基地左舷の脚部が破壊された時、ボンドはひたすらに撃ちあいを繰り広げていた。次第に傾き始めた基地の中で、ボンドは金剛を探してひとつのフロアを駆け回っては下の階に降り、またフロア内を駆け回って、を繰り返した。坂道となった廊下に海水が流れ込み、急流となってボンドに襲い掛かってもその足は止まらなかった。
そうしているうちに、ボンドは基地上部・二階の一室から聞こえる物音に気がついた。ボンドは息を殺してその部屋の扉に近づくと、扉の間に指を入れ、数センチほどこじ開けた。ボンドがその隙間から中を覗くと、二人のスタッフが、何か作業しているのが見える。音をたてないように、ゆっくりと扉を開けるボンド。
しかし、ふと鳴った扉のきしむ音が、ボンドの存在を二人に知らせてしまった。中の二人が拳銃に手をかけたと同時に、ボンドは扉の隙間に持っていた拳銃を突っ込み、容赦なく撃ちこんだ。あまり扉が開かれていなかったことが、ボンドにとっての幸運だった。もしあと数センチほど扉を広く開いていれば、ボンドの左目は銃弾に貫かれていただろう。
ボンドは扉を完全にこじ開け、二つの亡骸が横たわる室内に足を踏み入れる。亡骸のうち一つは魚雷発射管の前の、小さな潜水艇に乗りこもうとしていたようだ。ストロンバーグが脱出した際の余りが、まだ二つ残っている。どうやらこいつらは、これで逃げようとしていたんだな。
その時廊下から、急にもくもくと煙が立ち上ってきた。焼け焦げるような煙の臭いと、全体的に生臭い基地内の臭いが混ざり、ボンドは軽く吐き気を覚えた。それでもボンドは、その煙の立ち上る廊下へと果敢に飛びだしていった。さらに下の階に、自分の助けを待っている娘がいるのだから……
シャツの袖で口元を押さえながら、ボンドはその階を一通り回ると、そのまま階段をかけ下りた。しかし、ボンドは踊り場のところまで来て足を止めてしまった。階段の先は水没してしまっており、ボンドが茫然と見ているその時も、水かさはどんどん上がってきていたからだ。
もう一階より下は完全に水に飲まれた。このままだと脱出もできなくなる!
ボンドは踵を返し、底部が水没する前に金剛が上の階に昇ったことを祈りながら階段を駆け上がった。そして再び上部二階の廊下に出たその時だった。
のぼり坂となった廊下の先を、ゆっくりと横切る巨大な人影――ジョーズの姿がボンドの目に飛びこんだ。そしてさらにボンドの心をかき乱したのは、ジョーズの大きな背中にまるで小さな子どものように背負われている金剛の姿だった。ボンドは手にした拳銃の残弾を確認すると、全身にまとわりつく疲れや痛みをものともせず一気に坂道を駆け上がっていった。
坂を登りきった先の廊下に、ボンドは開け放たれた扉を見つけた。先ほどボンドが中を確かめた潜水艇の発射室だ。ボンドは息を殺して扉に近づくと、扉の陰から中を覗く。
部屋の中では、ジョーズが金剛を背中から降ろし、潜水艇の中に入れている。続いてジョーズは潜水艇のそばのパネルの操作を始めた。金剛はぐったりとして微動だにしなかった。その一連の流れが、ボンドの目にはまるで金剛が棺の中に入れられ、そのまま葬られていくかのように映った。もしかしたら、金剛を深海に送るつもりなのだろうか。ボンドは胸が締め付けられるようでたまらなかった。
「動くな!ジョーズ!」
いてもたってもいられなかったボンドは、部屋に飛びこむとジョーズに銃を向け叫んだ。その照準はしっかりとジョーズの眉間を狙っていた。
「パネルから離れて壁際に行くんだ!」
そう言われたジョーズは、妙におとなしく壁際へと下がっていった。ジョーズが下がる間に、ボンドは自分の足元まで水が上がってきたのを感じた。
ボンドはジョーズに銃を向けながら、金剛の眠る潜水艇によると、空いている方の手で金剛を抱き寄せる。
ぎゅっと密着させたボンドの身体に響く、金剛の鼓動と微かな息遣い。その生命の息吹が感じられただけでもボンドにとっては大きな希望だった。もしそれさえも失われていたら、ボンドは怒りに任せ引き金を引いていたかもしれない。
ボンドは一息つくと、拳銃を持つ手を変え、パネルを操作しはじめた。ジョーズは依然として直立不動で動かない。潜水艇は二人ほどなら少しきついが入ることはできる。このまま脱出して、そのまま海上まで上がれれば……
その時、ボンドの耳に何かが弾けるような音が響いた。同時にパネルの表示から部屋の照明に至るまで、すべての明かりが消え、あたりは一瞬闇に包まれた。どこかで電源がショートしたのだ。そして再び予備電源の鈍い明かりが暗闇に灯ったその時。
ジョーズの牙が、薄暗い部屋の中に輝いて襲い掛かった。
ボンドは再び金剛を寝かせると、ジョーズの顎にかかとの一撃を食らわせ、ふたたび拳銃を向ける。しかしその一瞬、ジョーズの大きな手はボンドの手首を掴み、浸水してきた入口へと投げ飛ばした。拳銃は廊下へ飛んでいきそのまま水中に没した。ボンドはひねられた手を抑えながら、足元に転がるスタッフの亡骸に近づいた。こいつらも拳銃を持っていたはずだ。しかしその拳銃は弾を出しつくし、スライドが開いてしまっていた。それでもこの部屋には、あともう一人が使っていた拳銃があるはずだ。それを見つけたいところだが……
ボンドはせまい室内で、ジョーズの腕をかわし続けながらあたりに目をやった。この部屋には何かないのか。感電させられそうなもの、火をつけられそうなもの、奴の動きを封じれそうなもの、ぶん殴れそうなものだっていい、なんだっていいんだ!
そんなボンドの願いも空しく、ボンドにできたことはその辺にあった小物や工具を投げつける程度だった。普通のスタッフなら反撃の糸口にでもなっただろうが、ジョーズ相手では蚊に刺されたほどのダメージもなかった。
その時水に浸かったボンドの足元に、何か固いものがぶつかった。ボンドは水中から反射的にそれを拾い上げ、ジョーズに向けた。ここから逃げようとしたもう一人のスタッフの、置き土産の拳銃だ。スライドも開いておらず、手には弾の入った重みも感じる。ボンドはジョーズの頭部に照準を合わせ、引き金を引く。
拳銃はホチキスのような音を立てただけで、何も起きなかった。ボンドが二、三度引き金を引いても全く動じない。ボンドがスライドを引き排莢する暇もなく、ジョーズの両腕はボンドの喉を掴んだ。
ジョーズは暴れるボンドを持ち上げると、潜水艇にボンドを押しつけた。そしてボンドの首を掴む手に一層力を入れるジョーズ。次第に薄れていく意識の中でボンドは、なぜか金剛と初めて会った時のことを考えていた。扉を少し開け、金剛の姿を見た。名前を当てて、イギリスの話をした。そして……
その時、ボンドはひらめいた。これしかない!
ボンドは勢いよく自分の右足を振り上げた。その先にはジョーズの股ぐらが。その直撃にジョーズがひるんだその瞬間、ボンドは台に上がるとまるでドロップキックをかますように両足でジョーズの顎を蹴りつけた。
部屋全体が傾いていることもあり、ジョーズは後方へと勢いよく飛んでいった。そしてジョーズは、複雑なボタンやスイッチが取り付けられた機械に背中から突っ込んでいった。
その時、何かスイッチが反応したのか、潜水艇がゆっくりと発射口へと入っていく。ボンドは金剛に覆いかぶさるように潜水艇に乗りこむとハッチを閉めた。すると潜水艇は完全に発射口に入りこんだのか、あたりは完全に闇に包まれた。周囲からは泡が立っているような音しか聞こえない。不安げなボンドは、金剛をしっかりと抱きしめていた。
すると突然、すさまじい音と共に周りが一気に明るくなった。その明るさはしだいに強くなっていき、そして背中を焼かれるような熱さとともにそれは頂点に達した。ボンドはそのまま顔を上げて、傾きかけた真夏の太陽を仰ぎ見た。そしてハッチを開けると、吹き寄せる潮風を胸いっぱい吸い込んだ。
「金剛、金剛!」
ボンドは、まだ意識が戻らない金剛の頬を軽く、そして優しく叩いた。しばらくボンドが呼び続けて、ようやく金剛は眠りから覚めた時のように、まぶしそうな目をした。
「うーん……」
「ようやく目を覚ましたか……心配したぞ」
「んっ……ジェームズ?」
その呼びかけにボンドは微笑んでいたが、心中ではまだ不安が残っていた。ボンドが英国のスパイであると知って、金剛がどう思っているか気になっていたのだ。
そんなボンドの顔を見た金剛の瞳が、急に潤み始めた。それを見て無意識に瞳をそらすボンド。
「ジェームズ……生きてる……生きてる!」
そう叫んだ金剛は跳ね起きると、勢いそのままにボンドに抱きついた。少しも変わらない、いつもの無邪気な金剛の姿がそこにはあった。
「ジェームズ!心配かけさせて!もう……!」
ボンドは、金剛の胸から響く熱い鼓動を感じた瞬間、感情があふれだした。発射室で感じたかすかなものではない、確実な命の高鳴りだった。ボンドは金剛から向けられた情熱に力強く返すことしかできなかった。
思えばこの娘は突然護衛としてタイガーから選ばれたのだ。自分の戦ったことのない、俺たちの世界での戦いで、彼女は何度も怖い思いをしてきたことだろう。
何度も体験したことのない危険な目にあってきただろう。それでも彼女はずっと、俺のそばで共に戦ってくれたのだ。そして今……
二人は沖縄の青い海のど真ん中で、男と女として再会の喜びを分かち合っていた。
「金剛さんの反応が移動した?雪風、左舷前方を見て!」
「はいっ!」
その頃、川内たち連合艦隊はボンドと金剛の捜索にあたっていた。金剛の電探からの信号から位置を特定し、回収することが彼女たちの任務だった。なのだが……
「雪風、何か見えた?雪風?」
雪風は川内の呼びかけにも答えず、口をぽかんと開いたままずっと双眼鏡をのぞいている。
「ちょっとどうしたの?」
そう言うと川内は雪風から双眼鏡を取り上げ、雪風の見ていた先を見た。しばらく海上を見回していた川内だったが、ふと双眼鏡の手を止めてしまった。しばらく眺めた後に、川内は苦笑して大和に話しかける。
「大和さん、これは……」
「そうですね……偵察機で見てみましたが、これは提督に連絡した方が……」
「はい……これって私がやんなきゃダメですよね、無線連絡……」
川内は苦笑したまま、司令部へと無線を飛ばした。
「司令部応答願います、応答願います、どうぞ」
「こちら司令部、どうぞ」
「こちら川内、ボンドさんと金剛さん、発見しました」
「そうか、よかった。川内、二人は無事か?」
「無事も無事、とっても元気みたいです。だって、真っ昼間から二人で夜戦突入してるんですから……」
《JAMES BOND WILL RETURN...》