臨海女子高校 インターハイ翌年 三月十日
麻雀部監督のアレクサンドラ・ヴィントハイムは教員免許も持っており、臨時で英語の教師を務めることもあった。卒業式も終わり、春休みまでの二週間は最後の詰め込み教育で重要な時間だ。アレクサンドラにも結構なコマ数が割り当てられていた。
「ヴィントハイム先生」
三時間目の授業に向かう廊下で、校長に呼び止められた。もうすぐ始業ベルが鳴るので要件は手短に願いたいものだ。
「校長、いかがなされましたか?」
「先生にお客様がお見えです」
「と言われましても……私はまもなくE組の授業なので」
「ご安心ください。そちらは別の先生を手配してあります」
「客人とは、どなたですか?」
校長の顔が
「先生もご面識があると思います。少なくとも彼はそう言っていました」
「……」
彼と言ったからには男性なのは確かだろう。しかし、アレクサンドラには心当たりがなかった。
「すみません。名前は明かさないでほしいと言われまして……」
「どちらですか?」
「校長室です。一緒にまいりましょう」
「……」
一階の一番奥にある校長室までの間、アレクサンドラはいくつかの推測をしていた。逼迫している教師の労働環境を無視してまでアレクサンドラを引き留め、学校校長という地位の人間を萎縮させる人間。ならばよほどの重要人物でなければならない。そして、その人物は自分を知っていると言っていた。
(あいつか……。でも、なんのために?)
校長は自らの城である校長室の前で止まり、「ここからはおひとりで」と言って、隣の教頭室に消えた。
アレクサンドラは形ばかりのノックをする。すると、校長室脇にある専用の応接室ドアが開き、長身で短髪の軍人のような外国人が現れた。
「ミス・ヴィントハイム?」
「ええ」
「そちらの部屋にお入りください。マスターがお待ちです」
粗暴な顔に似合わぬ完璧なキングス・イングリッシュ。思ったとおりだ。この中にいるのはあの男に違いない。
アレクサンドラは軍人に言われたドアを開ける。
中にいたのはあまりにも大きな人間だった。その大きさ故に、通常の応接セットでは役に立たず校長の執務用の席に座っていた。論外な話だが、この男ならば別だ。
「やあ、マジシャン」
その男は、執務机越しでアレクサンドラを二つ名で呼んだ。
「なんの用だ?」
「穏やかにいこうじゃないかマジシャン。とりあえずどこかに座ってくれたまえ。私は、ここからで失礼するよ。そこの応接セットではあまりにも窮屈なのでね」
アレクサンドラはそばにあったキャスター付きの椅子を引き寄せて男の前に座った。そして、改めて、男が来た理由を尋ねる。
「なんの用だと聞いたのだ。ウインダム・コール」
「まあ、慌てずに。私の執事に会ったかね?」
「執事……ボディーガードの間違いでは?」
「適材適所ってやつさ」
ウインダムが呼び鈴を鳴らすと、さきほどの軍人がティーセットをもって来た。
「イギリスでは取引の際にお茶は欠かせないものだよ。その強いカフェインで相手の感覚を麻痺させるためにね」
「取引ならば、私のことをマジシャンなどとは呼ばないはずだよ。何らかの譲歩を引き出そうとするのならばドイツのマナーを重視すべきだと思うがね」
「なるほど。でもね、これはお互いに“WinWin”の話だからね。アメリカ式に言えば“私によし、君によし”ってものさ」
「ひとつ分かったことがある」
「なんだね?」
「私は、心底イギリス人が嫌いなのだ」
「よろしい、それでこそ“マジシャン”だ。世界で唯一アークダンテ親子を破ったアレクサンドラ・ヴィントハイムだよ」
白けた話になったので、互いに紅茶を飲み、場を整えた。
「昔の対戦の話をしに来たわけではあるまい。要件を話せ」
「なぜかね? 君との対戦は少なからず興味を覚えたものだよ?」
「ウインダム・コール……」
アレクサンドラが眉をひそめると、ウインダムは右眉を吊り上げて、皮肉っぽい笑みを浮かべる。これだからイギリス人は嫌いだ。
「今日はネリー・ヴィルサラーゼを引き取りに来た」
「……なんだと」
「小鍛治健夜の情報は?」
「……清澄の監督の件か?」
「率直な感想を聞かせてほしい。小鍛治健夜と宮永咲の融合は脅威ではないかね?」
「それとネリーにどういう関係がある」
「どうやら質問の応酬になってしまったようだね。ひとつずつ解決していこうじゃないか」
ウインダムがティーカップを指差す。お代わりはいるかと聞いている。アレクサンドラは首を振って答えた。それどころではない。ネリーは今年の臨海女子の切り札ともいえる存在だ。断じて渡すわけにはいかない。
「私は脅威だと思っている。健夜と宮永姉妹の融合は好ましくない状況だ。無論、負けるなどとは思っていないがね」
「矛盾しているな。小鍛治の“ニューオーダー”にはあんたも協力していたはずだ」
「そのとおり。だが、結果が想定を超えてしまった」
「……」
この男でもそんなことを考えるのだなと思った。帝王として10年以上トップに君臨し、その間、一度たりとも負けたことがない。その“巨人”ウインダム・コールが極東で発生した特異点に過剰に反応している。
アレクサンドラは少し愉快になった。
「なぜネリーが欲しい?」
「君と同じ考えだからだ」
「……宮永咲を倒せるのはネリーしかいない」
「少し違うね。私はこう考える。ネリー・ヴィルサラーゼは宮永咲を倒せる確率が高い」
「……他の存在を暗示しているな」
小さくノックして、ウインダムの“軍人執事”が代わりの紅茶をもってきた。頼んではいないが、アレクサンドラの分も用意されている。
「どうかねネリー君の件は? 彼女を私のルークとして迎えたい」
ウインダムはとどいたばかりの紅茶を飲んだ。適度な温度だったらしく、満足げな笑みを浮かべている。
「私の宝であるネリーを渡すなど考えたこともない。それともなにか? さっき“WinWin”と言ったが、ネリーに匹敵するような見返りがあるとでも言うのか?」
「君に私のビショップをお貸ししよう」
「ビショップ?」
ウインダムは、その質問には答えずに、呼び鈴を2回鳴らす。
さきほどよりも小さなノック音。ということは、これから入ってくるのは“軍人執事”ではない。
「入りたまえ」
ウインダムが大きな声で指示すると、ドアがゆっくりと開き、金髪の少女が入ってきた。歩き方が少したどたどしいが、その
しかし――
「君は迷っているね“マジシャン”」
「……」
「私のビショップの顔は知っている。だが、決定的な違いがある」
「……」
――そのとおりだ。もしも、目の前にいるのがその人物ならば、彼女は車いすに乗っていなければならない。
少女はアレクサンドラの前で止まり、小さくお辞儀をした。
「初めまして、ミナモ・オールドフィールドといいます」
「ミナモ……オールドフィールド」
それがアレクサンドラのできる精一杯の反応だった。第三の宮永であるミナモ・オールドフィールドの名を
「歩けるように……なったのか?」
「まだリハビリが終わっていないが、日常的には不自由はない。どうかね? ミナモでは不足かね?」
アレクサンドラは現実に戻された。そして、いやらしい
「ミナモ、立っていては体に毒だ。そこに座っていなさい」
「はい、マスター」
アレクサンドラは応接セットソファーに座った少女をマジマジと見つめる。間違いなかった。歩けるようになっていたのには驚かされたが、彼女は間違いなく宮永姉妹の従妹であるミナモ・オールドフィールドだ。
「だ、だが、ネリーの意見も聞かなくては……彼女なりにここに
「すまない。もう彼女の了解は取ってある」
「……」
金か? と、喉まで出かかった。しかし、ネリーはジョージアの家族のためにお金を稼ぎたいとよく言っていた。彼女なりに葛藤はあったはずだが、その目的は、何物にも代えがたいだろう。
「言い忘れていたが、ミナモは一年で返してもらう」
「なに?」
「それに、ミナモは咲とは闘わない」
「なにを言っている? それでは取引は成立しないぞ」
ウインダム・コールが笑っている。なんともいやらしい笑い方だ。そして、
「だれよりも咲と対戦した人物は、姉の照を除けばミナモしかいないのではないかね? そのミナモが咲には勝てないというのだから、それは真実だよ」
アレクサンドラは反射的に振り返る。
「ミナモ君……それは本当か?」
「お姉さんには高い確率で勝てます。同じ“ダンテの定理”の使い手ですから。でもサキは違う。彼女は……」
「彼に……ウインダム・コールに近いということか」
「はい」
ミナモは当然のように頷いた。ウインダムに目を戻すと、歯を見せて笑っていた。ふざけるな。どこが“WinWin”なのだ。ミナモは凄まじい強者ではあろうが、結局宮永咲を倒せないのでは、無意味に近い。
「これはどういうジョークだ。ウインダム・コール」
「他の存在の暗示。君はさっきそう言ったね?」
「……」
「そうだ。咲を倒すのはミナモではない」
「だれだというのだ?」
「それはミナモに聞きたまえ」
首を何度も回転させるのが疲れたので、アレクサンドラは席をミナモの真正面の応接セットに移動した。
「私は、ヴィントハイム監督に、咲を倒せる人物をプレゼントします」
「……そ、それは?」
「ノドカ・ハラムラです」
「……それは不可能だよミナモ君。彼女は清澄から引き抜けない。それは分析済だ」
「二人の深い絆は承知しています。だからこそ彼女は臨海に移籍します」
「どうやって?」
「現状ならば、私はノドカには100%勝利できます。そして徹底して私をノドカと対戦させてください」
「……」
ウインダム・コールが立ち上がる。まるで取引は終ったというような行動だ。
「答えは分かったはずだよ“マジシャン”」
「ミナモ君に……宮永照の代わりをさせるということか?」
「必ずそうなる。特に咲は、ミナモへの罪悪感が強いだろうからね。無論、君の手腕の影響も大だよ」
「汚すぎるぞ……ウインダム・コール」
「それは
「……」
「失礼するよ“マジシャン”。精々、徳を積んで心を浄化することだね」
可能性はある。原村和ならば、ミナモと咲の対決を絶対に止めようとするはずだ。あのインターハイ個人戦でそれは証明済みだった。
(三年目か……どうやって原村を引き抜くか……それはミナモ次第か)
ミナモがアイコンタクトを取ってくる。ウインダム・コールよりよっぽどドイツのマナーに精通している。
「それでは」
「ミナモ君」
「はい」
「君は……それでいいのかね?」
ミナモが立ち上がろうとする。バランスを崩しそうになったので、軍人執事が手を添えてサポートする。
「もちろんです」
「……」
かつての宮永照によく似た答え方だった。冷たさを感じるような視線。感情の
二人が部屋から出ていく。最後まで残っていた軍人執事がアレクサンドラに封書を手渡す。
「これで」
「……」
その封書の表書きにはこう書かれていた。
For your eyes only
外から校長の声が聞こえる。どうやら、ウインダム・コールを見送っている様子だ。そして、校長が自室に戻ってきた。アレクサンドラは封筒を内ポケットに入れる。
「ヴィントハイム先生はあの
「はい、二度ほど闘いました」
「それで?」
「完敗でしたよ……二度ともね」
さして興味もなさそうに校長がうなずく。
「校長、今日はこれで退校してもよろしいですか? 今後のことで頭がいっぱいになりました。でも、ネリー君と話がしたいので放課後には戻ってきます」
「……しかたがありませんね」
渋々ながら校長は了承した。人手不足なのはどこの学校でも同じだ。本来なら許可できないはずだが、突然の“巨人”の来訪により、彼も正常な判断ができないようだ。
アレクサンドラは職員室に戻らずに外に出て自分の車に乗り込む。そして封書を開けて便箋を取り出す。イギリスらしい気取った紙質の便箋にかかれていた内容はこうだった。
ディア・アレクサンドラ・ヴィントハイム
今日は貴重な時間を割いてくれてありがとう。
私の提案を気に入ってくれたと思う。少々強引かとは思ったが、互いの得になることなのでごり押しさせてもらった。
ミナモ・オールドフィールドについて、君にお願いがある。というよりは、注意点と言うべきかな。
ミナモは、冷酷そうに振舞ってはいるが、それはかなり無理をしている。
これまでは、足の問題によって、宮永姉妹への闘志や憎悪を維持できていたが、それの回復により、本来の身内への愛情が復活しつつある。
無論、彼女は私に忠実であり、約束を違えることはないと思うが、仲が良かったころを思い出し、心が迷うこともあるだろう。そこをフォローしてあげてほしい。
君の指導者としての腕を評価している。だからこそ、私の右腕たるミナモ・オールドフィールドを君に預けるのだ。
私を失望させないでほしい。彼女は間違いなく宮永姉妹に匹敵する力を持っている。
よろしく頼む。
ウインダム・コール
追伸
これからミナモと共に長野に向かう。彼女が言うには過去を振り切るために、姉妹と過ごした場所をもう一度見ておきたいとのことだ。しかし、過去とはそんな安易なものではない。永久に付きまとうものだ。
いいかねヴィントハイム。ミナモをプライベートでアークダンテ一族に会わせてはならない。ミナモが会いたいと言っても絶対に拒絶してほしい。
それは、お互いに良い結果を残さないからね。覚えておいてほしい。
アレクサンドラは、便箋を封書に戻し、それを二つに破いた。さらに重ねてもう一度破り、何度も何度も、紙吹雪レベルになるまで繰り返した。
あまりにも
(ネリー……私は、お前を、取引の材料として扱った。今日、会ったら、それを正直にお前に話す。軽蔑してくれ、罵倒してくれ、蔑んでくれ……私はそれだけのことをしたのだ。当然の報いだ。だが、一言だけ言わせてほしい。私にとって……お前は……希望そのものだった)
アレクサンドラの脳裏に、ウインダム・コールの言葉が蘇る。
『それは詭弁だ。精々、徳を積んで心を浄化することだね』
同じ過ちを繰り返すのは愚かな人間だ。まさしく自分がそうだろう。汚い心を持ちながら善人のように振舞う。愚かなり。愚かなり我が人生。
目を閉じても涙すら出ない。ならば、覚悟を決めるしかない。この愚かな人生を突き進むのみだ。
次話:最終回