心細くしている儚げな褐色ロリに無償の愛を……
──雨の降りしきるあの日、僕はバイトの帰りに1人の女性と出会った。
邂逅の場所は、狭い裏路地。傘では通りづらく、人通りの少ない陰気なそこを通ろうと思ったのは、本当に気まぐれだ。
でも僕は、その日ほど自身の気まぐれというものに感謝したことはない。
路地を囲う冷たい壁にもたれる小さな人影は、男物の服を纏い、頭は大きな帽子ですっぽりと隠れている。けれど、その人が女の子であることと、帽子のつば越しに僕のことを眺めているのはすぐに分かった。
普通なら厄介事だ、と関わらないのかもしれない。相手は仮にも女性で、僕は男。もし声をかけたとしたら、下手をすると変質者だと叫ばれるかもしれない。
それでも、彼女が寒さに凍えていることを知ってしまっては、手を差し伸べないわけにもいかなかった。
「傘、もらってください。僕の家、もうすぐそこなので必要ないですから」
「ぇ……」
本当はタオルなども渡したかったが、あいにくその日に限って持ってきていなかった。
「受け取ってください。お願いします」
「ぅえ……けど……」
「お願いします」
僕の強引なやり方に、彼女はびくりと身を震わせ、恐怖に耐えるかのように服の余った裾を握り込む。明らかにサイズの合っていない衣服とその挙動が、より一層彼女の儚さを際立たせた。
場違いにもそんな彼女を可愛いな、なんて思ってしまう。
「すみませ……ちが、じゃなくて……」
彼女は頭を振り、言い直す。
「あ、ありが……ありがとう……」
それが初めて聞いた、彼女の感謝の言葉。感謝することに慣れてないのか、ぎこちないその言葉。けれど彼女が精一杯の気持ちを込めていることは、十二分に伝わっていた。
激しい雨の中、濡れ鼠で生気が抜けたように立ち尽くす彼女と、そんな彼女に傘を差し出す僕。
あの時、彼女がどんな顔をしていたのかまでは帽子のせいで分からない。彼女の震える肩の意味が寒さ以外にもあるのかなんて、分かるはずもない。
けれど、普通に感謝の念を抱くだけなら泣きそうな声になったりしない。
傘を渡されるという細やかな善意で泣きそうになっている彼女は、一体何を抱え込んでいるのだろう。どんな人なのだろう。
──その瞬間から僕は彼女を、ヤマカさんを求めた。
今にも消え入りそうなヤマカさんをもっと……もっとよく知りたいと思ったのだ。
――――
最近、僕こと来留主公人の生活は非常に充実していると言っていい。
家事が楽しい。アルバイトが楽しい。身だしなみを整えることが楽しい。献立を考えながら買い物をすることが楽しい。明日に期待しながら眠りにつくことが楽しい。彼女の顔色を伺いながら話すことが楽しい。彼女のために自分が頑張っていることが楽しい。彼女をからかうことが楽しい。休日を彼女とダラダラすることが楽しい。彼女と笑いあうことが楽しい。
すべて彼女の──ヤマカさんのお陰だ。
──誰かと一緒に暮らすことが、こんなにも楽しいなんて。
僕の両親は昔から家を留守にすることが多い。そのくせ過保護で、滅多なことでもなければ外出はするな、と僕にずっと言いつけてきた。だから家での僕には、監視役兼世話役である近所のお姉さんくらいしか、まともな話し相手がいなかったわけだ。
しかしそのお姉さんも、頻繁に家に来るわけではなかった。家事や勉強、どういう男になるべきかなど。何かしら僕の世話をするためだけに、あくまで義務的なもので家に来てくれていた。
だから可愛くて押しに弱くて、ちまっとしていて、けれど僕より年上らしくて、全然年上の威厳がない彼女。ヤマカさんが僕と暮らしてくれていることには、とても感謝していた。
要するに、これまでの一人暮らしが寂しかったわけだ。
「おう来留主。鼻歌まじりなんて、やけに上機嫌だな」
「あ、主任」
背後からかけられた言葉に、頬をかきつつ振り返る。
「別に上機嫌ってわけじゃないですよ」
「うそつけぇ。どうせ、最近居候させてるらしい女の子との間で、何かいいことがあったんだろ? このこの」
そう言って肘で僕の脇腹をつついてくるのは、僕のアルバイト先の主任だ。
とても面倒見が良くて、何かと相談に乗ってくれたり食事を奢ってくれたりしてくれる人。
ちなみに妻子持ちなのだが浮気性で、今でも頻繁に女性をナンパしている。
だからヤマカさんのことも、主任に紹介するのは嫌だったのだが……
先日、「性欲なんてスッカラカンの生き物だと思ってたお前にも、ちゃんとアレが付いてたんだなぁ!」を皮切りにしつこく聞かれたので、先日とうとう口を割ってしまった。
「──で? どこまでいったのよ」
「? いったって何がですか」
「そりゃお前、エッチなことしかないだろうさ」
「エッチィ!?」
ここは売り場で周りに客もいるというのに、彼自身のやけに響く声をそのままに、聞いてきたのだ。当然周りに聞こえてるわけで、僕は顔が熱くなるのを感じながら絶句する。
「ほらほら、恥ずかしがらずに言ってみ?」
「い、いやですよこんな場所で!」
「場所を変えればいいのか!? なるほど……!」
「ば、場所を変えてもダメですって!」
「どうしても?」
「どうしてもですよ!」
「ちぇー……仕方ない奴め」
主任は渋々引き下がり、近くで聞き耳を立てていた客に話しかける。
人のプライバシーに土足で入り込まんとしてくるあの人は、とても年上とは思えない。
「ふぅ……」
主任の意識が完全に僕から外れたところで、ようやく息をついた。
「ヤマカさんとは別に、そんな関係じゃ……」
あの大雨の日にヤマカさんと出会って、それから色々あった。ほとんど僕の我がままで、彼女を住まわせることになったあの日から本当に色々あった。
色々とすれ違いはあったものの、最近は一緒にご飯を食べるようになって、昨日は服だって一緒に選んだ。
けれど、僕は彼女のことを知らない。
彼女が今まで何をしてきた人なのか。彼女は一体何者なのか。彼女が時々する寂しそうな、辛そうな顔をする理由は何なのか。
ただ知っているのは、僕と出会うより前に、彼女の心を深く傷つける何かがあったということ。彼女が他種族であること。自分の顔を、他人にあまり見せたがらないということ。好きな食べ物は肉料理であること。小学生か中学生かと思うほど小さい身長だけれど、僕よりも年上だということ。……小さいけれど、細すぎず太すぎない綺麗な脚をしていること。
そんなことぐらいしか知らない僕が、ヤマカさんと恋愛関係にだなんて。
──僕にその資格はないのだ。
ただ僕は、ヤマカさんが寂しくならないように仮初めでもいいから、居場所を作ってあげるだけ。それ以上なんて、望んじゃいけない。
「ヤマカさん、ちゃんと留守番できてるかな……」
きっと暇すぎて、僕の文句を言っているに違いない。
ゴロゴロとリビングを転がりまわる彼女を想像してしまい、つい笑みをこぼしてしまう。
そんな風に気持ちを浮つかせて、側から見ても調子に乗っていたであろう僕は、このままずっと2人一緒なのだと信じて疑わず……
傲慢にも彼女の気持ちを考慮せず、僕の前から去る可能性を微塵も考えちゃいなかった。
――――
人と他種族との交流が始まったのは数年前。それ以来交流関係は日夜積極的に行われ、しかし両者の溝は未だ深い。
当然だ。
そもそも常識から価値観、体のつくりまで何もかも違うのだ。生き物は同じ形のものに同族意識を持ち、違う形のものに敵対意識を持つ。隔たりが容易に取り払われるわけがない。
溝が深ければ、当然問題も起こりやすくなる。
同族でないと受け入れれなければ、何をやっても許されるという意識も生まれる。人が鳥や魚や犬や猫等にやっていることと同じように、人が他種族を、他種族が人を蔑ろにしてしまう。
だからルールを作った。他種族間交流法を制定し、これを破ったものに厳罰を処すことで、無理矢理にでも人と他種族とが暮らせる楽園を作り出したのだ。
「他種族間交流法を破った者は強制連行、処罰の執行。その後場合によっては本国強制送還、か……」
来賓用のやけに柔らかく感じる黒塗りのソファーに座り、掠れた声で呟いた。
ここは外務省のとある公館の来賓室。そんなところに車で連れて来られたらしい俺は、他種族間交流法の教本を渡され軟禁されていた。
「これで良かったんだよな……」
他種族間交流法を破った者は、例外なく処罰を受ける。それは違反に加担した者も同じだ。
この新しい法律において、優先されるのは絶対数の少ない他種族となっている。よって違反に人間が加担していた場合、その罪は違反者本人である他種族よりも重くなってしまう。
つまり善意で俺を匿ってくれていたハムヒトが、俺のせいで、俺よりも重い罰を受けることになってしまうということ。
そんなのは耐えられなかった。
しかし解決策もある。
──あなたが来留主公人との関係を今後一切断ち、後に行われる尋問で、彼を体のいい隠れ蓑として利用していただけと言い張るのなら……彼はむしろ被害者として、罪に問われることはない。
そう教えられたから俺は、ハムヒトには何も言わずここまで来た。
ハムヒトはきっと怒るだろう。けれど、これでいいのだ。これで──
「あなたはそれでいいの?」
「へ……?」
突然声をかけられた。
顔を上げると、俺をここまで連れてきた黒尽くめの女性、スミスさんだ。声をかけられて初めて、彼女が持ってきたらしいコーヒーの匂いに気づく。
「随分と悩んでるのね。私が部屋に戻ってきたことに気づかないなんて」
机を挟んだ対面のソファーに腰をかけるスミスさん。
「あ、えと……やっぱり書き置きくらいは残した方が良かったのかなって……」
「そうね。きっとあなたを匿ってくれていたハムヒト君は、家に帰って大慌てでしょうね」
「う……」
俺が家のどこにもいなくて右往左往するハムヒトの姿が目に浮かぶ。あいつはそれだけ心配性なやつなのだ。きっと、俺が誘拐か何かされたと思っているに違いない。まあ実際その通りなのだが……
「で、あなたはこれで良かったの?」
スミスさんはコーヒーを飲みつつ、サングラス越しにこちらを見据えてくる。
「良かったか、なんて……」
「あなたは一時的にではあれど、ハムヒト君に助けられた。……そうよね?」
「はい」
「彼はなんで、リスクを背負ってまであなたと一緒に住んでいたの? いえ、リスクなんて考えたことなかったのかもしれない。けれどそうまでさせたのは、あなたが彼にとって魅力的な人に見えたからじゃない?」
「…………」
俺は魅力的なんかじゃない。
もっと下賤で、卑しい化け物なのだ。ハムヒトは、誰にでも優しい。その優しさを、俺にだって向けてくれる。俺はそこにつけこんで、彼の善意を踏み倒しているだけに過ぎない。
現にこうやって、ハムヒトに何も言わず家を出てしまった。俺は結局、薄情で恩知らず、不義理で非道な奴だ。
なんて嫌な奴だろうか。こんなにも嫌な奴なら、ハムヒトも早々に関係を断てて良かったと思ってくれるに違いない。
「確かにこのままハムヒト君があっさり引き下がってくれたら、処罰はあなたしか受けない。でも彼……来留主公人君って、そんなことで諦めてくれる人間じゃあないわよ」
「あなたに何が分かるんですか」
いきなり出てきて、知ったような口で俺とハムヒトのことを語ろうとするな。そんな哀れみの目で俺を見るな。そもそもお前が来なければ俺は、俺は……
この体になって初めての、ドス黒い感情が沸々と湧き上がる。スミスさんは何も悪くない。彼女が正しくて、俺が間違っている。分かっていても一度考え始めた思考は止まらず、感情は膨れていく。小刻みに耳鳴りが警報のように頭に響き、ミシリミシリと硬いものに亀裂が入ったような音。
「分かるわ」
「──ッ」
けれど、スミスさんは冷静に言葉を連ねる。
それに俺の感情が爆発しそうになって、
「だって今、この公館にそのハムヒト君が来てるんだもの」
予想外の言葉で霧散した。
「ハムヒトが────!?」
目を見開いて、直後、公館が大きく揺れた。
唐突に起きた地震のような揺れに、俺はバランスを崩して転倒しそうになり……しかし立ち上がったスミスさんに受け止められる。
「事前調査からすぐここに辿り着いてくるとは思ってはいたけれど、随分と早いのよね」
まさかこの揺れは、ハムヒトによるものなのだろうか。
「ほ、本当にハムヒトが来てるんですか!?」
「ええ、当たり前じゃない。お姫様が拐われたら、王子様が助けに来るのはテンプレでしょ?」
ちょっと何言ってるか分からないです……
「さて、迎え撃とうじゃないの。こっちも忙しい中態々お膳立てしたんだから、ただでは終わらせないわよ」
「ハムヒト……」
いつか俺は彼に恩返しをすると約束した。けれど俺自身の存在が、その恩返しさえも彼に迷惑になるのだとしたら。俺が離れることで全て解決するのなら──
どういった手段を使ったかは知らないが、彼はここまで来てしまった。いや、来てくれた。
その彼に対し、俺がすることは──
感想、評価ありがとうございます!
更新期間空いてしまい申し訳ないです……
ここまでお読みいただきありがとうございます。