「ま、佐世保は海上護衛が中心だからね。大規模作戦は、有能な指揮官が南方にたくさんいるし」
川内はそう言ってニッと笑う。
「目的は達成して提督も替わったし、上々だな」
「そのことなンスけど…」
江風はそう言うと、グラスの中身を煽る。炭酸ジュースの刺激が喉を通り過ぎていった。
「時雨の姉貴がちょっと塞ぎ込んでるンすよ。江風たち、余計なコトしたのかと思っちまって」
「ふーん」
そう言って、川内はまた杯を煽る。そうして、戦いの最中の時雨のことを思い出す。優秀ではある。しっかり者で状況判断も悪くない。だが、抱えているものが大きすぎる。それが魚雷艇との戦いで破裂した。あのままでは、いつか自分自身だけでなく、仲間も巻き込む。現に、時雨の取った不適切な行動で江風は大破している。心は、まだまだ未熟なのだ。
「時間かかるかもね。時雨は、あんまり心の中が安定してないみたいだから。私たちも、戦闘で時雨にあんま負荷かけないように気をつけないと」
「提督、どうですかね」
「どうって?」
江風の問いかけの意味を計りかね、川内はきょとんとした顔を返してしまう。
「時雨姉貴を支えてくれますかね」
江風の顔は真剣だ。川内は思わず吹き出してしまった。
「ちょっ、川内さん! 江風が真面目に聞いてンのに!」
「ごめんごめん。まるで恋バナ聞いてるみたいだったからさ」
「恋バナって…」
そう言う江風の唇が曲がる。完全に茶化されたとしか思えない。
「江風も、海風に負けないくらいの心配性だね。なるようにしかならないよ」
川内はそう言うと、また杯を呷る。
「時雨や雪風みたいな前の戦いで長く戦った娘は、間近で仲間が次々沈んでいったのを見てるから、どうにも私らみたいに途中で沈んだのに比べてメンタルが厳しいみたいなんだよね。でも、それは私らがどうこうできるものじゃないよ」
そう言って川内は優しく笑う。その笑顔に、江風は虚を突かれた。
「なるように…スか」
「また前の提督みたいに時雨に酷いコトする提督だったら、私らで始末すればいいし」
川内はニッと笑う。
「冗談に聞こえないッスよ」
「本気だもん」
川内はそう言うと宴の会場を振り返る。夕立にまとわりつかれたり、白露に自分が一番だとくどくど説明されたりしながら、荻野は楽しくお酒を飲んでいるようだ。その輪の中で、時雨も楽しそうに笑っている。佐々木と同じ様なことはないと信じたい。
「ま、あの様子じゃ大丈夫なんじゃない? 時雨のフォローは、佐世保全員でやる。それだけでさ」
川内はそう言うと、グラスと瓶を持って立ち上がった。江風も、会場を振り返っていた身体をまた海に向ける。
「とりあえず、いったん会場に戻って寝る準備するよ。じゃあね、江風」
川内はそう言うと、ヒラヒラと手を振って会場へ戻っていく。
川内を見送ったあと、江風はまた身体を捻って会場へ視線を向けた。荻野も佐世保のことを知り尽くしている時雨を秘書艦に任ずるだろう。そうすれば、自分たち艦娘に拒否権はない。いつしか、秘書艦である時雨と、その直属の上官である荻野は親密になるだろう。それが、時雨にとっていい方向へ向かうと願いたい。
「なあ、時雨姉貴…。江風たちがしたことは、間違いじゃないよな…?」
直接聞けない疑問を呟き、江風は腰を上げた。これから先、佐世保の駆逐艦練度三番の艦として、荻野と時雨の行く末を見守ろう。それが、自分にしかできないことだと言い聞かせる。一度汚してしまった手はもう二度と元には戻らない。なら、とことんまで行くだけだ、と。
「江風ー!」
会場から、海風が手を振る。その顔からして、困り事が起きたようだ。
「どした、海風姉貴?」
「提督が寝ちゃったのよ。起こすか運ぶの手伝って!」
駆け寄ってくる江風に、海風はそう声を上げる。江風は苦笑いを浮かべるしかない。なんとも、抜けた提督だなと。でも、その方が、時雨の気持ちの負担は楽かも知れないなとも。
「ったく、しゃーねー提督だな」
江風はそう言うと、会場へまた舞い戻る。夕立と白露が起こそうと必死になっているが、荻野は眠り込んでびくともしない。その幸せそうな寝顔が全てを物語っていた。
「起こすのかわいそうだね」
時雨がそう言ってくる。江風はその言葉に苦笑いを返した。
「ったく。五月雨姉貴、毛布持ってきてやってくれねえか。後片付けみんなでやって、このまま寝かしといてやろうぜ」
江風の提案に、その場にいた全員が同意する。川内型はもうみんな退席していたから、姉妹艦ばかりだ。
「よし。じゃあさっさと片付けて、お開きにしよう」
時雨がそう言うと、全員が一斉に動き出す。五月雨は涼風を誘って毛布を三枚持ってきた。白露たちは宴の後片付け、食器洗い、卓を片付けたりと全員が動く。小一時間で、宴の会場はいつもの大広間に戻っていた。荻野が眠りこけている卓だけが、ぽつんと残されている。
「じゃあ、これで歓迎会と祝勝会はお開き。明日からまた通常勤務よろしくね」
時雨はそう言って、解散させる。ばらばらと全員が大広間をあとにしだした。
「時雨姉貴はどうするんだ?」
荻野の毛布をかけ直す時雨に、江風はそう声をかける。時雨は顔を上げた。
「僕は提督が起きるまでここにいるよ。起きたところでまだここの様子がよくわかってないみたいだし、毛布まだあまってるしね」
時雨はさも当たり前というような自然な笑顔でそう言う。江風は苦笑いを浮かべるしかない。
「じゃあ、江風も付き合うぜ。姉貴一人じゃ退屈だろうし、話し相手くらいにはなれるぜ」
「姉さん、海風も」
江風と海風がそう言うのを時雨は制する。
「海風はいいよ。春雨と二人で殆ど準備してくれたんだし、今日は休みなよ。話し相手だけなら、なんにもしてない江風で十分」
「力仕事は手伝ったぜ、姉貴」
時雨の言いぐさに、江風は苦笑いを浮かべる。だが、その時雨の砕けた笑顔に安心感も覚えるのだ。
「じゃあ…。江風、姉さんのことよろしくね」
「任しとけって」
「じゃあ、お休みなさい」
ほんの少し心配そうな顔を残して、海風は大広間を出て行く。江風は時雨に何も言わずに電灯を落とした。部屋の中は、月光が差し込むだけの暗さに変わる。
「なんか安心したね。厳しい人じゃなくて」
時雨は壁にもたれて腰を下ろすと、隣に腰を下ろそうとしている江風にそう呟いた。江風は、その時雨に頷く。
「その分、秘書艦は大変そうだぜ、姉貴。この提督フォローすんのはよ」
「それはそうかもね」
時雨は楽しそうに小さく笑う。そう言った笑顔を見て、江風の気持ちもほぐれてきた。ああ、この提督なら、悪いことにはならないかなと。見守るだけでいいのかなと。
「江風、色々と心配してくれてありがとう」
「たいしたことじゃねえよ。姉貴が一人で頑張ってるから、支えてやンなきゃって思っただけで」
江風は立てた膝に顔を埋める。時雨の言葉は心地よく、そうして照れくさい。それから、無言の状態が続く。波の音が岸壁から届いていた。ふと振り向くと、時雨はいつの間にか眠っている。ついこの間まで、寝付きが悪かったはずなのに。江風は毛布を持ってくると、時雨にかけてやった。
「これで、良かったんだな、姉貴」
月明かりに照らされた時雨の寝顔に、江風はそう呟いた。