ハリー・ポッターと帝王のホムンクルス 作:オリゴデンドロサイト
ダフネ「……」
ドラコ「おい、ダフネ。鼻血が出てるぞ」
ダフネ「……貴方もね、ドラコ」
ダリア視点
辛い時間は酷く長く感じるのに対し、楽しい時間は実にあっという間に過ぎ去ってしまう。
去年までのホグワーツにおける時間、特に『闇の魔術に対する防衛術』は紛れもなく前者だった。
そしておそらく今年の授業も……。
今年の教科書は去年のような
今年の授業のことを思えば本当に憂鬱だった。何より憂鬱なのは……授業に期待してはいけないと分かっているのに、それでも期待している自分が存在することだった。今年もきっと裏切られ、つまらない時間を過ごすだけに終わるだろう。
……でも、たとえ一番楽しみにしている時間が一番つまらない時間になり果てようとも、ホグワーツに行くこと自体が憂鬱だということはない。去年までならお父様やお母様と離れ離れになるため憂鬱だったが、今年からは違う。『闇の魔術に対する防衛術』以外は寧ろ楽しみですらある。
だって……ダフネが友達になってくれたから。ダフネが一緒にいると言ってくれたから。
ダフネとお兄様が一緒にいてくれる限り、きっとどんな場所であろうとも私は楽しく過ごすことが出来る。
その証拠に……今日という日が本当に楽しすぎて、あっという間に過ぎ去った一日だった。ただ学用品を買いに行くだけの日だというのにだ。本屋で多少ひと悶着あったが、ほぼ完璧な1日と言える。ダフネとお兄様と一緒にいるというだけで、1日がどんな時間より輝いたものに思えた。
心の奥底でずっと憧れていた日常。
今まで手に入らなかったものを得た私は、最後までこの幸福を楽しむのは義務であるとすら思っていたし、ダフネやお兄様にも出来る限り楽しんでいてほしかった。
だから私は……
「ダフネぇ……」
たとえ別れの瞬間が来てしまったとしても、決して悲しんではいけない。決して涙を流してはいけない。最後の瞬間まで幸せを感じていなければならない。
だというのに、
「もうこんな時間に……」
私はこの時間の終わりをどうしようもなく悲しく思ってしまっていたのだった。
いよいよ日が傾き出すという時間。安全のためにと、お母様が態々お決めになって下さった門限が訪れた瞬間、私の表情が知らず知らずに歪み始めていた。いつもはピクリとも動かない表情筋のくせに、こんな時だけ自分でも分かるくらい動いている。おまけにいつもは出さないような甘えた声まで……。
そしてお兄様たちの反応はというと……。僅かな変化でも読み取ってしまうのだ。当然、
「そんな悲しそうな顔をしないでくれ……」
お兄様達には気付かれてしまっていた。
ダフネは俯いていて表情がよく分からないが、お兄様は私の様子に苦笑しながら続ける。
「お前がとてもこの時間を楽しみにしていたことは分かっている。でも……流石にこれ以上お前をここにいさせておくことは出来ない。太陽がもう少しで低くなってしまう。そうなってしまえば、日傘で日光を防げなくなる可能性だって出てくる。それに……今世間は何かと
お兄様の言葉は何も間違ってはいないどころか、極々当たり前の事実だ。約束の時間は、何も私のためだけに設定されたものではない。私の体のこともあるが、ダフネだって今はあまり遅くまで外を出歩かない方がいいのだ。
今世の中は危険に満ちている。大量殺人犯がアズカバンから脱走したせいで。
しかも脱走して一週間以上も経っているのに、未だに彼の足取りすら掴めてはいない。こんな時に、ダフネとお兄様を長時間ダイアゴン横丁に留めておくことは許されないことだった。
だから、私はこれ以上悲しいとすら思ってはいけない。表情を動かしてはいけない。私の我儘でこれ以上お兄様達を困らせてはならない。
たとえ私の中に……こんな日常を送れるのが、これが
不安だった。初めての親友との待ち合わせが楽しければ楽しい程、いざ別れるタイミングになるとどうしても考えてしまうのだ。
ダフネとお兄様、そしてドビーがいるのならば、ホグワーツの生活だって楽しいに違いない。それは分かっている。
でも、それもいつまで続くか……いつ終わってしまうかも分からない、幻のような時間なのだ。私は
この掛け替えのない日常は、それこそ明日終わってしまってもおかしくはない。
人間ではない私は、こうやって日常を暮らすだけでも綱渡りだ。人前で日光を浴びたり、銀に触ってしまった瞬間に日常は終わりを告げる。そして理性が、私の奥底に蔓延る殺人に対する憧れに負けてしまった時も……。
私はそこまで考えた後、頭を振って雑念を追い払う。
何を馬鹿なことを……。
私は無理やり自分の弱い心を叱咤する。
感傷など無意味で無価値だ。いつか
私は急いで否定の言葉を口にしようとする。これ以上、お兄様達に迷惑をかけないために。これ以上私が不安を感じないために。
しかし、
「ごめんなさい……。お兄様、ダフネ。私は大丈夫で、」
「ダリア! 私、嬉しい!」
空気にそぐわない、底抜けに明るい声によって遮られたのだった。
顔を上げると……そこには同じく顔を上げた、満面の笑みのダフネがいた。
ダフネは『秘密の部屋』の時と同じ……私の心の奥底の不安まで見通すような目をしていた。
ダンブルドアのような人の心に押し入るような瞳ではなく、私に心から寄り添ってくれる……そんな優しい瞳で。
「私だって、『シリウス・ブラック』如きのせいで、もう帰らないといけないのは寂しいよ! せっかく友達になれた初めての夏休みなのに、中々会えないなんて悲しかったよ! でもね、ダリア。私、今は嬉しいの! 寂しいと思っているのは、会えないことが悲しいと思っているのは私だけではなかった! 貴女も私と同じように思ってくれていた! ただ買い物に行くだけの時間を、貴女はこんなにも惜しんでくれた! それが分かったから、私は確かに寂しい気持ちもあるけど、今はとても幸せだよ!」
笑顔のダフネは、私の手をそっと握りしめながら続ける。
「大丈夫! この気持ちさえあれば、大丈夫だよ! この時間は、これで終わりなんかじゃない! 貴女はずっと、こんな
あぁ……本当に貴女は……。いつだって私の心の奥底にある悩みを見抜き、私に寄り添ってくれている。
心の奥底に燻ぶっていた不安感が消え、見る見るうちに私の表情が解されていくのが分かる。これが一時的な気休めでしかなくても……私はやはり、こうして誰かが私を人間扱いしてくれることに、途方もない安心感を得られるのだ。
『秘密の部屋』の時と同じ、現実は一切変わっておらず、未来に対する保証などこれっぽっちもない。でもダフネの言葉を聞けば、何故か無邪気に信じることが出来る。
怪物である自分を信じられなくても、ダフネの優しさを信じることくらいなら、私にだって出来るのだ。
だから、
「……はい! そうですね! その通りです! ホグワーツでも一緒にいましょう!」
「うん! じゃあ、また一週間後に! それまでも手紙を書くからね、ダリア!」
私はようやく、笑顔でお別れを言うことが出来たのだった。
お兄様と寄り添いながら、ダフネとは別々の方向に歩き出す。今年のキングズ・クロス駅での別れの風景をそのままに、私は何度も振り返っては手を振り、そしてあの時と同じことを繰り返し思う。
あぁ、どうか……もう少しだけ。もう少しだけ、この幸せな日々が続きますように。
ダフネの言葉を、いつまでも正しいものに私が出来ますように。
そんなことを思いながら、やはり私はダフネが見えなくなるまで手を振り続けていたのであった。
ハリー視点
楽しい一週間だった。
本当の母親のように世話を焼きたがるウィーズリーおばさん。マグルの話を聞きたがるおじさん。主席になったことを頻りに自慢したがるパーシーに、それをことあるごとに揶揄するフレッドとジョージ。僕に命を助けられたからか、いつにもましてドキマギしている様子のジニー。
そして僕と一緒に買い物に行ってくれるハーマイオニーとロン。ただ二人に関しては、彼女が買った猫がスキャバーズを付け狙うことでいつもピリピリした空気が流れてはいたけど……。
本当に……本当に楽しい一週間だった。
一人で『漏れ鍋』にいた頃も楽しかったけど、やっぱり皆と一緒にいる方が遥かに楽しい。皆で下らない話で盛り上がり、ダイアゴン横丁に繰り出しては使い方も分からないような道具や、あの史上最高の箒を眺める。皆と一緒にいるから、何気ない時間が輝いていた。
だから……この一週間が終わり、ダイアゴン横町を離れることになろうとも、僕の楽しい時間は終わることはない。ホグワーツこそが僕の家であり、あそこにこそ僕の本当の家族……大切な親友たちがいるのだから。
「さあ、急いで汽車に乗るんだ! 汽車に遅れても、もうホグワーツまで飛んでいける車はないんだからな! それに、空いているコンパートメントを探すのにも時間がかかるだろう! さあ、急いで!」
あっという間だった一週間が過ぎ、僕らは9と4分の3番線ホームにいた。ホーム一杯に魔女や魔法使いが溢れかえり、子供たちを見送っては汽車に乗せている。ホグワーツという、世界最高の魔法学校に向かうために。
それはウィーズリー家も例外ではない。まだ発車まで二十分もあるというのに、ウィーズリーおじさんが子供たちを急かすように汽車に乗せていく。ウィーズリーおばさんも子供たち全員にキスをし、ハーマイオニー、そして僕にもキスをしてくれる。ただ、僕の時だけ、
「ハリー、
……大人しい生活を送っていなかったという自覚はある。フレッドとジョージのように破天荒な素行ではなかったけど、だからと言って模範的生徒であったわけでもない。一年生の時だって、そして去年の『秘密の部屋』の時だって、僕は数多くの校則を破っていた。それどころか命が危ぶまれる場面だってあった。僕を本当の息子のように思ってくれているおばさんが心配するのも無理はない。
でも……今の言い方はどこかおかしかった。何故『今年は』なのだろうか。何故一人になってはいけないのだろうか。
そして何より……何故僕だけに忠告したのだろうか?
無茶をして危険な目に遭ったのは、僕だけではないというのに……。ハーマイオニーやロンには言わず、何故僕だけに?
僅かに訝しく思いながら、僕は子供にサンドイッチを配りに向かうおばさんを見送る。
そんな僕に、
「ハリー」
今度はおじさんの声がかかったのだった。その声音は……いつになく真剣で、どこまでも警戒感に満ち溢れたものだった。
「君に少し話したいことがある。こちらに来てくれないかい?」
そう言っておじさんは僕を連れ立って柱の陰に潜り込み、やはりどこか警戒感に満ちた声音で話し始める。
「ハリー……。『シリウス・ブラック』が脱走したことについては知っているな?」
「はい、勿論です。『漏れ鍋』の客も、ずっとその話で持ち切りでしたから」
唐突な話題に困惑しながらも、僕は頷き返す。
シリウス・ブラック。アズカバンという魔法界の牢獄から、史上初めて脱獄に成功した殺人鬼。
魔法界の人々にとって、ヴォルデモートの右腕だったという彼は余程恐ろしい存在であるらしく、ダイアゴン横丁を歩いている時もそこかしこで彼の話題を耳にすることがあった。彼がどうやってアズカバンから脱走したのか、彼が今どこに潜んでいるのか、そして……彼に次殺されてしまうのは、一体誰なのだろうか。そんな話がいたる所でされており、僕も暇つぶしに話を聞いていた時だってある。
でも、正直僕にとっては、彼の話はテレビの向こう側のような出来事でしかなかった。マグルの世界で育った僕には、結局彼の本当の恐ろしさが理解できなかったのだ。
何故皆がヴォルデモートのことを、『例のあの人』と言ってまで恐れるのかが理解できないように。
それなのに……僕は何故、今おじさんから『シリウス・ブラック』についての話を振られているのだろうか。
そう訝しんでいる僕に、おじさんはやや迷うように言葉を重ねていく。しかし、
「そうだ、その『シリウス・ブラック』だ。それで……ここから聞く話は……どうか怖がらないで……というのは無理だろうが、どうか冷静になって聞いてほしい。出来ることなら君にこんなことを知らせたくはなかった。モリーやファッジも反対したんだ。だが、私は言わなくてはならない。知らないより知っていた方が、君にとっては安全だと思うからね。君は少々……フラフラ出歩く癖があるみたいだから、」
「アーサー! 何をしているの! もうすぐ汽車が出てしまうのよ!」
おばさんの声で迷っている暇がないと思ったのだろう。意を決したように声を低くし、急き込んだように言葉を紡ぎ始めたのだった。
今年のホグワーツも、絶対に平穏には過ごせないのだと分かる言葉を。
「ハリー、驚かずに聞いてくれ。奴は脱獄する前、繰り返し寝言を言っていたそうだ。『あいつはホグワーツにいる』と……。何度も何度も同じ寝言をね。そしてその後、奴はアズカバンから脱走した。もう何週間も経つのに、誰一人ブラックの足跡を見つけられていない。おそらく、我々がブラックを見つけ出すことは難しいだろう。本当に分からないことだらけだ。奴がどうやって脱走し、どうやって身を隠しているのか皆目見当がつかない。……だが、そんな中で一つだけ分かっていることがあるんだ。それは奴の狙いが……他ならぬ君だということだ」
唖然とする僕に、おじさんは続ける。
「ブラックは狂っている。奴はね……『例のあの人』の右腕だったんだ。そんな奴は、きっと君を殺せば『あの人』の権力が戻ると思っているんだ。奴は死に物狂いで君を狙うことだろう。君にとって、今年はホグワーツですら安全な場所だとは言えない。アズカバンの看守たちが学校の周りを警備するらしいが、あいつは彼らの監視を潜り抜けて脱走したんだ。今年のホグワーツにだって潜り込めることだろう。だからハリー……どうか約束してほしい。どうか城の外にフラフラ出歩くようなことをしないでくれ」
そう言っておじさんは言葉を締めくくり、真剣な顔で僕を見つめていた。僕はそんなおじさんに同じく真剣な表情で向き合っていたけど……正直おじさんの話は唐突すぎて、話を聞き終えても僕に一切実感など湧いていなかった。
ヴォルデモートに何度も殺されそうになったとはいえ、突然奴以外の殺人鬼に狙われていると言われても、はいそうですかと即座に納得することは出来ない。それに、
「ハリー……きっと君は怖い思いをしているだろうが、」
「いいえ、怖くなんてありません」
どんなに理屈っぽく説明されても、僕はこの地上でホグワーツこそが……ダンブルドアのいるところこそが、最も安全な場所だと確信しているのだ。たとえアズカバンを脱走しようとも、ダンブルドアは今世紀最高の魔法使いだ。ヴォルデモートだって恐れた彼を、『シリウス・ブラック』が恐れないはずがない。恐怖しろと言われても、そこまで恐怖心など湧いてくるはずがなかった。
そんな僕を、叔父さんは信じられないという顔で見つめている。僕はおじさんを少しでも安心させるため声を上げようとした……けど、
「僕、別に強がってこんなことを言ってるんじゃないんです。だって、ホグワーツには、」
「アーサー!」
今度は僕の声が遮られてしまったのだった。声がした方を振り返ると、おばさんがこちらを睨みつけており、その背後では汽車が蒸気を勢いよく吐き出し始めていた。
明らかに時間切れだった。
「おじさん! 僕もう行きます!」
僕は急いで汽車まで走り、今にも閉められそうになっていたドアに滑り込む。そんな僕の背後に、
「誓ってくれ、ハリー! 決して一人で城の外をうろつかないと!」
おじさんの大声が届く。
「分かってます! 城の外を一人でうろついたりなんてしません!」
ハグリッドの小屋は別にして、僕が好き好んで城外を一人で歩くことはあまりない。一年の時に『禁断の森』に立ち入ったことはあるけど、あれは罰則としてであって、自分から入ったわけではないのだ。ましてや夜中に外を歩いたことなど、よほど切羽詰まった時以外は存在しない。今年からはホグズミード行きというイベントもあったけど……おじさんの話を聞く限りでは、サインの有無に関わらず絶望的だ。皆僕が城の外に出ることを望んでいないだろうし、出ないように監視すらしてくるだろうから。
僕は若干の苛立ちと共に……でもそれ以上に、いつもお世話になっていたおじさんに応えたいという思いから返事を返す。
しかし、おじさんの話はこれで終わりではなかった。おじさんは動き出した汽車に向かって、ますます急き込んだように、
「それだけじゃない! ハリー、どうか……何を知ったりしても、決してブラックを
「……え?」
そんな更に意味不明な言葉をかけてきたのだった。
汽車は勢いよく煙を吐き出しながら走る。皆窓から身を乗り出し、親の姿が見えなくなるまで手を振り続ける。
手を振っていないのは、意味も解らずドアの前に佇み、ウィーズリーおじさんの方をただひたすらに見つめ続ける僕だけだった。
次回吸魂鬼……アップ開始