雷の王と狼の王
東京にて突然の暴風雨が発生した、その翌日。日本と大陸を遮る大海原の上を、一機の大型旅客機が飛行していた。悠々と飛ぶその鉄の巨体は、何百もの人間を運べる能力をもちながら、しかし、所謂旅行客などは一切収められていない。では、何を運んでいるというのか。
それはたった一人の老人であった。乗組員を除けば、その大きな旅客機にはファーストクラスを一人で占領し、ワイングラスを傾けている老人と、数名の人間しか乗っていない。
無駄、非効率と評するに値する行為だが、しかしその老人はそれの無駄を当然とするだけの資格があった。
サーシャ・デヤンスタール・ヴォバン。ヴォバン侯爵の名で知られている、神殺したるカンピオーネの一人にして、まさに現代を生きる魔王と評すべき人物。それが、かの老人の正体である。
そんな彼の前には、大きなテーブルがあった。その上には高価なワインや、そのつまみとして手の込んだ料理などが並べられている。
そこには一つ、奇妙な点があった。それは、ヴォバンの対面に彼が腰掛けているものと同じソファが設置され、その前には空のワイングラスが準備されているということだ。ヴォバン侯爵を知っている者が見れば、その光景は酷く奇妙に映ることだろう。何せこの魔王が誰かと酒を飲むなど、到底信じられるようなことでは無いからだ。だが現実に、この準備を使用人たちに命じたのは、他ならぬヴォバン本人なのである。
そんな空席のソファを何とも思っていないような目で眺めながら、とてもではないが味わっているとは思えない調子で、ヴォバンは手に持ったワイングラスを傾け、時にテーブルの上の料理に手を伸ばしている。
「……座りたまえ」
そんな中、背後でドアの開閉音がした。それを聞いて、ヴォバンは後方へと目も向けずに淡々とそう告げる。
「では、遠慮なく」
ヴォバンの言葉に対し、若い男の声が返ってきたかと思うと、その次の瞬間には、ヴォバンの対面のソファに一人の青年が腰をかけていた。全てはその青年の権能によるものだと、ヴォバンは知っている。この飛行機に入り込んだのも、事前に何かしらの仕込みをしていたからであろう。
「……さて」
ヴォバンとは比べ物にならないほどに若いその男は、しかしヴォバンの存在に臆するでもなく堂々と足を組む。
「お招き頂きありがとう、ヴォバン侯爵」
「こちらから招いたつもりもないが、受け取っておくとしよう、稲穂秋雅」
最古の魔王たるヴォバンと、新世代の王たる秋雅だが、しかしその年月の差などまるで感じさせない。あくまで対等であると、秋雅の王としての風格は静かにそう告げているようであった。
しかし、それをヴォバンは不快に思うことはない。当然だ。だからこそ、彼はこの王を倒すべき敵と定めたのだから。
「飲み給え。そのためにこのヴォバンが、慣れぬ歓待の準備をしたのだから」
歓待とは言うが、しかし本心からそう思っているはずなどあるわけがない。もっとも、だからと言って、準備された品々に毒が入っているなどということもない。そのような
そういった事を秋雅も理解しているのだろう。ヴォバンの言葉に対し、特に臆する様子もなくゆるりとワインを味わい、料理も軽く口に運ぶ。
「……良い酒と料理だ。貴方には少々もったいないな」
「気に入ったのなら好きに味わうといい」
「そうさせてもらおう」
そう秋雅は返答したものの、しかし手を足の上で組んでヴォバンを見る。本題に入るようだなと、ヴォバンには感じられた。
「しかし、ヴォバン侯爵。此度は何故、日本にまで足を運んだのかな? 私の記憶が確かなら、私達は不可侵の盟約を結んでいたはずなのだが」
「私も、そう記憶している」
「では、何故?」
無表情に、秋雅はヴォバンの顔を見据える。しかし、その瞳には確かに、不快や怒りといったものがあると、ヴォバンにはすぐに分かった。もっとも、その程度でひるむほど、ヴォバンという王は、決して不確かな存在ではない。なんら物怖じすることなく、淡々と言葉を紡ぐ。
「まずは、貴様の国に勝手に入った非礼を詫びよう……しかし、貴様の所領はあの国の西にある、九州とかいう地域だったはず。この程度であらば特に問題もあるまい」
「ほう。では貴方は、同じ事を言って、かの羅濠教主などが納得すると思うのか? ……あまり私を見くびってもらっては困るな」
そう、秋雅は不快そうな表情を浮かべて凄む。そのことに、ヴォバンはむしろ歓喜の表情を僅かに漏らす。
「納得できぬ、か――では、私と一戦交えるかね?」
実のところ、ヴォバンの状態はとてもではないが万全とは言い難い。昨晩の草薙護堂との勝負、それにより消耗した呪力はまだ回復しきってはいない。それどころか、その際に死から免れる為に使った権能、『冥界の黒き竜』の代償として、一ヶ月から二ヶ月程度は呪力の量が大きく制限されている。
ここが飛行機の中というのも問題だ。多少広いとはいえ室内である以上、『貪る群狼』や『死せる従僕の檻』といった、彼が好んで使う権能たちは非常に扱いづらい。
しかし、それでもなおヴォバンは秋雅と戦い、そして本気で勝つという自信があった。有利不利など関係なく、ただ己こそが勝者になると本気で信じている――あるいは、それが当然だと思っている――からこそのカンピオーネであり、だからこそ彼らは神殺しなりえたのだ。
そんな、闘争への渇望を隠しきれていないヴォバンに対し、秋雅はゆっくりと首を横に振る。
「勘違いしないで貰いたい。私がここに来たのは貴方の思惑などを知りたかったというだけで、貴方と矛を交えるために来たのではない。そのことは、貴方にも然りと納得していてもらいたいところだ」
「……ふん」
秋雅の言葉に、ヴォバンは面白くなさそうに鼻を鳴らした後、自身から漏れ出ていた殺気を収める。同時に秋雅に対し、やはりかという思いをヴォバンは得る。
どうしてヴォバンがこういう反応を示すのかというと、実のところ、ヴォバンは秋雅と結んだ不可侵を破棄し、本気で彼と戦いたいという欲求があるからである。
ヴォバンが最初に秋雅と会ったとき、秋雅は何だかんだと理由をつけてヴォバンと不可侵を結ぶ事を受け入れさせた。当初こそ、それで問題ないと思っていたヴォバンであったが、しかしその後に耳に入りだした秋雅の活躍、そして何より彼が時折行ってくる自分に対する妨害活動――ヴォバンの暴君たる行動をそれとなく軽減させる、ヴォバンが望む闘争をさらりと奪うなどだ――によって、ヴォバンは秋雅との闘争を望むようになったのである。
しかし、そうなると彼と結んでいる不可侵の存在が非常に邪魔だ。かといって、一度己が結んだ盟約を道理なく破るなど、ヴォバンのプライドが許すわけもなかった。そのため、ヴォバンは秋雅の妨害の尻尾を掴むことでその道理を得ようとするのだが、これが中々上手くいかない。カンピオーネらしからぬ保身に長けた王だと、ヴォバンは苛立ちと共に心の中で罵ったりしたこともある。
そういった理由で、そちらから不可侵を破るのではなく、秋雅のほうから不可侵を破るようにしようというのが、今のヴォバンの秋雅に対する行動の本線であった。今回のことも、勿論主目的は万里谷祐理の確保であったが、ついでとして、秋雅を怒らせて彼に戦闘の動機を与えようというものがあったのである。
しかし、どうやら失敗したようだとヴォバンは不愉快に思う。彼の予想以上に、稲穂秋雅という王は実に
だが、上手くいかなかったことにこれ以上固執するのは愚かだと、ヴォバンは思考を切り替える。そして、数日前から気になっていたことに対し秋雅に問いかけることにした。
「……ところで、数日前、西の地よりまつろわぬ神の気配を感じたのだが」
「ふむ、流石だな。東京からあれを感じ取るとは。ご察しの通り、私は先日まつろわぬ神を討伐した」
「やはりか。惜しかったな、貴様さえいなければ私が打ち倒したのだが」
こればかりは本心で、ヴォバンは残念そうに言う。まつろわぬ神との戦う機会を得る為に来た場所で、そのまつろわぬ神が顕現したのだから、今すぐにでも向かいたいという欲求を抑えるのは非常に大変であった。流石のヴォバンも、不可侵を結んだ相手である稲穂秋雅が直接治めている地に足を踏み入れるというわけには行かなかったのだ。
「笑えない冗談だ。貴方に暴れられるなど、どれ程の被害が出るか考えたくもない」
「おかしな事を言う。どのような被害を出そうとまつろわぬ神を討つ事こそが、我らの使命というものではないか」
「それは否定しないがな。まつろわぬ神を放置するというわけには行かないのは事実だ……しかし、貴方が使命などとは」
己が欲求を満たしているだけだろう? と秋雅の目はヴォバンに問いかけている。その答えは勿論イエスなのだが、だからと言ってわざわざそうだと言ってやる義理はヴォバンにはない。ただ、口の端をゆがめてみせる程度だ。
それに対し、秋雅は軽く肩をすくめて返す。
「まあ、そこは別にいいか……では、そろそろ私は失礼させてもらう」
話は済んだということだろう。残っていたワインを一気に飲み干した後、秋雅はそうヴォバンに告げる。それに対し、ヴォバンが何か反応を見せるよりも早く、秋雅の姿が消え去る。ついでにワインのボトルと料理が幾らか無くなっていたが、酷くどうでもいいことだったので、ヴォバンは特に気にする素振りを見せることなく、使用者のいなくなったソファを眺めて口を開く。
「このヴォバンに対し、実に不遜な男だ……しかし、だからこそ」
そこから先は口に出すことなく、ヴォバンは自分のワインを一気に呷った。
これで一先ず区切りはついたので、一旦更新は休憩します。別作品との折り合いなどがついたタイミングで、また二章を書いていこうかと。しかし、ヴォバン侯爵の権能って何処で明らかになったんだろうか。特典とかかな? ではまた。