艦これ その海の向こうに明日を探して   作:忍恭弥

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雨の向こうの闇

 賑やかな時間を鎮守府にまき散らしていた夕立も、昼食後には出発したらしく、夜の鎮守府は静寂が訪れていた。

「いつもなら川内さんがそろそろ賑やかになる頃なんだけど、今日は川内型三隻で訓練兼ねた船団護衛に出てるから、今日は静かよ」

 苦笑いを浮かべながら、五月雨が言う。全員寝間着に着替え、二十四駆の部屋はもうすっかりとくつろぎモードだ。そんな中、江風が立ち上がる。

「どこ行くの、江風?」

「寝る前に水飲んでくるわ」

 気づいて声をかけてきた海風にそう笑顔を向けておいて、江風は部屋を出て行く。今日来たばかりの建物の中の構造はまだ全部頭には入っていない。江風は迷いながら給湯室へたどり着くと、備え付けのコップで水を飲んだ。

「さて、こっからどうやって戻るんだっけ…?」

 照明の落ちた廊下は夕方と全く風景が違う。自分たちの部屋が二階だと言うことはわかっているが、階段からどうやって来たかは全く覚えていない。

「テキトーに歩いてりゃその内帰れるかな」

 そう呟くと、江風は歩き出した。中途半端な灯は闇を深くするとはよく言ったもので、外の照明が廊下を返って暗く見せていた。その中を、まるで夜戦の海を楽しむように江風はリズミカルに歩いてく。その途中、微かな悲鳴のようなものが江風の耳に届く。

「悲鳴? 誰のだ…?」

 江風は声が聞こえた方へ歩いていく。続けてまた、呻くような掠れた声が小さく届く。

「…時雨姉貴?」

 江風は声の主を確信して急ぐ。灯の漏れるドアの上には「司令室」の表札がかかっている。

「時雨姉貴!?」

 江風はドアをノックもせずに開ける。その瞬間、足元に時雨が倒れ込んできた。

「姉貴!?」

「江風!?」

 時雨は声のした方を見上げて驚く。その頬は腫れ、唇の端が切れていた。丁寧に結っていた三つ編みも乱れて解けかかっている。

「なにをしに来た!」

 倒れ込んだ時雨越しに、佐々木が仁王立ちになっている。江風は思わず息をのんだ。夕方とは比べものにならないくらいの威圧感が江風を襲う。その右腕が振り上げられたのを見て、江風は思わず目を瞑ってしまった。時雨の状態を見れば、殴られると思うのは自然な感情だ。

「提督!」

 時雨の声に江風がそっと目を開けると、時雨は立ち上がって、江風を庇うように両手を広げ、佐々木に立ち塞がっていた。佐々木の右手は時雨の頬に当たり、時雨はまたそのまま倒れ込んだ。

「姉貴!」

「いいんだよ。迷ったんだろ? 部屋まで送るよ」

 時雨は軽く唇の端の血を拭うと、何事もなかったように立ち上がり、江風の肩を軽く叩く。そうして、佐々木を振り向いた。

「提督、いいよね?」

「勝手にしろ」

 時雨の声に、佐々木は舌打ちしてからそう言い放つ。時雨は「すぐに戻るよ」というと、呆然とする江風をエスコートして部屋を出た。江風には、どう見ても異常な光景にしか見えない。秘書艦を殴打する提督。それに抗しない秘書艦。

「…姉貴、なにがあったンだ?」

 部屋を出てすぐに、江風は時雨にそう聞く。赤く腫らした頬に拭っても出血が止まらない唇は見ていて辛いものだった。

「提督とは色々あってね」

 時雨は苦笑いを浮かべながらそう言うと、いつもの穏やかな表情で前を向く。

「色々って…」

「色々だよ」

 それ以上聞かせない穏やかな口調で、時雨はそう言う。目の前に透明な壁を立てられたような気がして、江風はそれ以上聞けなかった。

「明日昼の内にでももう一回見て回るといいよ」

「…ありがと、姉貴」

 江風がそう言うのを確認して、時雨は笑顔で軽く手を振って戻っていく。江風は、その姿が廊下の角を曲がるまで立ち尽くしていた。

「五月雨姉貴、涼風…。ここの鎮守府はどうなってンだ…?」

 江風は部屋に戻ると、思わず先任である二隻にそう聞いてしまう。江風の辛そうな表情に、五月雨も涼風も驚いたあと俯いてしまった。ドアの外から聞こえていたのが時雨の声だったから、江風が遭遇した事態を察していた。

「なにがあったの、江風?」

 状況が理解できない海風だけが、困惑した表情で江風にそう聞く。江風は海風の横に腰を下ろすと、絞り出すように言う。

「時雨姉貴がオッサンに殴られてた。あのオッサン、迷い込んだ江風も殴ろうとしてきたンだけど、時雨姉貴が代わりに殴られてくれた」

 江風の言葉に海風は声が出ない。五月雨と涼風の方を見ると、二隻は俯いたまま沈黙している。

「五月雨姉貴、涼風。ありゃあいったい何だ? 時雨姉貴はいつもあんな目に遭ってンのか…?」

 江風の問いに二隻とも答えない。その沈黙は、否定に見えない。無言の答えが目の前にあった。

「軍令部に通報して、憲兵に…」

「それは、もうやったんだ…。ずいぶん前に…。でも、無視された」

 海風の声に、涼風の小さな声が応える。

「軍令部は、あたいたち艦娘の声なんて聞いちゃくれねえ…。そのあとで、時雨はまた酷い目に遭わされてた」

「そんなことが…」

 涼風の話に、海風は沈痛な表情を向ける。江風は沈黙したままだ。

「その…、時雨…殴られてただけじゃなくて…イヤらしいこともされてるみたいで…」

 五月雨は俯いたままそう言って目を伏せる。

「わたしたちのせいなの…。あの時のわたしたちの練度が低かったばかりに、時雨には…」

「あの時って…?」

「一年前、この鎮守府ができた時さ。当時の白露型は、夕立を除いて全部ここに集められた。その時のあたいと五月雨は、まだ着任したばっかりで、ロクに航行すらできなぐらいだったんだ」

 そう言う涼風に、海風と江風はちらと目を合わせる。

「わたしたちが余りに低い練度で配属されたから、司令はわたしと涼風には艦娘としての期待はしてないって言って、雑用ばっかりさせるようになったの」

「それである日、五月雨が司令に襲われそうになって、その時たまたま居合わせた時雨が…」

「自分を差し出す代わりに、みんなには手を出すなって言ったンだな」

 江風はそう言って、大きく溜息をつく。はらわたがひっくり返りそうだ。横須賀で優しくしてくれた木村が特別なのかと勘ぐってすらしまう。

「なンか、時雨姉貴らしいって言うか、馬鹿だよな、姉貴…」

 江風はそう言うと、くしゃくしゃと髪を掻く。時雨の行動の結果、五月雨も涼風も救われたのだろうが、明らかに二隻は姉の時雨に対して引け目を感じてしまっているのだ。それは、庇われた自分も同じだ。それから一年、時雨は時にサンドバックになり、時に慰み者になり、この檻の中で過ごしてきたのだろうと言うことは容易に想像がつく。時雨は姉妹艦や鎮守府の女性全てを人質に取られているようなもので、逆らうことなどできない。

「白露型以外の…例えば川内さんたちはこのこと、知らないの…?」

「多分知らない。あたいたち以外の艦娘の部屋は少し離れてるから、時雨が半軟禁状態にあることも知らないはずさ。大規模作戦で時雨に出撃命令がない限り、時雨はずっと提督の部屋だから」

「そうなのか…」

 海風と江風はまた顔を見合わす。時雨を何とかしてやりたちとは思っても、ことを知っているのは白露型だけで、他の艦娘は知らない。また、より上位の組織である軍令部がこのことを黙殺しているということは、事実上どうすることもできないのだ。

「…今は、時間を稼いでチャンスを待つしかないンだな」

 江風はそう呟く。が、その時間がさらに時雨を苦しめることも知っていた。誰もがこのままでいいとは思っていない。だが、艦娘の兵装は対深海棲艦用のもので、対人兵器としてはオモチャに過ぎない。艤装を装備していればそれなりの力も出るが、人に相対しているときはその出力を抑える制御がされているようで、鍛え上げた成人男子の腕力には敵わない位なのだ。つまり、人と敵対した艦娘には、人としての力しかないと言うことだ。

「江風たちがあのオッサンをここから追い出すには、なにか策を練るしかないンだ」

 そう言う江風の瞳に宿る色は鋭い。海風は、その瞳の強さを見て息を飲んだ。

「江風、無茶は…」

「このまま黙ってオッサンが転属するのを待ってるなンてできねえよ」

 江風は、海風の方を見ずにそう言って口を噤んだ。五月雨と涼風は小さくなるばかりだ。

「ごめん…わたしたちにもっと力があったら…」

 ぽろぽろと涙をこぼしながら、五月雨は握った拳を膝の上で振るわせる。涼風の目も真っ赤だ。二隻を責めたかったわけじゃねえのになと江風はぼんやり思う。自分になにができるのかと。権力もなければ力もない。ある種、この佐世保鎮守府は佐々木の恐怖政治が支配する独裁国家だ。それをひっくり返すにはどうすればいいのか。水戸黄門を待っても、それは物語の中のお話に過ぎない。

「五月雨姉さんと涼風は、演習に出れてるの?」

「洋上に出るのは禁じられてて、あたいたちは陸上の雑用しか振ってもらえてない。訓練も、一年前から全くできてねえんだ」

 涼風は海風にそう答える。それを聞いていた江風は、小さく息をついた。

「江風と海風姉貴は横須賀で夕立姉貴の無茶振りに付き合わされたから、それなりの練度はある。江風たちが強くなって、時雨姉貴を護るしかねえ」

 江風はそう言って五月雨と涼風に頭を下げた。

「五月雨姉貴、涼風、言い難いことを言わせてすまねえ。この江風に時雨姉貴のこと、任してくれねえか」

「江風…」

 江風の言い出したことに、海風は驚いて目を向ける。元々特攻精神旺盛な妹だ。姉としては心配で堪らない。だが、いつも江風は海風の心配の上を行く。手が届かないところで海風は見守ることしかできなかった。

「江風、お願い。時雨を救ってあげて。こんなことしか頼めない情けないお姉ちゃんでごめん…」

「あたいからも頼む。あたいと五月雨は、何もないようにいつものようにしておくから」

 五月雨と涼風も、そう言って江風に頭を下げた。海風だけが困惑してことの成り行きに追いつけない。そんな三隻の様子を見ながら、海風もなにかできないかと思いを巡らせ始めた。


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