一口、また一口と、むぐむぐおかずを咀嚼する隣人。
ハンバーグに卵焼き、唐揚げ、タコさんウインナーと、何かしら口に放り込む度にウンウン頷くその姿に、ひとつひとつをちゃんと味わってくれているのであろう事が窺えて、ついつい口元が緩んでしまう。
大丈夫だよね?こんなみっともないニヤケ面、こいつに見られてないよね?
今まで料理なんかした事が無かったウチだけど、この日の為に何度も何度も練習を重ねて、いくぶん不恰好とはいえ遂にこうして形になったお弁当を、心から食べてもらいたかった男の子にこうやって味わってもらえて、さらに美味いと言ってもらえたって事は、本当に天にも昇ってしまうくらいの喜びなのだ。
まぁ『普通に』が余計すぎてやっぱムカつくけどね。ムカつきすぎて、また顔がニヤケちゃうっつうの。
本当にこいつはどこまでも素直じゃない。こういうヤツだからこそ、ああいう形で他人に手を差し伸べてしまうのだろう。その為に自分が痛い思いをしてしまう事など厭わずに。
――あれはそう。2学期の終わり。
2年生になって2度目の終業式を迎えたあの日、ウチは比企谷に恋に落ちたのだ。決して実るはずのない悲恋に落ちてしまったのだ。
*
2学期の終業式。体育館で校長のつまらない長話に耳を傾けながら、ウチは今日もチラチラとある人物に視線を向けていた。
ウチには今、とても気になる男子が居る。気になるとはいっても、それは嫌悪の対象であり憎むべき相手。ウチの華やかだったはずの高校生活を台無しにしてくれた最低の男。
あいつのせいで全校生徒の前で大失態をやらかしてしまった。大恥をかかされてしまった。
本当に大嫌いで本当に憎い相手のはずなのに、ウチは体育祭の後くらいから、気が付くとあいつを目で追っていた。
――ウチは体育祭で犠牲になった。ウチが運営委員会で泣き叫んで恥を晒す事によって、崩壊寸前だった委員会がギリギリのラインでまとまる事が出来た。
あはは…犠牲だなんておこがまし過ぎるっての。あれはウチが色々とやらかしてしまったが為に起きた自業自得、因果応報。
それでも敢えて犠牲などと言ってみたのは、自分がその立場に立ってみて初めて気が付けたからだ。文化祭でのあいつの行動の意味を。
いや、あの時点ではまだきちんと気付けてた訳じゃない。なんなら今だってちゃんと理解なんて出来てない。
ただ、何となく頭の片隅でモヤモヤしてる思考の中で唯一理解出来てる事は、あの文化祭で比企谷が犠牲にならなかったら、たぶんあの文化祭はとんでもない事になってたんだろうな…っていう漠然とした思いだけ。
でもそれは単なる偶然のはずなのだ。比企谷が最低の事をして、自業自得で犠牲になって、それがたまたま文化祭にとっての良い方向に進んだだけのはずなんだ。
だからウチが比企谷を嫌いな事には何一つ問題がない。
ウチは自分にそう言い聞かせながら、今日も体育祭以来なんとなく日課となってしまっていた比企谷ウォッチングに勤しむのだった。
――そんな終業式も終わり、学校をあとにしようと校門をくぐった時だった。
「さーがみさんっ!お疲れさまー」
「…え?」
不意に背中から掛けられたふんわりとした声。
その柔らかな声、優しい雰囲気は、わざわざ振り向かなくてもその声が誰の物なのか、ウチに如実に教えてくれていた。
「こ、こんにちは。…お疲れさまです、城廻先輩…」
城廻めぐり元生徒会長。
苦いあの思い出。比企谷と奉仕部、あの人達と共に常に中心に居た、ウチにとっては容赦なく深く傷を抉ってくる、とても優しい先輩。
*
――明日から冬休みだし、私たち3年生は3学期に入ったら殆んど学校に来なくなっちゃうんだ〜。だから帰り道でせっかくこうしてご一緒出来たんだし、どこかでお茶でもしていこうよ〜――
そんな誘い文句で、ウチはあえなく捕まってしまった。
こんなに物腰の柔らかな優しい女性なのに、こういう時は有無を言わせぬ何かを持ち合わせている。
さすが元生徒会長。やっぱウチみたいな一般人とはどこかが違うんだろうな…。
学校からの最寄り駅、適当なカフェでお茶をするウチと城廻先輩。
ウチは先輩と何を話せばいいんだろう。てかなんでウチを誘ったの?
城廻先輩がウチをあまり良く思っていないことくらいは理解している。
そりゃそうだ。生徒会活動をとても大切にしていたこの元生徒会長からしたら、文化祭と体育祭を滅茶苦茶にしかけたウチは、無能で無力で無責任のどうしようもない後輩のはずだよね。
こうしてニコニコとウチに話し掛けてきてくれること自体が不思議なくらいなんだから。
だからこそ分からない。元来の優しさで、こんなウチにも分け隔てなく接してくれる素敵な人だってことは分かるけど、でも…それでもわざわざウチをお茶に誘うだなんて、とてもじゃないけど考えらんない。
…唯一、もし唯一考えられる理由があるとしたら、それはたぶんウチにとってあまり好ましくない会話をしたいから。
あの文化祭や体育祭をウチに振り返えらせて、反省を促す為。たぶんそれこそがこの先輩の優しさ。
席に着いてからずっとニコニコと世間話をしているものの、未だ核心に触れてこない城廻先輩に内心緊張しつつ、そんなどうでもいい世間話に相槌を打ち続けている時間がただただ過ぎていく。
ウチの考えすぎなのかな?このまま世間話だけで終わるのかな?なんて、気持ちが弛緩しかけていた時だった。
ホットココアを一口飲んでふぅと深く息を吐いた先輩が、不意に真剣で哀しげな表情を向けてきたかと思うと、ガラリと雰囲気を変えて核心を突く。
「あの、ね…?相模さん。いきなりこんなこと言っちゃってゴメンね。…たぶん私がこれから話すお話は、相模さんにとって、とっても辛いお話だと思うの。…でも、私は先輩として、元責任者として、そして……相模さんと同じ1人の加害者として、ちゃんと話しとかなきゃいけないって思うんだ…」
「…………え」
やっぱりそうか。城廻先輩がウチにとって辛いお話と言う以上は、それは間違いなく文化祭と体育祭でのウチの失態の話なんだろう。うん、それは予想通り。
…でもなんで?ウチと同じ加害者って、どういうこと…?
緊張で強張るウチの顔を見ながら、城廻先輩は哀しそうな笑顔を浮かべる。
その弱々しい顔は、自分への失望、怒り、悲しみ、後悔、そんな負の感情がありありと窺えるものだった。
「…比企谷くん」
先輩がぽしょりと呟いたその名前に、ウチの心臓はドクンと飛び跳ねる。口から飛び出ちゃったんじゃないかと思ったほどに。
「…比企谷くんのお話なんだ。もしかしたら…もしかしたらなんだけど…、私から比企谷くんのお話をする事に、相模さんも心当たりがあるんじゃないのかな…」
「……は、い」
ゴクリと喉を鳴らして力なく首肯するウチを見て、「そっか」と頷く先輩。
そして城廻先輩は語り始める。自身の後悔の念を。
「…私ねー、あの文実の時、比企谷くんにすっごい期待してたんだ〜。日に日にバラバラになってく文実で、いっつも面倒臭そうにしながらも、なんだかんだいって一番一生懸命お仕事をしてくれてた比企谷くんの事、すっごく頼もしく思ってたし、こんな後輩が居てくれるんだなぁって、すっごく嬉しかった」
あの会議室での毎日を思い出してるみたいに、城廻先輩は遠くを見ながら言葉を続ける。
「それなのにあのスローガン決めの時の比企谷くんの発言で、私…ガッカリしちゃったの…もっと真面目な子だと思ってたのにな、って、比企谷くんに言っちゃった」
辛そうに顔を歪める城廻先輩の目尻には、うっすらと光る物が溜まっている。
「…でね?…あのエンディングセレモニーの後にね、私はもっと酷い事を言っちゃったの。君は最低だねって」
エンディングセレモニー。ウチの最低最悪な思い出。
そしてその裏で城廻先輩は、比企谷にそんな事を言ってたんだ。
「…ホント駄目駄目な先輩だよね、私。何にも知らなかった癖に表面だけしか見ないで、あんなに真面目な子にあんな心ない事を言っちゃうなんて……ホントは私がもっとしっかりして、私が比企谷くんがしたみたいにあの場をまとめなきゃいけない立場だった癖に、何にも知らずに彼1人を犠牲にして……!」
――もうここまで聞けば嫌でも分かってしまう。城廻先輩がウチに何を言おうとしているのか。
あの体育祭以来、ウチが密かに考え続けていた事だから。
そして城廻先輩は言う。苦しく潤んだ瞳で、苦しい胸の内を。
「…相模さん。私達はさ、比企谷くんに助けられてたんだよ」
*
ああ、やっぱそうだよね。そうだろうなって思ってた。
でも認めたくないから、認めちゃったらウチのチンケなプライドが傷ついちゃうから、だから気が付かないように自分を誤魔化してただけなんだろう。
もしかしたら、誰かにこうやって指摘されるのを、心のどこかで待ってたのかもね。
なんにも言わずにただ俯くウチを見て、城廻先輩はキョトンと首をかしげる。
「もしかして…相模さんは、気が付いてた?」
「…あ、いえ。気が付いてたというよりは、城廻先輩のお話を聞いて、今ようやく…理解出来たって、感じです…」
すると城廻先輩は両手をポンッと合わせ、優しそうな笑顔で感嘆の声を上げる。
「そっか。相模さんは凄いね!ちゃんと自分で気付けてたんだね…。私なんて、文化祭のあとに1人でガッカリしてたらはるさんに怒られちゃったんだから。「あの程度の事も分からないなんてめぐりもまだまだだね〜。ま、お姉さんに言ってあげられるのはここまで。あとは自分の目で見て自分で考えてみな?」って。だから私はまた奉仕部に依頼を持ち掛けたの。もう一度比企谷くんを近くで見たかったから。そして体育祭運営を一緒にやって、ようやく気付く事が出来たんだー。……たぶん私じゃ、はるさんが言ってくれなかったら分からず仕舞いだったんじゃないかな…」
そう言う城廻先輩は、本当に心から自分に失望してるって感じだ。
でもそんなこと無いです。城廻先輩は自分の事をウチと同じ加害者って言うけど、あの件での加害者はウチ1人。先輩はウチの被害者でしかないです。
比企谷に対して罪悪感を抱いてそんなにも胸を傷めているのも、それはウチからの被害です…。
「…だからね、私は比企谷くんにちゃんと謝ろうって思ってるんだっ。卒業式のあと比企谷くんの所に行って、そしてお話するの。…あの時は本当にダメな先輩でごめんなさいって。そしてあの時は本当にありがとうねって。……でもね、もっと自分を大切にしなきゃダメだよ!?って、ちょっとだけ怒っちゃうの」
そう言って城廻先輩はようやくこの人らしい笑顔を見せてくれた。
心の底から謝罪するのに、心の底からお礼を言うのに、それでも自分を大切にしない比企谷を叱るってのが、なんとも城廻先輩らしい優しさだよね。
「だからね、いつか相模さんが気が付いた時に後悔しちゃわないように、ちゃんとお話しておきたかったの。比企谷くんの不器用な真面目さと優しさを。…ふふっ、でも余計な心配だったね。私なんかが言わなくたって、相模さんは自分でちゃんと分かってたんだもんねっ」
そんな嬉しそうな城廻先輩の微笑みを向けられて、ウチは胸が痛くて堪らない。
――そんなこと無いです、城廻先輩。
ウチはなんとなく気付いていながらも、自分のチンケなプライドを守る為に見てみぬフリをしてた卑怯者なんですから。
そんなに優しい微笑みを向けてもられるような資格は、ウチには無い…。
そして胸が痛くて堪らない理由がもうひとつだけ。
自分のチンケなプライドを守る為に誤魔化してた気持ちを自覚してしまったから。
たとえ比企谷がどんな気持ちでウチを救ってくれたのだとしても、いや…別にウチの為なんかじゃなくて、ただ文化祭を、雪ノ下さんを助けたいって思ってただけなのかも知んないけど、それでもやっぱりウチからしてみれば、あいつは間違いなく捨て身でウチを救ってくれた、腐り目だけど素敵な白馬の王子様なのだ。
――そう。城廻先輩に自覚させられてしまったこの瞬間から、ウチは恋に落ちたのだ。決して実るはずのない悲恋に落ちてしまったのだ。
…本当は、もっとずっと前から恋してた癖にね…。
*
あの終業式から2週間。ウチは冬休みのあいだ中、ずっと比企谷の事ばかり考えていた。
クリスマスも大晦日も、年明けもお正月も、ウチの頭ん中はずっとあいつの事ばかり。
ウチは……一番恋なんかしちゃいけない相手に恋をしてしまった。恋なんてする資格のない相手に恋してしまった。
出来ることなら謝りたい。全部謝って全部吐き出して、そして……ありがとうって言いたい。
でも…ウチにそんな度胸なんてあるわけ無いよね。
謝る?ありがとう?…バッカじゃないの?そもそも話し掛けられるワケないっての…。
ウチが話し掛けたら、比企谷はどんな嫌な顔するだろう。どんな嫌な態度を取られるだろう。
それを想像しちゃったら、ヘタレのウチには声なんて掛けられるはずがない。
文化祭の時とおんなじ、体育祭の時とおんなじ。どうせウチはまた逃げ出すだけに決まってる。
そんな不毛な思考に囚われていたウチの冬休みはあっという間に過ぎ去り、気が付けば今日からもう新学期。
好きだって、恋しちゃってるって自覚出来てから、初めて比企谷に会えるんだ!
そしてそんな比企谷に話し掛ける事も出来ずに、また1人バカみたいにこっそり眺め続ける日々が始まるんだ…。
なんだよ、この落差、なんだよ、この酷すぎる悲恋、あんまりだよ…。
…でもま、ウチにはこんな惨めな末路が相応しいんだろうね…。自業自得、因果応報。
自嘲気味で卑屈な笑みを浮かべながら、ついに3学期を迎えたウチを待ち構えていたのは、どうやら想像してたよりもずっと好きらしい、久しぶりに見た比企谷の横顔と、そしてまさかまさかの席替え。
本当にまさか過ぎる。まさか今さら席替えを行うなんて。
でも席替えを言い渡されてから、ウチの思考はさらに比企谷で一杯になる。
――もし比企谷の近くになれたら、もし比企谷の隣の席になれたら、どれだけ嬉しくて…そしてどれだけ切ないだろう。
いや、いつまでいじけてんのよ相模南!
もし!もしも奇跡が起きて比企谷の隣になれたとしたら、その時は頑張ろう。比企谷に話し掛けてみよう。
いつかあの時の謝罪が心から出来るように、あの時のお礼を心から言えるように…!
別にこの切ない恋を実らせて下さいなんて言わないから、だから神様、お願いします!
そんな『もし当たったらなに買おう!』なんていう想像してる時が一番楽しい、当たりもしない宝くじに夢見てる人のように、ウチは担任お手製のボックスをジィっと見つめる。
――あっ…比企谷の順番だ。…なんでだろ?2学期に毎日目で追ってた時よりもずっと格好良く見えてやんの、ウチ。…ああ、やっぱ、こいつ好きかも。…あれ?くじを見た瞬間に目がどんよりと濁っていったぞ?そんなに嫌な席だったのかな。あ、戸塚くんと離れちゃったからか。ホントこいつ戸塚くん大好きだよね。そこは流石に引くかも。まぁでもやっぱ好きだけど。
――ヤッバい、ついにウチの順番だ。どうせ近くになんて…ましてや隣になんてなれるはずもないのに、なにこんなに馬鹿みたいに緊張してんの?ダサすぎだっての。…ア、アレ?この数字って窓側後列の方だよ、ね…?さっき比企谷の奴、死にそうな顔して窓側後列の方向に向かってったように見えたけど、も、もしかして意外と近くだったりして…!?
――この新たな学期、新たな新年を共に過ごす事になった、ウチの新たな居場所。
その席へと辿り着いたウチの心臓がヤバい事になっている。どうしよう、バクバクと騒がし過ぎて周りの音が何にも聞こえてこない。
顔が…身体が燃え上がりそうなほどの熱を帯びて全く動かない。
情けない事に、身体が全く動かなくなってしまったヘタレなウチでは、残りの3ヶ月弱を共に過ごす事になる新たな隣人の愕然とした視線から、しばらくのあいだ目を逸らす事が出来ずにいたのだった。
……神様、お願いしといてなんだけど、ウチ、こんなんじゃちょっと頑張れないかもしんないです…。
今回は相模視点で書いてみました。いかがでしたでしょうか?
この相模の心情を踏まえた上で1〜3話を読み直していただけたら、相模の奮闘っぷりといじらしさが分かりやすいかな?と。
次回はまた完全に未定ですが、有難い事にせっかく沢山の読者様に読んでいただいているので、出来れば頑張りたいと思っております