咲〈オロチ〉編   作:Mt.モロー

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17.帰還

 清澄高校 控室

 

「和、咲のところに行かなくてもいいの?」

 竹井久は、心配そうに画面を見つめている原村和に訊ねた。

「はい……約束ですから」

 普通に答えてはいたが、和の表情には、宮永咲への信頼と恐怖が同居していた。

(きっと私も、同じ顔なんだろうな……)

 清澄高校にしてみれば、絶望的な点差で大将戦は開始された。だが、咲は圧倒的な力量差で場を支配し、原点に戻してしまった。それは、久にも悪い冗談にしか思えなかったが、その強さには、全幅の信頼を寄せていた。しかし、咲を対戦相手として考えた場合、この〈オロチ〉に対抗する術はまったく見つからなかった。それは、恐怖を覚えるほどであった。

(咲、あなたは、お姉さんの後を継ぐことになるのよ……。この数年、インターハイの目的はただ一つだった。宮永照をいかにして倒すか……。それが、来年からは、あなたになる。全国高校生共通の敵として、宮永咲は認識されるのよ)

 画面の中の対局室には、白糸台高校の大星淡だけが残っていた。そこに、現全国高校生共通の敵 宮永照と、白糸台麻雀部部長の弘世菫が来ていて、なにか話し合っていた。阿知賀女子学院の高鴨穏乃と臨海女子高校のネリー・ヴィルサラーゼは、どこかに移動していた。もちろん、宮永咲もトイレかどこかに行っているのか、画面には映っていない。

「和……」

「はい」

「咲は……あの状態だと方向音痴は直るの?」

「!!!」

 和は慌てて席を立とうとした。久はそれを手で制止して、片岡優希を呼んだ。

「優希!」

「はえ?」

「咲を探して気付かれないように見張って! 迷子になりそうだったら、それとなく誘導して」

「合点だじぇ!」

 優希はあっと言う間に走り去っていた。

「トイレに行こうとして、地下のボイラー室に行ったことがありますからね」

「県大会では、私達を探して、屋上に行ったことも……」

「この間の地下鉄じゃあ、ホームを間違えてたのう。あれは焦ったわ」

 須賀京太郎、原村和、染谷まこは、久の不安を煽る事例を並べ始めた。果てしなく続きそうであった為、久は、それを止めた。

「ちょっと、みんな! 大丈夫よ、優希も向かっているし、咲だって、そんなに……」

 全然説得力のない発言をしていると気がつき、久は口ごもってしまった。

(盲点だった……優希、お願い!)

「ふふ……」

 和が、そんな久を見て笑った。その笑いは、みんなに伝染した。衝撃の大将戦が始まってから忘れていたものがあった。それは、この“笑い”であった。

 

 

 試合会場通路

 

 高鴨穏乃は全速力で通路を走っていた。控室に戻って確認したいことがあったからだ。走りは得意な穏乃ではあったが、ステージからでは1分以上かかってしまう。穏乃は、時間短縮の為に更なるスピードアップをした。

 

「何分!」

 控室のドアを開けて叫んだ。チームメイトは無言で、穏乃とモニターを見比べていた。あまりの早さに信じられない顔つきであった。

「何分って……1分も経ってないよ」

 松実玄が答えてくれた。満足のいくタイムであった。

「赤土さん! 時間がない。宮永咲の打ち筋を教えて!」

 正直な話、教えてもらうまでもなかったが、穏乃は第三者の意見を聞きたかった。そうしなければ、後半戦での反撃に不安要素を残してしまう。

「宮永咲は、ドラが見えている。多分、槓ドラ、裏ドラ含めて30枚以上。もちろん、これまで同様に、嶺上牌も見えているだろう。前半戦の支配力はそう考えないと辻褄が合わない」

「私が国士で上がった時は? 大星さんは何向聴でしたか?」

「二向聴だった。九種九牌からのシズとは違った。……何とも言えないよ」

 赤土晴絵は言葉を濁したが、穏乃の心の中では答えが出ていた。

(11種11牌なら、間違いなく国士無双を狙いに行く。前局で役満に振り込んだ大星さんに、その罠を仕かけたんだ。宮永咲……お前は、私を罠のパーツとして使ったんだね)

「シズ……」

 新子憧が、トゲのある顔で呼びかけてきた。穏乃はその理由が分からなかったので、ぞんざいな返事をした。

「なに?」

「あなた、凄い顔してるよ、宮永咲が憎いの?」

「……」 

 答えられなかった。憧の質問は、穏乃の心の闇を覗いていたのだ。

「もう時間がないよ、ステージに戻ろう。私が途中まで一緒に行くよ」

 憧はそう言って席を立ち、穏乃の手を引っ張って、控室を後にした。

 

 ――憮然たる表情で、新子憧は通路を歩いていた。穏乃も憧と大差がない顔つきであったが、なにも話さない彼女が気になったので、横目で意識しながら追随していた。

「シズ、あなた、今のままじゃ負けるわよ」

「なんで?」

「あなたは、宮永咲に心まで支配されている」

「私が? 宮永咲に? そんなことはないよ!」

 穏乃は大声で反論した。憧も同等な声で言い返す。

「違わないわ! だって、いつものシズなら、どんな相手だって呼び捨てになんてしないもの!」

「……」

 再び言葉に詰まってしまった。憧の表情が怒りから哀しみに変化した。

「昨日、あなたは、私に言ったんだよ。……どんな相手でも、自分は変わらないって」

「……うん」

 穏乃は、自分の心の闇がなんであるかに、気がつくことができた。

(本当だ……私は支配されていた。宮永咲、いや、咲さんは、私の倒すべき相手だった。だけど、その圧倒的な強さに、私は……恐怖していたんだ)

「憧……」

「ん……」

「ありがとう」

「……なんか、気持ち悪いね」

 弱り顔の憧に、穏乃は、取り戻せた無敵の笑顔で答えた。

「サイコロ次第だよ……咲さんを、私のテリトリーに封じ込める」

「できるよ……シズなら。私も、今なら信じられる。奇跡って言葉を」

 もう一度、憧に礼をしてから、穏乃は走り出した。自分の闘い方を思い出した穏乃は、今、選ばれた者になった。

 高鴨穏乃は、魔王への反逆者になったのだ。

 

 

 試合会場 ラウンジ

 

 ネリー・ヴィルサラーゼは、前半戦終了後、直ぐにこの場所にきていた。なぜかは分からなかったが、宮永咲との対立で疲弊した精神を回復するには、ここにくる以外ないと思えた。

(楽しかったな……あの時は……)

 副将戦の休憩時間にチームのみんなで騒いでいた情景が目に浮かんだ。ささくれ立ったネリーの心が癒されていった。

「やっぱり、ここにいまシタカ」

「メグ……」

 チームメイトのメガン・ダヴァンが様子を見にきた。彼女らしいおせっかいではあったが、今のネリーには、それがありがたかった。

「浮かない顔デスネ」

「メグ……アメリカって平和なの?」

 ネリーは、メガンと目を合わせずに聞いた。

「……まあ、普通に暮らすには、不自由はありマセンネ」

 メガンはそう言って、ネリーの隣に座った。

「私の故郷はそうじゃなかった。大勢の友達が……いなくなった」

「……」

「宮永を見ていると、それを思い出してしまう」

「そうデスカ……」

 優しい笑顔で、メガンが返事をした。

「日本は平和すぎるぐらいなのに、あの子は、なんでだろうね、化物じみているよ」

「読めまセンカ?」

「読むもなにも……近づくことができないんだよ」

 メガンは、少し顔を引き締めて、後半戦の戦術をネリーに伝えた。

「監督の指示は“潜れ”デスガ? なんでも、ミヤナガの弱点は奥底にあると」

「!」

 予想外の指示であった。そんなところまで見透かされていたとは思わなかった。

「メグ、あの監督は凄いよ……」

 メガンが頷いた。そして、真顔で指示の是非を確認した。

「できマスカ?」

「やってもいいけど……この試合は捨てることになるよ」

「監督は2位でもいいと言ってマシタガ……」

「それも無理だね……。前も言ったけど、監督は宮永を甘く見過ぎているよ」

「それほどデスカ?」

「おそらく、生きる、死ぬの話になるよ」

 それは冗談ではなかった。宮永咲の波動を掴む為のアプローチは、強烈な苦痛を伴い、断念せざるを得なかった。メガンの言った“潜る”とは、それ以上の深みに入り込み、宮永咲の本質に迫ることで、その障害は前半戦の比ではない。自身が精神的に崩壊してしまう可能性もあった。

「ネリー! それでは、やめまショウ」

「ヤダよ、ママ」

「ダメデス! ママの言うことを聞いてクダサイ」

 メガンは、本当に心配していたが、ネリーは反発した。それが自分の欠点であることは分かっていたが、だれかに優しくされると、ネリーはいつもこう考えてしまうのだ。

(自分は優しくしてもらう資格がない)

 心の中では感謝していても、口から出る言葉はその真逆で、可愛げのない憎まれ役を演じてしまう。だから、今回もそれは変わらない。

「私しかいないんだよ……宮永の弱点を見つけられるのは」

「……」

「今年は駄目かもしれないけど、来年の為に私はやりたい」

「ネリー……ワタシに嘘はつかないでクダサイ。怖いのならば、それでもいい……」

「……」

 そのとおりであった。ネリーは咲を恐れていたのだ。だから、自分はこの場所に来てしまった。恐怖をごまかす為に、最良の記憶にすがりつく。弱者の陥る心理状態であった。だが、ネリーはそれを恥ずべき行為とは思わなかた。今メガンが言ったように、恐怖は力に変えることができる。

「うん……私は、怖い……。でもね、メグ。これだけは信じて」

 ネリーは立ち上がった。その表情は決意に満ちており、恐怖を凌駕していた。

「宮永の弱点を掴めないことは、もっと恐ろしい。その為に、私は潜るんだよ」 

 メガンは諦め顔であったが、理解してくれたらしく、頬を緩めた。

「監督には、何て伝えマスカ?」

「優勝できなくてゴメン。でも、来年の優勝は臨海女子高校です。かな?」

「マッタク……どやされるのはワタシなのですからね」

 そう言って、メガンは拳を作り、軽く叩こうとした。それをネリーは両手でキャッチした。

「メグ、覚えてる?」

「なにをデスカ?」

「試合前、みんなで約束したこと」

「覚えてマスヨ」

「私、頑張るよ……」

「ハイ……」

 

 

 決勝戦 対局室

 

 大星淡は、椅子に深く腰を掛け、雀卓を眺めていた。牌がセットされておらず、中央のサイコロがなければ、炬燵の天板のようだなと思っていた。

(もう一か所違ってる……)

 淡の手元には、赤いLEDで数字が光っていた。“99900”それが今の白糸谷高校の点数だった。大将戦開始前には“209500”と表示されていたので、およそ11万点減らしたことになる。

(あれだけ振り込んだら、当たり前だよね……)

 その数字をぼんやり眺めていると、見慣れた顔二つが近づいてきた。

「淡……」

「テルー……」

「咲にやられたね」

 部長の弘世菫と一緒にやって来た宮永照は、優しい顔で言った。

 その顔は、淡の心を落ち着かせた。そして、宮永咲の正直な感想を、その姉に伝えた。

「強いよ……サキは……心が折れそうなぐらいに」

「そう……」

 淡の求めていた返事だった。励ましなんか欲しくない。自分の尊敬する宮永照に、正直な気持ちを、ただ聞いてほしかったのだ。

 淡は、後半戦にやろうとしていることについて、照に確認をした。

「テルー、サキにあれは通じる?」

「早いやつ?」

「うん」

「1回だけなら……。咲は確認を優先するからね」

「親で上がればいいんだよね……」

「それは、回避したほうがいい、〈オロチ〉は親で上がろうとする者には容赦がない」

 淡の代名詞である絶対安全圏の改良型。それは、準決勝で煮え湯を飲まされた、高鴨穏乃への対抗措置であった。五、六向聴の優位性が消えない内にW立直だけで上がる。火力がかなり落ちるので使い辛いが、照でさえも防ぐことができない淡の奥の手であった。

 しかし照は、一度しか通用しないと言った。それは、咲が絶対安全圏の影響を受けないと言っているに等しい。

(手が尽きたか……私は、このまま負けるのかな……)

 淡は力なく下を向いた。

「淡、そんなに落ち込まないで……」

 照はそう言って、弘世菫に説明を促す合図をした。

「淡、考えてみてくれ、後半戦も8局で終わるだろう。しかし、宮永咲は親番で上がれない。つまりは、残った6局を耐えきればいい」

「前半戦の火力を見た? 6局もあれば終わりだよ」

 疲労感漂う声で、淡は菫に投げやりな返事をした。

 菫は、無礼な淡の態度にも怒らず、真面目な顔でそれに頷いた。

「阿知賀も臨海も、そしてお前もだが、何らかの秘策で反撃を考えている――」

「――親番以外なら、咲はそれを見極めようとする」

 照が割り込んで補足した。その話は照自身にも当てはまるように思えた。そう考えると、淡はなぜか可笑しくなり、薄笑いを浮かべて照をいじった。

「姉妹って似てるんだね」

「……そうだね」

 少し恥ずかしそうに照は答えた。

(3局か……耐えられるかもしれないけど、勝つことはできない)

 咲の怖さを存分に味わわされた淡にとって、2人の話はイラつくほどに楽観的だと感じられ、乱暴な物言いになった。

「3局でも同じだよ。サキは倍満以上で上がるんだから」

 不機嫌さを露にする淡に、照は優しく話した。

「淡は、〈オロチ〉を倒せる可能性のある3人の1人だよ」

(そうだ……テルーは前にそう言っていた。でも……なぜだろう)

「昔ね、まだ仲が良かった頃に、咲が話してくれたことがある。〈オロチ〉は8匹の龍を従えると……」

「……?」

 淡には理解できなかった。〈オロチ〉がドラを支配しているのは、嫌でも分かるが、それと自分がなんの関係があるのか? そこが不明であった。

「淡、場には龍が10匹いるはずなんだ。でも咲は、8匹しか支配できない」

「な、なんなの」

 その言葉が、何故か淡を揺れ動かした。それは、不安に近い感情ではあったが、違うようにも思えた。淡は耐えきれなくなり、2人に答えを求めた。

「咲はね、4つ目の槓ができない。――何度か見たことがあるんだ」

 淡はゴクリとつばを飲み込んだ。

「咲は四槓子を拒否していた」

「拒否……」

「四槓子自体が出ないに等しい役だけど、槓を武器にする咲なら、出てもおかしくない。だけど、あの子は、上がらなかった」

「上がれないの?」

「そうだと思う。訳は聞かないでほしい。分からないからね」

 そうはいっても、それが〈オロチ〉の弱点とは思えなかった。2匹の龍が使えない? だからどうだというのだ。自分にはそれが分かってもなにもできない。

「でも、打つ手は無しだよ……」 

 淡は力なく言った。

「淡は、槓できる牌が分かるのか?」

 菫からの今更の質問であった。同じ質問を、同じ弘世菫から受け、同じ回答をしたこともあった。

「なんとなくだよ……槓した後は、ドラ表示牌が見える気が……」

 淡はそこで言葉を切った。なにかの感情が淡の中で芽生えていた。

(……まさか、これが、〈オロチ〉を倒す力なの?)

 照と菫が並んで淡を見ていた。そして、説明役の菫が口を開いた。

「照や原村和とは違い、淡は唯一〈オロチ〉を内部から倒せる可能性がある」

「ど、どうやって?」

「宮永咲は龍を従える……それは王牌を支配することだ。だけど、その王牌の中にも彼女の自由にならない牌が2枚ある。淡……お前は、それを支配しろ。その2匹の龍で〈オロチ〉を倒せるかもしれない」

 淡の気持ちは、それなりに高揚していたが、菫の話はすべて未来形で具体性がなかった。目前に迫る後半戦では役に立たなそうであった。

(そうか……テルーはこのことを言ってたのか……。でも、なんで今教えたんだろう?)

 はっきりとした解答があったのなら、試合開始前に教えてくれても良さそうだが、2人はそれをせずに、こんな土壇場で自分に告知した。淡はその意味を計りかねていた。

(私は突っ走っちゃうからね……もし、試合前に聞いてたら、酷い有様になってたかも……)

 淡は、自分の暴走癖が分かっていた。2人はそれを考慮してくれたのかもしれないと考え、自己解決することにした。それでも、胸につっかえていた謎が解けて、幾分気が晴れた。

 しかし、新たな謎も発生していた。淡はそれを、照に訊ねた。

「小鍛冶健夜や松実玄じゃサキは倒せないの? ドラ絡みなら、この2人は筆頭だよ」

「今は無理だよ、彼女たちは咲に力勝負を挑むしかないからね。その結果は淡にも分かるだろう」

「高鴨穏乃……は?」

 もしも、咲がいなかったら、全力で倒すべき相手であった阿知賀女子学院の高鴨穏乃は、咲に匹敵する支配力を持っているように思えた。後半戦になれば〈オロチ〉に十分対抗できそうであった。

「彼女は、〈オロチ〉を倒せない」

「なぜ? なぜ言い切れるの?」

 即答する照に、淡は更なる疑問をぶつけた。

「なぜなら、彼女の力は、咲と同系の“幻影”の力だから」

「幻影……? サキが? 高鴨穏乃が?」

 その質問に、宮永照は答えなかった。そのまま時間が過ぎ、2人は幾つかのアドバイスを残して去っていった。再び1人になった大星淡であったが、闘争心のチャージは完了していた。

(サキ……私は、あなたと同じだよ。どうしょうもないぐらい諦めが悪い。だから諦めないよ、あなたを倒すことを……)

 照達と入れ替わりで、高鴨穏乃とネリー・ヴィルサラーゼが上がってきた。言葉はなかったが、2人の意志が淡に伝わった。

(いい顔してる……。きっと、思いは同じだよね)

 彼女たちが後半戦にやるべきことは決まっていた。それは、魔王 宮永咲への反逆であった。

 

 

 決勝会場 観覧席

 

 インターハイ団体戦決勝は、先鋒戦と次鋒戦が異常な長丁場となった為、現在の時刻は午後10時を超えていた。それにもかかわらず、観客は席を立とうとはしなかった。とはいえ、彼、彼女たちには熱狂や興奮はなく、ただおとなしく画面を見守っているだけであった。皆、これから起こることを見届けたかったのだ。歴史の証人として。

 

『この最終局面で、全校、振り出しに戻されましたが、これは、宮永咲選手が意図的に行ったと考えますか?』

『どちらも信じられませんが……2択ですね』

『2択? どのような?』

『はい。一つ目は、偶然4校がプラスマイナス0の状態になってしまった。二つ目は、福与アナの言ったように、宮永咲選手が点数調整をして4校をその状態にした。――どちらが信じられますか?』

『なるほど……どちらも信じられませんね』

『しかし、現実は4校が原点に戻っています』

『副将戦までの闘いが無意味であったと言わんばかりですね』

『それは違います。副将戦までの激闘があったからこそ、宮永選手も前半戦をその為に使わざるを得なかったのでしょう』

『すると、小鍛冶プロは、二つ目の“宮永咲選手がこの状態にした”と、お考えですか?』

『この2択では、そうなります』

『全員1年生の大将戦。開始前には接戦が予想されていました』

『それぞれの選手の攻撃力、防御力を考えると、展開の予想が難しかったですね』

『ですが、蓋を開けてみると、宮永咲選手の完全な1強でした』

『強い、弱いと言うレベルではありません。場を意のままに操作していました。完全な支配者でした』

『……小鍛冶プロも、ドラの支配者と呼ばれることがあります』

『まあ……そういう人もいます』

『素人意見ですが、私には宮永咲選手もそう見えます。――改めてお聞かせください。先駆者として、小鍛冶プロは宮永咲選手に勝てますか?』

『私は……』

『――え! はい!』

『……どうかしましたか?』

『大変ですよ、小鍛冶プロ! 宮永咲選手が行方不明のようです』

『そう言えば、後半戦の開始時間を過ぎていますね』

『清澄高校の麻雀部部長 竹井選手から、現状の報告がありました。宮永咲選手は、迷子になっており、清澄のメンバーで捜索中とのことです』

『迷子……』

 

 念の為に、館内放送が実施された。

『清澄高校 宮永咲選手、後半戦の開始時刻を過ぎています。至急、対局室にお戻り下さい』

 3回繰り返された放送で、観覧席は失笑、苦笑に包まれていた。

 やがて、片岡優希と染谷まこに引きずられるようにして、宮永咲が対局室に登場した。それを見た観客は、爆笑しながら拍手をしていた。

 

 

 決勝戦 対局室

 

「遅れてすみません……」

 申し訳なさそうに謝る宮永咲を見て、高鴨穏乃は思いっきり吹き出してしまった。彼女の顔は、前半戦と同じく無表情であったが、髪が額に貼り付くほど汗をかいていた。

「宮永さん、とりあえず汗を拭いたら?」

 穏乃は笑いながら助言した。咲はハンドタオルを取り出し、顔を拭き始めた。

「サキ、迷子になってたんだって?」

 大星淡が意地悪く言った。それを聞いたネリー・ヴィルサラーゼも声に出して笑っていた。

「サキちゃんはどこに行ってたのかなー?」

「……優希ちゃんが言うには、階段の角に引っかかっていたそうです」

「!」

(ああ……私はこの人に勝てないかも……)

 穏乃は、死ぬ思いで笑いをこらえていた。

「階段の角って……ゲームキャラじゃないんだから……」

 ギブアップであった。ネリーの放った言葉は、穏乃にクリティカルヒットした。

「も、もう、ダメだ……」

 穏乃を皮切りにして、淡、ネリーも大声で笑っていた。それを宮永咲が無表情で眺めていた。そのアンバランス感がやけに可笑しく、穏乃の笑いはピークに達していた。

 

 

 清澄高校 控室

 

「な、何とか……間に合ったようじゃの……」

 染谷まこが、疲労困憊だといわんばかりに、枯れた声で言った。

「間に合ってないわよ、すっごい遅刻なのよ、減点対象になるかもしれないからね」

 副将戦、大将戦と清澄高校は2回連続で遅刻をした。大会規定には【やむを得ぬ理由以外で開始時刻に遅れた場合は競技失格とする】と書いてあった。竹井久は大会終了後を考えると頭が痛かった。失格にこそならなかったが、他校のクレームによっては、大きく減点されるだろう。それは順位を左右するかもしれない。

「そうですね、15分以上遅れましたので、本来なら失格でも文句は言えませんね」

「和! あなただって、10分以上遅刻したんだからね」

「す、すみません……」

 原村和が、珍しくかしこまった様子で謝る。久は、それに苦笑しながら頷いた。

 ――画面の中では、起家も決まり、配牌が開始されようとしていた。

「始まるのう……」

 まこが、真剣な顔で言った。

「そうね……これで最後。信じましょう、咲を……」

 

 

 インターハイ団体戦 大将後半戦 席順

  東家 大星淡

  南家 ネリー・ヴィルサラーゼ

  西家 宮永咲

  北家 高鴨穏乃

 

 

 決勝戦 対局室

 

 前半戦と同じ席順で、同じく起家スタートとなった大星淡がサイコロを回した。出目は“8”高鴨穏乃の前の山から配牌が開始された。

 淡は、休憩時間に上級生2人からもらったアドバイスを精査していた。

(親番では上がれない……じゃあ、この局はサキが取りにくるのね)

 宮永照がそう言っていた。なるほど、前半戦はムキになって歯向かった結果、役満振り込みという失態をしてしまった。ならば、この局は宮永咲に取られてもいい。最少失点でやり過ごすのが、ベストな選択だろう。淡はそう考え、絶対安全圏を作動させていなかった。

 東一局 15巡目、咲がドラ牌の【七索】を暗槓した。嶺上牌を自模った後にめくられたドラ表示牌は【二萬】であった。

(同じ牌ではない……?)

 その疑問の答えは直ぐに判明した。咲は嶺上開花せずに牌を曲げて置いた。

「リーチ」

(リーチ? あくまでもドラ8なのね。どちらかの裏が【七索】に乗る!)

 淡だけではなく、全員が同じ結論を導き出したのだろう、場に緊張が走っていた。

「チー」

 その緊張の中で、ネリー・ヴィルサラーゼが、咲の捨て牌の【四筒】を鳴いた。あからさまな一発消しであったが、咲の表情は不変であった。

 そして、16巡目、咲は淡に答えを見せた。

「自摸、面前、ドラ8です。4000、8000」

(【五筒】赤ドラ……単騎待ち。そう、分かってたのね、ネリーが鳴くことも、ここにこの牌があることも)

 咲の手牌には、【三萬】が刻子であった。赤ドラと、暗槓の【七索】を合わせてドラ8。淡は、親被りで8000点を失った。しかし、咲のその上がり方には、なにか不自然さも感じていた。

(〈オロチ〉は“一つの体に八つの頭”って、テルーが言ってた……)

 それは、嶺上開花ドラ8のことだと思っていた。ならば、この上がりは該当しない。

「宮永さん、裏ドラは見ないんですか?」

 隣の高鴨穏乃が咲に言った。その質問は、淡の脳裏に準決勝の最終局を思い起こさせた。

(そうか……サイコロか……サキの席から一番遠い山、高鴨穏乃の前の山)

 淡の“左8”から始まったこの局、王牌は穏乃の目の前にあった。もしかしたら、それが、咲の支配力を弱めたのかもしれない。

「裏は乗っていない」

 咲は、そう言いながら裏ドラをめくった。その牌は2枚とも字牌で、役宣言のドラ8に間違いはなかった。

 ――穏乃と咲の視線は、まるで火花が出ているかのようにぶつかり合っていた。

(見えていないわけじゃないのか……?)

 結局、咲が嶺上開花で上がらなかった理由は分からずじまいだった。淡は気持ちを切り替えることにした。

(ここで引き離されるわけにはいかない。次は上がらなきゃ)

 東二局が開始された。淡は、絶対安全圏を発動していた。それは非常にリスキーな賭けであったが、照が話してくれた、未知のものを見極めようとする咲の性格を、利用しようと考えていた。

 ――配牌が完了した。手牌にはダブル立直が可能な牌がそろっていた。淡は、僅かに躊躇ったが、大きく息を吸い、勢いをつけてその発声をした。

「リーチ」

 穏乃が大丈夫なのかとばかりに、淡をチラリと見た。

(これは、あなた用の対策だよ。サキは別として、あなた達は五向聴ぐらいでしょ? だったら、この私を止めることはできないよ)

 絶対安全圏の名前のとおり、上がるのが早ければ早いほど安全であった。だが、準決勝では槓をしなければならない特性を狙われ、穏乃に敗れた。淡はそれを反省して対策を練り、この数日間、照達を相手に、改良型の“火力を下げて8巡以内で上がる”トレーニングを繰り返してきた。そして今、使用する相手こそ違うが、実戦でそれを使うことができた。

(成功率はまだ高くないけど、今回は手ごたえがあった。サキ……前半戦とは違うんだからね!)

 淡は自摸を重ねていった。これまでのように、危険牌を送り込まれることはなかった。つまりは、咲はまだ聴牌していないのだ。

(前とは違うって分かったの? それとも様子見? どっちでもいいわ、この局は私がもらう)

 7巡目。絶対安全圏が正常に機能していれば、まだ他家の聴牌は、気にしなくても良かったが、目の前には、その作用を無視できる咲がいた。淡は、せっかちに手を伸ばして牌を自模った。それは、心の焦りが具現化されたものであった。

(やっとか……)

 自模牌を確認し、淡は安堵の吐息をもらした。そして、この決勝戦で初めて牌を倒した。

「自摸、W立直――」

 淡は裏ドラを確認した。雀頭の2枚が乗って満貫まで手が伸びたが、咲の恐ろしさも再認識することになった。

(またドラが送り込まれていた……)

 その結果に淡はイラついてしまい、口調が乱暴になった。

「――ドラ2。2000,4000!」

(もう一度だ……。テルーは2度目はないと言ってたけど、試してやる!)

 次は宮永咲の親番。その油断が、淡の暴走癖を再発させていた。

 

 

 これまでの2局、ネリー・ヴィルサラーゼは宮永咲の内部入り込もうとしていたが、強力な障壁によってそれを阻まれていた。ネリーの能力は、通常は波動を受けるだけのパッシブなものだが、ある手法を使って、その波動の発生源を探ることができた。それは潜水艦のソナーのようなものであった。探るべく相手が発生させている波動に合わせて、自分の波動を送り込む。その波動は相手の発生源に反射して戻ってくる。ネリーはそれを読み取り、その波動がなぜ生まれているのかを観察できるのだ。

(次は宮永の親、障壁が弱くなる……)

 前半戦も何度かトライしたが、肉体的、精神的な苦痛を伴う波動を発生する障壁を超えられなかった。しかし、咲の親番時には、その苦痛が和らぐのも分かっていた。だから、ネリーはこの局に全精神を集中させていた。 

(おかしい……波が変わらない……)

 東三局が開始されていた。威力が落ちるはずの咲の波動に変化がなかった。

 ――配牌が終了し、親の咲が【北】を捨てた。続く高鴨穏乃も、咲の捨て牌を見て【北】を合わせた。そして大星淡、彼女は再び牌を横にした。

「リーチ」

 2連続のW立直。淡は絶対安全圏を発動させていた。ネリーの手牌も五向聴であったので、それに間違いはなかった。しかし――

(宮永……私と取引をするつもりか……)

 淡の横にした牌、それは【北】であった。その牌は、ネリーの手牌の中にもあり、切れば四風連打で流局になる。咲は、ネリーにそれを要求していたのだ。

 ――交換条件が示された。咲の波動が弱くなっていた。

(……いいよ、でも、壁は超えるからね)

 ネリーは【北】を捨てて、東三局は四風連打で流局になった。大星淡が宮永咲を睨んでいた。それはそうだろう。自分の技を屈辱的な方法で潰されたのだ、だれでもそうなる。

 ――それを横目で見ながら、ネリーは咲の障壁に近づいていた。

(超えられる……やっと宮永に近づける)

 咲は約束を守った。壁を超える際の苦痛は皆無であった。

(これは……)

 そこでネリーが見たものは殻であった。それは、卵のような楕円ではなく、ほぼ球体に見えた。白く不透明で、中を見ることはできない。その為、ネリーは接近してみることにした。

「う……」

 思わずネリーは、声をもらしてしまった。これまでとは比較にならない苦痛が襲ってきていた。

(ここまでは見せてもいいってこと? そうか……これからが地獄なんだね)

 ネリーは、もはや後戻りはできなかった。試合を捨ててまで、この宮永咲を倒す手段を探っている。“できませんでした”では済まない話だった。すべては、来年、臨海女子高校が優勝する為の必要な犠牲なのだ。

(犠牲か……そうだね、それには私も含まれる)

 ネリーは顔を上げた。その表情には、疲労の色が見えていたが、口と目が笑っていた。そして、その目で宮永咲を眺めていた。

(宮永……お前は最強だ。でもね、弱点は必ずある。残り五局で……掴んでやる)

 

 

(サキ、これが私への回答なの? 四風連打。そんなの毎回できるわけがない。こけおどしは通用しないよ)

 そうは言うものの、大星淡は怒り心頭であった。練習を繰り返して、やっとの思いで身につけた技を、使い物にならないとばかりに流局させられた。この大会のレギュレーションでは、途中流局はすべて親流れになる。宮永咲は、それを利用したのだ。

(それにしても、どうしてネリーは流局を選んだのだろう。彼女は無駄なことはしないはず――あのまま続けたら、サキが上がってたってこと?)

 淡はネリーに目を向けた。その特徴的な帽子が小刻みに揺れていた。

(なにをしているの? なぜ、あなたはそんなに苦しそうなの?)

 東四局が始められた。牌を取っていくネリーの動作は、鈍く辛そうであった。淡にはそれが、なにか見えない敵と闘っているように感じられた。

(菫が言ってた。ネリーは未来視できるのかもしれないって)

 それが本当ならば、ネリーの闘っている相手は〈オロチ〉以外考えられなかった。しかし、淡にはどうすることもできない。

(ネリーが水面下で闘うのなら、私は表で闘うよ。テルーも菫も簡単なことではないって言ってたけど、サキに先行して槓できれば、なにか見えるかもしれない)

 槓ができそうな牌がなんとなく分かる。それは嘘ではない。現に手牌の中に有る刻子の【南】がそうであった。淡はそれを武器に〈オロチ〉と闘うつもりであった。

 

 

 白糸台高校 控室

 

「淡の性格を考えると、やっぱりこうなると思ったよ……」

 弘世菫は、画面上の大星淡がなにをするかが分かっていた。自分達がしたアドバイスを実践するはずだった。だが、その行動は失敗が約束されていた。『〈オロチ〉は、他家の槓がその力に影響しない』。妹をよく知っている宮永照が、そう言っていたので、間違いがなかった。

 その照が、菫を見ながら言った。

「そんなに悲観的な話じゃない、この局は淡が取れるよ」

「また、様子を見るとでも?」

「見るよ……咲ならね。でも、次はないよ、今度は流局なんて甘いものじゃない。全力で潰しにくるよ」

 モニターでは、淡が【南】を暗槓していた。咲より早い、7巡目での槓であった。

「この槓は無意味なのか?」

「……分からない。普通に槓をするだけではなにも変わらない。もっと他の要因が必要だと思う」

「だから淡なのか?」

 照は小さく頷き、質問に答えた。ただし、その言葉の歯切れは悪かった。

「槓は狙ってできるものではない。だけど、咲や淡はそれを当たり前のように行うからね」

「……」

「部長……淡ちゃんが上がりました」

 渋谷尭深がそう告げた。南、ドラ3。積み棒があったので、2100、4000であった。菫は照に向き直り、諦め顔で言った。

「次は覚悟したほうがいいかな?」

「おそらくね……。希望もあるけど……」

「希望? なんだ?」

「まだ、動きのない阿知賀の大将、彼女の出方次第で淡にもチャンスは残る」

「高鴨穏乃は〈オロチ〉を倒せないと言っただろう」

「咲はすべてを支配できるわけじゃない。サイコロもその一つだよ」

「サイコロ?」

「サイコロの目が合えば……咲に直撃できるかもしれない」

 菫にも希望が見えてきた。〈オロチ〉はドラによって他家を支配する。それはつまり、上がった者には何らかのドラが乗り、高い点数になるということだ。

(さっきの上りで清澄との差は4300点、まだまだ挽回可能だ。次の宮永咲の親番で、阿知賀の大将が直撃してくれたら……本当だ、淡にも可能性がある!)

 しかし、今度の南一局は大きな失点があるだろう。菫はそれを淡の性格上やむ無しと考えていた。

 

 

 決勝戦 対局室

 

 大星淡は前局の和了を半信半疑で捉えていた。前半で槓ができて、そのまま上がり、ドラも3枚乗った。ただ、それが自分の力であったのかは不明だった。

(すんなり行き過ぎる……前半戦と同じサキの罠かも……)

 南一局、配牌が終了した淡の手牌の中にも、槓をイメージできる牌があった。しかし、この局は淡が親であり、積極的な動きは禁じられていた。

(上がろうとは思わない。でも、槓はしてみよう。そして、サキの動きを確認する)

 前局の和了が、淡の警戒レベルを下げていた。

 ――6巡目、槓のイメージは現実になった。4枚目の【西】を自模ったので、淡は、他家の河をチェックした。警戒すべき相手はいない、しいて言えば、宮永咲の捨て牌は淡のものと類似しており、同じ役を揃えているかもしれなかった。

「カン」

 淡は【西】を暗槓した。裏返された牌は【三筒】、手牌にある刻子の【四筒】がドラに変わった。その他の牌は筒子が多く集まっており、混一色が狙えそうであった。

(ドラか……慎重に行かなくては……)

 淡にしてみても警戒を怠ったわけではなかった。ただ、それが不十分だったのだ。

 ――魔王の罠は、既に作動していた。それは、驚くほど緻密なものであった。

 

 

 阿知賀女子学院 控室

 

「宮永咲が槓をした時点で降りるべきだったよ……」

 新子憧が刹那的に言った。赤土晴絵も同意見であった。宮永咲は11巡目に【六萬】を暗槓し、それによってネリーのポンしていた牌の【六筒】がドラ牌になった。そこで、罠に気が付き降りていれば、大星淡はこんな窮地に立たされなかったはずであった。

「でも、四暗刻の一向聴だったし……」

 松実玄が淡を擁護した。確かに、この局面で役満を上がれば圧倒的優位に立てる。だが、それは冷静さが足りないと言わざるをえなかった。なぜならば、その選択によって発生したこの地獄は、予測が可能だったからだ。

 

 大星淡の手牌(暗槓【西】)

【一筒】【一筒】【一筒】【四筒】【四筒】【四筒】【八筒】【八筒】【八筒】【九筒】

 

 宮永咲の手牌(暗槓【六萬】)

【二筒】【三筒】【四筒】【五筒】【六筒】【七筒】【八筒】【九筒】【九筒】【九筒】

 

 三暗刻に手替わり可能な【七筒】は河に三枚出ているので、淡は自摸上がりができない。【九筒】は咲に大明槓されるだろう。その他の手牌もすべて咲の当たり牌なので、待ちは変えられない。淡がこの袋小路から脱出するには、運に頼って自摸切りを繰り返し、降りきるしか道がなかった。

 ――16巡目、淡の自摸は【一筒】。チェックメイトであった。

「槓するしかないよ……でも……」

 鷺森灼の科白の続きは、「嶺上牌で【五筒】を掴まされる」に違いなかった。きっとそうなる。晴絵もそう考えていた。

 ――その予想通り、淡は【一筒】を暗槓し、嶺上牌に手を伸ばしていた。

「!」

 晴絵は驚愕していた。だれもが予想していた大星淡の振り込み、それが回避された。淡の捨てた嶺上牌は、まるっきり関係のない【中】であった。

「シズ……」

 新子憧が、それは高鴨穏乃の影響だと言っていた。だが、晴絵にはそれが分からない。憧の見ている画面、答えはその中にあるはずだった。

(そうか……今回もサイコロは“8”だった。……王牌か、シズは王牌を抑えているのか)

「晴絵、これからだよ」

 憧が晴絵に向かって力強く言った。その顔は、親友への信頼からか、自信に満ち溢れていた。

 

 

 決勝戦 対局室

 

(大星さん、私は、あなたを尊敬しています。前半戦、あなたは、この魔王を相手に一人で闘ってきた。だから、後半戦は、一緒に闘いましょう)

 17巡目、山の奥深き場所。そして、それは高鴨穏乃の目の前にある。魔王の支配を幾らか軽減できるはずであった。とは言っても、穏乃はその自摸牌を引く際に、思わず祈りを込めていた。

(来い!)

 引いた牌は【八索】、それは穏乃の反撃の狼煙、魔王の支配を打ち砕く牌であった。

「カン」

 宮永咲が顔を上げた。顔合わせで見せた殺戮者の目で、穏乃を睨んでいた。

(それは、もう通じませんよ咲さん。あなたは致命的なミスを犯しています)

 穏乃は、流局の積み棒を置いてから、咲のその目と向かい合った。恐怖は感じなかった。その理由は、実に簡単だった。

(あなたは、私のテリトリーに自分の分身を送り込んでいる。私は、それを束縛することができる)

 

 

 決勝会場 観覧席

 

『四開槓……』

『すっげー! 穏乃ちゃんすっげ―!』

『ふ、福与アナ、落ち着いて』

『でも、でもですよ! こんなことできるのは彼女しかいませんよ!』

『まあ、そうかもしれませんが……』

『し、失礼しました。実況は公正中立でなければなりません』

『はい、元に戻って――!!』

『どうかしましたか?』

『こーこちゃん、これって、対局ステージに通じてる?』

『え? まあ、運営から連絡が取れますが?』

『係員! 大至急、ネリー選手の様子を見てください!』

『ネリー選手がどうしましたか!』

『動きが止まっています。おそらく失神しています……』

 

 

 決勝戦 対局室

 

 ネリー・ヴィルサラーゼに話しかける者がいた。その言葉は、日本語ではなく母国語であるグルジア語のように聞こえた。最初は小さかったが、徐々にそれは大きくなっていった。そのだれかは、盛んに名前を呼んでおり、身を案じる呼びかけもあった。しかし、ネリーはそれに心当たりがなかったので、無視を決め込んだ。

 とにかく疲れていた。今は眠りを貪りたい。その邪魔をして欲しくなかった。

(でも……なんで私はこんなに疲れてるんだろう……?)

 ぼんやりとそう考えていた。――そして、ネリーは飛び起きた。

「!」

「ネリー、良かった。あなたは大丈夫ですか?」

 中年の男性通訳が、何故か日本語で訪ねてきた。とりあえずは大丈夫と答えたが、バイタルチェックをすると言って、ドクターがやって来た。

 指に洗濯ばさみのようなものを嵌められ、問診された。ネリーは面倒だったので、すべてに問題ないと答えた。

(そうだ、思い出した。あと一歩だった……もう少しで殻に触れられた)

 前局の後半、宮永咲の波動が弱くなったので、その隙を突いて殻に接近した。その殻は、不透明ではなく、内部が薄っすらと見えていた。もっと近づけば、はっきり見られる。〈オロチ〉の秘密はきっとそこにあるはずだった。ネリーの手が、殻に触れようとした瞬間、強烈な波動を浴びせられ、意識が飛んでしまった。対局は成立していたので、それは、高鴨穏乃が流局させたあたりだと推測していた。

(宮永、あれは、お前の怒りなのか?)

 だとしたら、それは悩ましい話であった。残り3局、絶対に殻の内部を見なければならない。しかし、いつまた、あの波動が襲ってくるか分からない。まるで、綱渡りでもしているかのようだった。

「ネリー、続けられるか?」

 相変わらずの日本語で、中年の通訳が聞いてきた。

「はい、大丈夫です」

 ボクシングのファイティングポーズ的な虚勢だったが、気力の面では若干楽になっていた。

 ――宮永咲が、表情がないなりの心配そうな顔で、ネリーを見ていた。

(気付いているのか? まあ……当然か……)

 中年の通訳が、インターハイの運営係と、ネリーの状態について話をしていた。そして、その運営係が近づいてきて競技の再開を宣言した。

「5分後に大将戦を再開します。これは休憩はありません。各自、着席して待機願います」

 

 

 臨海女子高校 控室

 

(勝利のない試合、監督はどう考えているのか?)

 辻垣内智葉は、腕組みをしてモニターを眺めているアレクサンドラ・ヴィントハイムの心境を慮った。メガン・ダヴァンの報告では、ネリー・ヴィルサラーゼは勝つことを放棄している。その理由は、宮永咲の弱点を掴む為だと言っていた。

(本当にそれでいいのだろうか? 麻雀はなにが起きるか分からない競技、勝負を捨てるのは愚策じゃないのか?)

 アレクサンドラが智葉を見ていた。そして、独り言のように言った。

「負け方だよ……。私は、ネリーに教わった気がする」

「それは、勝ち方と同じですか?」

「違うね、勝ち方は選べない。でも、負け方は選べるからね」

「来年の為に負けると? そういうことですか?」

「そうなるね」

「……」

 アレクサンドラは腕組みを解いて、紅茶を手に取って飲んだ。

「智葉、不満か?」

「ネリーなら……可能性は0ではありません」

「そうだな、そのとおりだ。だがな、智葉。0%と0.001%の違いはどこにある?」

「0は絶対的な数字です。だけど、それ以上ならば、小さな数字であっても賭けるべきです」

「残念だが、それは受け入れられない。初見では絶対に勝てない相手がいるものだ。一昨年の宮永照、去年ならば、天江衣、そして今年はこの宮永咲だ。その打ち筋が分からなければ、一方的にやられるだけだ」

「それでも、大星淡や高鴨穏乃は勝負を諦めていません」

 試合はもう終盤で、今更こんな議論をしても意味がなかったが、智葉は引き下がれなかった。負ける為の闘いを認めることは、智葉の人生を否定されるのと同じなのだ。

「私は、“がむしゃら”という言葉が大嫌いだ」

「“がむしゃら”ですか?」

「敢闘精神を表す為に、良い意味で使われるが、“がむしゃら”なんて、ちっとも良くない」

「……」

「“がむしゃら”に行け! そう言われて闘った選手は、大抵は敗北し、精神も疲弊する」

 モニターの中では、大将戦が再開されていた。南二局、親はチームメイトのネリー・ヴィルサラーゼ。思いがけない休息によるものか、若干動きが改善されていた。

 ――アレクサンドラは話を続けた。

「大星淡と高鴨穏乃は、その“がむしゃら”な闘いをしている。自分の力を頼りにこの魔王に挑んでいる」

「それは、悪いことでしょうか?」

 ――12巡目、宮永咲はドラ牌を暗槓した、そして、その槓ドラは見えている隣のドラ表示牌と同じもの。前半戦の東一局の再現になった。

 ――画面に映る光景を見て、智葉はおののいた。

「また……嶺上開花ドラ8……」

滅多なことでは動じない智葉が、そんなつぶやきをもらした。

「智葉……、私はお前の何倍も麻雀人生が長い、その私が断言する……」

 アレクサンドラは苦しそうな顔で言った。

「宮永咲は最強だよ。彼女の存在は、これからの麻雀を変えてしまう」

「最強……無敵ですか?」

「無敵ではない。倒せるよ。だが、その為には、ネリーの情報が必要だ」

 アレクサンドラの表情が変わった。その顔は、野望を持つ者の顔、不敵な面構えであった。

「その情報は、我々、臨海女子高校の大きなアドバンテージになる」

 

 

 決勝戦 対局室

 

 高鴨穏乃はテリトリーに侵入した〈オロチ〉を、行動不能にしようとしていた。その準備は、四開槓で穏乃が流局させた後から開始されていた。辺りの地形を気付かれないようにゆっくりと変え、〈オロチ〉の周りに大木を林立させた。そこから太い蔦を何本も伸ばして、恐ろしい8本の首に巻き付けた。そして、山に住む生き物たちに周囲を警戒させる。〈オロチ〉の束縛はここに完了した。

(あとはサイコロ次第だ……)

 南三局、宮永咲の親番、彼女は上がらずに防御を固めてくるだろう。2位の大星淡との点差は2万点以上あるのだから、それは当然だ。穏乃は、その咲からの直撃を狙っていた。ただ、その為にはサイコロの目が6か10でなければならなかった。

 ――咲はボタンを押して、サイコロを回した。止まるまでの時間が、やけに長く感じたが、それは停止した。目は4と6。

(咲さん……あなたにも地獄をみせてあげますよ……)

 穏乃の前の山から配牌は開始された、もちろん、王牌もそこに残る。

(あなたの強さの秘密は、王牌の支配でしょう? でもね、よく見てください。その王牌は、私のテリトリーにある)

 穏乃の手牌は345の三色同順とW南の二向聴であった。どのみち上がるのは後半になるので、聴牌は焦らなくても良いが、大星淡には注意が必要だった。

(W立直は防いだはずだけど……)

 穏乃の第一自摸、既に持っている【五萬】の赤ドラを引いてきた。咲から送り込まれたものと分かっていたが、それを交換し、通常の【五萬】を切った。続いて淡の自摸番、彼女はW立直しなかった。穏乃は少し安心した。これで、イニシアチブを握れる。

 ――6巡目、穏乃は赤ドラの【五筒】を自模った。これで三色側は揃えられた。ただし、5の牌はすべて赤ドラだったので、咲には手が筒抜けであった。

(ずいぶんと警戒するね、でも、読まれるのは承知の上だよ)

 王牌が自分の領域にある場合、穏乃には見えるものがあった。最初からではない、それはだんだんと見えてくる。9巡目、穏乃は【南】を自模り、聴牌した。

(これもか……)

 穏乃は、咲から送り込まれた牌が見えるようになっていた。今回は赤ドラはもちろんそうだが、今引いてきた【南】もそうであった。つまり穏乃の手牌の雀頭以外は、咲に全部見られているのだ。

「リーチ」

 【八筒】の単騎待ち立直。なぜこの牌なのかは、穏乃にも分からなった。しかし、その牌には強いパワーを感じていた。後半の山の奥深くになれば、そのパワーが解放されるように思えた。それは咲の支配をも打ち破れると、穏乃は信じていた。

 黙々と安牌を捨てていく宮永咲、そして、それに合わせ打ちをする大星淡。彼女はこの局の上りを諦めているようであった。W立直が阻止された時点での判断かもしれない。ただ、その打ち方は、穏乃の援護射撃になった。

(そろそろ、安牌がなくなるはず……)

 13巡目、咲から【八索】が送り込まれた。どこかのドラ牌。当然穏乃は、不要牌なのでそれを切る。

(まずいな……なにかを読まれたかな?)

 14巡目の、咲の捨て牌は【九索】、どうやら、さっきの【八索】切りで、安全と判断されたようだ。その抜け目なさに、穏乃は怖気づいた。

(気圧されては駄目だ……必ず勝てる……信じなきゃ)

「ポン」

 咲の捨てた【九索】をネリー・ヴィルサラーゼが副露した。すかさず、咲に自摸番が回ってきた。咲は、自分の前の山から牌を自模り【一索】を捨てた。

(ネリーさん、そんなボロボロなのに……)

 苦しそうなネリーを眺め、穏乃は、怖気づいていた自分を恥じた。

(そうだ、これからは自分のテリトリー、どんな怪物だろうと封じ込められる。咲さん、あなたの最後の自摸は私の山から取ることになる)

 息詰まるような無言の攻防が続いていた。咲が穏乃に振り込む可能性はあるが、単騎待ちの性質上、その確率は低かった。穏乃の選んだ牌は【八筒】でなんの変哲もないものだった。

 局が進んでいく。穏乃が三倍満で待っているのが分かっているのか、咲も慎重に牌を選んでいた。

 ――そして、最終巡目。宮永咲が、穏乃の前の山から牌を取っていった。

(咲さん……その牌は、私が送り込みました……。あなたは、その牌を切るはずです)

 

 

 ネリー・ヴィルサラーゼは限界が近いと感じていた。この局は宮永咲の親番で波動が弱かった。特に今回は、今までで最も弱い。とは言っても、ネリーを撥ね退けるだけの威力は十分にあった。しかし、ネリーも気力、体力共に、次はないと考えていたので、必死の思いで殻に近づいていった。

 ――そして、その殻に両手を触れることができた。

(中にだれかいる……)

 ネリーは殻に顔を近づけ、中を透かし見た。

(これは……)

 中にいたのは、幼い宮永咲であった。歳は小学生ぐらいでまだ髪が長い。彼女は、目を細めて笑っていた。

(そうか……宮永……お前は、私と同じだよ)

 ネリーは涙を流していた。咲が何重にも防御して守りたかったもの。それは、ネリーのものと全く同じであった。

(お前の守りたいもの……それは、記憶だね……)

 ネリーのそれは、子供の頃の記憶、紛争でズタズタにされる前の、すばらしい、夢のような記憶であった。

(宮永……お前は……なにを守ろうとしているんだ……)

 普通の人間にとっては、守るべき価値がないものだろう。だけど、自分には何よりも大切なもの、命に変えてでも守りたいものであった。

(弱点は分かったよ……それも、私と同じだから……)

 ネリーは殻から手を離し、ゆっくりとそこから離れていった。波動が弱くなっていく。ネリーの意識は現実に戻っていった。

 ――宮永咲の切った牌、それは【八筒】。高鴨穏乃は静かに牌を倒し、上りの宣言をしていた。

「ロンです。立直、W南、三色同順、ドラ6。24000です」

「はい」

 

 

 決勝会場 観覧席

 

 会場内は熱狂と興奮に包まれていた。無敵と思われた魔王に、渾身の一撃を喰らわせた高鴨穏乃に、観客は大きな歓声を送っていた。

『魔王 宮永選手に、三倍満直撃ぃー! ラスト一局を残して順位変動ぉー! 首位に躍り出たのはー! 阿知賀女子学園だー!』

 それは、自然発生的なものだった。どこかの一角で何人かが阿知賀コールをしていた。それがどんどん連鎖していき、会場全体の大阿知賀コールになった。

『胃が痛くなる試合ですね……。阿知賀女子のリードは僅か5000点です、白糸台、清澄の選手の、3900以上の得点でひっくり返されます』

『そうですね……これまでの経緯も凄まじいものでした』

 画面が切り替わり、大将後半戦の経緯が表示された。 

 

 インターハイ団体戦 大将戦(後半 南三局まで) 

  東一局  宮永咲       16000点(4000,8000)

  東二局  大星淡        8000点(2000,4000)

  東三局  流局(四風連打) 

  東四局  大星淡        8200点(2100,4000)

  南一局  流局(四開槓)

  南二局  宮永咲       16300点(4100,8100)

  南三局  高鴨穏乃      24000点(宮永咲)

 

 現在の各校持ち点

  阿知賀女子学院  109700点

  清澄高校     104700点

  白糸台高校    104000点

  臨海女子高校    81600点

 

『小鍛冶プロ、最終局のポイントはなんですか?』

『スピードです。それが何よりも優先されます』

『それでは、大星選手が有利なのでは?』

『そうですね、W立直できればですが』

『さあー! これから南四局が開始されます。親の高鴨選手が、サイコロを回しました』

『トイ7ですね……』

 阿知賀コールが小さくなっていき、会場は静けさを取り戻した。――だれもが固唾を飲んで見守っていた。混沌としてきたインターハイ団体戦決勝、その最後の闘いは、もう始まっていたのだ。

 

 

 臨海女子高校 控室

 

「メグ、ネリーの状態は?」

「この一局だけなら、持ちマスネ。ネリーの仕事は終わっているみたいデスシ」

「そうか……」

 画面では、白糸台高校 大星淡が、大方の予想と一致したW立直をかけていた。

「ここが勝負所と見ましたか、オオホシはそういう才能がありマス」

「機を見るに敏か……」

 アレクサンドラ・ヴィントハイムのその科白は、留学生には難しすぎた。メガン・ダヴァン達は、顔を見合わせて、首を横に振ったり、肩をすくめたりしていた。

 アレクサンドラは微妙に顔を赤くして、辻垣内智葉に向かって質問をした。

「智葉、どこが勝つと思う?」

「清澄です」

「即答だな。なぜだ?」

 智葉は、それに答えず、黙ってモニターを見ていた。アレクサンドラも智葉の様子を見て、モニターに目を向けた。

「なに……」

 それ以上、言葉が出ないようであった。かなり遅れてしまったが、智葉はアレクサンドラに答えを返した。

「監督の言ったことは正しい……今はだれも……宮永咲には勝てない」

 

 

 阿知賀女子学院 控室

 

「シズ……逃げ切って……」

 麻雀部部長 鷺森灼のつぶやきであった。その声は震えていた。無理もない。画面には恐ろしい光景が映し出されていたからだ。

「こんな手牌……ありえません……」

「……そうだね」

 松実宥も怯えた声で言った。赤土晴絵は相槌をうつしかできなかった。

「龍門さんのところで見せてもらった映像、衣さんとの試合に似ているかも」

「まだ6巡目だよ! あの試合は、この状態までにかなり時間がかかった」

 松実玄と新子憧の話していた宮永咲の手牌、そこには、ドラ牌【一筒】が槓子であり、【四筒】と【九萬】の刻子もあった。他の3枚は【二筒】【三筒】【北】で、確かに、天江衣を制した3連続槓の準備段階によく似ていた。

「狙いは、シズの持っている【九萬】かな? 憧、シズは我慢できるかな?」

「残念だけど……切るよ。大星淡が立直していて、シズも一向聴。次の自摸で聴牌したら、おそらく……」

 みんなの言葉がなくなり、沈黙が続いた。晴絵はその状況を打開しようと思い、唯一の希望を話し始めた。

「みんな、準決勝を思い出してほしい。シズは大星淡の支配を破った。そしてさっきは、絶対不可能と思っていた宮永咲をも打ち破った。後半戦のシズの力を信じよう。」

 僅かではあるが、全員の雰囲気が変わった。

「宮永咲だって完全ではない。後半戦は歯車が噛み合っていないようにも見える。だから、希望を捨てないで……」

 晴絵にも希望の光は見えていた。しかしそれは、あまりにも遠い場所で輝く光。よそ見をしたら見失ってしまうほどの、微かな輝きであった。

 

 

 清澄高校 控室

 

 

 昨日、宮永咲が原村和に、〈オロチ〉の状態の顔を見られたくない、見たら絶対に自分を嫌いになると話していた。昨日は理解できなかったが、今ならその意味が分かる。モニターに映る宮永咲は笑っていた。その顔は、和の愛する咲の笑顔ではない。弱者を無慈悲にいたぶる悪魔の笑顔だった。

(咲さん……)

 無論、和は咲を嫌いになるわけはなかったが、忘れられないインパクトではあった。

 同じ画面を、メンバー全員が眺めている。皆、初めて見る咲の凶悪さに、言葉を失っていた。

「和……清澄は勝てるかもしれない……」

 竹井久が、画面のほうを向いたままで、和に語りかけた。

「でもね、私とあなたは、罪を背負ってしまったわ……」

「……」

「魔王か……そうね、本当にそうだわ」

「私達が……咲さんを?」

「そうよ、それが……私達の罪」

 

 

 白糸台高校 控室  

 

「照……見ろ、お前の妹が……笑っている」

 その強烈な宮永咲の笑い顔は、弘世菫の記憶にあるものだった。昨年の白糸台の代表決定戦で、宮永照が見せた笑い。永久連荘。1人で10万点を削りきった時に見せた笑い顔に似ていた。

 ――照がテーブルを両手で叩いた。その反動で上に載っていたカップが落ちて割れた。亦野誠子が片付けようとすばやく近づいていた。

「咲……ここでか? ここで、それか……」

 照は、画面を睨みつけ、怒りの表情で、聞こえるはずのない妹に話しかけていた。

「なんだ……なにが起こる?」

「一度だけ……一度だけこの咲を見たことがある……。その一度で、私の精神は、崩壊した」

 怒りと恐怖、どちらとも取れる顔。もちろん、こんな顔の照は見たことがない。それが、菫の不安を増大させた。声を出すのも辛かった。

「て……照」

「完全型だ……〈オロチ〉の完全型だよ」

 ついに声が出せなくなった。菫は、照の言った完全型の意味がなんとなく分かっていた。

「八岐大蛇は、八つの首と――」

「――八つの……尾か」

 照は小さく頷いた。そして、絞り出すような声で言った。

「嶺上開花、ドラ16……オーバーキル」

 

 

 決勝戦 対局室

 

(笑ってる、サキが笑ってる)

 大星淡は、宮永咲の笑い顔に気圧されていた。自分はW立直の両面待ち、他家の3人はまだ聴牌すらしていないだろう。断トツの優位性を持っていた。なのになぜか上がれる気がしなかった。

(サキ……私は、あなたに……負けてもいい)

 “完膚なき敗け”淡は心の中で、それを認めていた。

 

 

(凄まじいな宮永……)

 ネリー・ヴィルサラーゼは、3人の波動を掴みきっており、この局の結果も見えていた。他を寄せ付けない波動の持ち主がいた。彼女の勝利は決定的であった。

 ネリーは、その勝者になるであろう、宮永咲の本質について思いを巡らせた。

(宮永、お前の強さは……幻影だ。それは強力だが、敗れる時は儚いものだよ)

 疲労が限界に近いネリーは、こらえきれずに目を閉じでしまった。そして、その意識は来年を見ていた。

(楽しみだ……お前を倒すことが……できる)

 

 

 オーラス、8巡目。親の高鴨穏乃はおおいに焦っていた。大星淡のW立直もそろそろ危険ゾーンだ。そして何よりも、テリトリーに束縛している〈オロチ〉が動き始めているのだ。急がねばならなかった。

 穏乃は自摸牌を引いた。有効牌で聴牌した。捨てるべきは、淡の安牌である【九萬】だったが、なにか嫌な予感もしていた。

(咲さんは聴牌していないはずだけど……)

 もう一度〈オロチ〉を確認した。

(動いている、でも、まだ束縛は解けていない)

 穏乃は決断した。自分は上がらなければ勝利できない。ならば、迷う必要がない。ここで勝負しなければ、絶対に後悔する。そう考えて、穏乃は【九萬】を切った。

「カン」

 宮永咲が牌を倒して、穏乃の河から【九萬】を取っていった。そして嶺上牌を引いた。

「カン」

(連続槓……)

 穏乃の背筋は凍り付いた。

 咲は【一筒】を暗槓し、ドラ牌を2枚めくった。【三筒】と【八萬】で、咲のドラ牌は8枚になった。

(大明槓からの連続槓、これは!)

 ――〈オロチ〉が束縛を振りほどいた。繋いでいた蔦は引きちぎられ、周りを囲んでいた木々はなぎ倒されていた。8本の首が自在に動きまわり、辺りにいる生き物たちを喰い散らかした。障害として配置した岩などものともせずに〈オロチ〉は前進していた。もはや、穏乃には止めることはできない。その破壊と殺戮をおとなしく見ているしかないのだ。

 ――咲は再び嶺上牌に手を伸ばした。

「もう一個、カン」

 晒された牌は【四筒】、新たにめくられた槓ドラは【九筒】で、これでドラは16枚。そして咲は、3枚目の嶺上牌を掴み、直接表にして、その【二筒】を雀卓の上に置いた。

「嶺上開花、対々和、三暗刻、三槓子、ドラ16。32000です」

 ――その瞬間に〈オロチ〉は跡形もなく消えていた。後に残されたのは、原形をとどめない森林と多数の動物の死骸であった。穏乃は佇み、その惨状を眺めていた。

(よくも……よくもやってくれたね! この報いは、必ず来年受けてもらう。それがダメならその翌年。いや、今決めた……私の残りの人生、それをあなたにくれてやる! どこまででも追いかけてやる。絶対に逃がしませんよ! 咲さん!)

 穏乃はそう決意し、ブルブル震える手の拳を握りしめた。

 ――「……はい」

 長かったインターハイ団体決勝戦の最後の終局ブザーが鳴った。宮永咲が立ち上がった。大星淡も続き、おぼつかなくはあるがネリー・ヴィルサラーゼも立ち上がった。最後になってしまったが、穏乃も立ち上がった。それを確認した係員が合図をする。

「一同、礼」

「有難うございました」

 宮永咲が頭を上げて帰っていく。

(いいのか……このまま咲さんを返していいのか……)

 穏乃は自分の決意を咲に伝えたかったが、気後れして、次の一歩が踏み出せない。

「大星さん! いいんですか? 宮永さんが……」

 なぜかは分からないが、穏乃は淡の助けが欲しかったのだ。そう思って声をかけた。しかし、淡はそんな状態ではなかった。

 淡は泣いていた。立ったまま、目を開けて、声も出さずに、ただただ涙を流していた。それでも、口元には笑みを浮かべていた。

「大星さん……」

 淡が、その涙だらけの目で、穏乃を見た。そして、静かに言った。

「高鴨穏乃……」

「……」

「渡さないよ……宮永咲を倒すのは私だから」

「困ります……私もそう決めたばかりですから」

「そう……」

「はい」

 大星淡は穏乃に背を向けて歩き始めた。涙が止まることはなかったが、足取りは堂々としていた。

(大星さん、あなたは本当に強い。でも、あなたは私の敵です。敵の敵は敵。変な日本語ですが、咲さんに関しては曲げられません)

「大星……」

 いつの間にか座っていたネリーが淡を呼んだ。階段を下りかけていた淡は、立ち止まり、振り返った。

「高鴨も……お前たちは、来年もここに来るのか?」

「……」

「ゴメン、つまらない話をしたよ」

「いえ」

「宮永は強い、強すぎる。だから、彼女を攻略するヒントをあげるよ」

 穏乃は耳をそばだてていた。それは喉から手が出る程欲しい情報だったからだ。

「目で見えることがすべてではない……」

「それは……どういう意味ですか?」

「これ以上は教えられない……私達は大きな代償を払ったからね」

 淡はなにか心当たりがあるのか、小さく頷いて階段を下りていった。

「ネリーさん、帰れますか? 手を貸しましょうか?」

 対局中に気絶をしたネリーの容態が気になっていたので、穏乃は一緒に帰ることを提案した。

 ネリーは嬉しそうに笑顔になったが、首は横に振った。

「ありがとう、でもいいよ。きっと……仲間が迎えにくるから」

「そうですか」

 

 

 インターハイ団体戦 各校の最終得点

  清澄高校     137700点

  白糸台高校    103000点

  臨海女子高校    81600点

  阿知賀女子学院   77700点

 

 

 試合会場 通路

 

(こうなることは分かっていたはずだ。もしかしたら、照はそれを望んでいたんじゃないのか?)

 弘世菫の懸念のどおり、宮永姉妹は再び遭遇していた。今度の妹は〈オロチ〉ではなく、宮永咲のようであった。

「お姉ちゃん……」

「そうか……もう、咲なのか」

「うん」

 沈黙がおりていた。咲がなにかを話そうと口を開いたところで、宮永照が遮るように言った。

「個人戦だ……」

「……」 

 照はそれだけ言って、そのまま通り過ぎようとしていた。菫はその行動にイライラしていた。

(まったく、なんで照はいつもこうなんだ! 不器用にも程がある)

 しかし、菫は見ていた。宮永照はすれ違う時に、妹の宮永咲の右肩に手を置いて、優しく叩いていたのだ。咲は驚いたように短く息を吸い、振り返って姉を目で追っていた。

 ――やがて、咲は向き直り、前に歩き出していた。何度も目をこすりながら。

 菫も振り返り、照を見た。心なしか恥ずかしそうだった。

「なに?」

「……なんでもないよ」

「……」

(照……ちゃんと伝わったよ。 保証するよ、お前達は――)

「テルー!」

 大星淡が、走ってきた。そして、照に抱きついて号泣し始めた。まるで赤ん坊のように泣き続ける淡の様子を見て、渋谷尭深と亦野誠子も涙を流していた。

(なんでだろう……なんでこんなに悲しいのだろう)

 菫は、子供の頃から、人前で泣いたことはなかった。だが、今は抑えられない。涙を止められない。

「誠子……」

「は……い」

「頼む……」

「はい」

(これが精一杯だ。これ以上は話せない。なぜなら……私は今、泣いているのだろうから)

 弘世菫のインターハイは、涙をもって終了した。

 

 

 阿知賀女子学院 控室

 

「ただいまー」

 高鴨穏乃が控室に戻ると、みんな心配そうに声をかけてきた。そんなに気を使ってもらう筋合いはなかった。自分は精一杯やったし、後悔もしていない。負けたのは、たまたまの結果だと思っていた。だから穏乃は、みんなの真ん中に行って、両腕を上に突き上げて、大きな声で叫んだ。

「負けたー!」

 みんな驚いていた。そして穏乃は、振り上げた腕を下ろして、テーブルに置いた。あまり高くないテーブルなので、前屈姿勢になっている。

(あれ? 変だな……涙が……)

 両目からこぼれた涙は、頬を伝わらず、そのまま滴となり、テーブルに落ちている。

 穏乃は、それを見つめながら、声を震わせて言った。

「負けるって……こんなに、こんなに悔しいものだったんだね……」

 新子憧が、テーブルの穏乃の手に、自分の手を重ねてきた。

「来年だよ……来年、清澄を倒すのは……私達阿知賀だよ」

 憧も泣き声だった。

(そうだ……憧の言うとおりだ。でもね、私には譲れないものがある……)

 ――頭を上げて、涙を拭いた。穏乃はその決意を阿知賀女子学院 麻雀部全員に告げた。

「来年、清澄を倒すのは、私達阿知賀です。でも、宮永咲を倒すのは、この私です」

 

 

 決勝戦 対局室

 

「やあ」

 それは意外だった。階段を真っ先に上ってきたのは、メガン・ダヴァンでも辻垣内智葉でもなく、監督のアレクサンドラ・ヴィントハイムであった。

「ネリー、どうだった?」

「はい、宮永の弱点は分かりました」

「そうか……」

 アレクサンドラは、遅れてきたメガンと智葉に指示を出した。2人はネリーの左右に分かれて肩に担いだ。

「監督……来年勝つのは――」

「ネリー、分かりきったことは言わなくてもいい」

 当然だと言わんばかりのアレクサンドラの対応だった。

「ネリー、戻りマスヨ」

「無茶しすぎだよ……」

 メガンと智葉がネリーを労った。

 ネリーの悪い癖が出た。ついつい反発してしまう。

「だって昨日、メグが言ってたよ。当たって砕けろだったかな、なんかそんな感じ」

 みんな笑ってくれた。郝慧宇も雀明華もメガン・ダヴァンも辻垣内智葉もだ。だがアレクサンドラ・ヴィントハイムは違った。真剣な顔でネリーに訊ねてきた。

「ネリー、お前は、来年も大将でいいか?」

「監督……分かりきったことは、聞かないでください」

「ふふふ」

 ようやく全員で笑うことができた。ネリーは幸せであった。それは幼少期から数えて、およそ10年ぶりに味わう、すばらしい時間であった。

 

 

 清澄高校 控室

 

 原村和は麻雀部部長の竹井久の指示を待っていた。本当はすぐにでも宮永咲の元に行きたいが、場合が場合であった為、それを抑えていた。

 その久は、優勝が決まってから、ずっと下を向いたままだ。

「まこ……どうしよう……私、泣いているわ」

 久が顔を上げた。言葉通りに久は顔をくしゃくしゃにしていた。染谷まこは、そんな久の背中を叩いて言った。

「ええ、ええんじゃ! 泣いてええ、わしが許す。よう頑張った! よう頑張ったで部長」

「うん……」

 久は感極まっていた。きっと辛かったことを思い出しているのだろう。彼女にはそれがたくさんありそうだった。

「部長、指示を出して、みんな待っちょる!」

 久は、一度鼻をすすってから、まこの言った指示を出した。

「みんな……咲を迎えに行くわよ」

 和達は歓声を上げて飛び上がり、宮永咲の元に駆け出した。

 

 

 試合会場 通路

 

 原村和はもの凄い速度で走っていた。それは、片岡優希をも置き去りにするぐらいであった。

もうすぐ宮永咲に会える。そう考えると和の足はどんどん加速していく。

 ――遠くに宮永咲が見えてきた。彼女も和が見えたらしく、走り出していた。

「和ちゃーん」

(帰ってきている、私の咲さんが帰ってきている)

「咲さーん」

 和と咲はそのまま近づいていって、スピードを緩めて抱き合い、膝をついて倒れた。そして、言葉は交わさず、ただ2人で泣いているだけであった。そこに片岡優希が加わり、染谷まこと竹井久も加わった。清澄高校 麻雀部の塊となって、ただひたすら泣いていた。しかし。それは、悲しみの涙ではない。頂点に立つ5人だけが得られる歓喜の涙なのだ。

 インターハイ団体戦の覇者、それは、長野県代表 清澄高校であった。

 


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