「秋雅さん、バイクはこっちに止めておいて下さい」
「ああ、分かった」
紅葉の指示に従い、秋雅はバイクを草壁家の庭へと運ぶ。一般的な庭付き一戸建てにしても少々広めなその庭を見ると、確かに金銭的な不都合はなかったのだろうと感じられる。そもそも、引っ越したにもかかわらずこのような立派な家を所持し続けたということを考えれば、草壁家が裕福な分類にはいることは間違いないだろう。
しかし、だ。
「委員会の給料だけでこうも出来るものかね」
正史編纂委員会、という組織に密接なかかわりのある秋雅から見ると、そのような事を出来るほど委員会は金払いの良い組織ではないという疑問がある。危険給なども踏まえればそれなりに高給取りにはなるだろうが、しかしそれだけで本当に足りるかと聞かれると首を傾げてしまう。
「……まあ、今はいいか」
結局の所、可能性はいくらでもある。今ここで秋雅が一人で考えたところで正解を導き出せるというものでもない。だったら本命を調べる傍らに、ついでに調べてみれば良いだけの話だ。
「秋雅さん! ちょっと問題が発生したんですけど、来てくれませんか?」
「ああ、今行く」
まずはこっちが先決だ。そう思考を切り替えて、秋雅は自分を呼んでいる紅葉の元へと向かう。
「なんだ?」
「いやその、鍵が……」
「鍵? ……ああ、そうか」
鍵がないのか、と紅葉の反応に、秋雅は今更ながらにその存在を思い出す。失念していた、と軽く頭をかいた後、紅葉に代わって戸の前に立つ。
「ちょっと待っていろ」
そう告げ、秋雅は『解錠』の魔術を使う。正直、あまり使い慣れているわけでもないので、あまり自信はない。失敗したら壊すか、などと考えながら行使したところ、幸いなことに、すぐにかちゃりと鍵が開く音が響く。
「開いたぞ」
「凄いですね。今のも魔術ですか?」
「初歩的なそれだがな」
紅葉の感嘆に、心の内のことなど微塵も表に出さず、なんでもないように玄関の戸を開ける。特に何の変哲もないその玄関に足を踏み入れた所で、秋雅は大きな違和感を覚え、呟く。
「……やはりか」
外に居たときから薄々は感じていたことであるが、どうも家の中に結界の類が張られているようだ。ただ、結界と言っても人の出入りを妨げるようなものではなく、その結界内の呪力の気配などを外に漏らさないようにするようなタイプであるらしい。現に秋雅は何の問題もなく足を踏み入れる事が出来たが、代わりに外からは感じ取れなかった呪力の気配が突然秋雅の近くを刺激し始めている。魔術師の家だから、と言ってしまえば簡単だが、しかしどこか不自然さがあるのもまた事実だ。
「紅葉、君の父親の部屋は何処だ?」
「え? 一階の奥、ここから見て右手の辺りですけど」
その方向は、秋雅が今しがた感じている呪力の発生源と同じ方向だ。やはり、という思いが秋雅の胸中に生まれる。
「ところで、紅葉。君が亡くなった場所についてだが、まだそれに関しては思い出せていないんだよな?」
「はい、すみません」
「いや、責めているわけじゃないんだ」
当然のことながら、紅葉の死の真相を調べるに当たって、秋雅も彼女からいくらか聞き取り調査は既に行っている。ただ、記憶がまだ戻っていないということなのか。彼女が覚えていたのは家で入学の準備を進めていたところまでで、それからどうあって死につながる事件が起きたかについては、未だ闇の中なのだ。
「とりあえず、その父親の部屋から調べてみることとしよう」
「分かりました」
彼女のその特異な体質を踏まえると、その真相の一端が父親の部屋にある可能性はないこともない。そう考えた秋雅はいの一番にそこを調べることに決めた。普通に考えてそこが最も怪しい場所だから、それ以上の理由は必要ないだろう。
そういうわけであるので、紅葉と共にそちらへと向かおうとした秋雅であったのだが、
「……紅葉、ストップだ」
「はい?」
突如、秋雅はその足を止める。突然の制止に首を傾げる紅葉に対し、秋雅は今しがた通り過ぎようとした部屋に目をやりながら口を開く。
「紅葉、この部屋は何の部屋だ?」
「え? 何の変哲もない物置部屋ですけど、それが何か?」
「この部屋に何かある気がする」
特に変を感じ取ったわけではない。だというのに秋雅がそういったのは、彼の中の理屈じゃない部分、所謂勘と呼ばれるものが秋雅にそう囁いたからだ。根拠があるわけではないが、こういう時の自分の勘はよく当たると秋雅は経験則でよく知っている。
だから、秋雅は予定を変更しそのドアのノブを捻る。そうして中を覗きこんでみれば、そこにあるのは確かに紅葉の言う通り、雑多に物が置かれているだけの普通の物置部屋だ。
「……ビンゴ、だな」
秋雅の視線がピタリとその部屋の床へと引き寄せられる。そこから感じられるのは紅葉の父親の部屋から感じられるものよりもさらに強く、そしてより隠匿されている気配のする呪力だ。あちらを『隠されていた』と評すのであれば、こちらは『漏れ出ている』と評するのが正しいだろうか。大きな違いではないと思うかもしれないが、確実にその重要度はこちらの方が大きいと言えよう。
「紅葉、ここに地下室などはあるか?」
「はい? そんなものないはずけど……?」
「なら、君たちには隠されていたということだろうな。まあ、当然の話だが」
膝をつき、秋雅は気配の感じられる周辺の床を探る。すりすりと、素人目には床を撫でているようにしか見えない動きをとる秋雅であったが、
「――これだな」
とても小さい上に薄く、意図して目立たないように描かれた魔法陣を秋雅は発見した。魔法陣は専門ではない――そもそも今の魔術界において魔法陣の専門家自体があまり居ない――秋雅であるが、状況を考えればこの魔法陣の機能など察せるというものだ。
「紅葉、少し下がっていろ」
念のため紅葉を少し下げた後、秋雅は魔法陣に呪力を注ぎ込む。物が非常に小さな魔法陣であるのであまり呪力を注ぎ込み過ぎないようにして――それでも、全体量の都合上随分と多い呪力を注ぎ込んでしまったが――秋雅は魔法陣を起動させる。
同時、秋雅のすぐ隣の床の一部がふっと姿を消し、代わりに下へと続く階段が現れる。おそらくは魔術により元々あった床を一時的に消しているのであろう。それほど大きな物ではなく、一度に通れるのは一人といった程度の階段だ。
「これって……」
「気配が強くなったか。この先で間違いなさそうだな。紅葉、君は――」
よりいっそう強くなった、呪力の気配。地下から感じられるそれに確信を抱きつつ、背後にいる紅葉に指示を出そうと秋雅は振り返る。
しかし、
「――紅葉?」
明らかに、紅葉の様子がおかしい。その目は焦点を結んでおらず、虚ろに地下への入り口を見つめている。
「ここは…………」
何事かを呟いて、紅葉はふらふらと地下への階段に足を進める。その足どりはおぼついておらず、見るからに危なっかしい。
「紅葉、待て!」
だから、当然のように秋雅は彼女へと手を伸ばす。しかし、その手は虚しく空をきった。目測を誤った、というわけではなく、紅葉が実体化を解いている為だ。おそらくは無意識、というか実体化を維持しようという思考自体が抜け落ちてしまっている、ということなのだろう。どう見ても、紅葉の意識は秋雅に向いていない。
「私は……あの日……」
ぶつぶつと何かを呟きながら、紅葉は怪しい足取りで階段を降りていく。時折、思い出したかのように紅葉の身体は実体化し、そして実体を失うということを繰り返す。そんな状態でも見かけ上はきちんと階段を踏み降りているように見える様は些か滑稽でもあったが、それを笑う余裕は秋雅にはない。
「ちっ、迂闊に手は出せんか……!」
タイミングを見て引き止めようにも、実体化とその解除のタイミングを見誤り、彼女の身体の中に秋雅の腕なりがあるときに実体化をされてしまった場合、何が起こるか分からない。その所為で、秋雅は歯噛みしつつ彼女が階段を降りていく様子を見守ることしか出来ない。
「着いていくしかないというのは、実に気に入らないが……」
仕方がない、と秋雅は紅葉の後に続き階段を降りていく。本来であれば自分こそが先導すべき立場であるという事、そして何よりも、こうなる可能性を少しでも考える事が出来なかったという事が、秋雅にとって実に不愉快極まりないことであり、そして後悔すべきことであった。
「父さんが……あの中心で…………私は……」
ぶつぶつと呟きながら階段を降りていく紅葉に続き、秋雅もまた地下へと歩みを進める。思いの外深いその階段の壁には、所々照明が取り付けられており、入り口の開閉に連動して点灯したのか、神妙な表情で降りていく秋雅の足元に小さな影を生み出している。
「……どうにも、嫌な流れだな」
ぽつりと、前を歩く紅葉を見ながら秋雅が呟く。このまま続ければ何か、紅葉にとって良くない事が起こりそうな予感があった。さらに言えば紅葉の反応から、この先に何があるのか、あるいは何があったのかということが何となく察せてしまうというのも、その予感に拍車をかけている。であるというのに、これから起こるであろう事をただ見ることしかできないという事は、秋雅にとって忸怩たる思いであった。
「まったく……俺は、肝心な所で詰めが甘い」
そう、自身が感じている焦燥を少しでも吐き捨てる。そのぐらいしか、秋雅に出来ることはなかった。
そんな思いを抱えたまま、紅葉の後に続いて階段を降りていた秋雅であったが、その歩みが突然に止まる。前を歩く紅葉のさらに先、そこに階段の途中とは思えない広い床の存在を確認したからだ。十中八九、終着点である秘密の部屋にたどり着いたということなのだろう。
「――チッ」
そして、それを確認したとほぼ同じタイミングで、秋雅は顔をしかめて舌打ちを鳴らす。その理由は、部屋の奥から彼の鼻へと届いた臭いだ。
強烈な腐臭――いや、死臭だ。秋雅が知覚したその臭いは僅かな量であるにもかかわらず不快で、すぐさまにでもこの場を離れたいと反射的に思ってしまうようなものだ。
その、秋雅の額に大きな皺を生ませたその臭い。不本意ながら、これまで何度もかいだことのある臭いだ。その臭いの意味が分からぬほど、秋雅は鈍くなかった。
だから、
「……紅葉」
小さな声で、秋雅は彼女の名前を呼ぶ。
「秋雅さん……」
秋雅の呼びかけに、かすれた声で名を呼び返しながら、紅葉は振り返った。その身体は大きく震えており、秋雅を見つめる彼女の瞳には、確かな絶望の色が見られる。
「秋雅さん…………思い、出したんです」
「紅葉」
「私はあの日、父さんに呼ばれて」
「紅葉」
「呼ばれて、そしてここに来て、私は――」
「――紅葉!!」
叫び、秋雅は紅葉の肩を掴む。実体化が維持されている、ということに何を感じることもなく、先ほどまで触れるのを逡巡していたのはどうだったのかと言わんばかりの勢いで、秋雅は彼女の言葉を遮る。
「もういい、紅葉。状況は理解したから、今は上で待っていろ。ここは俺が――」
「あるんですよ、そこに」
見たくないと言いたげに、秋雅の胸に顔を埋めながら、紅葉は背後を指差す。
「……っ」
紅葉の指につられ、秋雅が視線を向けた先。そこには、部屋の床の中央に大きく描かれた、見たこともない魔法陣がある。
だが、問題なのはそれではない。その魔法陣の中心、そこに在る『もの』こそが、今は重要であった。
「あれは――」
全身を余す所なく腐らせ、辺り一帯に死臭を漂わせている、一つの遺体。その姿に、秋雅は大きく顔をしかめる。
ここが地下で、隔離されていたからであろうか。蝿などはたかっていないものの、その腐り具合はといえばその肉を嫌な色に変色させており、場所によっては骨すらも見えるほどだ。うつ伏せで、その死に顔が見えないことだけが、唯一の救いであると思えるほどに、凄惨な女性の遺体。それが誰のものであるかなど、もはや言うまでもなく分かりきっている。
「……ねえ、秋雅さん」
ぎゅっと、強く秋雅の身体を抱きしめながら、紅葉が口を開く。その声は、ひどく震えていた。
「紅葉……」
震え、怯えている紅葉の身体を、一瞬の逡巡を挟んだ後、秋雅は躊躇いがちに抱きしめ返す。密着し、これ以上ないほどに彼女の存在を感じられるというのにもかかわらず、その身体からは、本来あるはずの鼓動というものが、まるで伝わっては来ない。霊体だから、という理屈以上の、喪失感のようなものがあった。
「……秋雅さん。私は、ここにいます…………いるはず、なんです」
「ああ。確かに君は、今ここにいる」
「それなのに、あそこにも『私』は
「……ああ、そうだな」
ぎゅっと、紅葉はさらに強く秋雅の身体を抱きしめる。その行動は、自分がここにいると、それを必死に証明しようとしているように、秋雅には感じられた。
「『私』を見て、私は忘れていた事を思い出しました。混乱していて、今すぐには話せないことばっかり、たくさん思い出しました」
「そうか」
「そうしたら――私が死んだって実感しちゃったら、急に、怖くなったんです……記憶がなかった時は、そんなことは思わなかったのに」
そう、紅葉は力なく呟いた。
「怖いんです。ここに私は
今にも泣きだしそうな表情を浮かべながら、紅葉は自分を見下ろしている秋雅の顔を見上げる。そんな彼女の視線を、秋雅はじっと受け止めた後、
「――そんなものは、決まっているだろう」
ふっと、柔らかな笑みを浮かべて、秋雅は諭すように言う。
「君は、『草壁紅葉』だ。今ここにいる、稲穂秋雅の従者だ。それ以外の何者でもないし、それ以外の何物にも惑わされる必要はない。今ここにいることこそが、君の存在を証明している。そうじゃないのか?」
「……秋雅さん」
「怯えるなら、俺が守ってやる。不安なら、俺が支えてやる。真っ当じゃない俺でも、そのぐらいは人目を盗んでやってやれる」
だから、と秋雅は困ったように眉を曲げて言う。
「だから、そんな顔をしないでくれ。人が泣く所を見るのは、あんまり好きじゃないんだ。勝手な事を言っているのは、重々承知しているが……」
「……いえ…………ありがとう、ございます」
と、紅葉は再び顔を伏せ、小さな声で呟く。そして、
「……秋雅さん。お願いが、あるんです」
「何だ?」
「あの、『私』を、消し去って欲しいんです。跡形もないほどに、何もなかったかのように」
「……いいのか?」
それは、彼女が生きたという証を、消し去ってしまうということになる。それでもいいのかと問い返す秋雅に、紅葉は彼の胸に顔を埋めながら、
「
「………………分かった」
たっぷりと間をおいて、秋雅は紅葉の頭にポンと手をおきながら言う。
「望みどおり、綺麗さっぱり消し去る。俺たちには、今俺の腕の中にいる、幽霊の女性がいればいい。そうだな?」
「――はい」
じゃあ、と腕の中にあった紅葉を離し、背後の階段の方へとやりながら秋雅は言う。
「君は、上に戻っていろ。俺の電話を貸すから、三津橋に人を連れてここに来るように伝言をしてほしい。魔法陣についてかじった事がある者がいればなお良しと、そう付け加えておいて、な。従者として、俺の命令を実行しろ」
「……分かりました」
少し躊躇うようにした後、紅葉はコクンと頷いて、秋雅が差し出した携帯電話を受け取り、階段を昇っていった。その足音と気配が、十分に遠ざかった事を感じ取って、秋雅は遺体へと向き直る。
「流石に、紅葉の前で『焼く』わけにもいかんからな……」
そんな事を呟きながら、秋雅は一歩二歩と進む。そして、遺体の目の前にまで来たところで、その右腕をゆるりと伸ばす。
「初使用が
口の端を薄く歪ませながら、秋雅は握っていた掌を天井に対し開く。何もない、と思われたその掌に、突如握りこぶし程度の大きさの炎が現れる。
「――焼け、我が望むものだけを」
するり、と傾けた掌の上から、揺らめく炎が滑り落ちる。炎はその形を保ったまま落下を続けていたが、遺体に当たったと同時、その炎は一気に巨大化し、遺体を轟々と焼き尽くさんとする。さらに、炎は勢いを増し、床を舐めるようにして薄く燃え広がり、この部屋を自身で満たそうとした。
だが、そうであるにもかからず。その炎は遺体以外の何も焼かなかった。床に、壁に、天井に、そして秋雅の足元にも確かに燃え広がったというのに、そのいずれもまったくもって、焦げ跡すらつけられていない。
そして、その炎が収まったとき、彼女の遺体は綺麗さっぱり『焼失』していた。先ほどまで在ったはずのそれは、何の痕跡も残さないままに、完全に消え去った。一瞬前まで感じられていたはずの腐臭すらも消え去り、まるで最初から遺体などなかったかのように、『彼女』の痕跡は完全消失していた。
「これで、良かったのだろうか…………」
分からないな、と秋雅は自身に対する問いかけに、そんな風に返すのであった。
間が空いて申し訳ない。難産に加え若干予定と違った内容になりましたが、今回はこれで投稿します。テンポよく行きたい所ですが、次回もあんまり進まなそうなのが、どうにも。戦闘まではまだまだかかりそうです、申し訳ない。