では。
青空よりもさらに濃い青色の瞳を一杯に見開いて、三角屋根が並んだ町並みをすべて足元に見下ろして。
気付いたらアサシンは空高くに放り出されていた。耳元でびゅうびゅうと風が唸り、首に巻いていたマフラーが千切れそうなくらいはためいている。髪を束ねていた布が吹き飛ばされて、髪が扇のように広がったのを感じた。
―――――何が、どうなって。
口の中で呪文を唱えて風を操り、アサシンは叩きつけられる風に翻弄されていた体の向きを安定させた。
手足を伸ばした体勢を取ったアサシンの落下する速度が緩やかになる。
そこでようやく、アサシンは自分の全身にかかった魔術を感じた。具体的に言うと霊体化ができず、体が勝手に術を操り、風を動かして自分の体をある方向へ押し流している。
玲霞が令呪越しに唱えたのは、カルナの元に行け、という意志は強いが方向性のない命令。
―――――曖昧な命令だったものだから。
空間転移に間違いが生じて、自分は空に吹き飛ばされたらしい。有償の奇跡に融通は利くのか、とアサシンは風に流されながら妙なことを考えた。
今のアサシンは空高くに放り出されて落下している。このまま落ちてもサーヴァントだから死にはしないが、落下した場所は大惨事だろう。
気付けば遥か下だった町の屋根は間近に迫っていた。屋根を突き破らないよう重量軽減と速度制限の術を高速で重ね掛けし、空中で軽業師のように回転したアサシンは足から先に屋根の上に着地した。
軽い痛みが足を通じて全身に走る。衝撃を殺しきれずに足元で屋根瓦が一枚砕けたが、それくらいは許してほしいと思いつつ、アサシンは立ち上がった。
風に流されて乱れた髪が目にかかって、邪魔だった。
それを顔の前から払いのけて、アサシンは隣の家の屋根の上に立っている人影の方を見た。
二対の青い瞳が、正面から交わる。
「……」
「……」
無手で隣の家の屋根の上に立っていた“赤”の槍兵は、空から落ちてきた“黒”の暗殺者を見て、何とも複雑な顔になった。
先に動いたのはアサシンの方だった。彼女が右手を天に突き上げ、何かを呟くのと同時に、掌に魔力が集められて渦を巻く。
認識疎外と防音、それに諸々の隠蔽のための術を組み合わせたものをアサシンは発動させた。そうやって無造作に編まれた結界擬きに弾かれて、周囲の屋根に止まっていた鳩が鳴き声を上げてすべて飛び去る。
アサシンは、鳩の方を見もしなかった。
「……戦いに、来たわけではないんですね?」
剣と弓を顕現させるか否か戸惑うアサシンに、カルナは頷いた。
「お前もそうだろう。奇襲ならもっとうまくやるはずだ。一人で空から落ちるなど、何をどうすればそうなる?」
「レ―――私のマスターがあなたに会いに行け、と令呪を使ってくれたからこうなったんですよ。あなたこそシギショアラで何をしているのですか?」
「……偵察だ」
は、とアサシンがつかの間呆けたような表情になった。
カルナほどの凄烈な気配の英霊を偵察に行かせれば、遅かれ早かればれるだろう。現に、アサシンは、カルナが一定の距離に近づいたとたんに気配を察知した。
人選、間違っていませんか、とアサシンは寸でのところで口に出しかけて止めた。さすがにそれを言うのは場違いだ。
「似合わないと言いたげな顔はやめろ。オレも自覚はある」
だが、きっちり顔には出てしまっていたらしい。
カルナが生真面目に眉を顰め、それを見てようやくアサシンの纏っていた冷えた空気が霧散し、彼女は構えを解いた。少なくとも、警戒心は減ったのだ。
同時、一瞬カルナの目の前からアサシンの姿が消え去る。気付けば、カルナを下から覗き込むようにアサシンが間合いを詰めていた。ひんやりした冷たい手が、カルナの頬をくるむように挟み込んだ。殺気の欠片もない行動に、カルナは動かなかった。
じっと無言で、カルナの両頬を挟んだまま、アサシンは上目遣いにカルナの薄青い瞳を見上げる。カルナが見る間に、その濃い青の瞳が翳り、仮面がずれるように寂し気な顔が無表情の下から現れた。
「―――――何で、こんな風な形でしか、また会えなかったんでしょうか」
それはカルナにというより、自分に言ったような一言だった。そのままアサシンは手を離して後ろに跳ぶ。カルナを見据える顔は、元の通りの無表情だった。
「それで“赤”のランサー。あなたの任が偵察だというなら答えましょう。私たちは、ここにそちらのアサシンに毒を盛られたマスターたちの調査と、教会を調べるために訪れました」
「待て、少し待て。そう簡単にばらして良いのか?」
「良いんです。知られて困ることではないので。そちらだって、何となく予想はしていたんじゃあないのですか?」
「まあ、な。オレとしては、お前のマスターの様子が見たくもあったし、話したいこともあるのだが……」
「――――今は、お互いに時間がない。そうでしょう?」
“赤”側はきっと遠見の術で見張っている。大して術式を練り上げることができずに発動させたアサシンの隠蔽の術では、あとしばらくの間しか持たないだろう。
それに、ルーラーの気配も確実に近寄って来ている。
「ああ。だが、一つだけ聞いておきたい。――――お前は、何をした?何をしたらそういうあり方のサーヴァントになる?」
咎めるような言い方ではなかった。そんな気持ちは微塵も感じ取れなかった。
アサシンは痛みをこらえるように一瞬きつく目を閉じる。
「……私は、神の化身を殺めようとしました。けれど、失敗して呪われました。死んでから今までずっと解けない呪いです」
「それは、神に呪われたか?」
こくり、とアサシンの首が上下に振られた。何の神かまでは、彼女には分からなくなっているから答えようがなかった。
「神……神か。ならば探しても見つからないわけだ。地上にもいない、座にもいない。だが、召喚はされた……。となれば、お前がこれまでいたのは世界の裏側かどこかか?」
途端にアサシンの目が泳いだ。つまり、自分でもよく分かっていないのだ。
他人のことは見抜いて気に掛けるわりに、自分のことは後回しにする。悪い癖だ、とカルナは妙に腹立たしくなった。
だが、そんな処から、アサシンのマスターはアサシンを呼び出したことになる。
「お前の、マスターの名は?」
「……レイカ。リクドウ・レイカです」
そうか、とカルナは名を舌の上で転がすように呟いた。オレは彼女に感謝しなければならないようだ、とも言い、それをアサシンは聞いて黙って目を伏せた。
「こちらも聞きたいのですが、あなたのマスターの名前は?」
「すまん。答えられない。顔を合わせたことが無いのだ」
「つまり、顔を合わせる前からあなたのマスターは毒に犯されていて、さらにあなたは名を知らぬマスターのために戦っているということですね。――――それにもう一つ、こちらのセイバーに請われて、再戦の約束も交わしたと聞きましたが?」
カルナが頷くと、アサシンは額を手で押さえた。
「この律義者。そうやって義理を通し続けていれば、苦労ばかり背負いこみますよ」
「お互い様だ。マスターのためとはいえ、お前も大立ち回りばかりしているだろう」
「違います。私は感情で動いています。私は、今のマスターのことが好きなんです。好きだから頑張るんです」
今も昔も、と最後の一言だけ、アサシンは心の中で付け加えた。
同時に、彼女はかけた術が軋むのを感じ取る。外からの見えざる攻撃で、術が綻び始めているのだ。
伝えたいことも聞きたいこともお互い山ほどあるのに、どうしようもなく時間がなかった。二人揃って元々口が回る方ではないせいで、伝えたいことがありすぎるせいで、却って言葉を紡ぎだせない。それが、腹立たしくなるくらいもどかしい。
“赤”のアサシンに聞かれてはならない会話ができるのは、もうこれが最後だろう。アサシンもカルナも漠然とだが、そんな予感がした。
次にこうして話せる機会は、多分、互いがサーヴァントの役割を果たした後くらいにしか巡って来ないだろう。それがいつ、どういう形になるのかは、見当もつかなかった。
「――――カルナ。私はあなたと一緒には行けない。聖杯に告げたい願いはないけれど、天草四郎の願いは、どうやっても認められない。だから、戦います。あなたの聖杯にかける願いが、なんであっても」
「そうか。ならば、オレもオレの戦いをしよう。オレの力を必要としてくれたマスターの命を守るため、槍をかける。もう、オレの聖杯にかける願いは無くなり、お前にも宿願がないとなれば、その点では……その点だけはオレたちは気楽か」
願いが無くなった、と聞いてアサシンの眉がピクリと動いた。
「あなたが槍を振るうのは、マスターと、“黒”のセイバーとの再戦のためであって、天草四郎の願いのためではないんですね」
「そうだ。天草四郎は、お前に願いを切って捨てられたことを気にしていたようだが、何か言ったのか?」
アサシンは記憶を呼び戻すように片目を瞑った。
「――――特に何も、大したことを言った覚えはありません。……でも、あの人みたいな雰囲気の人、私が苦手だってことをあなたは知っているでしょう」
まさか印象だけで天草四郎の願いを罵ったわけではないが、天草四郎は人類救済のためなら、何をしてもいいと考えている節があるとアサシンは思っていた。
何を踏みにじっても、最後には皆が救われるからいいだろう、と。
それは如何にも乱暴だ。彼から感じ取れたのは、あの神の化身、クリシュナを思い出させる傲慢さだ。
――――クリシュナのことは、アサシンは心底苦手だ。生きていた時から、とてもとても苦手だった。
彼がどれだけ見目形が良くても、弁舌爽やかに人の心を虜にする魅力ある青年であっても、苦手だった。
それは、自分が彼に殺されたからというのではない。自分はクリシュナを殺そうとしたのだから、彼に殺し返されたことに悔いはあっても恨みはない、とアサシンはそこに関しては割り切った思考をしている。
では何故、そこまでクリシュナが苦手だったのだろう。厭ったのだろう。
死んで、生きていた頃の自分を突き放して見ることができるようになったから分かることだが、アサシンは、クリシュナの人を見ているようで見ていない神の視線が、怖かったのだ。
そういう存在と、否が応でも重なる人間が天草四郎だ。
要するに、徹頭徹尾、天草四郎はアサシンにとって相容れないのだ。
「雰囲気が苦手と言われてはどうしようもないな。だが、あの男の信念は強固だぞ」
天草四郎は六十年もの時間を、かつてダーニックが奪ったという聖杯を取り戻すためだけに使ったのだ。人が一人生きて死ぬほどの間の時間を、老いることもせずに、ただの人間の暮らしに溶け込むこともせず、人類救済のためだけに使う。確かに、とんでもない求道者だ。
けれど。
「あちらの信念の固さは諦める理由にはなりません」
アサシンは肩を竦めて答えた。
同時に術に限界が来た。ついに、ガラスの砕け散るような音と共に結界擬きが弾け飛び、それまでこの空間を避けていた鳩たち、つまりセミラミスの目が空を旋回し出した。
鳥の群れを目の端で捉えながら、アサシンは片手で口元を覆ったマフラーを握り、だらりと下げたもう片方の手に光の粒子が集まり剣の形を成す。
同時にカルナも、切っ先を下げたまま黄金の槍を顕現させる。
「聖杯にかける願いは、あなたも私も無い。それなら、精一杯己の戦いをするとしましょう。結局はそれが、助けになることでしょう」
「ああ。そちらのセイバーに伝えておいてほしい。必ず再戦の約束は果たす、とな」
「確かに、伝言を承りました。“赤”のランサー」
アサシンが一礼して後ろに下がると同時に、一つのサーヴァントが場に飛び込んできた。
金髪に紫の瞳の少女、ルーラーは、アサシンを庇うようにカルナの前に立ちふさがった。
厳しいルーラーの視線を向けられてもカルナはどこ吹く風だった。
「この場でそう戦意をむき出しにする意味はないぞ。旗の聖女よ。オレの用は済んだ故、早々に立ち去る」
得物を持ったカルナと、それに反して明らかに戦意のない言い方に、ルーラーは旗を召喚するのか戸惑う。
その肩をアサシンが叩いた。
「ルーラー、彼の言っていることは本当です。昼の街中ではどうしたって戦えないし、今はまだその時ではありません」
「そういうことだ。さらばだ、ルーラー。次は戦いの場で待つ」
そう言ってカルナは跳躍し、姿が霊体となってかき消える。気配も恐ろしい速度で遠ざかっていった。
街外れの教会からここまで一直線に駆けて来たルーラーは、胸を撫でおろした。
さっきアサシンの気配が一瞬かき消え、さらに近くに“赤”のランサーの気配が同時に出現したのにルーラーは驚いた。
どうやらカルナは、セミラミスの授けていた隠蔽の魔術をアサシンと会った時点で解除したらしい。
おまけにやって来てみれば、アサシンとカルナはお互い得物を向けあっていないが、手には握って相対している始末。殺気は感じられなかったものの、ルーラーは非常事態と判断して飛び込んだのだ。
そうルーラーから言われ、傍から見たら確かに物騒なやり取りに見えたのだろうな、とアサシンは苦笑いするしかなかった。
「心配させないでください、もう」
と、本来なら中立役に徹さねばならない聖女は、言ってからはっと自分の手で口を押さえた。
そのルーラーの姿にアサシンは一瞬違和感を覚えたが、それが何かアサシンが分かる前にルーラーはアサシンの手を引いた。
「アサシン、それでは残りの仕事を片付けて城に戻りましょう。教会には何もありませんでしたが、街の探査はまだ残っているでしょう」
了解です、とアサシンは答え、二人は屋根から裏路地へ飛び降りる。
路地から見上げた、四角くい空とそこに輝く太陽を一瞬見上げてから、アサシンはルーラーの後について駆け去ったのだった。
煽り合いをしている訳では断じてない、時間がない状況で真剣に話すとこうなる、という話。
前話の展開は不味かったかなと思い返していたのですが、皆さまから暖かな感想を頂いて諸々吹っ切ることかできました。ありがとうございます。
あと暦が大幅にずれていますが、バレンタイン短編を明日の14:00に投稿します。
先に警告です。本編との温度差、落差があります。