夜、茂野宅。応接間で、時雪の目の前には凛とした佇まいで正座する篤子がいた。
「……わざわざ御足労頂きありがとうございます。篤子様」
「いいえ。時雪様のためならこのくらい、なんともありませんわ」
二人揃って、仮面の笑顔を貼り付ける。
ふふっと上品に笑った篤子は、美しいそれのまま続ける。
「ご決心頂けました?」
「何の事でしょう」
「まぁ、ひどいお方。ーー言わずもがな、私と時雪様の婚姻の事ですわ」
彼女の笑顔に、ピリッと殺気が洩れる。獲物を射抜くような鋭い視線だった。
しかし、時雪はそれに動じる様子を見せない。
「…………残念ながら、その話は承諾致しかねますね」
「まあひどい。女の一大決心を何だと思っていらっしゃるの?」
「一大決心?そうですか。少なくとも私には、貴女を己が一生を捧げる相手だとは思えませんので」
キッパリとそう言い切った時雪に、篤子は僅かに眉を寄せた。
何故こうも落ち着いていられる?
志乃が行方不明になり、5日も経った。普通なら、精神的にも追い詰められていてもおかしくないのに。
なのに彼はここまで冷静でいる。いつものように仮面を被っているのだろうか。
「……貴方、それを本気で仰っているの?」
「ええ。どうやら貴女はまだご自分が優位に立っていると思い込んでおられるようですが……残念ながらそれはもう虚妄に変わりました」
「……!?どういうことですか」
「まだおわかりになりませんか?……風向きくらい読めねば、将軍家縁者の家には嫁げませんよ?まぁ尤も……」
動揺を見せる篤子に、時雪は薄く笑って見せた。
「松木殿と手を組んで俺から愛する女性を奪った貴女などに、この茂野家を渡すつもりはさらさらありませんがね」
「!!」
「ようやくお気付きになられたみたいですね。でも、遅かった」
ジャキン
「!!」
篤子の背後から、刀が首元に当てがわれる。ハッと振り返った彼女が目にしたものは。
「どーもこんばんわ。ウチの兄貴の花嫁さん貶めた悪女さん?」
ヘラリと笑っていながら、その目は殺気に満ちている。時雪と同じような青い短髪の少年が、刀を手にしていた。
「貴方は……」
「あれ?まさか嫁ぎ先の家事情を知らないんスか?いや〜、近頃の悪女ってここまで詰めが甘いンスね〜。勉強になりますっ」
「茶化すのはよせ、時政」
はーい、と気の抜けた返事をした少年ーー茂野時政は、時雪の弟だ。
茂野家次男の彼は兄と違い、とんでもない遊び好き。遊びとナンパのために人生を費やしていると言っても過言ではない。そのいい加減さは時雪も手を焼いていた。
しかし、一度剣をとればまるで人が変わったように敵を斬り倒す。事実茂野家では剣の腕において最強であり、長男時雪が留守の間は彼が道場の師範代を務めている。
篤子に向けた刀は降ろさず、逃がすまいと睨みつける。
驚愕の色を示した篤子だが、その動揺もすぐに消え去る。
「……一体何のおつもりかしら?幕府名門の出の私に、こんな事をしてただで済むとお思いで?」
「まさか。然るべき状況と立場でなければ、名門の御息女に刃物を向けるなんてできませんよ。……それができているということは、もうおわかりですよね?」
時雪は笑顔を崩さないまま、袖の中から紙を二枚取り出す。その一番上の部分に、『逮捕状』としっかり書かれていた。
「貴女とその共謀者、松木羽矢之助。警察庁長官補佐より認めの印が押されています。これに従い、貴女を少女誘拐監禁関与の容疑で逮捕します」
「なッ……!!」
時雪の宣言と同時に、篤子は時政に押さえ付けられる。
「放しなさい!!私を誰だと思っているの!?」
「え?姐御誘拐の片棒担いだ凶悪な犯罪者でしょ?アンタこそ、目の前にいる男を誰だと心得ている」
ハッと顔を上げた篤子に、時雪が歩み寄る。
そういえば、と篤子は思い出す。時雪の父ーーいや、茂野家は元々、松平家の片腕として警察組織に長く携わってきた。茂野家が将軍家の縁者になれたのも、その功績によるものが大きい。では、当代の時雪もーー。
「警察庁長官補佐、茂野時雪ですよ」
絶望の表情を浮かべる篤子と対照的に、時雪の仮面の笑みはさらに深くなった。
********
その頃、松木邸。
「そうか。……あの娘、しくじったか」
椅子の背凭れに身体を預けた松木は、溜息を吐いた。彼の目の前には沖田と一戦を交えたあの青年が立っており、相変わらずの無表情で松木を見つめる。
「まぁいい。いずれ
「……………………申し訳ありません」
「潰せ。真選組諸共
「…………」
一礼をするわけでもなく、傘を片手に部屋を出ていく。
嘆息した松木は、右手を下に下ろす。その手は足元に絡みつくようにしなだれかかる少女の頭の上に置かれた。
「いい子だね……大丈夫、僕と君の間を裂く邪魔者は全て排除するよ。だから安心しなさい」
「……………………」
クスクス笑みを零す松木を見上げ、足に頬を擦り寄せる。赤い裾の短いワンピースを身に纏い、首元にはピッチリと羽目られた首輪が。
「ねぇ、志乃?」
松木に向けられた眼差しは、どこまでも虚ろだった。
********
かぶき町の大通り。そこを、大きい犬と傘をさした少女が闊歩していた。
普段ならこの隣に更に、銀髪の少女がいるのに。傘をさした少女ーー神楽の表情は曇る。
志乃が消えて既に四日近くが経とうとしていた。
この四日間、彼女を雇っているオーナーは特に気にする素振りも見せなかった。
曰く、「可愛い子には旅をさせろっつーだろ。アレだ、それと同じだ」との事。そんな彼は、今朝かかってきた電話を受け、仕事だと出ていってしまった。
妹が、志乃が心配じゃないのか。彼にそう詰め寄るも、それすらゆるりと躱していった。
だから神楽は、定春と共に志乃を探しに行くつもりだった。既に定春には、志乃の匂いを辿らせている。自分は定春についていき、何があってもいいように警戒しながら歩く。
ーー志乃ちゃん、今どこにいるアルか?迷子になっちゃっても大丈夫ヨ。きっと見つけ出してあげるネ。
遠くで泣いているかもしれない友に想いを馳せ、傘の柄を強く握りしめた。
陽は既に傾き、夕方が近付く時間帯。
いつの間にか見慣れた通りは遠ざかり、大きな屋敷が見えてきた。定春は急に走り出し、屋敷に近寄る。
「定春?」
「わん」
一吠えした定春は、屋敷の門の前で座る。ここに志乃がいるのだろうか。
「でっかい家アルな〜」
「オイ小娘」
門を見上げる神楽を怪しんだ警備役が、彼女に歩み寄る。
「こんな所で何をしている?」
「知らないおじさんと話しちゃダメって銀ちゃんに言われたアル」
「あぁ?とにかくここは偉い人の住む家だから、小娘はさっさと帰れ」
「どーやったら入れるアルか?おじさん入り方知らないアルか?」
「入れるワケねーだろ。わかったらさっさと帰……」
「あ、もしかしておじさんの腰に提げてる鍵で入れるアルか?」
「人の話を聞けクソガキャぁぁぁぁ!!」
マイペースで話を進めていく神楽に、ついに警護役はキレた。当の本人は反省の色を見せず、腰の鍵をジッと見つめている。
警護役が刀に手をかけるより前に、神楽の拳が鳩尾を正確に穿つ。呻き声を上げる間も無く警護役の体は崩れた。
気絶した警護役の腰の紐を引きちぎり、鍵を手に入れる。それを弄んでから、定春を振り返った。
「定春、お前は先に帰るアル。そして銀ちゃん達にこの場所を伝えるネ」
「……くぅん」
定春の尻尾がしゅんと垂れ下がる。紅桜事件の時のように、彼女が一人で行くのを恐れたような表情だった。
優しいペットの頭を、神楽はそっと撫でる。
「心配すんなヨ。私は志乃ちゃんを連れてすぐに帰ってくるネ。だから定春は早くーー」
言い切る前に、神楽は上空からの気配を察した。
門の屋根の上に、傘をさした青年が一人しゃがみ込んでこちらを見下ろしていたのだ。
「!」
気配が全く感じられなかった、と驚愕したのと同時にぞわりと背筋を襲う恐怖感。
この感覚は同族の共鳴か。あの傘といい、もしかしたら夜兎かもしれない。しかも、自分より格上の。そうなれば彼女にまず勝ち目はない。
不意に、青年がトンと瓦を蹴って飛び降りてくる。神楽と定春の間に着地した青年は、二人を交互に一瞥した。
「フーッ……」
「定春、やめるネ」
威嚇体勢をとる定春を宥め、傘を構えて青年を見返す。
見るからに妙な男だ。ホワイトシルバーの髪を一つに結い、左目の眼球が黒い。明らかに普通の人間でない事は伺えた。
「お前が志乃ちゃんを誘拐した奴アルか」
「……………………」
青年は神楽に意識を向ける。しかし、黙ったまま口を開かない。
睨んでくる少女に興味が失せたのか、今度は神楽の拳で沈黙した警護役を見下ろした。だが、それもすぐに彼の興味を消し、再び神楽を見やる。
「お前、ここの屋敷のモンアルか?ちょっと中案内しろヨ。そこに転がってる奴と同じになりたくなかったらな」
「……………………か」
「は?」
「……お前はあのお方の敵か。そう尋ねている」
ようやく口を開いた青年は、神楽の耳馴染みのない言葉ばかりを話す。神楽は眉をひそめた。
「あのお方……?誰だヨそいつは」
「名前は知らない。私には与えられていない。何も……」
「……お前……名前がないアルか?」
「私には必要ない。あのお方の意向だ。私に名など必要ない」
「………………」
「お前はあのお方の敵か。それとも味方か。どちらだ」
青年から放たれる殺気が、先程よりもぶわりと肌を襲う。動揺を顔に出さぬよう努めた神楽は、名もない青年にこう言った。
「知らないアル。私がお前の……お前達の敵になるか味方になるか、まだわからないネ」
「…………理解不能だ。答えは二つに一つのはず。それを絞れぬ理由が知れん」
「
青年は表情を変えぬまま、ジッと神楽を見つめる。やがて彼女から視線を外し、屋敷の前に伸びる大通りから、人が歩いてくるのが見えた。見慣れた姿に、神楽は思わず叫ぶ。
「銀ちゃん!?」
「あ?こんな所で何してんだお前」
見紛うはずがない、この気怠げな表情。根性の捻くれ具合を表しているかのような天然パーマ。自身の働く万事屋のオーナー、坂田銀時が悠々とこちらへ歩いてきたのだ。
銀時の意識は神楽へ向き、青年には気付かない。
「志乃ちゃん探してここまで来たアル。ここに志乃ちゃんがいるって、定春が……」
「あ?」
「ーーお前が、万事屋銀ちゃんか」
青年が話しかけたことにより、銀時はようやく彼に気付く。その姿を見た銀時は少なからず動揺を見せたが、特に気にする様子もなく続ける。
「おー、そうだが?」
「この娘はお前の知人か」
「あ?ウチの従業員だよ。それがどーした?」
「……主から話は聞いている。依頼の件は中で話せ。そこの娘も来い。案内を仰せつかっている」
踵を返した青年は、門の鍵を開け扉を軽く押す。奥に広がるのはーーとても巨大な武家屋敷。青年に促され銀時が足を踏み出すと、彼の着流しを神楽は掴む。
「どういう事アルか。ちゃんと説明しろヨ」
「どうもこうも、引っ越しの手伝いを頼まれただけだっつーの。業者に頼まずわざわざ
「でも銀ちゃん、ここは……」
神楽は先程から不安を拭い切れない。
だってここは、定春が「志乃がいるかもしれない」と連れ出してくれた場所。行方不明になっている彼女がいるかもしれない。何故今まで見つからなかった彼女がこんな所にいるのか、なんて察するのは簡単だ。絶対にいい意味で志乃がここにいるのではない。
傘の柄を強く握りしめた神楽を見下ろし、銀時は定春を見やる。
「定春、お前さっさとコイツ連れて帰れ。仕事の邪魔すんならな」
「銀ちゃん!」
「さぁて、仕事だ仕事だ〜」
首をゴキゴキ鳴らして準備運動をしながら門をくぐっていく。
一体何を考えているのだ、あの天パは。そう零したくなるのを堪えた時、青年が門に手をかけながらこちらを見つめてくる。
「……お前はどうする。入るのか入らんのか」
「は…ッ、入る!入るアル!」
志乃が見つかるチャンスかもしれない。神楽は反射的に答え、駆け出す。
高い空では、一番星が輝き始めていた。