晴太を探して、志乃は廊下を走り回っていた。百華に見つかる前に、何としてでも見つけなければならなかった。
「待てェェ‼︎」
女の声が、廊下に響く。
間違いない。あの声の先に、晴太がいる。
そう確信した志乃は、一気に加速した。
「晴太ァァァ‼︎」
一方、志乃の声を聞き止めた晴太も、百華から逃げ惑いながら叫んだ。
「姉ちゃんんんん‼︎」
「晴太っ‼︎」
声の発信元を耳で割り出し、そこへ急ぐ。
この辺りかとブレーキをかけて止まると、前方から全速力で駆け寄ってくる晴太と、彼を追う百華達がいた。しかも三人ほどを連れて。
「姉ちゃん‼︎」
「晴太、こっち!」
志乃に手を引かれ、速度を上げるように晴太は足を動かす。
やがて志乃は晴太を小脇に抱え、走り始めた。
「くそっ!」
「ヤバイよ姉ちゃん、追いつかれちまう‼︎」
百華の手が、志乃の着物に伸びる。指先が届くか届かないかの距離だった。
志乃は慣れない遊女の着物を着ているせいか、走る度にはためく裾が邪魔で、動き辛かった。
おまけに、厚底の下駄を履いていたからまだ裾は地面に付かなかったものの、履いていない今はそれを引き摺っている。百華に踏み付けられ、足を止められる可能性だってあった。
志乃は絢爛豪華な上の着物を帯を解いて脱ぎ捨て、百華に投げつける。小袖を帯で纏めるという普段着に近い格好になり、体が軽くなった。
しかし。
ーーチッ
「‼︎」
上着をかいくぐってきた百華の指先が、志乃の着物を掠めた。
マズイ。もうダメかと思われたその時。
「こんな所で何をしてるの」
追いかけていた百華達が、体から血を吹き出して倒れる。志乃は晴太を下ろし、背後を振り返らないようにしていた。
声だけでわかった。今一番会いたくない人物が、背後に立っていることに。
「ひょっとして、
晴太がガクガクと震え、ぎゅっと志乃の胸にしがみつく。
護らねばならない存在。それを再確認した志乃は、生唾を飲み込んで背後を振り返った。
「あ、ここにいたんだ」
「神威……‼︎」
「よかった。いきなりどっか行っちゃうから、心配したんだよ?」
血塗れの手を気にも留めず、ケラケラ笑う神威。彼の足元に倒れた百華が、彼により殺されたことを意味していた。
ーーお前がいきなり噛み付いた挙句、ガキ産めとか言うからだろーが‼︎
抗議したい気持ちを抑えて、志乃は晴太を背に庇った。
「そんなに会いたいなら会わせてあげよっか?」
「えっ?」
「俺についておいでよ。会わせてあげるよ、
晴太が呆然と、神威を見上げる。背を向けて歩き出す彼に尋ねた。
「お……おちょくってんのかよ。ア……アンタ……オイラ達の味方じゃない。鳳仙の味方でもない。一体……何なんだ」
「あいにく吉原にも
そこに、前も後ろも、百華達が取り囲む。
そして、一気に駆け出してきた。
「会いたくなった。あの夜王鳳仙を、腑抜けになるまでたらしこんだ女に」
志乃が晴太を抱き寄せると、彼女の腹にも腕が入ってきた。それを認めた瞬間、フッと体が宙に浮く。
そして、床の一点を刺すクナイや刀や槍が目に入った。
「会いたくなった。吉原中の女達から、太陽と呼ばれ縋られる女に」
こちらを見上げてくる百華達の顔が、渡り歩くように次から次へと血で染められていく。
再び体が地面についた時には、既に取り囲んできた百華達は皆死んでいた。
腹にまわされた腕が離れ、ようやく解放される。
百華達を殺した張本人は、爽やかな笑顔を浮かべていた。
「……さあ、会いに行こうか。吉原で最も美しく、強い女に」
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怒号が聞こえてきたと思えば、次にはパタリと止んでいく。蔓延る血の匂いに、頭がクラクラしてきた。
それでも、その殺人の舞は終わらない。減るどころか寧ろどんどん増えていく。渡り廊下から落ちていく死体もたくさん見えた。
いくら戦場でしか生きられないと謳われた一族の末裔とはいえ、志乃は血の匂いしかしない戦場に身を投じた経験が少ない。しかも、目の前で起こっている殺しを見ることもほとんど無かった。
なんとか体を支えていた足はついに限界を迎え、膝から崩れ落ちた。
「姉ちゃん!」
泣きそうな目で、駆け寄ってくる晴太。志乃は荒い呼吸を整えようと、肩を上下させた。
「大丈夫……ちょっと、気分が悪くなっただけ……」
汗塗れの顔で笑ってみせても、晴太の顔色は晴れない。
へたり込んだ彼女に気付いた神威が、足を止めて志乃の元へ歩み寄った。
「アリ?大丈夫?気分悪い?」
「…………誰かさんのおかげでね」
「そうなの?一体誰だろうね」
「お前だよこのすっとこどっこい!」
気分の悪い中、苛立ちまで加わる。
晴太は志乃の背中に隠れながらも、勇気を奮い立たせて叫んだ。
「お前、そんなに人を殺して何が楽しいんだ‼︎何でそんなヘラヘラ人を殺せんだよ!」
「ひどいなァ。せっかくここまで連れてきてあげたのに」
「頼んだ覚えはねぇやい‼︎」
青ざめた顔で見上げる志乃にも、声を張り上げる晴太にも、神威は笑顔を向けた。
「
晴太がサッと志乃の背中に隠れると、神威がケタケタ笑った。
「冗談だよ、俺は子供は殺さない主義なんだ。この先強くなるかもしれないだろう」
死体を跨ぎ、神威は先へ進む。
志乃は震える足を奮い立たせ、柱に寄りかかりながら立ち上がった。
「おいでよ。君も笑うといい。お母さんに会うのにそんなシケた顔してちゃいけないよ」
廊下をずっと渡り、進んできた最奥地。その部屋の中に、日輪は閉じ込められていた。扉には鍵がかけられ、中からは決して開けられない。
八年前、赤ん坊の晴太を逃がそうと吉原から脱出し鳳仙に捕まった時から、日輪は晴太の自由と引き換えに自由を奪われた。
鳳仙は彼女を客寄せに使う以外はここに閉じ込め、客もとらせず一切の自由を認めなかった。
この吉原で、腐って死んでいく事を日輪自身が選んだのだ。晴太を護るために。
「それでも君はここに来た。日輪が君を護るために長年耐えてきた辛苦も覚悟も無駄にして、危険を冒してまで。それでも、
扉の前に立った晴太は、チラリと志乃を振り返った。
明らかに顔色の悪い彼女は、ガンガン響く頭を抑えつけて、壁を支えに立っている。それでも、その赤い眼は、光を失っていなかった。
晴太の目を、真っ直ぐに見つめ返す。晴太は覚悟を決めて頷き、鍵のかかった扉に手を伸ばした。
「帰りな。ここにアンタの求めるものなんてありゃしないよ。帰りな」
突き放すような声が、部屋の中から聞こえてくる。晴太は留め具を外して、重い扉を叩いた。
「開けてくれよ‼︎オイラだよわかってんだろ、アンタの息子の晴太だよ‼︎」
「私に息子なんていやしないよ。あんたみたいな汚いガキ知りゃしない」
「何で汚いガキって知ってるんだよ。見てたんだろ、オイラがいっつも下からアンタを見てた時。アンタも……オイラのこと見てたんだろ。何度叫んでも答えてくれなかったけど、ホントはオイラを巻き込むまいと、必死に声が出そうになるのを我慢してたんだろ‼︎」
扉の奥の日輪は黙り込む。晴太も俯いた。
人は不幸になると、他人のせいにする。誰のせいでこんな目に、と。
晴太もそうだった。彼を拾ってくれた老人と生活していた時も、その老人が死んで一人ぼっちになった時も、全てそれを母親のせいにしていた。
「オイラ……何にもわかっちゃいなかった。母ちゃんが、ずっとオイラのこと護っててくれたなんて」
扉に手を突き、零れそうな涙を堪える。晴太の小さな背中に、志乃は心の中でエールを送った。
晴太、頑張れ。
「今度は、オイラの番だ」
晴太は扉を開けようと、体当たりを試みた。何度も何度も、この部屋の中にいる母を救うために。
「今度はオイラが、母ちゃんを
体を打ち付けて、中にいる日輪に呼びかける。それでも彼女は、晴太を拒絶した。
「やめとくれ‼︎」
「……かっ、母ちゃん」
「アンタの母ちゃんなんて……ここにはいない。そう言ってるだろ……」
「そんな事はあるまい」
背後から聞こえてきた、低い声。それと共に、二人分の足音が近付いた。
「そんなに会いたくば、会わせてやろう。このわしが」
「ほっ……鳳仙‼︎」
「あちゃー、見つかっちゃった」
志乃は、現れた鳳仙よりその後ろに立つ遊女に目が行った。
「‼︎ハル……」
「………………」
小春は志乃の姿を認めると、すぐに目を逸らす。彼女を一瞥してから、鳳仙は懐から何かを晴太に投げ捨てた。
「連れていくなら連れていけ。童、それがお前の母親だ」
床に落とされたのは、切られた髪。晴太は目を見開いてそれを見下ろした。
そして、鳳仙が真実を突きつける。
「お前の母親は日輪ではない。とうの昔に死んでこの世におらんわ」
八年前、吉原で一人の遊女が子を孕んだ。だが、吉原で子を孕めばその子ごと始末されてしまう。
そこで、一部の遊女達が彼女を匿い、密かに子供を取り上げた。それが晴太なのだ。
つまり、日輪は晴太の母ではない。
「母に憧れながら、しかし母になることも叶わない。母親ごっこに興ずるただの哀れな遊女だ」
「……どうして」
部屋の中から、か細い震えた声が聞こえた。
「どうしてこんな所に来ちまったんだィ。何で……こんな所に……。ほっときゃよかったんだ、私のことなんて。私達の分まで
「お前の母親など、この世のどこにもおらんわ。わかったらその形見だけ持って消えろ。それとも冥土で母親に会いたいというのなら別の話だが」
「黙れよ」
壁についていた手を離し、両足を強く踏ん張って体を支える。鳳仙の視線が、晴太から神威の隣に立つ少女に移された。
ポニーテールにした銀髪が、足を前に出していく度に左右に揺れる。鳳仙の前に立ちはだかり、赤く強い光を放つ眼を向けた。
「お前なんかが、
金属バットの柄を握り、帯から抜く。そして、鳳仙と小春に凛として言い放った。
「たとえ血が繋がってなくても、赤の他人でも。過ごしてきた時間が……絆が、何よりの証になる‼︎」
晴太は、志乃の背中を見つめていた。その背中が、彼に問いかけていた。
ーー晴太。お前の母親は誰だ?
至極単純な問い。その答えは、すぐに出た。
さっきから何度も何度も呼んだ。母ちゃん、母ちゃんと。血の繋がっていない、あの人を。
晴太はグッと拳を作り、再び扉に体当たりを挑んだ。
「母親ならいる、ここに。オイラの母ちゃんならいる、ここに。常夜の闇からオイラを地上に産み落としてくれた‼︎命を張ってオイラを産んでくれた‼︎血なんか繋がってなくても関係ない‼︎オイラの母ちゃんは日輪だァァ‼︎」
志乃は肩越しに、扉に体を打ち付ける晴太を見た。
それでいい。一度目を伏せ、キッと鳳仙を睨み金属バットを構える。
「
「どけ、小娘。さもなくば貴様もあの童と共に……」
鳳仙が言い切る前に、彼の背後から木刀が飛んできた。
鳳仙と志乃が体を逸らしてそれを避けると、木刀は扉に突き刺さり、破壊していった。