咲〈オロチ〉編   作:Mt.モロー

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9.“オモイカネ”の衝撃

 個人戦会場 連絡通路

 

 デジタル派の原村和にとって2位というポジションは、それほど悪くはない結果と言えた。麻雀は強い者、技量の高い者が必ず勝てる競技ではなく、一試合で優劣が決まるものでもなかった。分が悪ければ無理な勝負は避け、確実な2位を狙うのは当然の選択と言えた。ただ、この個人戦は、そんな悠長なことは言っていられなかった。予選はともかくとして、明日の本選ではすべての試合をトップ通過しそうな選手が何人かおり、その中の一人に、和の愛する宮永咲もいた。

(2試合連続の2位……こんなことでは、明日のトップ4には残れない)

 抽選次第では咲と最後まで対戦できないかもしれない。ならば、オーラストップ4に勝ち残らなければならないのだ。こんなところで躓いているようでは、先が思いやられる。

「お疲れ様、和ちゃん」

 忸怩たる思いで対局室を出た和を待っていたのは、笑顔の宮永咲であった。

「咲さん、もう終わったんですか?」

「結構前に終わったよ。だからここで待ってたの」

 咲は、いつもと変わらぬ様子に見えた。和にしてみれば、それは喜ばしいことではあるが、先程の嫌な予感が気に掛かる。

「咲さん……試合はどうでしたか?」

 団体戦のネリー・ヴィルサラーゼと同様な強敵との対戦を疑った。それにより、咲の心が乱れたのでないのかと和は考えた。

「やっぱり全国はすごいね……みんな強かったけど、なんとか全部トップになったよ」

「……そうですか」

「でも……」

「でも?」

 咲は気まずそうに視線を外した。

「半分はプラマイゼロ……」

 和は小さく息を吐いて、口元を緩めた。ここにいる咲は〈オロチ〉ではない、和の大好きな優しい優しい咲なのだ。

「お腹空きましたね」

「うん」

 咲と手を繋いで仲間のところに帰る――懸念が無くなったわけではないが、しばしそれを忘れてしまいそうな心地良さだった。

「サキ!」

 ルームBから大星淡が飛び出してきて二人に向かってきている。眉を吊り上げ、不機嫌極まりない。咲の傍らに立ち、肩や背中などあちこちを触りながら言った。

「サキ、なんともないの?」

「く……くすぐったい!」

 咲は淡の“攻撃”に耐えられなくなったのか、しゃがみ込んでしまった。箸が転んでも可笑しい年頃らしく、涙を流しながら笑っている。

「私の気のせいか……」

 笑い続けている咲を眺めながら淡がつぶやいた。

「淡さん……あなたもですか?」

 疑念が晴れないのか、淡の表情には硬さが残っている。その顔まま、和の質問に筋違いの答えを返した。

「……ノドカ、あんた顔に出すぎだよ」

「え?」

「私のサキにベタベタ触るな! そんな顔してるよ」

「そ、そうですか?」

 そのつもりは毛頭なかったが、もしかしたら無意識に出ていたのかもと思ってしまい、和は顔を赤くした。――淡が破顔する。

「冗談だよ、ノドカ。なにその顔!」

 淡もしゃがみ込んでしまった。咲と一緒になって笑っている。

(この人たち……)

 呆れてものが言えなかった。とはいえ、決して悪い気持ちではない、和は笑顔で咲と淡に手を差し伸べた。

「咲さんも淡さんも。もうお昼休みなんですからね戻りますよ」

 二人は笑いながら和の手を借りて立ち上がった。

 ――淡の表情が一瞬で変わる。

「テルーがくる。サキ、行って。まだ会ってほしくない」

「うん……ありがとう淡ちゃん」

 咲も同じ気持ちなのだろう。淡の見ている方向を確認しないまま待機室へと足を向けた。

「淡さん、お願いします」

「気をつけて、なにかが起こっている」

「……はい」

 和は、淡の後ろ姿に礼をして咲の後を追った。

 そのとおりだ。今は大丈夫でも、これからは分からない。咲を守れるのは自分しかいないのだ。淡もそれを託してくれている。

(咲さんは必ず守ります……そして、あなたとの約束も……必ず)

 

 

「テルー」

 宮永照が歩いてくる。いつもと同じと言えばそうなのだが、無表情のまま大星淡に接近してきて、目だけを動かして言った。

「……どうだった?」

「なにが?」

「咲は変わりなかった?」

「相変わらず目がいいね」

 淡は、目前を通り過ぎた照を追いかけて、並行して歩いた。

「なんか変だよ……」

「だれかが、咲を罠に誘導している」

「罠?」

 その言葉に、淡は不安に駆られていた。そして、その相手を考えた。

「荒川憩?」

「多分違うよ……普通じゃなかった。さっきの対局中、ずっと咲になにかを働きかけていた」

「ネリー?」

「ヴィルサラーゼではない……経験がある。あれは霧島一族のだれかだよ」

「……」

 霧島一族と言えば神代小蒔だ。しかし、なぜ彼女が咲を敵視するのか、淡にはそれが理解できなかった。

『……2回目の敗北の……』

 宮永照が歩くと、自然に道ができる。本人は意識していないであろうが、そこには絶対的は威圧感があるからだ。今のセリフはその道を作っただれかのひそひそ話だ。

(な、なに……どういうこと?)

 宮永照が負けたかの言い方に淡は思い迷っていた。まさか、そんなことは有り得ない。自分の尊敬する宮永照が負けるはずがない。

「テ、テルー……まさか……」

 再び照の目が動いた。

「負けたよ」

「だれに!」

 直情的な淡らしく、あっという間に火が付いた。照に土を付けた相手に報復をしなければ気が収まらなかった。

「小瀬川さん……宮守の」

「……」

 忘れていた感情であった。怒りを伴う敵対心が淡の心に芽生えていた。かつての宮永咲に対する嫉妬のように。

(小瀬川白望……あんただけは、絶対倒す)

 

 

 北海道・東北・関東エリア待機室 宮守女子高校

 

「ただいま……」

 小瀬川白望がダルそうに戻ってきた。臼沢塞は笑顔でそれを迎える。

「シロ、聞いたよー。チャンピオンを倒したんだね」

 やはり試合を終えて戻ってきていた姉帯豊音が嬉しそうに言った。

「……あのチャンピオンは、変だったけどね……心ここにあらずみたいな」

「でも凄いよー。去年も今年も、あの人は公式戦で無敗だったんだから」

「ダル……」

 臼沢塞には分かっていた。それが白望の照れ隠しであることが。偶然でもなんでもいい。今の白望は塞にとって英雄だった。自分には決してできないと思っていた。あの宮永照を相手に白望のようには闘えない。

 そんな目で見られているのが迷惑なのか、白望は話を変えた。

「エイスリンさんと胡桃は?」

「二人はお昼を買いに行ってる。シロはどうせ外に行きたくないでしょ?」

「うん……」

 外にはマスコミがいるので、白望が質問責めに遭うのは目に見えている。面倒くさがり屋の彼女にはキツいはずだ。熊倉トシの指示で鹿倉胡桃、エイスリン・ウィッシュアートは外に買い出しに出かけていた。――ややあって二人が戻ってきた。

「シロ、オマタセ」

 エイスリンが買ってきたパンで白望の頬をつついた。

「ありがとう……お腹減った……」

 パンを手に取り袋を開けて食べ始めた。実に面倒くさそうだ。皆それを見て笑っている。胡桃達がサンドイッチや菓子パンや飲み物を配り、質素ながら宮守女子高校麻雀部の昼食が始まった。会話もせずに黙々と食べているが全員笑顔だ。塞は、なぜか幸せな感情がこみ上げてきて、サンドイッチが喉につっかえ咳き込んだ。

「大丈夫?」

 胡桃が心配そうに差し出した牛乳を受け取って飲んだ。つっかえが取れていった。

「ごめん……慌てて食べちゃった」

 自分の目に浮かぶ涙が、むせた為なのか、別なものなのかは分からなかったが、塞は笑いながらそれを拭いた。トシが優しく塞を見ていた。

「先生……宮永咲ちゃんは、まだあの状態じゃあないんですね」

 豊音の質問に、トシの表情が変わる。

「普通の状態での対戦なら、豊音はなにもする必要はないよ。負けたって構わない」

「あの状態なら?」

「東風戦でも半荘戦でも関係ないね……あの子は惜しいけど潰すしかない」

「……先生」

 トシは、信じられないほど厳しい言い方で、自分の立場を鮮明にしていた。

「汚い大人の邪推だけどね、あの子を利用しようとしている輩がいるんだよ」

「だれですか?」

 塞は我慢できなくなり、口を挟んだ。トシの顔がさらに厳しくなる。

「まだ確定はできないけどね……ただね、宮永咲はそんな悪い夢を見させる力がある」

「悪い夢……?」

「あの子なら“巨人”を倒せるかもしれない……そんな悪い夢さ」

 

 

 中部・近畿エリア待機室 千里山女子高校

 

「泉、セーラと怜が戻ってきたら、竜華達と合流してこれで食事をしてくれ」

 そう言って、愛宕雅枝は財布を丸ごと二条泉に渡した。 

「監督は?」

「少し風にあたってくる」

 なんのことはない。一人で考えごとをしたかっただけだ。

(因果応報か……)

 雅枝は歩きながら、自分の高校時代の友人であり最大のライバルであった松実露子のことを思い出していた。彼女のドラを絡めた打ち筋を雅枝は苦手としていた。その為、トータルの戦績で彼女に大きく負け越していた。高校卒業後、雅枝はプロに転向したが、露子は実家に戻り家業を継いだ。そして、互いに結婚し、子供が生まれ、多忙な日々が続いて暫くの間疎遠になっていた。そんなある日、雅枝は露子が病に倒れたのを知った。

(露子……勝ち逃げは許さんて言ったはずやで……)

 毎週のように雅枝は見舞いに行った。その甲斐があったのか、露子は回復し、退院までこぎつけた。雅枝は嬉しかった。この時初めて気が付いた。露子はただの友人ではなかった。自分が心を許せる唯一無二の存在だったのだ。しかし、神は、雅枝からそれを奪っていった。退院から僅か三日後に、携帯電話に悲報が届いた。

(露子が死んだんか自分が死んだんか……なんや分からんようになってもたな)

 葬儀の日に見た彼女の忘れ形見の姉妹、なにが起きたか理解できずに佇んでいる幼い松実宥と松実玄を、雅枝は忘れることができなかった。

 そして時は流れた。自分の娘達と全く同い年の、宥と玄は、インターハイ団体戦で阿知賀女子学園の先鋒、次鋒として雅枝の前に立ち塞がった。指揮をするのは、やはり松実露子から麻雀の初歩を手解きされたという赤土晴絵であった。

(私が……あんたとの決着をつけないで逃げてたからか? 露子……答えんのはずるいで……私は今、あんたの答えが聞きたいんや)

 会場の自販機コーナーの前にきていた。雅枝は、露子の好きだった緑茶を買い求めた。

(緑茶を金払うて飲むなんてアホみたいやって、よう冷やかしたな)

 当時のプルタブとは違うスクリューキャップを開けて茶を飲んだ。年齢を重ねて緑茶の甘さを理解できるようになっていた。

(……私の話を覚えてるか? 病院でよく聞かせたアイ・アークダンテの話や)

 当時はまだプロであった雅枝は、見舞い時に、露子に試合の話をよく聞かせた。体調が良い時は、高校生のようにコロコロと笑ってくれた。中でも雅枝が苦戦していたアイ・アークダンテには興味があったようで、楽しそうに話を聞いていた。

 ところが、アイ・アークダンテは突然麻雀界から姿を消した。様々な憶測が流れ、彼女の母親の精神異変がその原因だと言われていた。また、当時世界を席巻していたウィンダム・コールが、それに関係しているのではないかとも噂された。

 雅枝はその時期、引退を考えていた。自らの麻雀には絶対の自信を持っていたが、結果が伴わず、なかなか中堅から抜け出せなかった。アークダンテの失踪は、雅枝からさらにプロとしての活動意義を失わせていた。そして、僅かな心の支えであった松実露子の死。雅枝は指導者への転身を決断した。自分の麻雀が間違っていたとは思わない。だが、なにかが自分には足りなかったのだ。ならば次世代にそれを託せば良い。自分の娘の洋榎と絹恵に王道麻雀を伝えればいいのだ。

(けどな露子……現れたんや……アークダンテの狂気が産み出した怪物が)

 宮永照がアイ・アークダンテの娘であることは、雅枝には分かっていた。あれだけ苦しめられた相手なのだ、その容赦のない打ち筋は身に染みて知っていた。そして、絶望感を覚える圧倒的な力を持った妹の宮永咲。彼女達の存在理由は一つしかない。“巨人”を倒すことだ。それは、アイ・アークダンテの執念としか言いようがなかった。

「なんや、おかんやないけ。どないしたんや顔が真っ青やで」

 その声に雅枝は現実に戻された。目の前には自分の娘である愛宕洋榎と同級生の末原恭子が立っていた。

「洋榎か……恭子ちゃんも」

「ご無沙汰しています……あの、大丈夫ですか? ほんまに顔色が悪いですよ」

「……そうか?」

「おかんらしくないな」

 遠慮なしに言ってのける洋榎を見て、雅枝は笑った。

(そうや……露子、私達にはこの子達がおったんやな。あんたの宥ちゃん玄ちゃん、私には洋榎と絹恵がおる。過去の幻影に怯えとる場合やない。あの怪物と同じ時代を生きるこの子達に、はっきりと道を示さなあかんな)

「ええ子や洋榎、インターハイが終わって家に帰ったら、なんでも好きなもん買うたる」

 気持ち悪そうにしていた洋榎だったが、誘惑には逆らえない様子だ。

「……ペット飼ってもええか?」

「ええで、絹恵と相談しいや」

 ガッツポーズをとっている洋榎の頭を撫でて、雅枝は足早に自分の教え子の元に戻る。

(怜、セーラ……もはや綺麗事じゃあ済まなくなった……)

 因果応報、過去の自分の曖昧さが今の事態を招いているとするならば、解決策は分かりきっている、それらのすべてにケリをつけることだ。

(私の教え子達、娘達を苦しめようとするアークダンテの亡霊……そして、それを操り世界支配を目論む者……)

 怒りと決意、その二つを兼ね備えた鋭い眼で、雅枝はまっすぐ前を見ている。

(私は、もう逃げたりしない。真の敵は……小鍛治健夜、お前や!)

 

 

 中部・近畿エリア待機室 姫松高校

 

「主将、4位お疲れ様です」

「おおきに漫ちゃん、あのな、恭子と話してたんやけど、卒業まで私ら二人で漫ちゃんと絹をめっちゃくちゃ鍛えようと思っとんや」

「お姉ちゃん、私も?」

 また始まったとばかりに、弱り顔で見ている妹の愛宕絹恵と上重漫に愛宕洋榎は少し怒っていた。

「絹! 漫ちゃんも、自分達の同級下級にどんな奴らがいるのか、よく考えてみいや」

 洋榎にそれを言わせた背景には、対大星淡の苦戦があった。ただ、それが姫松高校の抱える大きな課題であるのも確かだった。2年生ならば荒川憩、天江衣、神代小蒔。1年生はさらに多く、大星淡、原村和、高鴨穏乃、ネリー・ヴィルサラーゼ、宮永咲などの一段飛び抜けた凶悪なプレイヤーがいる。2年生の愛宕絹恵と上重漫の底上げをしなければ、姫松高校は確実に凋落してしまう。

「洋榎ちゃん、説教はメシ食ってからにするのよー」

「それもそやな、絹! さっきおかんに会うたで、ペット飼ってもええて!」

「ほんま! 私、フェレットがええ」

 姫松高校麻雀部は強豪校にしては自由度が高かった。その校風ゆえか、部員たちはエネルギッシュさと、良い意味でのいい加減さを併せ持っていた。重い雰囲気からでも一気に話題を変えられる。ある意味ラテン的であるとも言えた。

「お母さん、様子が変やなかった?」

「代行……なんで分かるんですか?」

 そのラテンの代表選手のような赤阪郁乃が不思議な質問をした。姫松の良心的存在の末原恭子が戸惑っている。

「麻雀の世界はな、大きな力が働かんと、なにも変わらんのや」

「……」

「なんで今“巨人”が来たと思う?」

「小鍛治プロが呼んだんとちゃいますか?」

 恭子の混迷は増しているのか、当たり前の答えを返した。

「そうや、でもタイミングが良すぎるやろ? インターハイは、大暴れしとる宮永姉妹討伐戦に変わってもうた。だれかが大きなムーブメントを起こしとるんや」

「だれ……ですか?」

「さっき答えを言ってたがな」

「小鍛治健夜……」

 そうだとばかりに恭子を見つめている。赤阪郁乃は末原恭子と一対一で話をしていたのだ。

「私は善野さんとは意見が違う。不服なら私の指示は無視してもええ」

「代行……」

「二人とも、三箇牧高校の荒川憩は確実に倒してや」

「なんでですか? 私達の敵は宮永姉妹とちゃうんですか?」

「そやろな、末原ちゃんならそう言うと思ったで。そうや、みんなそう思っとる。けどな、大人達はもっといやらしいんや」

「いやらしい?」

 郁乃の顔が歪む、その“いやらしい大人”には自分も含まれるらしかった。

「宮永咲は……倒すだけでは物足りないんやろなあ。いやらしい大人はこう考えてるんや“潰してしまえ”ってな。だから教えたらなあかん。相手を潰そうと思うのなら、自分も潰される覚悟がいるってな」

「……」

「恭子ちゃん……私達はこの大会で“見えない恐怖”の正体を知ることになるんやで」

 

 

 中部・近畿エリア待機室 清澄高校、風越女子高校

 

 竹井久は、自分の手の中にある福路美穂子の作った弁当に度肝を抜かれていた。

「美穂……あなた、これいつ作ったの?」

「はい、今朝です」

 風越女子の3人と清澄高校麻雀部6人に渡された弁当は、美しい彩り、野菜と肉類の絶妙なバランス、パーフェクトな味付け、市販されていたと言っても信じてしまうほどの見事なものだった。

「あなたねえ……嬉しいけど、もっと自分の為に時間を使ったほうがいいわ」

「竹井さんは分かっていませんね」

 池田華菜が言った。実に自慢げだ。

「キャプテンにとって、こうすることが一番自分の為なんです」

「実は……私達も諦めたんです。キャプテンはそうしないと逆に調子が悪くなるんです」

「ありがとう、華菜、吉留さん」

「それって、褒められてないわよ美穂。呆れられているのよ」

 まあ、自分でも分かっているのだろう。美穂子は口に手を当てて笑っている。

「そういやあ、久保さんが居らんのう」

「コーチは外に行っています。だれかと会うって言ってました」

「また藤田プロかもしれません」

 染谷まこの質問に、風越の2年生コンビが返答する。久はそれになにか違和感を覚えていた。

(そういえば、靖子が昨日変なことを言っていたわね。咲を中心になにかが動いているって)

「靖子と久保さんは昨日話したの?」

「……はい、それ以来なぜかコーチは小鍛治プロを意識するようになりまして」

(!!! 小鍛治健夜! まさか……靖子が言っていた清澄の監督候補って……)

「このタコさんウインナーうんまいじぇー」

「ほんとにおいしい……」

「自信なくしちゃうぐらいおいしい」

 清澄の一年生トリオがおいしそうに弁当を頬張っている。美穂子が嬉しそうに言う。

「お粗末様、宮永さんはお料理作るの?」

「私は、お父さんと二人暮らしですから、夕飯は作ったりしますよ」

「得意料理はなにか答えるし!」

 華菜が咲に偉そうに聞いた。なにかもう風越と清澄には垣根がないように思えて、久は思わず笑ってしまった。

「卵焼きかな……」

「卵焼き……」

 恥ずかしそうに答える咲に、華菜はそれが料理かという顔をしている。

「華菜……料理で一番難しいのは、卵料理なのよ」

「そうなんですか?」

「どんなシェフでも必ずこう口にする。プレーンオムレツほど難しい料理はない」

「キャプテンもですか?」

「そうよ、ミートオムレツとは違いプレーンオムレツは中身がなにもない。重心を取るのが本当に難しいの、私も納得したものを作ったことがないわ」

「あの……福路さん、あんまりハードルを上げると……咲ちゃん困ってるじぇ」

 宮永咲が顔を真っ赤にしてうつむいている。美穂子が慌てて弁解している。

「咲さん、今度私と練習しましょう」

「のどちゃん……それフォローになってないじぇ」

「えっ、ご、ごめんなさい」

 それは、久が夢にまで見た空間であった。一年生の4人、染谷まこ、風越の友人達、皆笑っている。自分が一年生の頃、一人で部室にいて悔し涙が出るほど追い求めたもの、それは笑い声に満ち溢れた目の前にある光景なのだ。

(ああ……楽しい……本当に楽しい)

 

 

『インターハイ個人戦予選の午後の部開始10分前になりました。これより組み合わせを発表します』

 その館内放送と共に、大型モニターには次々と第9試合の組み合わせが映し出されていく。ルームCに原村和の名前があった。同室者はあまり聞いたことがない名前ばかりでホッっとしていたが、油断は禁物だ。残りの試合で咲との対戦があるかもしれない。その場合は彼女を〈オロチ〉化させる必要がある。気を引き締めなければ前半戦と同じ間違いをしてしまう。

「!」

 ルームHに宮永咲の名前があった。その同室者の神代小蒔の名前に、和は嫌ななにかを感じていた。

 

 ルームH

小荒井静香 茨城代表(2年生)

宮永咲   長野代表(1年生)

古塚梢   兵庫代表(3年生)

神代小蒔  鹿児島代表(2年生)

 

「咲ちゃん、また巫女さんとだな」

「薄墨さん、強かった。石戸さんが神代さんはそれ以上だって」

「咲ちゃん楽しそうだな。でも、神代さんは怖いじょ」

 和は不安だった。午前中の嫌な予感をまだ引きずっていた。今の咲と片岡優希との会話も気になる。咲は再び強敵を求め始めている。合宿であれほど注意された悪い癖が、こんな大事な場面で現れていた。

「和、咲をよろしくね」

 部長の竹井久が心配そうに見ている。

「はい、対局室まで私が連れていきますから」

 そう言って、和は咲と共に立ち上がった。

「和、咲、頑張ってな」

「咲ちゃん、巫女さんキラーになれるじぇ!」

「和も落ち着いてな、自分の闘い方を忘れんように」

 須賀京太郎、片岡優希、染谷まこ、それぞれが和達にエールをくれている。もちろんそれには笑顔で返答するが、心の中に発生している暗雲は晴れていない。

 ――咲となにも話せずにルームCの前に来てしまった。和の不安は募るばかりだ。

「咲さん……油断しないでくださいね」

「うん、ありがとう和ちゃん」

 咲は笑顔で手を振って歩いていった。和は対局室に入る気になれなかった。咲の歩く姿をじっと見守っていた。

 

 

 対局室 ルームH

 

 古塚梢がルームHに入室した時には、既に神代小蒔は南家の席に座っていた。梢は「よろしくお願いします」と挨拶をしたが、小蒔はそれに「はい」と短く答えただけで、今も無言で座っている。その光のない目を一度も瞬きをせずに開けている。まるで人形のようであった。

「よろしく……お願いします」

「よろしくお願いします」

「……はい」

 小荒井静香が入ってきた。その顔は、自分のくじ運の悪さを嘆いているかに見えた。梢もそれを思っていた。昨年、大車輪の活躍で永水女子をシードにまで押し上げた神代小蒔、そして、今年の団体戦で桁違いの凶悪ぶりを見せつけた“魔王”と同室なのだ。トップになることは放棄していた。なんとか最少失点で切り抜けようと考えていた。

 ドアが開いて“魔王”が入ってきた。

「よろしくお願いします」

「……よ、よろしく」

 梢は拍子抜けしていた。話しかけてきたのは、“魔王”とは程遠い愛想が良く可愛らしい下級生であった。咲は場決めの牌を引いて、小蒔の対面に座った。

 試合開始のブザーが大音量で鳴った。自分が起家になったのでサイコロを回す。配牌が終わり、手牌を確認し戦術を練る。三向聴ではあるが、なかなか良い手であると言えた。何しろ相手が相手なのだ、上がれる局面では積極的に攻めるしかない。

 梢は、字牌の【北】を捨てた。

(いつの間に……目に光が戻っている)

 ビー玉のようであった小蒔の目に、鮮やかな光沢が戻っている。動きもゾンビ的なゆったりした動作から、昨年の大活躍時の切れが戻っている。彼女も字牌を切った。

 警戒すべき“魔王”の自摸番になった。宮永咲は牌をつまんで自分の手配の横に置いた。姉の宮永照にそっくりの動きだ。しかし、そこから、この異常事態は始まった。咲の指は震え、血の気が引いた顔で小蒔を見て、苦しそうに言った。

「なにを……したの?」

「……“オモイカネ”を起動しました」

 梢には二人の会話の意味が分からなかった。だが、分かっていることもある。それは、現在この場でなにか恐ろしいことが起きている。なぜ分かるのか? それは簡単だ、自分は今、恐怖しているからだ。

 

 

 一般観覧席 特別室

 

「コンプリート……インストールされました」

 戒能良子が画面を睨みつけて言った。当主神代小蒔の出番に少し興奮しているようだ。

「なにが起きている?」

「宮永咲は……完全に油断していました。初美との対戦がよほど頭に残っているのか、彼女は姫様の能力を見極めようと考えてしまった。“オモイカネ”は起動時が最も弱い。防ごうと思えば簡単に防げる。……宮永は最悪の選択をしてしまった」

 なにを言っているのか藤田靖子には理解できなかったが、宮永咲が何らかの影響を受けているのは、画面から見て取れた。

「“オモイカネ”とはなんだ?」

「本家の最高秘術です。詳細は私も知りません。ただ、“オモイカネ”は100年ぶりに使用されています」

「100年前……戦争前か?」

「はい……当時の姫様は、日本を戦争に誘導しようとした飯綱使いを退治したと文献にありました」

「飯綱使い……妖術師か? そいつはどうなった?」

「自殺しました」

 なんとも不穏なことを平気で言う奴だと靖子は思った。

(自殺……? こいつら霧島一族は、宮永咲を……殺そうとしているのか?)

「レシーバーを、宮永咲にインストールしました」

(なにを言っている? レシーバーとはなんだ? こいつらはなにをしようとしているんだ?)

 靖子の心拍数は急上昇していた。自分が予想だにしなかった事態が起こっている。

「宮永が龍を使い場を支配するのならば、“オモイカネ”は、レシーバーを組み込んだ相手の心を支配する」

「こ……心だと?」

 良子の顔には僅かではあるが後悔の色も見えている。一度始めてしまったものは、やり直しができない。その顔はそう言っていた。

「あなたも思っているはずです。宮永の最大の弱点は……心の弱さです」

(最悪……最悪だ……私は……とんでもないことをしてしまった)

 靖子も後悔していた。小鍛治健夜の野望阻止の為なら多少の犠牲はやむを得ない。そう考えていたが、いざそれに直面すると、自分の決断力の弱さが露見した。

(なぜだ……なぜこんなことになった)

 

 

 対局室 ルームH

 

 完全に目覚めた神代小蒔は、封じなければならない宮永咲の凶暴さに驚いていた。見かけの可愛らしさとは違う、恐るべき陰が彼女にはある。それは小蒔をしても本気で当たらなければ命を落とすのではないかと危惧するほどだ。

 小蒔は咲の心に語りかける。

(「“オモイカネ”はあなたの心の声を聴くのです。それを防ぐことはできません。宮永さん、あなたも同じです。あなたの心の声が……聴こえます」)

 実際には聞くだけではなかった。神代小蒔の声も宮永咲に届いている。

(「嶺上開花を上がるつもりなのですか? なんという邪悪な。あなたは嶺上牌が見えている。そして槓の起点もです。その力はなんの為に使用しているのですか?」)

 意図的に咲は小蒔を無視している。彼女らしくない荒っぽい動作で自摸を繰り返す。

(「なぜ答えないのですか? 無駄だと言ったはずです。答えはもう聴こえています」)

 咲が顔を上げて小蒔を見た。怯えが浮かんでいる。

「カン」

 それを振り切るように咲は【西】を暗槓する。牌を晒し、嶺上牌に手を伸ばす。

(「私を疑うのですね、あなたが取ろうとしている牌、それは【四筒】です」)

 咲の動きが止まった。

「どうしましたか? その牌を取りなさい」

 小蒔はそれを実際の声として言った。面子の小荒井静香と古塚梢が奇怪そうに見ている。咲は下を向いて嶺上牌を取り場に置いた。

【四筒】

「ツモ、門前、嶺上開花。1000,2000」

 今度は咲の心に話しかける。

(「宮永さん……顔上げて小荒井さんと古塚さんの顔を見てください」)

 咲がゆっくりと顔を上げる。

(「彼女達の恐怖が見えますか? 二人ともその力を恐れているのです。あなたは、自分が勝つ為ならばなにをしても良いのですか?」)

 東三局が開始された。咲の雰囲気が変わりつつある。小蒔は咲の心に追撃を加える。

(「なるほど……認められないのですね。いいでしょう、ならば“オモイカネ”の力を見せて差し上げます。この局、私より早く上がってください」)

 咲から表情が消えていく。なにかが始まっている。小蒔は、そのキーワードを咲の心から聴いていた。

(〈オロチ〉……?)

 

 

 北海道・東北・関東エリア待機室 臨海女子高校

 

「ネリー……このミヤナガは……アレデスカ?」

 メガン・ダヴァンが言葉を区切りながら聞いてきた。画面から伝わる緊張感に気圧されていた。

「間違いないよ……〈オロチ〉だよ」

「〈オロチ〉とはなんデスカ」

「大星が言っていた。あの状態の宮永のことらしい」

 この局の開始から、咲の目の光がみるみるなくなっていった。そして、顔の動きも極端に減っている。ネリー・ヴィルサラーゼの知っている〈オロチ〉の状態に近づきつつある。

(始めるのか……宮永……お前は、またあの悪夢を始めようとしているのか)

「…………ネリー!」

「えっ?」

 画面に集中するあまり、傍でメガンが自分を呼んでいたことに気が付かなかった。

「ネリー……知っていマスカ?」

「なに?」

「あなた……笑ってマスヨ」

 神代小蒔が平和を和了した。記憶にある感覚であった。団体戦準決勝オーラスで感じたあの感覚だ。

(笑っている? そうかもね……だってメグ、私は嬉しいのだから)

 ルームHのオーラス、宮永咲の親番だ。咲の〈オロチ〉化は完全に終了していた。

(やれ! 宮永、破壊し尽くせ! お前が強ければ強いほど、私の楽しみは増加する。約束してやる。お前は、必ず、私が倒す)

 

 

 対局室 ルームH

 

 オーラスが開始された。神代小蒔は配牌を行いながら、宮永咲に語りかける。

(「あなたは、これまでのように闘えなくなりました。“オモイカネ”によってあなたはあるものを知ったからです。それは、あなたの自模る牌、切る牌、和了する牌のすべてに影を落とし、純粋な強さを否定する。“罪悪感”……あなたはそれを知りました」)

 咲が配牌を終えて顔を上げる。目の光は喪失され、口元には笑みが浮かべられていた。

(それが〈オロチ〉!)

 暴力的な圧力が小蒔を襲った。歯を食いしばり、それに耐えて小蒔も手牌を整える。

(なに……)

 聴牌していた。それは偶然ではない。目の前にいる“魔王”の力なのだ。

(「私にそんな脅しは通用しない」)

 咲は答えなかった。心の声も聴こえない。

 ――そして咲は、これが答えだとばかりに【三索】を捨てた。

(人和……責任払いと同じく、この大会の特殊ルール……)

「ロン」

 神代小蒔は牌を倒した。人和役満の特殊ルールにより宮永咲の飛び終了が確定した。試合終了のブザーが鳴る。

 立ち上がった咲が、小蒔にこう告げた。

「明日が楽しみです。あなたを破壊します」

 それは“魔王”の笑いであった。あらゆる抵抗を無意味と感じさせる暴虐的な笑いであった。

「明日である必要はない! 今日、次の試合でもいい、私はあなたを封じる!」

「封じる? 私を?」

「……」

 汗だらけの手を握り締めて、小蒔は“魔王”と対峙していた。

「どうぞ、できるのならば」

 そう言って“魔王”は一瞥もくれずに去っていった。小蒔はそれを睨み続ける。戦慄で体は震えているが、心は一歩も引けを取らない。なぜならば、彼女を封じることは、自分の一族の役割なのだから。

 


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