ここはとある鎮守府の執務室。
唯一の男性である提督は執務をひとしきり終え、のんびりと執務椅子に背中を預けていた。
無言のまま天井を見上げるその表情は晴れず、どこか不安を抱く様子が窺えた。
そんな時、コンコンという控えめなノックの音と共に、彼の初期艦である艦娘『吹雪』が湯気のたったお茶を持って入ってきた。
「司令官、お茶が入りました」
「…ん、ああ。 そこに置いといてくれ」
明るい笑顔を見せる吹雪とは裏腹に、そっけない返事を返す提督。
その様子に疑問を抱いた吹雪は彼に尋ねた。
「司令官、どうかしたんですか? なんだか、いつもと違って元気がないですよ」
彼女の知っている司令官という人物は、普段は艦隊の仲間達に気さくに接する男だ。
駆逐艦の子達が頑張ったときは、親しい兄か父親のように暖かく触れてあげる。
戦艦や空母・巡洋艦たちには気の良い親友のように言葉を交わし、時に飲み仲間のように宴会や晩酌に付き合ってあげることも珍しくなかった。
そんな彼が、今はまるで別人のように暗く静まり返っている。
それが気になった吹雪はどうしてこうなったのかを知りたく、提督から話を聞く事にしたのだ。
「………」
提督の方も、流石にこのまま話すのは失礼かと思い、体を起こす。
不安げに自分を見つめる吹雪を見ると、訳を話し出した。
「…ケッコンカッコカリについて、どうしようか考えていたんだ」
ケッコンカッコカリ
指輪の形をした増幅装置(ブースター)を身につけることで艦娘の能力を底上げし、より良い戦力強化を図ろうというもので、元々は大本営から任務の一環として発表されたのだ。
しかし、これは能力の強化と同時に相応の過負荷がかかるため、最大錬度……すなわち限界まで能力を引き出した艦娘にのみ使用を許されている。
最大錬度という高いハードルゆえ、これを使用できる艦娘は少ないが、それでもこのケッコンカッコカリを受けたいという艦娘は数多くいる。
それは能力強化もあるが、真似事でも自分にとって愛しい相手と結ばれるという、女の幸せを享受することができるという理由が大きかった。
現に彼の鎮守府でも、このケッコンカッコカリを行いたいがために最大錬度に到達した艦娘はたくさんいる。
そして、目の前にいる吹雪もまた、その一人なのである。
「ケッコンカッコカリ、ですか。 それじゃ、まだ誰を選ぶか決心がついてないんですね…」
「ああ。 皆俺を慕ってくれているのは嬉しく思っている。 提督としても、一人の男としてもな…」
どこか遠くを見るような目で、提督はお茶をすする。 自分好みの熱さが一時、心の不安をやわらげてくれる。 長く自分を支えてくれた彼女の優しさに心の中で礼を言って、話を続ける。
「司令官ほどの人なら、皆誰を選んでも不満はありませんよ。 司令官は、司令官の気持ちに素直になれば良いんです」
「ありがとう、吹雪。 ただ、な…」
「…っ? まだ、何か不安が…?」
「実は、俺の元にもケッコンカッコカリの指輪が届くと聞いたとき、昔聞いたある話を思い出してしまったんだ」
ちょっと長い話になるんだが…、前置きをする提督。
それを聞いた吹雪は自分の口をつけている湯飲みをテーブルに置くと、姿勢を直し提督の方へと向き直った。
「ある時、俺の友人から聞いたんだが、ある鎮守府の提督が艦娘に殺されるという事件があったんだ」
「それって、もしかしてブラック鎮守府の様な提督ですか!?」
血相を変えて提督の方へと身を乗り出す吹雪。
彼女が興奮するのも無理はない。
ブラック鎮守府とは、部下である艦娘を奴隷や使い捨ての道具のように酷使する鎮守府。 そして、そのような提督がいる場所。
艦娘である彼女にとっては、恐怖と嫌悪の対象でしかないのだ。
しかし、提督は吹雪の言葉に小さく首を振った。
「いや、違う。 その提督は実直で、艦娘達からも心から信頼される良き提督だったんだ」
「…? じゃあ、どうしてそのような人が艦娘に殺されたんですか?」
まるで意味が分からないという顔で提督に問う吹雪。
彼女が座るのを待って、提督は再び話を続けた。
「友人の話では、彼は仕事熱心だったが部下への気遣いを忘れない男で、戦果より艦娘たちの安否を心配する男だったそうだ。 だから、戦況によっては中破・小破しただけでも撤退するようにしていたんだ」
「中には彼を臆病者呼ばわりする提督もいたそうだが、それでもその提督は艦娘達の身を第一に考え、彼女達もまた彼をとても信頼していたそうだ」
提督は「ふう…」と小さく息を整えると、ちらりと自分の湯飲みに目をやる。
湯飲みの中は、時間がたってすっかり冷め切ったお茶が自分の浮かない顔を映し出している。
「彼には着任したときから共に過ごしてきた艦娘がいた。 彼女は誰よりも彼のことを想っていて、彼もまた自分を長く支えてくれたその艦娘を大事にしていたんだ」
「そして、彼の元にもケッコンカッコカリの書類と指輪が届いた。 その艦娘は、真っ先に自分を選んでくれると思っていたのだが、彼は言った。 『自分は、誰ともケッコンカッコカリをするつもりはない』と…」
「当時は複数の艦娘とのジュウコンは心象的によろしくないということで、大本営から禁止令が出されていたんだ。 まあ、その頃は開発したばかりであまり指輪の数がなかったというのも理由の一つだがな」
「それに、彼はあくまで提督として皆を大事に思っていて、その中から誰か一人だけを特別扱いするわけには行かない。 そう考えていた」
「しかし、艦娘の方は彼を諦め切れなかった。 必死に泣きじゃくりながら自分とケッコンカッコカリをしてほしいと懇願し、時に肉体関係を作ってでもと迫ってきた事もあった。 しかし、提督もまた必死に突っぱねた。 『自分が提督である以上、部下であるキミと特別な関係になるわけには行かない』と、頑なに言い聞かせたんだ」
「……そして、事件は起きた。 ある日の早朝、秘書艦だった彼女は執務室にいた提督を撃ち殺したんだ。 隠し持っていた単装砲を使って…」
「発砲音を聞いて駆けつけた艦娘たちが問い詰めると、彼女はこう言った。 『あの人が提督である以上、私はあの人と一緒にいられない。 だから、こうするしかなかったの。 これからは、一緒にいられるわ』 と、心から嬉しそうな顔をしていたそうだ」
「………」
言いようのない恐怖に襲われながら、吹雪は膝の上に置いた手に力を入れる。
額から冷や汗を流し、ごくりとつばを飲み込みながら、彼女は提督の話に耳を傾けた。
「その後、死んだ提督の葬儀が執り行われる事になったが、そこに提督と彼を殺した艦娘の姿はなかったそうだ」
「……ど、どうして…ですか?」
「彼女は提督を殺した後、彼の亡骸を背負ったまま海に逃げ出したんだ。 周りが青一色の海原まで来ると、彼女は追って来た子達にこう言った」
『私は本当に彼を愛しているの。 誰にも来てほしくないし、誰にも触れてほしくないの。 だから、私は彼と共に行くわ。 誰も追ってこれない深い深い海の中へ、私は望んで行くわ!』
「その言葉を最後に彼女は主砲に入っていた砲弾を暴発させ、提督の亡骸を抱いたまま自沈した。 その場にいた艦娘たちは、ただ立ち尽くすことしかできなかったと話していた」
「………」
「それ以来、大本営は複数の艦娘とのケッコンカッコカリを受け付けるようにしたんだ。 表向きは、あくまで戦力強化のためという事にしているが」
「根本的な解決になっていないことは分かっている。 しかし、この事件は彼が一人の艦娘としかケッコンできないという理由で行わなかったのが原因だった。 だから、その問題を少しでも緩和できればということでこの結論に至ったんだ」
長い独演を終えて、提督は「ふぅ…」とため息を吐く。
しばらく無言のまま提督の話を聞いていた吹雪は、ゆっくりと顔を上げて提督の顔を覗き込んだ。
「…俺は怖いんだ。 俺自身、男としてジュウコンはしない。 誰か一人をケッコンカッコカリの、そして将来の伴侶として愛そう。 そう決めている」
「しかし、俺のその判断が他の子をこのような暴挙に駆り立ててしまうのではないか。 俺の判断が、誰かの心を壊してしまうのではないか。 そう思うと怖いんだ、ケッコンカッコカリをすることが…!」
そう叫びながら、提督はその場で頭を抱え込んでしまった。
彼はケッコンカッコカリをすることが不安ではなかった。 ケッコンカッコカリの相手として、誰か一人と特別な関係を結ぶことが不安だったのだ。
それは同時に選ばれなかった子達を傷つける事になる。 それが原因で彼女達の心を壊す事になってしまうのではないか。 彼はそのことを懸念していたのだ。
しかし…
「……えっ?」
思わず声を上げる提督。
そこには、自分を優しく抱きしめる吹雪の姿があった。
「大丈夫ですよ司令官。 私は皆さんがそんなことするような方じゃないと知ってますし、もしあったとしてもそんなことは私がさせません。 だから私を、そして皆を信じてください」
温かみのある声で提督にそう話しかける吹雪。
その声が、その温もりが、提督の心にある不安を少しずつ溶かしてくれた。
提督はゆっくりと手を伸ばし吹雪を抱きしめ、吹雪もまた、提督が落ち着いてくれるまでその手を離すことはなかったのであった。
しばらくしてようやく落ち着きを取り戻した提督は、いつもの口調で吹雪にお礼を言った。
「ありがとな吹雪、おかげで俺も決心がついた。 指輪が届いたそのときは、俺もケッコンカッコカリを行う。 それまでに、俺も誰を選ぶかその答えを決めておくよ」
「はいっ! その意気ですよ、司令官!」
元気いっぱいの吹雪の返事を聞き、提督も思わず照れ笑いを浮かべる。
そして、誰をケッコンカッコカリの相手にするか。 その答えを見つけ出すべく、提督は執務室を出てみんなの元に向かうのであった。
主のいなくなった執務室。
一人ぽつんと取り残された吹雪は、さきほど提督が出て行った扉を見つめながら、一人つぶやいた。
「…大丈夫。 あなたには私がついているんです。 あなたが辛くなったそのときは、私があなたを支えます。 あなたが道に迷ったときは、私があなたを導きます。 あなたにまとわりつくような悪い虫は私が一匹残らず払ってあげます。 だから……」
「私以外の子を選んじゃ嫌ですよ、司令官…」
そう言いながら彼女は満面の笑みを浮かべる。 黒く濁ったその瞳に最愛の人を映し出し、彼女は誰もいない執務室で高らかに笑うのであった。