伝説のトレーナーと才色兼備のジムリーダーが行く全国周遊譚 作:OTZ
―2014年 1月1日 午前0時 ハナダシティ ポケモンセンター―
「鐘、これで68回目でしょうか」
「お、ちょうど今。年を越えたな」
レッドはなんとなく流していたテレビの様子を見ながら、そう言った。
彼らは今、ハナダシティに居る。大晦日の17時頃に到着し、年越しそばをソバ屋で食した後、こうしてポケモンセンターの一個室で除夜の鐘の鳴る中、新年を迎えたのである。
「明けましておめでとうございます。本年もよろしくお願いいたします」
エリカは三つ指をついて、レッドに恭しく言う。
「そんなにかしこまらんでも……。まあいいか、こちらこそ宜しく。それにしても外。盛り上がっているなぁ」
外では神社に初詣に行く人、新年のセレモニーを見る人でごった返しており、二人のように屋内にいる人の方が少数派であった。
「私は例年ならばジムトレーナーを引き連れて初詣に行っているのですが……。今回は旅行という事で、氏神様も許してくれましょう」
と、エリカは眉根を寄せ、微笑みながら言う。
「ハハハ……、寛容な事だ。それにしても、いよいよ新年かぁ。去年の今頃こうなるとは思いもしなかったよ」
レッドは少し嬉しそうに言う。
「私も同様ですわ。何しろ、貴方がシロガネ山で籠居しているという事を知ったこと自体が、2月のはじめぐらいでしたもの……」
エリカも思うところは同じようである。
「俺、あの頃は極力人里に降りないで生活してたからな。そういやジムの人たちとかは今年はどうしてるんだ?」
「ナツキさんに全ては任せてありますわ。まあ私抜きで例年どおりやるでしょう。月例報告でのお電話の際もそのようなこと仰せになってましたし」
「そうなのか。まあエリカの部下ならそつなくこなすだろうな」
そう言うとレッドは大きくあくびした。
「さて、明日もあるし、そろそろ寝るかぁ……、おやすみ」
レッドはそう言うと、座っていた椅子から立ち上がり、布団に潜る。
「おやすみなさいませ」
レッドに挨拶した後、エリカも日課である日記をつけて床についた。
―午前8時 ハナダジム前―
レッドは起きてすぐ、カスミに挑む為に、エリカが制止するのも無視してジムにたどり着く。
しかし、そこには出入り口の自動ドアにコート紙で作成された、『謹賀新年』と大きく墨書風に印字された貼り紙があり、そこには更に、3日まで休業する旨が書かれている。
「だから申し上げましたのに……、ジムリーダーだって休む時は休むのですよって。私のジムも4日までは休みにしていますし」
「分かってたんだけどさぁ……、どうも体が急いじゃって」
レッドはそう自らの軽はずみな行動を後悔する。
「もう、仕方ありませんわね。三が日くらいは休んでも宜しいのではないですか?」
「いやぁ。戦闘の勘はできるだけ鍛えないと衰えちまうし……、そうだ、ハナダの洞窟に行ってみるか」
レッドはそう思い立ち、ハナダの洞窟へと向かう。
―午前10時20分 ハナダの洞窟 入口―
「ここは、強いトレーナーのみが」
「はい」
レッドは、番人に対し、32枚のバッジが揃ったケース、それに加えチャンピオンを破った証となるリボンを見せる。
「も……申し訳ない。規則なもので。どうぞ」
そういう訳で二人は、洞窟の中に入る。
「いやー、あの番人の目を回した顔、なかなかに見ものだったな……」
レッドはエリカにそう話しかける。
「32枚のジムバッジを持っている人などそうは会わないでしょうからね。それにしても、ここは初めて来ましたわ。巷間では音に聞く強者の野生ポケモンの棲家とは聞き及んでおりますが……」
エリカは、興味津々な物言いである。
「まあ、俺は三年前、ここに来たんだけどな。実をいうと、一つここには心残りがあるんだ……」
「あら、何ですの?」
エリカは、身を近づけて、興味ありげに尋ねてくる。その様は可愛らしく、つい言ってしまいそうになったが、レッドはなんとか抑えつけて
「ついてくりゃ分かるさ。エリカ、離れるなよ。お前一人の力ではどうにもならんかもしれないからな」
と、エリカにあらかじめ忠告した。
「まあ。私とて一応ジムリーダーですのに」
「いいから。経験者の言葉だぞ」
そういうとエリカは僅かに微笑んで、
「承知いたしましたわ」
と返答した。
こうして二人は、手持ちを活用しつつ、ハナダの洞窟を探索し始めるのであった。
―午後3時 ハナダの洞窟 最奥部―
「あれ?」
レッドは最奥部のとある所で立ち止まり、左右を見る。
不思議に思ったエリカが尋ねると、
「いや、ここに確かここいらにミュウツーというポケモンがいて、あいつにはなかなか骨を折らされてさ」
「ミュウツーって、あの人間による遺伝子研究の被害ポケモンとして知られるあれでしょうか?」
エリカはそれとなく尋ねたが、レッドがそんな事を知るはずもなく、
「あぁそうそう……。そんな奴」
と知ったかをして続ける。
「で、今回こそはと思ってきたんだけど、どうしてたか居ないみたいだな。何があったんだろうか」
「興味深くはありますけれど。もしかしてゴールドさんが捕まえたというのは?」
エリカはそう尋ねたが、レッドはそそくさに
「それはない。ゴールドは確かにここまで来れるほどの実力はあるが、俺ですら一度は持て余した相手だ。俺に負けたあいつが捕まえられるハズがない」
と、あっさりその可能性を否定した。
「それもそうかもしれませんわね」
エリカは合点がいったのか、何も反論しない様子である。
「しかし、それにしても気になりますわね……。明日もう一度来てみましょうか?」
「いや、ここには居ない気がするし、結構大変だからいいよ」
こうして、二人は穴抜けの紐を使って、洞窟の外に出、モヤモヤした心持ちのまま、ハナダに戻った。
―午後3時30分 ハナダシティ 入り口付近―
特に行くあてもないので、自転車屋の跡地を見て懐かしんだりしていると、思いがけない人物に出会った。
「あれ、もしかして、レッドさん?」
話しかけてきた少年は、黄色と黒のツートンカラーの帽子を被っており、レッドやエリカにはすぐに知れた。
「おう、ゴールドか。明けましておめでとう」
「こちらこそ、おめでとうございます! 今年も宜しくお願いします。お二人もイッシュへの時間稼ぎですか?」
ゴールドの尋ねにレッドが答える。
「そうだ。お前はジョウトに居るんじゃ無いのか?」
「ええ、そうです。それで、コガネまで行ったんですけど、正月休みの上に、アカネさんが休暇を取ってお休みしているそうなんで、産休明けの日までカスミさんとゆっくりしようかなーなんて思い、ちょっとカスミ当人には具体的な日時は内緒でここに来ました」
と、喜々としながらゴールドは言葉を紡いだ。
「そうなのか。じゃあ、せっかくだし、俺と戦うよう渡りをつけてくれないか?」
「ええ。久しぶりにやっと会えるのに……」
ゴールドはレッドの提案に難色を示す。
「不躾な頼みだとは思いますわ。ただ、やはりバッジを取るのに早いに越したことはありませんし」
そう言って、エリカがゴールドに視線を送った。そこからは請願の意が取れた。
「うーん……。わかりました。そういうことなら、早い方が良いでしょう。ついてきてくれますか? 案内するので」
そういう訳で、二人はゴールドの導きに従い、カスミ宅まで向かう事となった。
―午後4時 カスミ宅―
「さてと、ここがカスミさんのお家です」
カスミの家は、街の北方に所在する、平屋建ての住宅だった。大きさや設えは一般的な家屋よりは小さく、こじんまりとした佇まいである。
「想像していたよりは、やや落ち着いたお家ですわね」
「ここはカスミさんが一人で住んでいて、あまり家には帰らないから寝床として用意しただけって言ってました。基本的に生活はジムに重きを置いてるみたいで。さて」
そう言ってゴールドは、財布を取り出し、その中から小さなカギを持ち出す。
「合鍵か?」
レッドはそう尋ねる。
「ええ、そういう仲なので」
そう答えながら、ゴールドは鍵穴にカギを差し込み、回そうとした。
しかしどうしたことか、カチッという解錠した音が聞こえない。
「あれ?」
ゴールドは何度も解錠を試みたが、特に手応えを感じることはなかった。
「もしかして、カギを換えられたとか」
エリカがそう推測を立てた。
「この様子だとそうかもしれないですね……。しかしどうしてだろう」
ゴールドは首を傾げたが、こうしていても始まらないと悟ったのか、インターホンを鳴らした。
「カスミさーん! ゴールドだよー!」
大きめな声で、ゴールドはインターホンのマイクに話しかけた。
カチャ、という受話器と取ったと思われる音と共に、聞き覚えのある高い女の声がした。
「えっゴールド!? なんで今……。すぐ出るからそこで待ってて」
そう言うとプツリと通信が絶たれる。マイクの向こうの声からは歓迎の色はあまり伺えず、動揺が現れていた。
「良かったぁ、家に居てくれてて……」
ゴールドは息をついて胸をなでおろし、安堵していた。
換気のためか、窓の音が聞こえた。その後にかすかだが草の踏まれる音も3人の耳に届く。
「なんだかバタバタしてるな」
「何も連絡せずに来てますから、そこはしょうがないですね」
そうこうしていると、すぐに。と言った割には5分ほど待たせて、カスミ当人がドアを開けて姿を現す。
「明けましておめでとう! ゴールド……って、なんでレッドにエリカまで」
カスミは、驚きよりむしろ不快な顔をしていた。服装は水色のカーディガンにジーパンを穿いていたが、ほつれなどの乱れが見え、慌てて着合せている感がある。
「押しかけて申し訳ありません」
レッドはそう言うと一礼をした。
「あ! もしかして挑戦しに来たの?」
カスミは、暫しの間を空けて思い出したかのように言う。
「そうですよ。言いだしっぺそっちですよね? 元日だから受けないとは言わせませんよ」
レッドは、やや語気を強くして言う。
「へー、あんたにしちゃ強気じゃない。いいわ、特別に受けてあげる。前回のようにはいかないから覚悟しなさいね。ゴールド。折角来てくれたのにごめんね」
「いえいえ、大丈夫です」
ゴールドは首を横に振って、そう言う。分かっていたこととはいえ、やはり残念そうな気配は隠せていない。
「あたしと二人が戦っている間、家でくつろいでなさいな。終わったらすぐそっちに向かうから。それじゃあジム開けて待ってるわ。準備整えてから来なさいよ」
そう言ってカスミは立ち去っていく。
ゴールドの激励も受け、二人はジムにへと向かった。
―午後5時15分 ハナダジム―
ジムトレーナーは正月休みのためか全員出ておらず、そのまま最奥部へ通された。カスミは水着に着替えている。
「自己紹介なんかする間でもないわね。あたしの水ポケモンが4年間でどれだけ変わったか、みせてあげるわ! 今年の初笑いは、あんたが負けた時見せる、しょぼくれたナマズンみたいな眼よ!」
と、カスミはレッドを指さしながら言う。カスミの相貌からは一切の気負いが見られず、気力が充溢している。
「口だけじゃないことを祈るばかりですね」
レッドはそう言いながら、モンスターボールを構える。
「退屈はさせないわよ! 行って、スターミー! ゴルダック!」
――
こうして、レッドは一体を失い、エリカはポケモンは失わなかったものの、3体とも半分以上の体力を失うダメージを受けた。
「やるじゃない。レッド……そしてエリカの実力。本物だって認めるわ。本気出せば勝てるって思ってたけど、甘いわね。それ以上の格差があるって事思い知らされたわ。あたしに勝った証として、ブルーバッジ、改めて渡すわ!」
そういうと、カスミはブルーバッジを2つ、二人に差し出す。
「有難うございます」
エリカは、深々とお辞儀をした。
「エリカ、あんたは相変わらずいつもそうね。あーあ、それにしても、新年早々、初笑いどころかここまで力の差を自覚させられるだなんて……。きっと今年は厄年ね」
カスミは、わざとらしくどっかりとジムリーダーの椅子に座り、椅子の脚を浮かせている。
「まあ。これが実力ですから」
レッドはかしこまることなく、カスミを見下ろした。
「なにその態度、腹立つわね……。ま、いいわ。ゴールドの所にもどろっと」
カスミはリーダー席から立ち上がり、立ち去ろうとした。
「カスミさん」
しかし、その前にエリカが声を賭けた。急に呼び止められたので、カスミはややオーバーな所作を見せた後、振り向いた。
「ん? まだ何か用?」
「今回の勝負、記憶の限りではまだ実力を出しきれてないように見受けられたのですが」
「何言ってるのよ。あれが出せる限りよ」
カスミは言葉は平然としていたが、目がやや泳いでおり、核心をつかれた風な挙措をとっている。
「私には随分と急いているように見えたのです。それに、先程お宅に伺った際、気になることがあったのですが」
カスミの相槌をはさんで、エリカはそのまま続ける。
「窓を開けた後、何かをお出しになりませんでしたか?」
「え? いや、何も出してないけど」
言葉の上では繕っているが、不意に聞かれたからか声が少し震えていた。
「左様でございますか。しかし確かに庭草を踏む音が聞こえたのですがね……」
「き、聞き間違いじゃないの?」
「いや。確かにちょっとだけど俺も聞こえたぞ」
レッドがエリカの擁護に入った。
「人んちの音がそんなに気になるの?」
「いえ。それが窓の音がして間を開けずにしたものですから、もし万一のことがあったらと思いますと。ハナダは以前にもロケット団の被害に遭った民家があると聞き及びますし」
カスミはそこから数瞬だけ間を空けて返答する。
「あ、ああ。そういえば年越しだしと思って部屋の模様替えをしてて、外にちょっと家具置いたの。それに、今のハナダはそんな物騒じゃないわよ」
明らかに取り繕った風の答え方だったが、エリカは特に表情を変えなかった。
「左様でございましたか。そういうことならば、良かったです」
「今後、家を新築する計画もあるから、そのあたりも含めて色々してたのよ」
「ゴールドさんとの新居ですか? それはまあめでたい話ですわね」
言葉とは裏腹に、エリカはあくまで社交辞令の表面的な風を崩していない。
「そ。といってもあたしもゴールドも暇って訳じゃないから、まだまだ先の話なんだけど」
「そんな先の話なのに今家具の整理をしていたのですか? 気が早いのですね」
「やでもほら、それでもいらない家具っていうのはあるし」
カスミは未だにしどろもどろに言葉を繋げていたが、ここでエリカは声色を強めた。
「カスミさん。もしかして何かやましいことをなさっているのではないでしょうね?」
「な、何よそれ。言いがかりをつけようっていうの?」
「そうではありません。家の鍵を変えられたことも気になりますわ。ゴールドさんの話を伺った限りでは今日でなくともいつかは来ることはわかっていたのでしょう?」
「そ、それはほら。やっぱ物騒だし、定期的に変えたほうがいいかと思って」
カスミの目は泳いでおり、明らかにその場の思いつきの理由であることが察せられた。
「先程今のハナダはそこまで物騒ではないと仰せになってましたよね? 私には、何かゴールドさんに不意に家に入られたくないという感情から、そうしたようにしか思えないのですが」
「いい加減にしてよ! なんの権利があってあんたがあたしにどうこう言うの?」
カスミは遂に耐えられなくなったのか、声を張り上げて思い切り拒絶の意思を見せた。
「カスミさんからはかねてより奔放な噂を耳にいたしますから。もしかすれば不義をしてるのではないか。もしもそうならば一言ご忠告申し上げたいと思いまして」
「そういうのをおじゃま虫っていうのよ。いいからもう帰って。バッジは渡したんだから、もう用はないでしょ」
そう言ってカスミは今度こそ、憤然として立ち上がり、二人とすれ違おうとした。しかし、その身体は震えており、動揺は隠せていない。
「カスミさん。本当に大概にしておかないと、身を滅ぼしますわよ」
今度はカスミは一切言葉を返さず、遠くへ離れていった。二人もその後に続いてジムを出た。
―午後6時18分 ジム出入り口―
「エリカ。いくらなんでもカスミさんに対して、あれは言い過ぎなんじゃないか? 何か確証でもがあったとか?」
「意地が悪いとは思ってますわ。しかし、ジムリーダーなのですから、あまりふしだらな真似を看過しておけないというだけです。ましてやゴールドさんはお若いのですから……」
等とエリカが言っていると、ジムから少し離れているところにカスミともうひとりの男が居た。
男は何やら手に持っている。キスマークのついたシャツ、それに加え、何枚かの写真と思しき紙である。
「あれ、ゴールドじゃないか」
「帽子を被っていませんから一瞬、誰か分かりませんでしたが、そのようですわね」
何やら話している様子だが、距離のせいで聞こえなかった。
「どうする?」
レッドがエリカに尋ねる。
「ここは様子を見ましょう。なにかあればすぐに」
と、エリカが静観を提案したところで、ゴールドは突如声量をあげる。表情は目をいからせており、従前の好青年ぶりは形を潜め、舌端火を吐いているかのように捲し立てている。
遂にゴールドはすがり寄ったカスミをほんの拍子で、思い切り突き飛ばし、尻もちをつかせた。
「おいおい待てよ! 何があったんだ」
それを見たレッドは矢も盾もたまらず飛び出し、間に入った。
「レッドさんには関係のないことです。放っておいてください」
「こんな派手に突き飛ばしておいて、関係ないも何もあるかよ」
カスミに怪我はないようだが、あまりのことに腰を抜かしており、一直線にゴールドを見据えていた。やがてエリカがカスミの方へ回り、声をかけていた。
「関係ないものは関係ないです」
レッドは埒が明かないと思いつつ、地面を見た。すると、先ごろまでゴールドが持っていた薄水色のシャツが目に入り、それを手に取った。
少し鼻を近づけて嗅いで見ると、わずかに香水の薫りがした。疎いレッドでもすぐに意味するところは理解する。
「これが原因か」
ゴールドはシャツを少し目に入れると、あからさまに視線を逸らした。
「お前いくら腹が立ったからって、手を上げるのはだめだろうよ」
「レッドさんにはわかりませんよね。きっと」
ゴールドはあくまでも説明を拒むつもりである。
「はあ。とりあえず話は終わってるのか?」
ゴールドは黙したままうなずく。
「じゃあお前はもう一旦帰っとけ。カスミさんはこっちでなんとかしておくから」
ゴールドはしばらくカスミのいる方角に目をやり、
「わかりました。よろしくお願いします」
とだけ言って、その場を後にする。何も語らなかったが、ゴールドの背中にはもはや訣別の意しかなかった。
エリカの方も話が終わったようで、カスミはつたない足取りでジムへ戻った。
「で、なんだって?」
「懸念したとおりでしたわ。やはり不義をしていたそうです」
「そうか。ま、ゴールドの気持ちも分からんじゃないが……。もっと別のやり方があるだろう」
「そちらはどうでしたの?」
エリカがレッドに尋ねる。
「大したことは言ってなかったが、まあこのシャツで大体は察したよ」
そう言ってエリカにシャツを手渡す。
「なるほど。おそらくこれと、そこに散らばっている写真が、全ての原因なのでしょうね」
エリカはゴールドの立っていた場所に視線を遣る。なるほどそこには、ゴールドがもっていた写真が散乱している。
「全く、あれだけうつつ抜かしてたくせに、あっさり覚めてしまうもんなんだな」
「それだけ罪深いということです。男女間の不義というのは」
エリカの言葉にはどこか含みがあったが、レッドがそれを感じ取ることはなかった。
「ゴールドのあの様子じゃ、もう終わりだろうな。あの二人」
「そうでしょうね。まあしかし、良い気味ですわ。これで少しはカスミさんも身を正していただければよいのですが」
その後、シャツと写真は適切に処理し、二人はポケモンセンターへ戻った。
―午後9時 ポケモンセンター 312号室―
夕食を食べ終わり、ふたりとも風呂を済ませるとエリカは話があると言って、丸椅子に相対してレッドを座らせた。
「で、なんだ話って」
「私の過去の話です。旅を……いえ、お付き合いを続ける上で話しておくべきかと思いまして」
レッドは相槌を打って、エリカに先をすすめる。
「私はかつて、お付き合いをしている人がいました」
「えっ? いや冗談はよせよな」
「いえ。冗談ではありません。しかし、勘違いをなさらないでください。あくまで女性です。私はいわゆるバイセクシャルなのですわ」
レッドはその言葉に目を見開く。どうとらえたら良いのか測りかねてる顔である。
「幼少のころから基本的に女性ばかりの空間で育ちましたから、成長するにつれて同性にそういう感情を抱くようになって、ジムトレーナーの方々などとその、交わるようになったのです」
彼女は上気した表情で言う。その動静から、レッドにはその意味するところは理解できた。
「それで、貴方と旅をする少し前まではナツメさんと付き合っていまして、深い関係に至りました」
レッドは黙ってエリカの話を聞いていた。一見すると平静に見える。
「しかし、その全ての関係はあなたと旅をする前までに全てを清算しましたわ。ですから、どうか」
エリカが言い終わる前にレッドが口を挟んだ。
「どうして」
「はい」
「どうして今まで黙っていたんだ」
レッドはつとめて平静に言葉を紡いだ。
「いえ。黙っていたのではありません、今まで言う必要がなかったと思っただけですわ。しかし、今回のカスミさんの不義を見るにつけ、そのあたりのことをハッキリさせたほうが良いと思いまして」
エリカの弁解に、レッドは握りこぶしを作って、思い切り机を叩く。バン! と、ともすれば、机に亀裂が入りかねないほどの大音響が室内を揺らした。
「ふざけるなよ。今まで言うチャンスはいくらでもあっただろ」
「そこは、本当に申し訳ないと」
「申し訳ないじゃない。エリカ。お前にとって俺はその程度なのか?」
「私は貴方を傷つけたくはなかったのです」
エリカは激情に駆られているレッドを抑えんと、あくまで冷静な声色で返した。
レッドはしばし間をおいて返す。
「俺は、俺はなぁエリカ。前からそういう答えを知ってたかのような抜け目のなさというか。そういうのが気に食わないんだ」
「えっ」
「俺とエリカは夫婦になるんだろ? なのに、そんな面でも被ってるようなやり方を俺にもするのか?」
レッドは常に抱えていた本音を吐露する。ジョウトの頃でも抱えていたエリカへの感情だったが、ここに来て再燃した。
「私は貴方のことは大切に思っていますわ。ですからこうしてここまで貴方と旅を続けているのです」
「そうじゃない、そうじゃないんだよエリカ。そんなに思ってるなら、話せるタイミングはいつでもあったろうと言ってる」
「ですからそれは」
レッドはエリカが言葉をつなげようとした所で立ち上がり、彼女の肩を強く掴む。
彼女の表情が少しだけ痛みに歪む。
「何度も言わせるな。俺はお前のむき出しの心が知りたいんだよ」
レッドは力を少し緩め手をそのまま、上腕へ滑らせる。そして少しだけ腰を低めてエリカに目線を合わせた。レッドの眼には炯々と怒りの炎が灯っている。
心なしかエリカの頬は上気しきっており、掴む手には高い体温が伝わる。レッドの鼻孔にも仄かな熱れと薫りが入っていった。
「ナ、ナツメさんにこの間言われたのです。貴方には、そういう事も話しておいたほうが良いと」
「ナツメさんから?」
「はい。それ故に、正直にお話ししたまでのことです」
「……」
レッドは黙したままエリカの肩を掴み続けた。彼女の眼や動静から嘘ではないことをようやくレッドは汲み取った。
「つ……ッ!」
エリカの表情がにわかに痛みに歪んだ。どうやら知らぬ間に力が入っていたようだ。
「悪い」
そう言ってレッドはようやく、ゆっくりと肩から手を離した。
「いえ。私に責がありますから」
「頭冷やしてくる。今日はそうだな……、野宿させてもらうわ。独りにさせてくれ」
そう言って、レッドはリュックを背負って部屋を出ていった。
「待っ……」
エリカが静止するのも聞かずに、レッドは玄関のドアを閉めた。
―午後11時12分 ハナダシティ郊外 森林―
飛び出したものの、レッドは薪を拾い上げながら、宛もなく野宿のための場所をさがしていた。そうしていると、やや開けた場所にさしかかり、焚き火が上がっているのを確認した。
「すみません、焚き木を持ってきたので、場所を借りてもいいですか」
「ああ、良いですよ。どうぞそのへんに」
と、その人物は快く場所を譲った。聞き覚えのある声だと思って、レッドは薪を差し入れるついでに当人の顔をうかがった。
「あれ。ゴールドじゃないか」
「レッドさんじゃないですか。どうしてここに……」
レッドはゴールドへここに来たあらましをかいつまんで説明し始めた。ゴールドはレッドの焚き木を焚べながら静かに聞く。
「あいつはな。俺に黙って、ジムトレーナーと通じていたんだよ」
「え……?」
ゴールドはそれを聞くと、焚べる手を止めた。その眼には自分に話してよかったのかという困惑が宿っていることをレッドは読み取る。
「いいんだよ。エリカもそれくらいのことは覚悟して話したはずだ」
「そ、そうですか」
そう言って、ゴールドは再び焚き木を手に取った。
全てを話し終えると、レッドは前もって差し出されていた緑茶をあおった。
「奇遇にも、レッドさんも同じようなことになっていたんですね……」
「お前は今浮気されたんだし、事情は違うと思うけど」
「でも、エリカさんのそういうところが許せないから飛び出したんでしょう?」
そういうと、レッドは帽子を目深にかぶりなおした。
「僕も、レッドさんの気持ちは分かります。けれどやっぱり」
ゴールドは自分の分の飲み物が入った水筒から、緑茶を注ぐ。
「羨ましいですよ。僕はレッドさんが」
「え?」
「カス……、カスミさんは、僕に黙って関係を絶たず、ズルズルと何ヶ月も家に連れ込んでいたんですよ? そんなのどう考えても不誠実だし、僕自身のことを軽く見てる証じゃないですか」
レッドは黙ってゴールドの言葉を聞く。
「僕が彼女のためにしてあげたこと、されたことはとても多かった。でも、彼女はその口で、同じことを他の男に」
「そのへんにしとけ」
明らかにゴールドがヒートアップしている様が見て取れたのでレッドは静止を求めた。また前のようにあんな様で口角泡を飛ばされでもしたら事である。
ゴールドは不興顔で緑茶を飲んだ。
「でも、レッドさん。あなたは違う。エリカさんは誠実だからこそ関係を全て精算したし、大事に思っているからこそレッドさんに全てを話したはずです。まだ……、まだやり直せるはずですよ」
「そうか」
レッドはそう言いながら、焚き火の火を見つめていた。
「僕たちは恐らくもうダメです。正直、彼女からまたどれほど迫られても、もう前のようにとは行ける気がしない。でも、レッドさんとエリカさんはずっとここまで連れ添ってきたわけじゃないですか。それをここで終わらせられるのは……嫌です」
「随分と庇うな」
「エリカさんには、テンガン山でも色々と助けていただきましたから……。後味悪いんですよ。これだとまるで僕らが背中を押したみたいで」
「俺にはないのかよ」
レッドは軽く笑いながら言う。
「え……ああいや、それはまあ」
「わかったよ。一晩よく寝て考えてみる。おやすみ」
そういってレッドはリュックから寝袋を取り出し、寝る準備をはじめた。
ゴールドも、レッドが寝入ったのを見て焚き火の後始末を行い、張ったテントに入っていく。
―1月2日 午前8時 ポケモンセンター―
レッドはゴールドと朝食を食べた後に、礼を言って立ち去り、宿としていた部屋に向かった。しかし、中は既にもぬけの殻となっており、続いてカウンターにエリカのことを尋ねた。
「ああ、お連れの方でしたら、ハナダの洞窟に行くのでもし来たら、そのように伝えてほしいと」
「え!? ああ、そうですか……」
レッドは居ても経ってもいられず、ポケモンセンターを飛び出した。
―屋外―
「あのバカがっ。一人でいって無事で済むと思ってんのか!」
外に出ると、虚空に思わずそう毒づいて、リザードンを繰り出す。
そのまま、背中にのって低空からエリカの姿を探した。
昨日いった道筋をたどるとすぐに姿が見えたので、地上に降りてエリカに話しかける。
―午前8時33分 ハナダシティ郊外―
「エリカ!」
「あっ……」
エリカはレッドの声を聞くとすぐに振り返り、レッドを見る。その表情はやや思い詰めている感がある。
「お前、一人であの洞窟行くって」
「どうしても、ミュウツーの居所が気になりまして」
エリカはすぐに返したが、どこか取ってつけた風な印象がある。
「だからって、お前だけでなんて。あの洞窟のポケモンの強さはわかってるだろ!?」
「し、しかし、貴方は昨日出て行ってしまわれましたし」
「バカだなぁ……。お前は本当に。俺がそんなことで見捨てると思ってたのかよ!」
そう言って、レッドはエリカを強く抱きしめた。
「エリカは、俺が守るんだ。守ってやらないと俺自身が許せないんだよ」
「貴方……」
「悪かったよエリカ。昨日のことは俺の浅はかさだった」
その言葉を聞くとエリカは得たりとばかりに破顔し、ゆっくりと微笑んだ。
「来て、くださると思っていましたわ」
「えっ」
レッドは抱き寄せるのをやめて、エリカの顔を見る。
「実は昨日、あの後、アカネさんから電話がかかってまして、あちらの用を済ませた後、どうすれば良いか相談したところ、このようにすれば思いを確かめられると伺ったものですから」
「ア……、アカネさんがそんなことを」
「勿論、ハナダの洞窟に行くと行ったあたりは私の創作ですけれどね、きっと貴方ならば私の身を案じて駆けつけてきてくださると思ったのです」
レッドはそれを聞くと静かに笑った。
「全く、してやられたな……。結局俺は、未だエリカのことが、思いを捨てられないみたいだ」
「私は依然として貴方を想い続けております。昨日の事を踏まえたうえで、貴方が受け止めていただけるならば、この旅路を続けていきたいです」
エリカはしっかりとレッドの眼を見すえ、明瞭な声色でレッドに伝えた。それが純真なものであることはレッドでも推察できた。
「わかった。だが俺もそこまで単純じゃないからな。すぐに全てを……ってわけにはいかないが、お前と一緒に旅を続けていくよ。お前を守ってやると決めたばかりだしな」
そう言ってレッドはエリカに手を差し出し、エリカはそれをすかさず握り返す。これでひとまずは全てが落着した。
――
こうして、ハナダジムを制覇した二人は、カスミの不倫劇を受けた悶着を経た後、次のジムのある街、クチバシティへと向かう。
ハナダシティを出発したレッドとエリカは、人混みを嫌って地下通路経由でクチバシティに到着した。
―1月4日 午後1時 クチバシティ―
三が日を過ぎ、人々が日常の生活に戻りつつあった1月4日。
しかし、ここクチバシティは正月などあったものではなく、平常運航である。船は正月であろうと休むことなくクチバ港に錨を下ろし、荷の積み下ろしや、取り扱いを続けているからだ。
そんな最中、二人はクチバシティの入り口に立った。
「相変わらず、異国情緒漂う街ですわ。こういう街も良いものですわね」
とエリカが感傷に浸っている傍ら、レッドは南東の丘を見ている。
4年前にビルを建てようとしていたおじさんが居たことを思い出して、ああ、まだ地ならしを続けていると懐かしみに触れていた。
「貴方、何故、そちらを見ているのです?」
「いんや、少し思い出したことがあってだな……。それはそうとジムに行くか」
と、レッドは歩み始める。
「マチスさんですか……、あまり好ましからざる方ですが、仕方ありませんわね」
彼女はそうぽつりと呟くと、少し遅れてレッドの後を追う。
―同日 午後1時32分 クチバジム―
「うわ、相変わらずの電気仕掛け……」
レッドは、遠くにあった電気バリアの通る白いプラズマを見てげんなりとしている。
「あら、一時期故障したというお話も伺ったのですが……。仕方ありませんわね」
という訳で、トレーナーを一応倒しながら、ゴミ箱をあさってスイッチを探した。
汚れ仕事を嫌うエリカはやらず、すべてレッド自身で漁ったことは説明するまでもない。
―午後2時30分―
ジムの仕掛けをどうにか突破し、マチスの所にたどり着く。
マチスは迷彩の軍服を着ており、相も変わらずのハイテンションで話しかけてきた。
「ウェルカム! よく来たネ!」
「お久しぶりです」
レッドはマチスに対しては、敵対心は無く、むしろ好意的な印象を持っていたので明瞭に応答する。
一方のエリカは、愛想笑いに徹していた。
「ミー、あれからハードプラクティスしたネ! ユーにビクトリーするために!」
相変わらずの英語混じりの日本語を話すが、相手を選んでくれてるのか、レッドでも理解できるレベルの英語をマチスは喋っている。
「そのリザルト! ミーは」
「おい、エリカ、リザルトって何だ?」
しかし、時々わからない単語が出て来た時、エリカに耳打ちをしていた。
「Result……、結果。ですわ」
「ヘイ、ミスターレッド。イングリッシュはノーグッド?」
ノーグッド……、グッドのノーなんだから良くないという意味だろうと、少し考えたレッドは、正直に
「イエス」
と答える。レッド自身、英語を聞くのはマチスやメリッサ等を除けば小学校以来である。
「Hmm……、ミスエリカ。Do you speak english?」
マチスはわざと、クセのある喋り方で話す。どれくらい英語を話せるか試しているのだろう。
エリカはメリッサの時の失敗もあって、ややためらってはいたが、
「A little.」
と、気だるそうではあるが、非常に明瞭な発音で返す。これにはマチスも十分納得して、
「Oh! That's intelligible pronunciation.Excellent!」
と、エリカを褒め称えている。littleと控えめな表現だったが、やり取りから実力があることは、マチスも承知したようである。
「おい、なんて言ったんだマチスさんは」
「どうやらかなりお気に召したようですわ」
「ソレだけ出来ればGoodだネ! もし、ミスターレッドが、困っていたら、translateしてあげてネ!」
エクセレントという言葉に、レッドが首をかしげていたのを見ていたマチスは、簡単な言葉に言い換えてくれたようだ。
「Of course.I will do as much as I can right.」
そう言ってエリカは締めくくった。無論、愛想笑いである。マチスはさらに深くうなずいて続ける。
「ミーのポケモンはフォーイヤーズアゴーよりも、ベリーストロングになったネ! ミーのエボルブしたポケモン、それにアーッドしてミーのエレクトリックなタクティックスにオノノクがいいネ! Go! マルマイン!、ジバコイル!」
―――――――――――
こうして、レッドは二体を、エリカは一体失って勝利した。
「Oh! you guysの強さ、トルゥース! That's undoubtedly it.ネ! それを認めた証として、オレンジバッジ、ヤルヨ!」
マチスは、オレンジバッジを二枚渡す。
「Appreciate.」
エリカは英語バージョンで謝意を伝え、深々とお辞儀をする。
「フーッ、As you excellent! Your command of English is marvelous!」
マチスがかなりベタ褒めをしていることは、その動静から明らかである。何を言っているか全くわからないレッドでも、すぐにそれは伺いしれた。
「Oh,sorry.ミスターレッド。ユーのパワーはモアGoodダネ! ここまでトレーニングしたポケモンたちをオールキルするだなんてネ! これからも、ガンバれヨー! Do your best!」
そう言って、マチスは満足したように二人を見送る。最後の言葉はレッドでも分かっていたので、少し嬉しくなっていた。
―ジムの外―
「はぁ……、相変わらずの暑苦しさでしたわ……」
エリカは、ジムの外から出ると、早速毒づいた。
「しかしたまげたなあ……、お前本当に、あそこまで英語喋れるなんて。つかお前嫌いと言っていた割には、割と後半は嬉しそうに話していなかったか……?」
レッドは感心して、エリカを褒めたと同時に疑問をぶつけた。
「これが出来なくてはタマムシ大に入れませんから。しかしあそこまで褒められるだなんて……。メリッサさんの時にはやや自信を失いましたが、ここでは通じたもので、それでついつい、自分でも認めたくないのですが……その、嬉しくなってしまいまして」
エリカは、嫌いな相手に褒められて、うれしくなっていた自分を少し悔いているようだ。
「まあほめられりゃ誰でもそうなるさ。さて、次はとうとうお前の所か」
「そうですわね。せっかくですから私の家にも来ていただきたいですし、先に申し入れておきますわね」
「そ、そうか。しかし遂にエリカの家か……。やっぱ身構えるな」
そう言っているのを傍らに、エリカはポケッチで家の人間に近日中に行くことを伝える。
その後、二人はヤマブキシティを経由して、タマムシへ向かった。
―1月6日 午前9時 タマムシシティ―
「ヤマブキもでかい街だったけど、やっぱここもすごいなあ」
タマムシシティはこの国の首都を構成する片割れの街であり、商業地兼住宅地として世界でも有数の繁栄を誇っている。これまでコガネやコトブキなど大きい街は何度か通ったものの、やはりタマムシとヤマブキは首都として別格の威厳と殷賑がある。
大通りには大量の車と人が行き交い、大型の量販店や百貨店などが軒を連ね、半ばやかましいと感じるほどに今日もタマムシはその威光を放っていた。
「そうでしょう。やはり都ですから。この喧騒を聞くとやはり帰ってきた実感が湧きますわね」
「そうか。まあ確かにな」
そう言っていると、大通りの此方の路側帯に、明らかに目立つ大型の高級車が停まっていた。そのすぐ近くには如何にも上質の外套に身を包み、整然とした身なりをした老年の男と、その他にも数人の似た身なりの男達が立っていた。
二人に気づくと、執事はおもむろに近づき、にこやかに出迎える。
「随分と早かったですわね。爺や」
「とんでもございません。久方ぶりのお嬢様のご帰還ともなれば、早すぎるということはありませんからな」
「また一段と歳を重ねたのではなくて?」
「お陰様で最近はすっかり、頭が冬のようになりましてな、年は取りたくないものですわい」
「フフフ……。しかし、相変わらずのようで安堵致しましたわ」
老人はだいぶ薄くなりながらも、整った銀髪の頭を擦りながら、余裕たっぷりにエリカに応対する。エリカがここまで親しげに他人に対して接することはなく、如何にも数十年来の旧知といった間柄である。
「そうかもしかして」
「これは失礼しました。私めはエリカお嬢様の執事長であり、家宰を仰せつかっている者でございます。どうぞお見知りおきを、若旦那様」
そういって執事は臣下の礼を取るかのように、レッドにひざまずき、頭を垂れた。
「えっ……?」
突然若旦那様付けで呼ばれながら、ひざまずかれた応対にどうすればよいかレッドは分からず、立ち尽くすのみであった。
―第三十七話 すれ違いの緒 終―