花田煌は、中学の後輩である片岡優希からの要請を受けて、福岡空港に向かっていた。
そこはおおいに馴染みがある場所だった。というのも、煌は、長野に帰省する際には、信州まつもと空港への直通便のある福岡空港を必ず利用していたからだ。
『絶望的な方向音痴である宮永咲がそちらに行くから助けてほしい』
優希からそう頼まれた。かわいい後輩の頼みを無下にはできない。
とはいえ、煌の寮がある北九州から福岡空港までは結構な距離がある。到着時刻を連絡されてから動いては到底間に合わない。そこで煌は、親友である鶴田姫子を誘い、遊びがてら博多でスタンバイすることにした。ここからならば、空港までは電車で5分の距離だった。
煌と姫子は福岡空港に移動した。ただ、優希から連絡のあった咲の到着までは1時間以上時間があるので、空港内のカフェで一休みしている。
「宮永は何時にこけー着くと?」
姫子がやたら長い名前のドリンク(なんとかフラペチーノ)を飲みながら聞いた。
「10時出発ですから、こちらへの到着は12時過ぎですね」
「ふーん、そがんもんなんや。飛行機だけんもっと早かかて思うた。新幹線でも4時間半で東京まで行くっし」
「飛行機は乗るのも降りるのも時間がかかりますしね。東京ならば姫子の言うとおり大差ありません」
「長野は違うと?」
「九州行きの新幹線に乗るには、一度東京に出るか、名古屋に行かなければなりません。その手間と費用を考えると、宮永さんの選んだ空路はベストな選択ですよ」
「なるほどね。佐賀から新幹線に乗るんも苦労すっけんね」
妙な部分でシンパシーを覚えてしまった。それには煌も姫子も苦笑いするしかなかった。
「ばってん、なんか不思議な感じがすっと。宮永咲はうちらが倒すと決めた相手ばい。それば助くっなんてね」
「まあ、昨日の敵は今日の友って言うじゃありませんか。あの子はかわいいですよ」
「花田ん大ファンだしね」
「……姫子、もしも、宮永さんが襲ってきたら助けてくださいね」
「襲うとって、宮永ば熊んごといって」
姫子は笑いながら言っているが、あの出来事は煌にとって一つのトラウマであった。
なにを気に入られたのかは分からないが、咲はインターハイ会場で煌に抱きつき、『いっしょに長野に帰ろう』とまで言った。その理解不能な言動に煌は慌てふためくしかなかった。
「ほんなこつあん子は中学まで無名やったと?」
姫子の唐突な質問に煌は現実に戻される。
「え?」
「花田……」
「そ、そうですね。咲ちゃんどころかお姉さんもまったくでした」
「母親の宮永愛は有名人じゃろう?」
「今ほど麻雀は人気ではありませんでしたし……それに、あの一家は人目を避けるようにしていたのかもしれませんね」
「超英才教育か……そうじゃなきゃあん強さはなかか……」
姫子の腹が鳴り、彼女はその腹を見つめている。時刻は11時20分だった。昼食には少し早いが、腹時計の精度としては誤差と言っても良かった。
「なにか食べますか?」
「そうやなあ、ばってんあんまり時間ん無かし軽かもんにしよう」
「姫子、やりうどんってなんですか?」
「なんや、花田は食べたことがなかと?」
「さっきレストラン街で初めて見ました。なにか長いものが丼からはみ出していました」
「ありゃあ牛蒡ん天ぷら。槍んごと見えるけんやりうどんばい」
「興味がありますね」
「軽うはなかが、すぐしきる。花田、食べてみる?」
「行きましょう、行きましょう」
煌はやりうどんの姿に驚いていた。ゆうに30センチはある牛蒡の天ぷらが丼の上に乗っていた。うどん自体はアゴ出汁が効いており、とても美味しかったが、煌を手こずらせたのは槍のような天ぷらであった。カラッと揚げられた繊維質の牛蒡を食べきるのは一苦労だ。なにしろタイムリミットがあるのだ。煌は慌てて食べて咳き込んでしまった。
「そがん慌てて食べんでん」
姫子が笑って水を差し出す。
煌はそれを受け取り、牛蒡を胃袋に流し込んだ。
「今何時ですか?」
「まだ12時前ばい。もっと落ち着いて」
姫子は食べなれている様子で、もう完食に近い状態だ。
「牛蒡はかき揚げでしか食べたことがありませんので……でもこういうのも美味しいですね」
「長野には珍しか食べ物はなかと?」
「そうですね……天ぷらなら、お饅頭を揚げたりはしますね」
「饅頭? 饅頭って餡子ん入った?」
「そうですよ。長野ではお盆によく食べますよ」
「花田、作ってみんしゃい、うち食べてみたか」
「うーん。私、あんまり料理が得意じゃないし……そうだ、美子先輩に作ってもらいましょう。レシピはあとで聞いておきますよ」
「じゃあ明日で」
「ええー!」
姫子はこちらの了解を得ずに3年生の安河内美子に電話を始める。そのアクティブさに煌は閉口していた。しかし、インターハイ後、少し落ち込んでいた姫子が積極的になるは悪いことではなかった。そう考えると、勝手な振る舞いも笑って許せてしまう。
――宮永咲の乗った飛行機が到着した。とはいえ、電車とは違い、乗客がすぐに降りられるわけではない。手荷物も受け取らなければならず、まだ彼女が到着ロビーに来るのは時間がかかるだろう。飛行機の到着口は北口だったので、煌はそこで待機していた。姫子にはもう一つの到着ロビーである南口に行ってもらっている。なにしろ、相手は予測不可能な宮永咲なのだ。念には念を入れておく。
(12時45分……おかしいですね、いくらなんでも時間がかかりすぎる)
福岡空港の国内ターミナルは頻繁に飛行機が発着するので人の流れは途切れない。煌は咲を見逃さないようにと、目を皿のようにして見張っていたが、いまだに咲は現れなかった。
――スマホが鳴った。姫子からの確認の電話だろう。
『花田、こん便で間違いはなか?』
「松本からは一日数本しかありませんから間違いないですよ。でも、おかしいですね。姫子、こちらに戻ってください。案内所で聞いてみましょう」
『わかった』
数分後、姫子と合流し、空港の案内所に向かうことにした。
非常事態であった。飛行機という移動手段の特性上、咲がこの空港内にいることは確かだが、“魔王”級の方向音痴である彼女の居場所は特定が難しい。
「片岡さんが咲ちゃんにスマホを持たせているそうです。電話で確認してもらいましょう」
煌がスマホを取り出したところ、聞き覚えのある声で呼びかけられた。
「あれ? 花田先輩やなかと? それに鶴田先輩も」
煌たちに声をかけてきたのは、一年生の友清朱里であった。
「友清さん」
「なんでこけーおると?」
「従妹ん見送りで来とった。先輩たちは?」
「……」
「もしかして……宮永咲ちゃんば探しよー?」
「!!」
姫子と顔を見合わせる。
「見たんですか? 咲ちゃんを」
「はい。2階で見ました。ああー咲ちゃんだ。これから帰るとかなーって」
「あ、有難うございました」
「え、ええ」
礼もおざなりにその場を姫子と立ち去った。朱里には後で埋め合わせをしなければならない。しかし、今はこの緊急事態を収めることだ。
「宮永は、どがんして外に出たとやろうか?」
かなり速足で歩いているので、姫子が息を切らしている。
「分かりませんが……見失うと取り返しがつかなくなりそうです。早めに見つけましょう」
「片岡から新幹線ん時間は聞いとー?」
「いいえ、だから焦っているんです」
近いとはいえ、ここから新幹線乗り換えには30分ほどかかる。本当は走りたいのだが、さすがにそれはマナー違反なので慎んでいる。
出発ロビーのある2階へのエスカレーターが見えてきた。
「花田! ありゃあ宮永じゃなかか?」
エスカレーターの下りから特徴的な前髪の少女が降りてきた。間違いなかった。彼女は煌たちが探していた宮永咲だ。
咲はエスカレーターを降りるなり、キャリーバックをガラガラと引きずって全速力でこちらに走ってくる。しかも顔には満面の笑みを浮かべてだ。
煌は視線を逸らさぬように気を付けながら、ジワジワと後ずさりを始めた。
「姫子……宮永さんを止めてください」
「分かった」
咲がどんどん近づいてくる。それこそ森の中で熊に遭遇したような圧迫感だ。だが、咲は自分しか見えてない。横にいる姫子は視界に入っていない。
そして咲は、煌まで数メートルの所で姫子にキャッチされた。
「宮永! 落ち着け」
咲はしばらく手をバタバタさせていたが、見覚えのある姫子の顔を見て我に返っていた。
「あれ……鶴田さんだ」
「……手ば離してんだいじょうぶか? 花田に抱きついたりはせんね?」
「……はい、すみませんでした」
実に可愛らしい少女であった。短めのスカートパンツに水色のTシャツ、肩からは小さなショルダーバッグを下げていた。ただ、煌の記憶にある宮永咲とは一部だけ違っているところがあった。
彼女もそれに気がついたらしく、その目を煌から逸らした。
「でも、どうして花田先輩と鶴田さんがいるんですか?」
彼女に嘘をついても仕方がないので、煌は本当ことを伝えることにした。
「片岡さんと原村さんからの依頼です。宮永さんがここにくるので乗り換えをサポートしてほしいとのことでした」
「わざわざ私のために……どうもすみません」
「ところで宮永、わいはどがんして外に出たと? うちらは出口で見張っとったけど見つけられんやった」
姫子の質問は、かなりコアな佐賀弁なので咲に通じるかなと思ったが、それは心配無用であった。
「実は……やっぱり道に迷っちゃって、一度滑走路に出てしまいまして」
「滑走路!」
どうやったら乗客が滑走路に出られるのか? その謎は永遠に解けないだろう。当然、咲に聞いても無駄なことだ。空間把握能力がほぼゼロの彼女が、それを覚えているはずがない。
「そこで整備員さんに助けられて、職員専用通路で外に出してもらったんです」
「……」
よくもまあ一人旅をさせようと思ったものだと煌は呆れてしまった。長野の後輩二人が心配するのもよく分かる話だ。
「宮永さん、新幹線のチケットを見せてもらえますか?」
「はい」
咲はショルダーバックから九州新幹線の指定席券を煌に渡した。
(14時30分……なるほど、迷子になることが前提だったのですね)
乗り換え時間を少なくすることが旅のセオリーならば、このチケットをとった人間(恐らくは咲の両親)は、それを無視し、過剰とも思える2時間を確保していた。なるほど、これならば少々迷子になっても取り返し可能だ。
煌はほっとしてしまい、咲に対しては言ってはならないことを口走ってしまった。
「すばらですよ宮永さん。これならば十分に間に合います。私と姫子が博多までご案内します」
「……」
しまったと思った。この口癖は決して言ってはならないと片岡優希から警告されていた。
恐る恐る咲を眺める。彼女の光のない目に一瞬光沢が戻り、信じられないほどに笑っている。
(もう……逃げられない)
結局、煌は咲に抱きつかれてしまった。必死に姫子が引き離そうとするが、なかなか咲は離れなかった。やがて周囲に人が集まり、『あれって宮永咲じゃないのか?』などの声も聞こえてきた。もはや絶望的であった。煌にできることは引きつった笑いを浮かべることだけであった。
煌たちは、なんとか咲を確保して博多駅に向かう地下鉄に乗り込んだ。あまり混んではおらず、三人は座席に座ることができた。
「宮永、鹿児島に着いたらそん先は?」
煌に気をつかって、姫子は真ん中に座ってくれている。
「5番線で日豊本線に乗り換えて霧島神宮まで行きます」
「そん先は?」
「薄墨さんが車で迎えに来てくれます」
「車って……薄墨ん運転か?」
「はい、なんか凄いですよね」
「まあ、薄墨は3年生だけん誕生日次第では免許があってん不思議じゃなか」
「鶴田さんの誕生日は何月ですか?」
「うち? うちゃ3月ばい」
「じゃあ鶴田さんも、来年の夏休みは車を運転できますね」
「うちゃ遅生まれだけん逆ばい」
その素直で明るい答え方に、姫子も相好を崩す。咲への感情が、本来は敵であるというものから、かわいい下級生に移ったようだ。だが、煌は違っていた。彼女の光のない目を見ると、ストレートに感情移入できない。
咲と目が合った。やはりというか、咲はとても感性が鋭い。そんな煌の心を見透かすかのように、穏やかな笑顔を返した。
「この目はしかたがないんです。私が心に怪物を飼っている証拠なんです」
「すみません。私は、個人戦の、あなたのキラキラした目を知っています。そう思うと……」
“気の毒に思う”。煌はそれが言えなかった。
咲が飼っているといった怪物がどれほどのものかを知らぬ者はいない。特に、隣にいる姫子は、その災厄を十分すぎるほど知っている。
「そりゃあ直らんと?」
「……はい」
咲は、恥ずかしそうに顔を赤くして頷いた。
新道寺女子高校は麻雀強豪校だけあって、対戦相手のリサーチを徹底的に行う。咲のことも研究し尽くされていた。
彼女が、この状態から抜け出すには、それを創り出した人間を敗北させなければならない。その相手とは、姉の宮永照だった。
「そうか……なにもかも納得ずくか」
「ええ」
あの衝撃の姉妹対決を煌と姫子はリアルタイムで見ていた。見ていて辛くなるような刹那的な闘いは、きっとこれが最後のものであろうと予感させた。咲の答えは、それを肯定するものであった。
「宮永……うちゃ花田とは違う。わいに同情なんかはせん。来年、きっちりと借りは返させてもらう。それでよかか?」
煌は姫子の成長を感じていた。かなり強烈な宣戦布告を、彼女は笑顔で咲に伝えた。親愛する白水哩を打倒し、自分をも完全敗北させた“魔王”には、憎悪とも言える感情を持っていたはずだ。その姫子が、素顔の宮永咲を見て感情を刷新させた。
(姫子……あなたは私が思っていた以上に強い人です。大丈夫ですよ、あなたなら、咲ちゃんとも対等に闘えます)
「いいですよ。楽しみにしています。鶴田さん、花田先輩も」
「咲ちゃんは高遠原中学でしたっけ?」
「いいえ、でも、和ちゃんも優希ちゃんも花田先輩って呼んでいるので、私もそう呼ばせてもらってもいいですか?」
なんともまあ、チャーミングな子だろうと思った。麻雀をしていなければ、ごく普通の15歳の少女で、自分の妹に欲しいぐらいだった。そんな子からのお願いを断れるはずがない。
「では、長野県民という意味での花田先輩になります。それでいいですか?」
「はい、花田先輩!」
「ほんなこつそれでよかか? 花田もそがん嬉しそうにして……」
「部長の気持ちが分かったということですよ」
「部長の?」
「かわいい後輩がいると嬉しくなる。そういうことですよ姫子」
「……花田」
そして、地下鉄は博多駅に到着し、煌たちは咲を新幹線乗り場まで誘導した。とはいえ、搭乗予定の新幹線到着まで30分以上あったので、三人で待合室に入った。
冷房の効いた室内で、姫子は宿敵とも言える咲と、何気ない会話を楽しそうにしている。麻雀の話も、咲の姉である宮永照の話も一切しない。煌には、姫子の気持ちがなんとなく分るような気がした。
「宮永、もうそろそろ時間じゃなかと?」
「本当だ、楽しくて時間を忘れていました」
咲が立ち上がるのと同時に、搭乗予定の新幹線到着のアナウンスが流れる。どうやら無事に役目を果たせたようだ。
――三人で、咲の乗る8号車の搭乗口付近に移動し、新幹線の到着を待っていた。
「そうだ」
そう言って咲は振り返り、ショルダーバックから小さな紙袋を二つ取り出した。
「これをもらってくれませんか?」
「なんや?」
「キーホルダーです。和ちゃんと優希ちゃんと選びました」
その屈託のない笑顔には抵抗する術がない。それほど高価なものではなさそうなので、姫子と二人で受け取った。
――新幹線がゆっくりとホームに進入してきて停車した。
「じゃあな宮永、また来年」
姫子が小さく手を振った。咲も笑顔で手を振り返す。もう搭乗口は開いており、発車メロディーも流れ出した。咲は乗り込もうと足を進めた。
「あ!」
咲は転んだ。煌と姫子は慌てて走り寄り、咲を助ける。ホーム係員も駆けつける。
「お客様、大丈夫ですか」
「すみません……」
煌たちは咲を助け起こし、8号車に放り込んだ。
ホーム係員は周囲を確認して、出発指示合図を送る。
新幹線はゆっくりと進みだし、窓からは立ち直った咲が手を振っている。当然、煌たちは引きった笑顔で見送るしかなかった。
――新幹線は加速し、あっという間に煌たちの視界から消えた。
「まったく……あん子は……」
「でも無事に送り出せて良かったじゃないですか?」
「そうやなあ」
姫子は、咲からもらった紙袋を丁寧に開けている。
「こりゃあなに?」
姫子が見せてくれたキーホルダーは五平餅のようだ。
「五平餅ですね。長野の郷土料理です」
「ごへいもち? 花田のは?」
煌もキーホルダーを取り出し姫子に見せる。
「こりゃあ……」
「ワサビですね」
姫子が腹を抱えて笑い出した。なんの制約もない純粋な笑い。インターハイ後に姫子のこの笑顔を見るのは初めてのことであった。
「花田……うちも部長も、個人戦決勝前には気ん付いとった」
ひとしきり笑った後、姫子はその笑顔を消さない状態で話し始めた。
「相手ば憎むことは悪かことじゃなか。ばってん、それだけじゃ足らん」
「……」
「うちと部長は……だけん負けた」
「やりにくくなりましたか?」
「逆ばい花田」
そうだろうなと煌は思った。そう、姫子は“魔王”ではない宮永咲を知ったのだ。敵への愛情と尊敬。さきほど姫子が足りないと言ったのは、恐らくそれであろう。
「うちゃ、これで宮永と闘える」
咲が乗った新幹線の消えた線路を見ながら姫子は言った。
いいだろう。これで自分のスタンスが決まった。姫子が闘う準備ができたといったのだ。ならば全力でそれをサポートするだけだ。
「すばらですよ姫子。さっそく寮に戻って特訓です」
「その前に……」
姫子がスマホを取り出してどこかにかけている。
「どこにかけているんですか?」
「学校、永水に連絡してもろうて薄墨に鹿児島まで来てもらうごとする」
やれやれと煌は思った。姫子は、どうやら咲への愛情が強くなりすぎた様子だ。ものごとは何事もバランスが重要なのだ。そう考えると、煌は頭が痛かった。
次話:高千穂の滝(後編)