咲〈オロチ〉編   作:Mt.モロー

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3.紺碧の瞳

 風越女子高校 宿泊ホテル

 

 部屋の中央に設置されている雀卓の東家の位置に、三脚に取り付けられた高画質カメラが置かれていた。高さは160cmの女性が椅子に座った場合の目の位置、より具体的にいうのならば、宮永照の目の高さだ。カメラはPC用のモニターに接続されており、より大きな画像で見られるようになっていた。

 そのモニターを両目を開けた福路美穂子と麻雀部コーチの久保貴子がじっと見つめていた。カメラの操作は吉留末春が行っている

 末春はカメラを動かし、向かって右側に座っている池田華菜の瞳にピントを合わせた。

「池田、配牌を初めてくれ」

「はい」

 華菜は貴子に言われたとおり、山から牌を自模ってくる。これは実験なのでルールは無視し、単純に4個ずつ取り、最後に1個取った。そして理牌を行う。

「見えんな」

「はい、全く解りません」

 美穂子と貴子は、照の妹、宮永咲が説明した照魔鏡の検証を行っていた。彼女の話では、宮永照は刻子、順子、対子、槓子を眼の動きで読み取れるらしく、しかも眼球に映る牌も読み取り、相手の手配を完全に裸にできるらしかった。

 美穂子の考えでは、それは不可能なことであった。美穂子も並外れた視力を持っており、過去にそれを試したことがあったが、多くの人間がそうであるように諦めざるを得なかったのだ。

「福路、これがお前の見えるイメージの2倍か?」

「はい、それ以上かもしれませんが……」

 宮永照の視力は4.0だと咲は言った。ほとんど笑い話の世界ではあったが、美穂子はそう捉えなかった。アフリカでは視力8.0を記録した人間もいると聞いたことがある。決して荒唐無稽な話ではない。

「吉留さん、もう2倍にしてみてくれる」

「今が2倍ですので、4倍になりますが?」

「視力4.0だったら4倍でいいんじゃないですか?」

 と、華菜が何気なく言った。

(そういえばそうだわ、私は、咲ちゃんの『2倍の距離から2.0が見えた』という言葉にこだわりすぎていた。宮永照の視力は常人の2倍ではなく4倍……)

 末春がズームアップする。華菜の眼が画面の半分以上を占めていた。

「池田、もう一回だ」

 華菜は頷き、再び自摸動作を繰り返した。

(見えない……)

 貴子が3回ほど華菜にリピートさせたが、結果は同じだった。全く分からない。眼の動きも、それに映るはずの牌も。

「……ガセじゃあないのか?」

「……」

 美穂子の考えは逆であった。宮永照は常人の2倍4倍の人間ではない。それを遥かに上まわる超人的な人間なのだと考えていた。

「吉留さん……8倍にしてもらえるかしら」

 美穂子は画面を凝視し、震える声で言った。

「……はい」

 画面いっぱいに華菜の眼が映し出された。それは虹彩の模様までもが分かるほどであった。

「始めましょうか?」

「お願いね」

「池田、かなり倍率が高くなっている。頭をなるべく動かさないでくれ」

 貴子の無理な注文に華菜も応えようと、ぎこちない動作で自摸牌を取っていたが、やはりブレまくりで、とても眼を見ることができなかった。やがて、華菜は理牌を終えて頭を静止させた。

「これは……」

「映っている……牌が眼に映っている」

 衝撃の映像、まさにそれであった。大きく拡大された華菜の眼の下側に、彼女の手牌が湾曲して映し出されていた。

「池田! 目を動かしたり頭を動かしたりしてみろ」

 華菜は通常の対局で必ず発生する動作を実演していた。他家を見たり、山を見たりしてその最も動いた位置で頭を止めた。そして末春はその眼にカメラを合わせる。

「凄いな……どの位置でも牌が映っている」

「眼は球面ですから」

「でもはっきりとは解らないな」

「……ここに【中】が2枚と隣に【発】がありますね」

 美穂子は画面を指さして言った。貴子もそれに顔を近づけた。

「色か、それと形か……。ここに【一筒】があるな」

「麻雀牌は色や形に特徴があるものが多い……そう言っていました」

「妹がか?」

「はい」

 初めて見ても分かる牌が幾つかある。ということは、訓練すればすべての牌を識別することも可能なのではないかと美穂子は思った。

(宮永照……そして咲ちゃんも、あなたたちはなぜそんな力を持っているの? その強大な力は、これまでの麻雀を破壊してしまうわ……)

 照魔境の謎の一つが解明された。信じられないような現実であった。だが、謎はもう一つある。美穂子にしてみれば、その謎こそが解けなかった。それは眼の動きで牌の並びを読み取ること。

 ――その検証を開始する。美穂子は華菜に指示を出した。

「牌を順子、対子、刻子、槓子の順番で並べて、それを見てくれる」

「はい、何回か繰り返します」

 華菜は牌を並び替えて、それを順番に見ていた。

(動かない……)

 貴子も腕組みをして、呆れたように画面を眺めていた。

「福路……これは不可能だよ」

 全く動かなかった。この8倍の状態でも全く眼は動かない。華菜はすでに10回以上繰り返しているはずであったが、今何を見ているかすら分からなかった。

「華菜、見る並びを告知してから見て」

「わかりました」

(何かある、必ず何かあるはずよ……それを見つけなければ、私はあの人に対抗できない)

 この実験が始まってから、美穂子は一度も右目を閉じていない。いや、閉じる暇がないのだ。長野では圧倒的な強さを見せていた美穂子ですら、必死にならざるを得ない強敵。それが宮永照であった。

「順子」

「対子」

「刻子」

「槓子」

 華菜が告知しながらそれぞれを見る。美穂子はその観察を辛抱強く続けた。眼球の微細な動き、瞳孔の拡大縮小など、あらゆる角度から違いを発見しようとした。しかし、それはできなかった。すでに1時間近く見続けているが、手掛かりは皆無であった。

 ――華菜も疲れてしまったのか、かなりペースが落ちている。美穂子も、ほとんど瞬きもせずにモニターを見ていたので、目が霞んでしまい5秒ほど目を閉じた。そして、再び画面を見た時――それに気がついた。

(……まさか)

「どうした? 何か分かったのか」

 美穂子の集中力が高まったのを見て、貴子が質問した。美穂子はそれに頷き、華菜に見方の変更を依頼した。

「華菜、次はランダムに見てくれる」

「告知は?」

「お願いするわ。20回ぐらいで大丈夫だから」

 順番に見ているとイメージが固定化されてしまい、錯覚を起こす可能性があった。だから不規則に見てもらい、これまでのイメージと一致するかの確認だ。

(間違いない……)

 美穂子は照魔鏡の謎が解けたことを確信した。次に行うのは、その妥当性の確認だ。

「今度は告知しないで8個見てほしい、同じものを何回見ても構わない、ただし、華菜もそれを何かにメモして頂戴」

「答え合わせですか?」

 長い実験になり、華菜の疲労も限界なのだろう。解放が近いことを喜んでいた。

「多分ね……始めてくれる?」

「はい」

 それは15秒ほどで終了した。美穂子は画面から目を外し、華菜に向かって言った。

「答えを言うわね、順子、順子、槓子、対子、順子、対子、刻子、槓子」

「や……やりましたね、キャプテン! 全部当たりです」

「まだよ……最後に一つ確認があるわ」

「え?」

 戸惑いを見せる華菜に、美穂子はいつものキャプテンスマイルで応えた。

「これは華菜の質問だったと思うわ。理牌しなければ崩せるかもって」

「ああ……咲は無意味だって言っていました」

「確認してみましょう。順子を二つ作って見比べてね。一つはバラバラでお願い」

「はい」

 再び美穂子は食い入るようにモニターの華菜の眼を見ていた。

(答えは分かっていたわ……同じ順子、何も変わらない。だって、宮永照の見ているものは、眼の移動距離とは関係がないから)

 その結果に美穂子は戦慄した。可能なのだ。宮永咲の言った照魔境は実現可能なのだ。ただ、それができる者は、もはや人間とは思えなかった。これまで散々言われてきた宮永照の比喩、“人間ではない”その言葉を美穂子も心の中で繰り返していた。

 ――華菜が止めてもいいかというように美穂子を見ていた。その視線に気がついた美穂子は、顔をスマイルに戻していた。

「ありがとう、もういいわ」

 大きなため息をついて、華菜が雀卓にうつ伏せになった。末春がそれを見て笑っていた。

「納得した答えが出たようだな」

 貴子が待ちきれないとばかりに声を掛けてきた。美穂子は首を縦に振った。そして、何も映っていないモニターを見ながら答えた。

「はい、でもこれはだれにでもできるわけではありません……端的にいうのならば、宮永照にしかできない」

「……」

「陰です。宮永照は、瞳と虹彩にできる陰を見ているのです」

「陰……だと?」 

 その答えに、貴子は動揺していた。次の言葉が出てこないらしく、モニターと美穂子の間で目を泳がせていた。

「驚くほど的確です。私でも華菜のそれを当てられるのですから」

「こ……こんなことを……宮永照は、やっているのか?」

「はい、肉眼で……」

「に、人間か……?」

 その言葉が、貴子によって繰り返された。無理もない。美穂子はそう思った。

「弱点はないんですか?」

 華菜と末春も周りに集まってきた。今の質問は末春であった。

「……あるわ」

 宮永咲は照魔鏡を“技術”だと言っていた。全くもって恐ろしい“技術”ではあったが、高度な“技術”につきものの欠点も美穂子は見つけていた。

「あるんですか……?」

 不安そうな末春に、美穂子は優しく質問をした。

「目に映る牌が読み取れるなら、眼の陰を見る必要はない。なぜ宮永照は二通りの手法を併用していると思う?」

「……完璧に見分けられないからですか?」

 正解であった。そう考えなければ、辻褄が合わない。

「おそらくね……宮永照は100%牌を識別できるわけではない。だから、牌の並びを読み取るのよ。――眼の陰から分かるのは、手牌の中に順子とかが何個あるかということだけ、どこに何があるかは分からない。でもね、見分けられない牌の推測に、それは驚くほど効果を発揮するわ」

「互いを補って100%にしてるんですか?」

 その華菜の問いかけに、美穂子は顔を引き締めて答えた。

「それは違うわよ」

「え……?」

「照魔鏡は、100%の“技術”ではないはずよ」

 貴子が顎に手を当ててうなった。眉間には深いシワができていた。平静を装ってはいるが、彼女は確実に何かに腹を立てていた。

「そうか……そういうことか。小鍛治健夜め……これが分かっていたのか」

「え? 小鍛治プロですか?」

 華菜は、なぜ今、小鍛治健夜の名前が出るのか理解不能のようであったが、美穂子にはそれが推測できた。

「松実玄ちゃんですか?」

「そうだ……団体戦の先鋒戦で、宮永照は松実玄の【北】が見えていなかったんだ。あの牌は角に在ったからな」

 宮永照が数え役満を振り込んだあの局、松実玄は追い詰められていたが、辻垣内智葉に【北】を大明槓させて突破口を作った。貴子は、その【北】の話をしていた。

「角度だよ……私も今気がついた。眼は球面、ということは、牌が見えなくなる角度があるんだよ」

 美穂子もその意見に同意した。陰で見分けられる牌の並びは、実験した4種類だけだろう。塔子や単独牌はすべて“その他”だ。だとしたら、それを判別するには、眼に映る牌を見るしかないのだ。

「小鍛治プロはそれを?」

 華菜の意外そうな問いに、貴子は苦悩の表情で答えた。

「池田……あの人の風貌に騙されるな。もしかしたら……あの人は、私たちの最大の敵になるかもしれない」

 

 

 清澄高校 宿泊ホテル

 

 原村和は宮永咲と一緒に風呂に向かっていた。和達の宿泊しているのはビジネスホテルではあったが、割と大きな浴場も設備されていた。和は仲間たちとの入浴が大好きであった。風呂は一人で入るもの。長い間そう考えていたが、この共同生活でその意識は改革された。咲や優希達と一緒に入る風呂は、それはそれは楽しいものだった。

「優希ちゃんは?」

 着替えと入浴セットを持った咲が聞いた。

「優希は須賀さんに付き合ってやるって言って、外に行きました」

「そっか、デートだね」

「まあ、行き先はゲームセンターらしいですが」

 古くからの同級生である須賀京太郎を男性として意識していないのか、咲はあっけらかんと応えた。

 浴場にはだれもいなかった。ビジネスホテルなので女性客の割合が少ないのだろう。和達は、隣同士で棚に荷物を置き、服を脱ぎ始めた。大きな胸は、長い間、和のコンプレックスだった。馬鹿にされるのが嫌で、子供の頃から人前で裸になる時は、それを隠しながら行動していた。しかし、咲や優希の前ではそれは不要だった。咲は自然に振舞ってくれるし、優希はからかったりはするが、悪意が全然感じられなかった。

「入ろう」

 咲がいつものように手を繋いできた。

「はい」

 和はちらりと咲を見た。自分とは違って、細身ではあるが、まるでアスリートのように引き締まった咲の体を、和は好きだった。

「今日も貸し切りだね」

「そうですね」

 和達の入浴パターンは決まっていた。まずは体や髪を洗い、そこからゆっくりと湯船につかる。和の髪は長いので、洗った後はタオルでまとめる。

 今度は和から手を繋いだ。

「入りましょうか」

「うん」

 温泉ではないが、そのお湯は柔らかく気持ちがよかった。自然と笑顔になってしまう。

 ――咲がくっついてきた。

 咲は疲れていたりすると、素肌にもかかわらずに、和にもたれかかってくることがあった。さすがに和もドキドキしてしまうが、不思議と嫌ではなかった。しかし、今の咲はこれまでとは違っていた。その肌からは震えが和に伝わっていた。

「怖いんですか?」

「うん……ちょっと」

 咲は目を合わせず、沈んだ表情で言った。

「和ちゃん……もしも、もしもだよ、私が、麻雀を打てなくなったら……それでも和ちゃんは友達でいてくれる?」

「もちろんです」

 和は即答した。その質問の意味を理解していたからだ。〈オロチ〉を止めるということはそういうことなのだと思っていた。

 咲は嬉しそうに笑ってくれた。

 だが、すぐに表情は戻って、お湯を揺らしながら和と向かい合った。

「私たち姉妹はね、お互いを怖がっているんだよ」

「……」

「私は、お姉ちゃんに負けること。お姉ちゃんは……」

 咲は目を逸らした。話し辛い時の咲の癖だ。

「私に……勝てなくなること」

 和は咲が震えていた理由が分かったような気がした。この姉妹は闘うと必ずどちらかが傷つき倒れる。咲は姉を倒すことを望まないはずだ。

「お姉ちゃんは、二度目はきっと耐えられない。だから、一番いいのは、私が負けること。――でもね……」

 咲がお湯の中で左手を差し出していた。和はそれを握った。咲は右手を添えて和の左手を包み込んだ。

「私は……誓ったから……和ちゃん以外には負けないって」

 それは和が咲にお願いした誓いであった。咲はそれを守ると言った。完全に手詰まりの、決着不可能とも思える姉妹対決を前にしても。

(……もう、どう思われても構わない。私は……)

 和は咲を正面から抱擁した。和の大きな胸は咲の鎖骨によって潰されていた。

「の……和ちゃん!」

「ごめんなさい……しばらく、こうさせて下さい」

「……うん」

 お互いの耳の傍での会話、声の震えがよく伝わった。咲の鼓動が聞こえてくる。それは途轍もなく早かった。和の鼓動もほぼ同じ速度でリズムを刻んでいる。

「和ちゃん……私は……負けると……」

「その答えは……さっき言いました」

 和の目からは涙が溢れ出ていた。咲と照の関係は悲劇ではあったが、咲はそれを承知のうえで自分にすべてを話してくれた。それが嬉しかった。そして何よりも――涙が止まらぬほど嬉しいのは、自分の思いのすべてを、咲に伝えられることだった。

「あなたは……私の……永遠の友達です……」

「和ちゃん……」

 咲の両手が、和の肩甲骨付近にまわされ、震えながら抱きしめられた。和も喜びに身体が打ち震えた。これまでの孤独から解放されたように感じた。

(長かった……私は……この人に出会う為に、悩み、苦しんできたんだな……)

 和も再び咲を強く抱きしめた。咲から伝わる温もり、鼓動、息遣い、匂い、それらのものと自分の気持ちが混ざり合い、夢のような幸せな時間となった。そして和は、咲への最後の告白をした。

「あなたは……必ず私が守ります」

 

 

 風呂から上がり、和達は浴衣に着替えた。咲と目が合った。僅かに顔を赤くしている。和もそうだったので、ごまかす為に何かを話そうとしたが、それすらもできなかった。そんなもやもやした状態を、咲が助けてくれた。彼女はいつもの武器を使用した。和の左手を取り、和の大好きな笑顔で言った。

「帰ろ」

「はい」

 ――手を繋ぎ、二人で部屋に向かって歩いていた。和は咲のことが心配になり、姉妹対決の件を切り出した。

「何か、別の方法があるはずです。まだ時間はあります。二人で探しましょう」

「……方法ならあるよ」

「え?」

「難しいけど……麻雀を通じてならできるかも」

「それは、なんですか?」

「それはね……話すこと。私たち姉妹には最も困難だけど……」

 咲の和の手を握る力が痛みを感じるほど強くなった。その方法に確信が持てないのか、咲の表情には不安の色が滲んでいた。だから和は、より現実的な方法の実行を、心の中で決意していた。

(咲さん……あなたを、お姉さんとは闘わせない。その前に、私があなたを解放します)

 和は、それこそが唯一の解決方法だと考えた。無論、組み合わせは抽選なので、できるとは限らなかったが、もし〈オロチ〉の状態の咲と対局が叶えば、和は全力を出し切るつもりでいた。

(私は、あなたが傷つく姿を見たくない。それを防げるのなら……私はどうなっても構わない)

 

 

 清澄高校 宿泊ホテル 中庭

 

 竹井久は、福路美穂子からのメールを受け取っていた。機械音痴では定評のある美穂子らしく、「話があります。中庭のベンチで待ちます」と、電報のような短文であった。

 その青みがかった外灯の下のベンチに美穂子は座っていた。

「どうしたの? 眠れなくなったの?」

「ええ、まあそうですね」

 恥ずかしそうに美穂子が言った。その右目は開けたままだ。

「長野でもこれだけ近ければいつでも会えるのにね」

「あそこは広いですから、風越と清澄は結構離れていますね」

「ゆみの所なんか北の端っこだから、もっと大変よ」

 久は、隣に座って美穂子と視線を合わせた。その青い瞳は、外灯の青さと相まって、紺碧色に見えていた。久はその美しさに見惚れていた。

「もう隠すのはやめました」

 それに気がついたのか、美穂子は少し恥ずかしそうに言った。

「それがいいわ、だって、綺麗だもの」

「そうですか?」

「ええ、でもなんでそう思ったか聞いていい?」

 美穂子は先程まで行っていたという照魔鏡の実験について話してくれた。同じ論理派らしく、原村和に伝えてほしいと根掘り葉掘り説明していた。その話に久は背筋が寒くなる思いだった。咲の話した照魔鏡は、恐ろしくはあったが漠然としたものだった。それを美穂子からリアルな脅威として提示されてしまった。 

「凄いわね……」

「だから、私はこの目を開け続けることにしました。あの人に対抗する為には、この目をフルに使わなければなりません」

 真剣な表情で美穂子は話しているが、久には一つ懸念があった。

(美穂は照魔鏡ばかり考えているけど、宮永照の恐ろしさはそこではないわ)

「美穂は、華菜ちゃんの嘘は分かる?」

「え? まあ、華菜は分かりやすいので……」

「咲もそうよ」

「咲ちゃんですか?」

 久は美穂子に視線を合わせて頷いた。

「あの子はね、本当に素直で優しい子、だから嘘は直ぐ分かる。たとえ〈オロチ〉の状態でもね」

「咲ちゃんの話した、宮永照の能力は嘘ですか?」

(そう……美穂……あなた、凄いわ、そういうことなのね)

 久は、美穂子が何をしようとしているか理解した。宮永照は強い。美穂子は薄々勝てないかもしれないと気がついているはずだ。だが、それに全力で挑もうとしている。なぜならば、彼女の後輩たちは、来年、照の妹に立ち向かわなければならないからだ。だから見せておく必要があった。決して引かない、諦めないという強い意志を。

 久は、その気高き精神に感動していたが、ここはそれを諭られないでおこうと思った。

「嘘じゃないかも、ただ、それだけではないと思うの」

「他にもあると?」

「ええ、“上がれる牌が分かる”だけでは、11連荘はできない」

 美穂子も下を向いて考え始めた。そしてその顔を上げて、小さな声で話した。

「久、私の右目は……真実が見えるんです」

「え?」

 久は驚き、目を丸くした。その顔を見て美穂子は笑いながら言った。

「嘘です」

「み、美穂……」

「私は、咲ちゃん以下なのですね」

 美穂子はずっと笑っていた。こんなに笑う美穂子を見るのは初めてであった。

「何言っているの、咲のほうが美穂より付き合いが長いのよ」

「ええ、そうですね」

「これからよ、美穂。私たちはこれから」

「はい」

 美穂子の紺碧の瞳が、嬉しそうに、二度三度と瞬いた。

 

 

 都内環状線 タクシー車内

 

 藤田靖子は疲労しきっていた。今日は午後から動きっぱなしであった。久保貴子や三尋木咏など、小鍛治健夜にシンパシーを感じそうな人間には先行して会っておかなければならなかったからだ。もちろん健夜の告げ口をするわけではなかったが、彼女たちの立ち位置の確認は行った。最後に荒川憩と会い、靖子は幾分気持ちが楽になった。小鍛治健夜の野望を止める為には、明日からの個人戦で、あの悪魔のような宮永咲を撃破しなければならなかったが、憩との会話でその手ごたえを掴んでいた。

 靖子は座席の背もたれに寄りかかり、うとうとしていた。ふと、ドライバーの脇にあった時計が目に入った。午後9時59分、靖子はスマートフォンにイヤホンを接続しラジオアプリを起動した。

 

 

『ふくよかじゃないスーパーアナウンサー福与恒子と』

『す、すこやかじゃない小鍛治健夜がお送りする……」

『ふくよかすこやかインハイレディオ!』

 ――テーマ曲が流れる

『すこやんまた噛んだね』

『なんか、早口言葉みたいで言い難くくて』

『ふーん、じゃあ、すこやんはこれからは「すこやかじゃないアラフォーだけどごめんなさい」にしてよ』

『……』

『あー、凄い怖い顔! リスナーの皆さーん。この小鍛治プロの顔が見たければ、番組のホームページにアクセスしてね!』

『えー! ホントにぃ!』

 そこまで聞いて、靖子は呆れかえっていた。

(まあ、あの人は、普段は天然さんだからね)

『さて、無駄話はここまでにして』

『無駄話って……』

『小鍛治プロ、いよいよ明日から個人戦が始まりますね』

『はい、今年は非常に分かりやすいと思います。宮永姉妹とそれに立ち向かう選手たち、驚くほど二極化されています』

『公式には姉妹であることは認めていませんが?』

『そうですね、でも新聞にもそう書かれていましたし、ここは姉妹で話を進めましょう』

『お姉さんの照選手は3連覇の偉業もかかっています』

『そこもポイントですね、3連覇を止められるのか、止めるとすればだれが止めるか』

『圧倒的な強さを見せてきた照選手ですが、その可能性はありますか?』

『もちろん、ありますよ』

 

『ここからはー、インターハイの注目選手を小鍛治プロが分析するー、このコーナーだ!』

『……?』

『小鍛治スコープ!』

『なにそれ!』

 完全なアドリブの企画なのか、健夜と恒子は生番組にも関わらず、打合せを始めてしまった。当然急遽CMが挟まれる。

(この番組……大丈夫なのか?)

 CMが終わり、番組は再開された。小鍛治健夜は解説がうまかった。愛宕洋榎や神代小蒔など、注目選手の紹介を分かりやすくしていた。

『荒川選手はどうですか?』

『福与アナ……麻雀は勝負において、相性というものも大事になります』

『相性ですか?』

『荒川選手の宮永姉妹への相性を考えた場合、それは両極端になりますね』

『お姉さんには相性が悪い?』

『ええ、そして咲選手には……最高に相性がいい』

『あの咲選手を倒せますか』

『かもしれません……逆に言えば、今年、咲選手を倒せなければ、彼女は手が付けられなくなります』

『……すこやん』

 靖子はイヤホンを外して笑った。

(公共電波を使っての挑発……大したもんですよ小鍛治さん。いいでしょう、受けて立ちますよ)

「始まりだ……」

 思わず靖子はその言葉を口にしてしまった。

「お客さん、何か言いましたか?」

 ドライバーがルームミラー越しに話しかけてきた。靖子はそれに笑顔で答えた。

「ああ、始まりだよ」

「きっといいことなんでしょうね、お客さん、嬉しそうだ」

「いいか悪いかと聞かれたら、それは悪いことだよ。だがな、嬉しいのは確かだ」

 ミラーに映っているドライバーの目は、その意味不明な言い方に明らかに困惑していた。

(小鍛治さん、あなたの野望はこの二日間で終わりにする。私にとって、こんな嬉しいことはない!)

 


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