その日、東京はまさに日本晴れであった。
東京都中央区にある今山海運本社ビル。その近隣の駐車場に止めてある白塗りのスポーツカー、トヨタ・マークXから、一組の男女が降り立った。男はおろしたてのダークグレーのスーツに、女は体のラインのよく分かる、ぴっちりしたグレーのレディーススーツに、それぞれ身を包んでいた。二人は横並びに本社ビルの正面入口に向かうと、そのまま自動ドアの向こうに消えていった。
ロビーに入った二人は、中央にある受付に一直線に進んでいった。受付に着くと、女は受付嬢に向かって若干英語のアクセントが混じった日本語で言った。
「すみません。ユニバーサル貿易日本支部の者です。今日の一時から、御社の社長とお約束がありまして……。彼は日本支部長のエヴァン・トーマス。私は通訳の……金剛デス」
無論、エヴァン・トーマスなる男の正体はボンドである。ボンドは久々に全身の肌で感じるスーツの着心地に、さすがに気分が高揚していた。やっぱりこの格好が一番しっくりくる。
予想外だったのは、金剛のスーツ姿が案外サマになっていたことだ。普段の金剛の見た目やふるまいを考えると、ビジネスマンの通訳に扮するには若干幼いような気がしていたが、スーツ姿になるとその違和感はかなり抑えられた。当初、金剛はこの服装を嫌がっていたが、実際着てみるとそれほど悪くはなかったし、むしろ魅力的なくらいだ。
そんなことを考えながら、ボンドは受付と話している金剛の腰からヒップ、ふとももにかけてをじっくり、なめまわすように見つめていた。
「わかりました。ありがとうございます」
金剛は受付との話を終えると、いかにもできる女であるかのごとく、流暢な英語でボンドに話しかけた。
「ここで待つように言われました。じきに来るみたいです」
「わかった。この調子で頼むぞ、金剛」
「All right. 私に任せるデース」
ボンドはどこかルンルン気分の金剛をお供に、フロア内を歩き回っていた。見たところ、フロア内に不審な物は見受けられない。例えば、どこかに蛸の紋章があるとか……そんなものが見つかったら、深海棲艦どころの話ではなくなるが。
ボンドと金剛はフロアの一角の、壁にたくさんのパネルが貼られているエリアに足を踏み入れた。パネルには今山海運の成り立ちや業績、国内外の支社についての情報が事細かに書かれていた。しかも、ボンドには嬉しいことに、日本語での解説の下に、英語での解説も書かれていた。その一部を抜粋すると……
「今山海運の前身は大正十年に創立された越上海運で、この当時から東アジアを中心とした輸送ラインで業績を伸ばしてきた。昭和六年に日本が本格的に大陸に進出すると……(中略)……平成期にはバブル崩壊のあおりを受け業績が急激に悪化した。
そして平成十年にドイツのレムリア造船の傘下に入り、社長にはレムリア造船の日系ドイツ人、今山寛治が就任した。それと同時に社名も今山海運株式会社に変更。その後、今山海運は中国の経済発展の後押しを受けながら業績を立て直し、平成二十年にはレムリア造船から完全に分社化され、現在に至る」
続いてボンドは海上輸送ラインの書かれた図に目を向けた。横浜、神戸、那覇、釜山、上海、香港、ジャカルタ、シンガポールなど、アジア各国の大きな港のある都市がそれぞれ赤い線で繋がれている。だがボンドは、この図に何か妙なものを感じていた。そんなボンドの耳に、落ち着いた優しげな声が聞こえた。
「お待たせしました、ミスター・トーマス」
その声の正体は、パンフレットに今山寛治の名とともに写真が載っていた、あの壮年の男であった。丸い顔のにこやかな男だったが、ボンドの目には一企業を率いるカリスマ社長には到底見えなかった。だが、人は見かけによらないものだ。全ての社長がタイガーのような男だとは限らない。そう自分に言い聞かせながら、ボンドは男性に頭を下げ、懐から名刺ケースを取り出した。
「あなたが社長の今山さんですね。エヴァン・トーマスです。今日はご挨拶に伺いました」
そのボンドの言葉を、金剛は日本語で男性に伝えた。すると男性は、にこやかな顔をさらに笑顔にさせ、名刺を取り出しながらこう言った。
「申し遅れました、ミスター・トーマス。私は国際営業部の部長、島田照一です。どうかよろしく」
その言葉にボンドの全身は寒気に包まれたが、ボンドはその感覚を押し殺すよう努めた。ボンドは金剛から改めて同じ内容を英語で聞くと、やりすぎなくらいに明るく振る舞いながら謝り、島田と名刺を交換した。そうでもしなければ動揺が態度に出てしまいそうだったからだ。ボンドには、島田の屈託のないにこやかな顔が、逆に不気味なもののように思えた。
社長室のある地上十四階へと続くエレベーターの中で、島田はボンドににこやかに告げる。
「社長は今、所用で外出中ですので、社長代理の方が代わりにご面会致します。綺麗な方ですよ」
普段ならばその言葉に期待を高めるボンドであったが、今回ばかりは先ほど感じた寒気が後を引き、それどころではなかった。あの一言を聞いてからというもの、ボンドの脳内には数多の疑問が渦巻いていた。
先ほど貰った名刺にも、間違いなく島田の名前が書かれている。この男が今山だとしたら、なぜ別の名前を名乗っているのか。日系のドイツ人と言う出自は本当だろうか。
この男が今山でないとしたら、なぜダミーの写真をパンフレットに使ったのか。顔を出せない理由はどこにあるのだろうか。そもそも、今山は実在するのだろうか。
その時、ボンドの代わりに金剛が島田に話しかけた。
「島田さん、この会社の社長は一体どのような方なんですか?」
突然の金剛の質問に、ボンドは内心ガッツポーズしていた。でかしたぞ金剛!そうやって妙な含みを感じさせず、何事もさらりと聞けるところが君の強みだ!
「うーん、私も直接お会いしたことはあまりないのですが……以前お会いした時は、まさに貫録のある、社長にふさわしい方だったように記憶しています。あとお顔も、かなり彫りの深いお顔をしていらっしゃいましたね」
「Oh...それは、お会いできないのが残念デス」
ボンドも、今山について有用な答えを聞き出せなかったことを残念に思った。
そのようなことを話しているうちに、エレベーターは地上十四階にたどり着いた。そのまま、ボンドと金剛は島田に続いて社長室へと案内される。
社長室の扉が開かれると、金剛は感嘆の声をあげた。室内は曲面が多用された近未来的なデザインで統一されており、洗練された美的感覚に満ちあふれていた。
ボンドは用心深く、しかし気づかれないように部屋の中を見回した。部屋の隅には大型船や海底基地の模型、南国の観葉植物の鉢が置かれ、白が基調の部屋に彩りを与えている。監視カメラの類は見られないが、恐らくどこかに隠しカメラはあることだろう。部屋の奥にも、どこかに続く扉がある。……あの扉、今少し開いていた気がしたのだが。
そしてボンドが、ガラスの床の向こう側に目をやると、楕円形の机のそばに真っ黒なレディーススーツを着た女が立っていた。サイドテールに結んだ髪と鋭く大きな目が特徴的な、金剛よりも一回りほど小柄な女だ。気の強そうなしっかりした女、というのがボンドの第一印象だった。そういえば誰かさんの第一印象も、そんな感じだったな。
「彼女が社長代理の赤沢詠美さんです。それでは、私はこれで失礼します」
島田はそう言うと、部屋から速やかに立ち去った。一方、詠美はボンドたちの方へと歩みを進めた。
「社長代理の赤沢詠美です。普段は今山社長の秘書を務めております」
彼女、見た目よりもずっと落ち着きがあるな。声の感じも明るく、安心感がある。これも演技か、さもなくば出世のため身につけた処世術か。
「ユニバーサル貿易日本支部部長のエヴァン・トーマスです。以後どうかお見知りおきを」
ボンドと詠美(金剛は通訳の際、この名前をはっきり『エイミー』と発音していた)はあいさつを済ませると、名刺を交換した。その際に、ボンドは詠美が左手に革の手袋をはめていることに気がついた。
「あっ、ミスター・トーマス。私、幼いころに左手を大やけどして、人に見せられない有様になってしまって……それ以来、いつもこうして隠しているんです。すみません」
ボンドはその言葉を聞いて、彼女に思いをはせた。これまでの人生、そのことで深刻に悩んだこともあっただろう。彼女の今の地位は、怪我によるお情けではなく、彼女の実力だと信じたい。
このようにボンドには、ハンディキャップのある女性に惹かれるような一面があった。ちなみに、金剛も彼女の心情を察したのか、ボンドへの通訳には「軽い怪我をした」とやんわりとした表現を使っていた。
「……それではお話に移りましょうか、ミスター・トーマス。こちらへ」
ボンドたちは、部屋の一角の応接スペースに腰を下ろした。椅子はすわり心地のいい、レザー張りのものだった。これなら長話をしても尻が痛くなる心配はなさそうだ。
「ミスター・トーマス、普段はどのようなお仕事をなさっていますか?」
「世界各国を飛びまわっては様々なモノを集めたり、品定めをしたり、ってところですかね」
「といいますと、御社は主に輸入雑貨や家具の取扱いを?」
「まあ、そんなところです」
このように、ボンドはユニバーサル貿易(そもそもこの社名も英国諜報部を指す暗号である)に関しての説明と、ユニバーサル貿易がアジア圏への本格進出を将来の目標にしており、そこで海上輸送のパートナーとして今山海運と取引をしたい、といったことを詠美に伝えた。
「お引き立ていただき、ありがとうございます。ところでなぜ、数多ある海運会社からわが社と取引しようとお考えに?」
「それはもう、信頼度の高さですよ。船舶事故が多い今日このごろ、安全安心をモットーに掲げ、確実に信頼を勝ち取っているのは御社くらいだ。もしよければ、何か秘訣のようなものがあれば、教えてもらいたいですな」
そのボンドの言葉に、詠美は動揺を隠すかのように笑いをもらしながら答えた。
「えっと、その……強いてあげるとすれば、長所を伸ばすことかと。他社にマネのできない、自社特有の強みを推し進めることが、結果として信頼につながっているのではないかと考えています」
「つまり、御社では具体的に何を?」
「それは……企業秘密です」
「あっ、そう」
ボンドの返事はあまりにも素っ気なかった。
その後もボンドと詠美との間で、取引に関する詳しい話し合いは続いたが、特に大きな問題は起きなかった。時折ボンドがわざと例のスコットランド訛りで難しい内容を喋り、聞き取れず困惑する金剛を見て楽しんでいたことを除いては。
そうこうしているうちに、いつの間にか時計の針は三時を指そうとしていた。ボンドは潮時と思い、詠美に告げた。
「それではそろそろ失礼します。楽しい時間は過ぎるのが速いですね」
「ええ、本日は遠路はるばるお越しいただきありがとうございました。御社との取引の件は、社長の今山と前向きに検討致します」
「次に会うときは、社長にもぜひお会いしたいですな。それでは、また会う日まで」
こうしてボンドと金剛は詠美に見送られながら、ここに来たときと同様、島田に連れられてエレベーターに乗りこんだ。エレベーターの中で、ボンドは島田の横顔をじっと見つめていた。
ボンドと金剛が社長室を去った後、詠美は部屋の奥の扉を静かに開けた。
扉の向こうには、詠美の二倍は身長があろうかという大男が立っていた。詠美は男の顔を見上げると、先ほどまでとは全く違った、妖しげな声で男に告げる。
「あなた、あの男を知ってるのね」
大男は詠美の言葉にゆっくりと頷いた。
「……処理はあなたに任せるわ」
大男はニヤリと笑い、鋼鉄でできた歯をキラリと輝かせた。