咲〈オロチ〉編   作:Mt.モロー

10 / 66
10.アイデンティティ

 競技麻雀は、一般的な麻雀に比べて時間がかかる。半荘が1時間を超えることも珍しくなく、正午より始まったこの決勝戦も、先鋒戦の宮永照の連荘や、次鋒戦の流局の多発によって、現在は5時を過ぎていた。インターハイ運営本部は、このペースで進行すると競技終了が深夜になることを懸念し、1時間の夕食休憩を40分への短縮を通達してきた。

 

 

 白糸台高校 控室

 

「菫が、流局ばっかするから、休憩時間が減らされた」

「私のせいか? よく考えてくれ、照の前半戦はやたらと長かっただろう?」

「あれはいいんだよ、だって、点数を増やす為だから」

「ああ、すみませんね、点数を減らしてしまって」

 大星淡の嫌味に、弘世菫は楽しそうに対応した。次鋒戦までの結果に、菫は、それなりの手応えを感じていたのだ。

(なにせ次は尭深だからな)

「このお弁当おいしい」

 渋谷尭深が運営本部から支給された弁当を食べながら言った。

「銀座の高級弁当だね、TVで見たことあるよ」

 亦野誠子が答えた。彼女もおいしそうに弁当を食べていた。

 確かに美味い弁当であった。おばんざいが12舛ほど並べられた京懐石弁当は、菫の口にも合っていた。

「去年は……酷かった。よく分からない仕出し弁当だった」

 宮永照が尭深に言った。普段は無表情に近い照ではあるが、好みのものを食べている時は表情が緩む。今がそうだ。

 菫は、尭深に目を向けた。この物静かな2年生は、驚異的な爆発力を秘めていた。第一捨て牌を最終局に引き戻すことができる力〈ハーベストタイム〉。あり得ない能力であった。まさに、小鍛冶健夜の言った「常識の範囲外」であった。しかし、菫はその現象を幾度となく目撃していた。

(究極の渋谷尭深……それが実現すれば)

 尭深が菫の視線に気がついた。

「サイコロ次第です。前半か後半、どちらかでラス親になれば……」

「終わるか?」

「良い収穫を得るのには良い肥料を与えなければいけません。だから、かなり点数を減らしますが……」

「14スロット揃ったらどうなるの?」

 淡であった。淡は、尭深がその力を隠していることを知っていた。練習中のラス親発生時は、意図的にスロットを増やさなかったり、上りを放棄していることがあったからだ。つまりは、ラス親連荘の可能性をメンバーにすら見せていなかったのだ。

「私が悪魔に見えると思うよ、淡ちゃん」

 尭深は、箸を休め、自前の急須から、茶碗にお茶を注ぎながら言った。

「ただ……今回はそうなる気がする」

 尭深の穏やかな表情の陰に、悪魔が見え隠れしていた。

 

 

 臨海女子高校 控室

 

 辻垣内智葉は、目の前の惨状に言葉を失っていた。高級京懐石弁当が、色鮮やかな調味料達で見るも無残にデコレートをされていた。

「監督……おいしいですか?」

 アレクサンドラ・ヴィントハイムは、茄子の炊たんにケチャップを大量にかけて、美味そうに食べていた。

「うん、おいしいよ。私は京都料理が大好きだ」

 知っているのなら、普通に食べたらどうだと反論したくなった。

 だが、アレクサンドラは、まだまともなほうであった。

「メグ……」

「なんデスカ?」

「それなに?」

 メガン・ダヴァンは、おひたし系のおばんざいを、小皿に一つにまとめてグレービーソースで頬張っていた。

「おばんざいのメガン・スペシャルデス」

「あはは、メグは味覚センスがないからね」

 郝慧宇がメガンを見て笑っていた。しかし、彼女のテーブルの前にも、ラー油をはじめ、様々な調味、香味料が置かれていた。

「無礼者! イギリス人とは違いマス! おいしいものは分かりマス」

「ただ、まずいものが分からないんだよね。アメリカ人は」

「ネリー、そんなに褒められては照れまスネ」

 智葉は頭が痛くなっていた。――横を見ると、雀明華が静かに弁当を食べていた。もちろん、その弁当もフレンチスタイルに色付けされていた。

「口に合わない?」

「いえ、おいしいですよ。でも、タマゴが」

「卵? 入っているよ」

 智葉は、自分の弁当から、だし巻き卵を箸でつまみ、食べてみせた。

「いえ、その卵ではありません」

「ああ、魚卵だね」

 雀は、イクラなどの魚卵に目がなかった。和食の弁当なのにそれが入っていないと嘆いていたのだ。

「じゃあ、優勝した後の打ち上げで食べに行こうよ」

 智葉が笑顔で、雀に言った。

「はい」

 雀も笑顔で返事をした。その近くで、メガン達3人が、箸を止めて真剣な眼差しで智葉を見ていた。

「み、みんな一緒だよ」

 3人は安心した顔つきで食事に戻っていった。

「雀、中堅戦、取りにいけよ」

 少食のアレクサンドラが箸を置いて言った。弁当は半分ほど残っていた。

「もちろん。でも、その前に」

「清澄か?」

「借りは、きちんと返さないといけません」

 〈風神〉と呼ばれた雀明華。その恐ろしさを智葉はよく知っていた。だが、次の中堅戦には、その〈風神〉をも打ち倒すことができるモンスターがいると考えていた。

(確かにサイコロにもよるが……監督は甘く見すぎじゃないのか? あいつは……やばすぎる)

 智葉の言う「あいつ」とは、白糸台高校 渋谷尭深のことであった。

 

 

 清澄高校 控室

 

 各校の控室は、外部との通信は遮断されていたが、スマホやPCの持ち込みは許可されていた。原村和は、新子憧について聞いてきた宮永咲に、小学校時代の写真を見せていた。

「本当によく似てるね」

 いつもと同じ素振りで咲は話していた。〈オロチ〉状態を意識させまいという気遣いに、和は嬉しさを感じていた。だから、和も自然に振る舞っている。

「咲さん、こっちを見て下さい。目は穏乃にそっくりですよ」

「本当だ。前に言ってたのはそういうことだったんだ」

 それは、和の片岡優希に対する第一印象の話だった。「奈良の友達2人によく似ていて驚いた」和は咲にそう伝えていたのだ。

「じゃけど、小6の憧ちゃんと、今の優希がそっくりって……」

 染谷まこは、優希の全身を確認しながら言った。

「大丈夫、そういう趣味のやつもいるじぇ。な、京太郎」

「……」

 須賀京太郎は、なにを言ってもどツボにはまると考え、沈黙を選択した。

「変態……」

「咲! 姉妹で、俺を変態扱いしないでくれよ!」

 京太郎は、情けない顔で咲に懇願していた。

「姉妹で? 須賀君は宮永照に会ったの?」

 竹井久が、京太郎に質問した。

「こいつは、先鋒戦の休憩中に、変態行為をしている所を、照姉ちゃんに見られたんだじぇ」

「変態行為ってなんですか?」

 和は、京太郎をうろんな目つきで見た。

「事もあろうに、公衆の面前で、私を押し倒し――」

「誤解を招く発言はやめろー!」

 京太郎は、大声で優希の言葉を遮った。

「あははは」

 咲が笑い出した。本気で笑っているらしく、いつものはじけるような笑顔であった。

(……姉妹とは、そういうものなんですね。仲違いをしていても、心の奥底では、深く繋がっている。――早く仲直りができるといいですね。咲さん)

 和は、咲の笑顔を、飽きもせずに眺めていた。

 

 

 決勝戦 テレビ中継 実況席

 

 テレビ中継も、夕食タイムとなっていた。選手たちとは異なり、弁当はTV局から支給されたカレーライスであった。小鍛冶健夜と福与恒子は、それを文句も言わず食べていた。

「すこやん、今日、なんか変」

「変? どの辺が?」

 健夜は、カレーがかなり辛いらしく、側にある水に手を延ばした。

「話したくないことがあるみたい。宮永咲とか、阿知賀とか」

「そ、そんなことないよ……ただ、咲ちゃんを見るのが、楽しみなだけだよ」

「……まさか」

「……な、なに?」

「宮永姉妹をスカウトして、最強小鍛冶軍団を作るつもりでしょ?」

「……」

 健夜は、煩わしそうに目を背け、食事に戻っていた。

 

 

「ところで、中堅戦だけど、どこに注目すればいい?」

 いい加減に見える恒子ではあるが、こういった切り替えはすばやかった。

「うーん、憧ちゃんかな?」

「憧ちゃん? 阿知賀の新子憧?」

「うん、あの子は、前の試合でセーラちゃんと手が合いすぎたから」

「千里山の江口セーラね、対等に渡り合ってたよね」

 恒子は調子よく相槌をうった。

「手が合う相手っているよ。憧ちゃんにとって、直球勝負のセーラちゃんがそうだよ。だけど、今回の面子は変化球投手ばっかり。前回のイメージで戦うと、最悪の結果を招きかねない」

「それは、彼女が実力以上の背伸びをするってこと?」

「違うよ、憧ちゃんは窮地に立たされたら、かなり無理をすると思うんだよ」

「そりゃそうだよ、すこやん。阿知賀だって勝ちたいだろうから」

 健夜は真剣な表情で答えた。

「それを、手ぐすね引いて待っているモンスターがいるんだよ。中堅戦には」

 

 

 阿知賀女子学院 控室

 

 控室で食事をしていたのは、高鴨穏乃、新子憧、鷺森灼の、3人だけであった。次鋒戦を終えた松実宥も、妹の松実玄と同様に仮眠室で寝ていた。監督の赤土晴絵も、部屋の奥にあるソファーで横になっていた。

 

「灼はそれを信じてるの?」

 憧は、冷たく質問をした。

「可能性を否定しちゃだめだよ。〈過去に例がないから起こらない〉じゃなくて、〈過去に例がなくても起こりうる〉と考えなきゃ」

「そんなの原則論だよ、私達は試合しているんだよ、現実を見ようよ灼」

 憧と灼は、渋谷尭深のラス親連荘の可能性を話し合っていた。穏乃は、憧の意見に分があるように思えていた。最後に16000点を奪われる公算が大きいのなら、それ以上を稼いでおかなければならない。まだだれも見たことのない〈ハーベストタイム〉の連荘を恐れ、点数を大きく減らしては元も子もない。憧はそう言っていた。

(今回は相手が悪すぎるからね、世界ランカー雀明華、清澄高校部長の竹井久、憧は速攻で勝負するしかないよ)

「玄が宮永照から役満を上がったのは現実だよ! あれは、憧にとって、確率の高いことなの!」

 めったにない灼の大声であった。憧も穏乃も、その勢いにのまれていた。

「なかなかゆっくりできないね……」

 晴絵が起き上がり近づいてきた。

「晴絵、大声出してゴメン」

「いいよ」

 晴絵は右手で灼の頭を撫でた。そして、あくびが我慢できなくなり、口を手で隠し、ふうと、息を吐いた。

「憧……」

「……」

「実は私も信じてないんだ」

「は?」

 3人は、目が点になっていた。晴絵は、意に介さずに笑いながら言った。

「だって、ありえないよね。役満なら、それが延々と続くんだよ。『そんなオカルトあり得ません』だよね」

 憧と穏乃は吹き出してしまった。原村和とはあまり馴染みのなかった灼は、ぽかんとした表情で晴絵を見ていた。

「でもね……」

 笑顔ではあったが、晴絵の目は笑っていなかった。

「嫌な予感がするんだ……そのオカルトが実現する予感が」

 晴絵は、憧ではなく、穏乃を見ていた。

「穏乃……そうだろう」

「……」

 図星であった。宮永咲とは別の嫌な空気。穏乃は、それを感じていたのだ。

 

 

 清澄高校 控室

 

「渋谷さんは、荒ぶる神です」

「荒ぶる神?」

「はい、扱いを間違えると、取り返しのつかない災厄に見舞われます」

「咲、あなたは、渋谷尭深のラス親連荘があると思っているの?」

「あります。それが、発動すれば止められない。この試合は終わります」

「スロットを増やさなければ、穏やかな神様でいてくれるかしら?」

「ええ、部長や雀さんは、大丈夫だと思いますが、問題は新子さんです」

「阿知賀の?」

「荒神の要求する贄、それが彼女だからです」

 宮永咲は無表情で話していたが、その目は笑っていた。残酷な目であった。咲もまた大星淡という贄を欲していたのだ。竹井久は、その目に戦慄を覚えていた。

 

 

 決勝戦 対局室

 

 前半戦は既に開始されていた。開始時の席順と持ち点は以下のとおりになる。

 

 東家 竹井久   43500点

 南家 雀明華  120200点

 西家 渋谷尭深 174700点

 北家 新子憧   61600点

 

 東一局と二局は、新子憧が副露を絡めて、3900点を2連続で上がった。彼女らしい、すばやい攻撃であった。このまま、早上がりで主導権を握るかに思われたが、インターハイ決勝の舞台は、それほど甘いものではなかった。

 東三局。清澄高校 竹井久が反撃を開始した。

 

「リーチ」

 11巡目、竹井久は、三色同巡、断公九、ドラ2で立直をかけた。上がれば12000点であった。【八筒】の単騎待ち。既に前巡で聴牌していたが、この【八筒】を自摸したことにより、久は立直に踏み切ったのだ。

(2副露の憧ちゃんは、ポンの直後に赤ドラを切っているし、多分、対々和狙い。でもまだ聴牌はしていない。この【八筒】は彼女が持っているように思える)

 久は咲から、憧を追い詰めるなと忠告されていた。そして、自分自身も阿知賀は保護しろと、メンバーに命じていた。しかし、現状を考えると今回は例外で、先ずは最下位からの脱出が最優先事項であった。このチャンスは逃したくなかった。それに前半戦は、渋谷尭深がラス親にならなかった。ならば、ここは自由にやらせてもらう。

(憧ちゃんは、和によく似た打ち筋だけど、まだまだ未完成。外部からの要因や、自分自身の欲求で、ぶれることが多い。この【八筒】、彼女が持っていたら、必ず振り込む)

 

 

 竹井久の立直を受けて、新子憧は、ついに来るものが来たと思っていた。

(清澄の部長さん、これ三色だよねー。しかもリーチでタンヤオだろうから、結構高いなあ、聴牌してないし、降りるしかないよね)

 とはいえ、相手は悪待ちの竹井久であり、危険牌が予想し辛かった。参考になるのは、試合前のミーティングで赤土晴絵から聞いていた、久の悪待ちの傾向であった。

(「悩ましいことに、リーチが必ず悪待ちとは限らない。だが、悪待ちの場合は、河に見えている牌を選ぶ傾向にある」)

 降りるにしても、両方の可能性を考慮しなければならなかった。憧は自分の手牌と河を見比べていた。

(対子が3っつ【二萬】【四萬】【八筒】と安牌の【七索】、今自模って来た【八萬】なんて、河に2枚出てるし、お得意の地獄単騎待ちだよね)

 憧は、とりあえず安牌の【七索】をすてて、様子を見ることにした。

 そして次巡――事態は好転しなかった。対子のどれかを切らなければならなかった。

(これが、この人の怖さなんだろうな。聴牌されると疑心暗鬼に襲われる)

 結局、憧が最後に頼ったものは消去法であった。相手が竹井久である以上、地獄待ちに該当する牌は真っ先に除外した。【二萬】【四萬】も三色同順に絡む牌と予測されたので外した。そうなると、残るのは【八筒】しかなかった。

(今出せる結論はこれしかない。――振り込んでも仕方がない。でも、次はもっと範囲を狭められる)

 憧は【八筒】を捨てた。

「ロン」

 竹井久が牌を倒した。まるで、自分が切るのが分かっていたような単騎待ちであった。憧は、その結果に顔をしかめたが、「はい」と返事をして、久に点棒を渡した。

(まあ、いいわ。次は私の親番だから、少し戻さなきゃ)

 しかし、それは果たされなかった。東四局は〈風神〉が降臨した。8巡目にして、混一色4面待ちで聴牌し、即立直をした。そして、11巡目に自摸和了。自風牌も加わり、跳満の12000点であった。憧は親かぶりで、更に6000点を失っていた。

 

 

(うわあ、怖い怖い。このスピードで跳満かあ、風牌が集まるってのは、チートすぎるわよね)

 竹井久は、雀明華を眺めて考えた。

(前回は、何度か出し抜くことができたけど、今回はどうかな、なんか本気っぽいし)

 久の耳に、なにかのリズムのような、規則正しい息遣いが聞こえてきた。それは、久の記憶にもある、雀の歌のリズムであった。

(この子……歌っている)

 雀は久の目線に気がつき、顔を向けて、ニッコリと笑った。

(やっば)

 久は、焦っていた。雀明華が歌うのは攻めに転じた時、だから、こちらもアクセルを踏まなければならない。

 南一局 9巡目 白、一盃口で立直、上がれば7700点であった。そして、12巡目、これまで、動きのなかった人物からの振り込みがあった。

「ロン」

「――はい」

 渋谷尭深が久に振り込んだ。それは、違和感の塊であった。これまで堅実な打ち筋を見せていた尭深が、あからさまに、危険牌を切ったからだ。

(この子……点数の低い私に連荘させて、ストックを増やしたいのね)

 7700点は、決して安手ではない。それを平然と捨ててくる尭深の狙いは、当然最終局にあった。

(最後の親は憧ちゃんだからね。首尾一貫しているわ、恐ろしいほどに……)

 久は、白糸台の執拗さに危惧の念を抱いていた。しかし、仮想敵の目的がはっきりしたからには、やるべきことは決まっていた。それは、得点を重ねることであった。

 

 

 清澄高校 控室

 

 南一局一本場も、竹井久が6300点で自摸上がりした。清澄高校麻雀部メンバーは、モニターに向かって歓声を上げた

「おし! 連荘じゃ」

「これで、優希のところまで点数を戻しましたね」

 染谷まこと原村和は嬉しそうだ。 

 久の活躍により、清澄高校は点数を63500点まで戻していた。それは先鋒戦終了時の点数と、ほぼ同じであった。

「このパターンは、今回で3回目だじぇ……」

「面目ないのう、わしのせいで点数を減らして」

 まこは、苦笑いしながら片岡優希に言った。

「でも、その時は必ず部長が挽回して勝ってるじぇ、ひょっとして、染谷先輩が凹むのは、うちの必勝パターンなのか?」

「……あんたの科白に、わしが凹むわ」

 まこは、優希に恨めしそうにつぶやいた。

「風神が……」

 宮永咲は画面に釘付けになっていた。南一局二本場は始まっており、配牌も終了していた。映し出されていた雀明華と竹井久の手牌は不自然すぎた。雀には【西】が3枚と【南】が2枚、久には【東】が3枚と【南】が1枚あり、2人共、既に一向聴であった。

 まこの顔色が変わり、咲へ振り返った。

「これは…風神の力か?」

「分かりません。でも、あの場には……今、風が吹いているはずです」

 

 

 決勝戦 対局室

 

(咲と優希が言っていたわね、確か、県個人戦の南浦さんだったかしら、雀卓で風を感じたって)

 竹井久もその感覚が理解できた。目前にいる風神から、その風が吹いていたのだ。

そして、この手牌。雀明華が要求しているものは決まりきっていた。準決勝で久が勝利した風牌争奪戦のリベンジ。風神の力と悪待ちとのパワーゲームの再戦であった。

(いいわよ……今回も私がもらうわ)

 麻雀は表情を露にしてはいけない競技である。だから、久もポーカーフェイスを貫いていた。しかし、心の炎は燃えたぎっており、打牌に思わず力が入ってしまった。

 雀は、良い音で捨てられた久の牌を見て、静かに笑っていた。

 

 

 臨海女子高校 控室

 

 ネリー・ヴィルサラーゼは、雀明華の悪い癖が始まったと考えていた。外観とは裏腹に、彼女は頑固で、自分の力へのこだわりが強かった。

(まったく、これじゃあメグのデュエルと同じだよ)

「ネリー、どうデスカ?」

 隣で、メガン・ダヴァンが聞いた。この展開が決闘であることを彼女も認識していた。そして、どちらに分があるかを、ネリーに確認してきたのだ。

「このまま進めば、雀が勝つよ」

「変化点があるとしたらなんだ?」

 追加の質問がアレクサンドラ・ヴィントハイムからされた。雀は跳満の一向聴なので、上がれば一気に白糸台との差を縮められる。それは、監督として望ましいことであった。

「清澄に連荘させたいやつがいるからね」

 ネリーの読んだ波は不安定であった。なぜなら、画面に映る場には、強力な磁場を発生する者がいたからだ。――その者、渋谷尭深は、今のところ、穏やかで動きがない、しかし、ネリーは彼女に、あの宮永咲と同類の恐ろしさ感じていた。

 

 

 決勝戦 対局室

 

(【南】1枚……またこれで待てと? いいわ受けてあげる。だけど、すぐリーチするほど馬鹿じゃないわ)

 4巡目、竹井久は聴牌していたが立直をかけなかった。理由は簡単、それは自殺行為であったからだ。仕かけられた罠に飛び込むようなものであった。

(条件は2つ、雀が先にリーチをかけること。もう1つは、白糸台が動くこと)

「リーチ」

 そう考えた矢先、雀明華がリーチをかけた。

(まだよ、その誘いには乗らない)

 

 

 雀明華の手牌は、【西】の刻子【南】の対子、そして残りは索子で染められていた。待ちは、竹井久と奪い合う【南】であった。

 自分でも馬鹿馬鹿しいと思っていたが、準決勝でしてやられて、負けたままでいるのも癪に障った。だから今回リベンジを決意した。雀は、それが自分の欠点であることも、十二分に理解していた。

(どうですか? 逃げますか? それならそれで結構です。私は納得できます)

 自分にとっての脅威を見極めなければ気が済まなかった。それは、宮永照や末原恭子と同系の考え方であった。

「カン」

 竹井久が【東】を暗槓した。

(そうですか、イレギュラーを加えましたか……でも、リーチしない、慎重ですね)

「ポン」

 7巡目、新子憧の【四萬】を渋谷尭深がポンをした。

(……この子、私の支配をものともせずに自摸をずらしてきた。大したものですね、智葉が警戒するのもよく分かります)

「リーチ」

 久が尭深の鳴きにより、ここぞとばかりに立直した。雀は好敵手の出現に心が躍った。

(さすがです。ここまで耐えることができるのですから。しかし、迂闊すぎました。渋谷尭深の動きは予想できています)

 雀の自摸番、引いてきた牌は【南】ではなかった。その牌を河に捨てた。

(あなたは良い風が吹くのを待っている……)

 9巡目、久の自摸であった。彼女もここで【南】を引かなければ負けを確信しているのであろう、ゆっくりと手を伸ばす。指での盲牌で顔色が落胆の色に変わった。そして、自摸牌の【一筒】を捨てる。

(そうです……それはありえません。私がなんと呼ばれているか思い出してください)

 再び場に風が吹いていた。雀は、その風と共に【南】を引き当てた。

(〈風神〉雀明華。私はそう呼ばれています)

「自摸、立直、面前、W南、混一色 3200、6200です」

 雀明華は、準決勝の雪辱を果たした。

 

 

 新子憧は、自分にできることがなにか考えていた。点数も1万点以上減らし、最下位にもなっていた。ならばなにをすべきか、それを考え抜いていた。昨日、高鴨穏乃が自分に「憧は、憧の打ち方で勝負すればいい」と言った。それが問題であった。自分の打ち方とはなにか? 憧はその答えが分からなかった。

(私は、高火力な打ち合いはできない)

 準決勝で千里山女子高校の江口セーラが言っていた。

(「3900を3回上がるより、12000を1回上がるほうが好きだ」)

 4回に1回上がれば上出来の麻雀では、その言葉は真理と思えた。しかし、自分にはできない。

 原村和の打ち方は理想ではあるが、彼女のような過度なデジタル依存にはなれなかった。それによって全中制覇をした和とは違い、憧は結果が伴わなかったからだ。

 ――阿知賀のメンバーで自分自身を確立しているのは、準決勝で化けた高鴨穏乃だけ。そして、この決勝で死闘を繰り広げた松実玄や、辛い神経戦を戦い抜いた松実宥もそうなるだろう。だとすると、残るのは、部長の鷺森灼と自分だけ。

 憧は、答えを切望していた。自分自身とはなんなのか? 

(試すしかない! ここにいる猛者たちを相手に、自分の力がどこまで通用するか)

「ポン」

 憧は竹井久の捨てた【発】を副露した。

(鳴きは私の武器、だからそれを使う)

 確かに、それは憧の武器であった。むやみやたらではなく、ここぞという時に鳴いて、そのまま上がる。その確率が高かった。だから、対戦相手の記憶に残る。そして、それは警戒されるのだ。

(雀明華に連荘させない。私が速攻で終わらせる)

 ラス親の憧は、渋谷尭深の役満を恐れていた。16000点のマイナスは、なにがなんでも避けなければならない。

(10スロット以内に収めなきゃ)

 その思いが自摸牌に伝わった。

「ツモ、1000、2000」

 南二局は、憧の8巡目での速攻で終了した。僅かではあるが盛り返し、清澄高校との点差を5000点までに縮めた。

 

 

 阿知賀女子学院 控室

 

「憧……」

 高鴨穏乃が、画面を見て心配そうにつぶやいた。本来は喜ぶべき状況だが、穏乃は新子憧の迷いを見抜いていた。

 赤土晴絵も心配であった。なにしろ、昨日の小鍛冶健夜との打ち合わせでも、この中堅戦は最大の懸念事項だったからだ。渋谷尭深の潜在的な能力は、健夜でも分からないと言っていた。そして新子憧の心理面だ。良くも悪くも反骨精神に溢れる憧は、渋谷尭深との相性が最悪であったのだ。

「シズ」

「はい」

「休憩中は憧に会いに行って」

「ええ、それで、助言は?」

「助言はシズに任せる」

 晴絵の顔は険しかった。鷺森灼はそんな晴絵に苦言を呈した。

「晴絵、それじゃあ負けちゃうよ……」

「かもしれない」

 晴絵は画面を見続けていた。そして、指導者らしく、毅然たる表情で言った。

「でも、私は憧を信じる。阿知賀の奇跡を信じる」

(――奇跡を信じるなんて私は指導者失格だ。でも、この子達を見ていたら、そんな奇跡も信じたくなるわよね)

 表情には出さないが、晴絵の心は、教え子達への感謝の気持ちでいっぱいであった。

 

 

 決勝戦 対局室

 

 南三局、竹井久は、ふと寂しさが込み上げていた。

(もう南三局かあ、もうすぐ前半戦が終わるのね、そうしたら、残りは半荘一回だけ)

 麻雀を愛して止まない久ではあるが、そのキャリアは忍耐の一言で括られるものであった。家の事情で棄権したインターミドルから始まり、部員不足で悔し涙を流した高校の2年間。それらの思いがすべて凝縮されて今があった。だから、この試合が終わるのが寂しかったのだ。

 8巡目、久は断公九、一盃口で聴牌したが、リーチしなかった。待ち牌は【三筒】の嵌張待ちだった。

(私らしいわ、いい待ちができないわね)

「リーチ」

 雀明華は歌っていた。久にはそのリズムが聞こえていた。

(そう、まだ攻めるのね、それじゃあ私も……おもてなしをしなきゃね!)

 9巡目、久の自摸牌は【六筒】、持っていた【二筒】を曲げて捨てた。

「リーチ」

 待ち牌を【三筒】から【五筒】の嵌張待ちに変えた。ただし、【三筒】は河に1枚も見えていなかったが、【五筒】はもう2枚出ていた。残りの1枚は赤ドラのみ。

(またあなたと我慢比べね……私のほうが圧倒的不利だけど)

 竹井久は待つことに慣れていた。もちろん、自分で望んでいたわけではないが、これまでの人生は、常にそれが付きまとった。だから、自分の打ち筋にもそれが反映されている。久は、悪待ちをそのように定義していた。

(和が聞いたら激怒しそうだけど、この待ち方は私のアイデンティティみたいなもの。だから、この待ち方で勝利を掴む)

 10巡目、互いに上がれなかった。新子憧と渋谷尭深は完全に降りていたので、2人の一騎打ちになっていた。

 11巡目から16巡目まで、焦れるように自摸を重ねていた久と雀であるが、17巡目にその結末は訪れた。

 雀はその牌、赤ドラ【五筒】を自模り、動きが止まっていた。

(そうよ、まさかこんな牌で、それがあなたの感想でしょう? だけど、現実なのよ。――いえ、違うわ。……それは、私の悪待ちが見せる悪夢よ)

「ロン、立直、断公九、一盃口、ドラ1 8000」

 準決勝に続いての、世界ランカーへの直撃、久は、その感激に打ち震えていた。

 

 

 決勝会場 観覧席

 

「キャプテン?」

 吉留未春は、主将の福路美穂子の様子がおかしいことに気がつき、声をかけた。池田華菜が間にいて、周囲も歓声に沸いていたので、美穂子には届かなかった。代わりに華菜が未春を見ていた。

「どしたの? みはるん」

 未春は美穂子を指差した。華菜は、その方向に頭を動かす。

「キャ、キャプテン! また泣いてるし!」

 美穂子は両目を開けて大型モニターを見ていた。その目は涙に濡れていた。

「ご、ごめんなさい……なんだか……感動しちゃって」

「キャプテン、とりあえず涙を拭きましょう」

 そう言って、華菜はハンカチを取り出し、美穂子に渡そうとしたが、逆の方向から、既にそれは差し出されていた。

「こんな待ち、久にしかできない……しかも、それで勝ってしまうのだからな……」

「ええ……」

 加治木ゆみの差し出したハンカチを美穂子は受け取った。しかし、涙は拭かなかった。2人で泣きながら画面を眺めていた。

 

 

 決勝戦 対局室

 

 オーラスが開始された。親の新子憧は、これまでの渋谷尭深の第一捨て牌を思い出していた。【発】が3回、【中】【白】【六筒】が、それぞれ2回であった。

(数が少ない、狙うとすれば、大三元か小三元よね。だけどそれには時間がかかる、だから、私にもチャンスはある)

 とはいえ、憧の手牌には、【白】が1枚あった。切るのが難しい牌ではあったが、勝負するのなら、早い段階で切らなければならなかった。

 3巡目、平和の一向聴。憧は【白】を捨てることを考えたが、尭深の手が絞り切れなかったので、もう一巡だけ待とうと決めた。

 さっきまで、鍔迫り合いをしていた雀明華と竹井久は勝負を諦めていた。なんとかやり過ごそうという姿勢が見えていた。

 4巡目、良い自摸が続き、憧は聴牌していた。しかし、攻めきるのならば【白】を切る必要がある。

(大三元にしろ小三元にしろ、3巡では、よほどの運がなければ聴牌できない。ここは……)

 憧は【白】を河に出した。だれもが尭深に食われると思ったが、その牌はスルーされた。

(ポンしないの……?)

 そして、尭深の自摸、迷うことなく牌を曲げてきた。

「リーチ」

 横向きに置かれた牌は【発】であった。

(七対子……)

 それは確実であった。あの配牌から、【発】を切っての立直、しかもこのスピード、七対子以外に考えられなかった。ならば、勝負するしかない。こちらは、平和の両面待ち、尭深は単騎待ちなのだから。

「通らば、リーチ」

 憧は、勢いよく【八萬】を切った。――しかし。

「ロンです。立直、一発、七対子、ドラ2、12000です」

憧の顔面は蒼白となった。中堅前半戦は終わりを告げた。

  

 

 前半戦の経緯と得点は以下のようになった。

 

  東一局      新子憧    4000点(1000,2000)

  東二局      新子憧    4000点(1000,2000)

  東三局      竹井久    12000点(新子憧)

  東四局      雀明華    12000点(3000,6000)

  南一局      竹井久    7700点(渋谷尭深)

  南一局(一本場) 竹井久    6300点(2100オール)

  南一局(二本場) 雀明華    12600点(3200,6200)

  南二局      新子憧    4000点(1000,2000)

  南三局      竹井久    8000点(雀明華)

  南四局      渋谷尭深   12000点(新子憧)

 

 中堅前半戦終了時の各校の点数

  白糸台高校   168700点

  臨海女子高校  129700点

  清澄高校     64300点

  阿知賀女子学院  37300点

 

 

 試合会場ラウンジ

 

 試合終了後、新子憧はすぐにここに来ていた。それは、落ち込む姿を人に見られたくなかったのと、一人になって、気持ちを整理する為であった。しかし、そこにはチームメイトの高鴨穏乃が待っていた。

「なにしに来たの?」

 不機嫌さを隠しもせずに、憧は言った。

「どうするの?」

「なにが?」

「何がって、後半戦だよ」

 穏乃も気を遣わずに言ってのけた。親友の憧にはそれが一番だと思っていたのだ。

「シズ……私は、和になれない……」

「……」

「でも、私は勝ちたい……だけど、どうすれば勝てるか、それが分からない」

 穏乃にもその答えは分からなかった。しかし、助言はできた。

「じゃあ探そうよ」

「え?」

「それを、後半戦で探すんだよ」

 憧の眉がつりあがる。

「そんなことしたら、負けちゃ――」

「負けない!」

 穏乃は憧の肩を掴んで、大きな声で言った。

「負けない! 絶対、憧は負けない!」

「……シズ」

「あ……ゴメン」

 そう言って、穏乃は肩の手を放した。

 憧は張詰めていた気が緩んでしまい、ソファーに腰をかけた。穏乃は、それを見て、隣に座る。

「さっきね、赤土さんが、変なことを言ってたんだよ」

「変なこと? なに?」

「阿知賀の奇跡を信じるだって」

「奇跡か……」

 憧は疲れた顔で答えたが、ずいぶんと穏やかな表情になっていた。

「私は、奇跡って言葉、好きだなー」

 穏乃は、無敵の笑顔で言った。

「シズ、奇跡じゃ勝負に勝てないよ」

「そうかな?」

「そうだよ」

「でも――」

「ばか」

 憧も笑顔を取り戻した。そして、立ち上がり、会場に戻ると告げた。

「探してみる……でもそれは、いい結果に結びつくとは限らないよ」

 そう言い残して、憧は立ち去った。穏乃は、それを見送っていたが、憧は振り返らなかった。やがて、彼女は角を曲がり、見えなくなってしまった。

 

 

 決勝戦 対局室

 

 竹井久は、いつものように、おでこに冷却シートを貼り付け、目を閉じていた。現状は、決して楽観できるものではなかったが、前半戦の結果には満足していた。しかし、好き放題やってしまったことによる良心の呵責はあった。

(優希とまこには悪いことしたな……あんなに制限をかけて。その私がこんなんじゃ……)

 ――不意に、この3年間の出来事が走馬灯のように頭をよぎった。麻雀部を立ち上げ、何もかもうまくいかずに落ち込んでいた時。まこの入部で希望が見えた時。そして、和や優希、咲が入部して夢が叶った時。それらのシーンが頭の中で回転していた。それは、辛くもあり、心地よくもあった。

 やがて、久は、目を開けて現実に戻っていた。

 目の端から、涙がこぼれていることに気がついた。久は、それをハンカチで拭いて、顔をぴしゃりと両手で叩いた。

(泣いている場合じゃない。闘いはこれからよ)

 

 

 既に全員集まっていた。席決めが始まり、仮東の新子憧がサイコロを振った。

 その結果は、悪魔が舞い降りることなった。

 

 東家 新子憧 

 南家 雀明華  

 西家 竹井久

 北家 渋谷尭深

 

 そう、白糸台高校 渋谷尭深のラス親が実現したのだ。

 尭深は、僅かに微笑んでいた。対戦相手の3人にとって、それは悪魔の微笑みに見えていた。

 

 

 白糸台高校 控室

 

「おい、やったぞ! 尭深がラス親だ!」

 弘世菫は、わざと大きな声で言ってメンバーの反応を確かめる。

(誠子は……笑っている。彼女らしいね。淡は複雑な表情か、やはり宮永咲と対戦したいのか? そして照は……相変わらずか)

 無表情の宮永照には、言葉で確認することにした。

「照、どう思う?」

「終わるよ……」

「そうか」

「今の尭深にはだれも勝てない。私でも、淡でも、そして……咲でも」

 菫は考えを改めた。照は無表情ではなかった。それは、淡のものよりも、もっと複雑な表情であった。

 


▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。