――2006年 8月31日 木曜日 PM3:00――
それは俺たちにとって意外な事だった。
俺たちが秘密基地で、仲間全員で兄弟を待ち続けると決めてから5日後の25日に、姉さんは鉄心さんと共にアメリカから帰国した。
結局、鉄心さんも姉さんも俺が父さんから教えてもらった情報とそんなに大差のない情報しか得られず、滞在中に兄弟を見つける事も出来なかった。
帰国した時の姉さんの姿は見れたものじゃなかった。
兄弟が旅行に持って行ったバッグを抱きしめるように抱え、青くし表情のない顔を俯かせて姉さんは、まさに失望の言葉通りのままの姿で川神院に帰って来た。
その姿に、俺たち風間ファミリーのみんなが驚いたのは無理はないだろう。
俺たちにとって『川神百代』は絶大な存在だった。
兄弟、『暁神』が俺たちを繋ぎ支えてくれる存在だとしたら、姉さん、『川神百代』は圧倒的力で君臨する存在だった。
俺たちはひょっとして、絆の象徴と力の象徴を失いかけているのかもしれない。そんな事を唐突に思った。
そして姉さんが閉じ籠った。
姉さんは川神院に戻って来てから、1日の殆どを部屋で過ごすようになった。
自分の部屋じゃなくて兄弟の部屋に閉じ籠ってしまったのだ。
最初は俺たちも、姉さんの気のすむまでそっとして置こうと思っていたが、それが3日、4日と続くとさすがに心配になって来た。
気持ちの整理がつかないだろうと思って何も言わないでいたが、まさか姉さんがあそこまで酷い状況になるとは誰も思ってもいなかった。
それは俺たち風間ファミリーが初めて見た『川神百代』の弱さだった。
それほど姉さんにとって、兄弟の存在とその絆は代える事の出来ない大切なものだったという事なのだろう。
閉じ籠っているとは言っても一応食事は取っているし、人に気付かれないようにしてトイレや風呂にもきちんと入ってるらしいので体調面は大丈夫だと聞いているが、それでも衝撃的な出来事に俺たちはどう姉さんに対応すればいいか分からないでいた。
京はもうすぐ新学期が始まるから父親と住む静岡に帰っているが、最後まで学校を休んででも川神院に残ると言い張った。
なんとか京のお父さんにも協力してもらい説得したが、それでも完全に納得はしなかったので、逐一連絡をする約束をして帰らせた。
そして今日、8月31日。
閉じ籠りが1週間も続き、根気よく毎日話し掛けていたワン子が、ついに俺たちに泣きついた。それに応えて俺とヒロが今、川神院の兄弟の部屋の前に立っていた。
ガクトとモロは自分たちじゃあ力になれないと最初から辞退し、キャップは自分には出来ない事だからと、俺とヒロに全部任せてきた。
俺もヒロも別に3人を無責任とは思わない。出来る人間が出来る事をすればいい。ただそれだけの事なのだ。
だが今日はいつもより酷い状況らしかった。
「朝から何も食べてない?」
ワン子の話に俺は眉をひそめた。
ずっと閉じ籠っている姉さんだが、食事はきちんと取っていると聞いていた。それが満足な食事量かと言われれば全くそんな事はないが、少なくとも食べてはいるらしい。
それなのに今日は食事を一切取っていないとの事。
「8月31日……今日、モモ先輩の誕生日だね」
理由を考えていた俺の横でヒロが呟くように言った。それで合点がいった。
俺は兄弟の部屋の隣、姉さんの部屋に入ると中を見渡し目的のものを探す。
急に俺が姉さんの部屋に入った事に驚いたワン子だったが、探し物が見つからなかった俺はすぐに部屋から出る。
「何を探してたの?」
「携帯」
ワン子の質問に簡潔に答える。
俺が探していたのは姉さんの携帯。正確には姉さんの携帯のストラップについているブローチだ。
以前姉さんが言っていた事を思い出したのだ。
姉さんの携帯のストラップについている四つ葉のクローバーの小さなブローチは、姉さんが初めて兄弟から貰った誕生日プレゼント。
そして今日が姉さんの誕生日。
「縋ってるんだね……」
俺と同じ答えにたどり着いたんだろう。ヒロが誰に言うでもなく呟く。
今の姉さんにとって、兄弟と繋がりのあるものが何よりも大切なのだろう。だから部屋に閉じ籠り、貰ったプレゼントを手元に置こうとしている。
ヒロの言った通り縋っているんだ。
少しでも兄弟を身近で感じられるように。
少しでも兄弟の思い出を忘れないように。
でも……それは違うんじゃないだろうか。
こんなの俺たちの知っている『川神百代』じゃない。
俺たちの知っている『川神百代』は、尊大で、傲慢で、我儘で、いつも自信満々で、でも自分の言葉には責任を持って、いつも俺たちの事を思っていてくれて、何があっても俺たちを守ってくれる人だ。
こんな風に耳を塞いで目を閉じて、自分の周りを全て拒絶するような人じゃない。
それだけ兄弟が大事だったと言われればそうかもしれない。でも姉さんとの繋がりは兄弟だけじゃない。俺たち風間ファミリーだって
それだけは許せなかった。それだけは認めたくなかった。
それだけじゃない。俺はあんな『川神百代』を認めたくなかった。
だから俺は目の前の部屋の中にいる姉さんに向かって言う。
「いつまでそうしてるつもりだ、姉さん」
答えが返ってこないのは初めから分かってたから期待はしていない。聞いてくれるだけで良かった。
「いつまでそうしているかって聞いてるんだ。そんな風に閉じ籠ってたって何にもならない事ぐらい姉さんなら分かるはずだ」
淡々と言葉を続ける。
ともすれば姉さんには薄情に聞こえているかもしれない。いや、たぶん俺を薄情だと思っているだろう。
でも俺たちはもう乗り越えた。みんなと一緒にいた事で乗り越える事が出来た。
もし姉さんがあの時、俺たちと一緒に秘密基地に来ていれば、こんな風になる事はなかったと思うが、過ぎた事を気にしていても仕方がない。
兄弟がいない今、姉さんを立ち直らせるのは俺たちの役目なのだから。
この貸しは大きいぞ兄弟。帰ってきたらしっかりと返して貰うからな。
「いい加減出てこいよ姉さん。そこに籠っても兄弟は帰ってこない」
「帰ってくる!!」
初めて声が返って来た。
抑えられない感情まま吐き出された声だった。
「約束したんだ!! 帰ってくるって!! 私の誕生日までには帰ってくるって!! 一緒に誕生日を祝うんだって約束したんだ!!」
懇願。願望。そんな感情で擦り切れたような声だった。心の奥底からの叫び声だった。
こっちの身すら切り裂きそうな声色に、隣にいたワン子が俺の服の袖口を掴んだ。姉さんの悲壮な雰囲気に呑み込まれかけたんだろう。
「私はジンが帰ってくるって信じてるんだ!!」
「それは信じてるんじゃないよ」
姉さんの言葉をヒロは即座に否定した。
ビックリしたというのが正直な思いだった。
今回、姉さんをこの部屋からどんな手を使っても引きずり出すのは俺の役目だと思っていた。そしてさっきヒロが言った言葉は俺が言おうとした言葉そのものだ。
思わずヒロの方に視線を向けると、俺の言いたい事、しようとしている事を理解しているのか、目線を合わせて『分かっている』という風に小さく頷いた。
この行動に対しても珍しいと思った。
ヒロはいつも後ろから眺めている事が多かった。別に消極的というわけじゃない。だけど唯一の年下という事があったかもしれないが、基本物静かなヒロは京やモロと一緒に率先して行動に出る方じゃなかった。
これもこの間の秘密基地での事が関係しているんだろう。
俺はあの時、ヒロに年下でも仲間として対等なんだから遠慮するなと言った。それを実行しようといているんだろう。
ならここはヒロに任せてみよう。俺には出来ないやり方があるかもしれない。
了解したように頷き返した俺は、隣にいたワン子を伴って1歩後ろに下がる。不思議そうに俺を見上げて来たので軽く頭を叩いた。
それに何かを感じたのか特に文句を言う事なく大人しく従った。
「モモ先輩。今の先輩はジン兄が帰ってくるのを信じてるんじゃない」
もう1度同じことを言ったヒロに姉さんの反応はない。それでも構わずヒロは事続ける。
「僕たちはみんなジン兄が帰ってくるのを待つ事に決めた。ちゃんと僕たちのもとに帰ってきてくれると信じている。でも今のモモ先輩は違う。先輩が1番ジン兄の事を信じていない」
「…………なんだと?」
姉さんの言葉が部屋から低く響いてきた。
さっきまでの悲壮に叫ぶような声とは違う、低く怒りを押さえたような声だ。
だがヒロはその声に怯む事はなかった。
「聞こえなかったらもう1度言うよ。ジン兄の事を1番信じていないのはモモ先輩だ」
スパン
ヒロの言葉に答えるように兄弟の部屋の襖が勢いよく開いた。
誰が開けたかなんて考えるまでもない。そこには姉さんの姿があった。
少しやつれ、髪もいつものつやがなく目の下に隈も出来ていたが、纏っている雰囲気はとてもその恰好からは想像できないほど殺伐としたものだった。
それほど許せない言葉だったのだろう。
姉さんにとって兄弟を信じていないと否定される事は、例え言った相手が俺たちファミリーの仲間であろうが許せるものじゃないはずだ。
でもだからこそヒロは言ったし、俺も言うつもりだった。
姉さんからの雰囲気に当てられ、俺は思わず唾を飲み込み隣にいたワン子は俺の服にしがみつき小さく体を震わせていた。
だがヒロは何でもないように佇んでいた。
「もう1度言ってみろタカ」
「何度でも言うよ。ジン兄の事を1番信じていないのはモモ先輩だ」
「言葉は選べ。お前らしくないなタカ」
「モモ先輩こそらしくないよ。そんな事やってる場合じゃないでしょ」
姉さんの表情が段々と険しくなっていく。
ヒロの言葉も段々と剣呑になっていく。
ヒロがやっている事は俺もやろうと思っていた事だ。それは姉さんを説得するのではなく怒らせて鬱屈した思いを発散させる。そうする事で姉さんをいつもの姿に戻させる。
それが俺が考え実行しようとしていた事。だからヒロを連れてきた。
身勝手かも知れないが、姉さんの鬱屈を晴らす相手をヒロにしてほしかったのだ。
だがそれは少し考えが甘かったとしか言いようがない。
怒らせるつもりだったが、まさか言葉だけで姉さんがここまで怒りを露わにするとは思ってもいなかった。俺だったら今この時点で竦んで何も出来なくなっていただろう。
「今日はやけに反抗的だなタカ……力ずくで黙らせるぞ」
「いいよ。やってみる?」
ヒロの返答に姉さんが目を見開いた。恐らく思ってもいない答えだったのだろう。
そんな姉さんに、ヒロは少しだけ挑発的な笑みを見せた。
「僕と戦ってみたかったんでしょ? モモ先輩。だったらやろうよ」
言い放ったヒロを見下ろすように見る姉さん。たぶんヒロの言葉の真意を掴もとしているのだろう。だが深く考える事を放棄したようにきびすを返した。
「ついてこい」
ひと言だけ言い残して姉さんは道場の方へ向って行く。
その後ろを少し離れて追い掛けるワン子。さらに後ろから追い掛けながら俺とヒロは姉さんに聞こえないように小さな声で会話をする。
「おいヒロ。何考えてるんだ?」
「大和くんが考えていた通りになったと思うんだけど……だから僕を連れて来たんでしょ?」
「それはそうだけど……大丈夫なのか?」
「たぶん勝てないけど……やるしかないよ」
小さく自嘲するかのように笑ったヒロに、何かを言おうとしたワン子を俺は手で制す。俺もなんて言葉を返せばいいか分からなかったからだ。
先に道場に足を踏み入れた姉さんに続いて俺たちも道場に入る。
そこには、姉さんを説得する前に先に話をしておいた鉄心さんとルーさんが既に準備を終えて待っていた。
鉄心さんとルーさんには、姉さんの鬱屈した感情を戦わせる事で発散させる、という方法をあらかじめ説明しておいたのだ。
「やっと出てきおったか馬鹿孫が」
「ジジイ……そうか、大和か」
鉄心さんがいた事を訝しく思っていた姉さんは、すぐに答えに至ったのだろう。睨みつけるように俺を一瞥したがすぐに視線を外し道場の中央に向かって歩いて行った。
まるで九死に一生を得たような感じになった俺は、思わず胸を撫でおろした。そんな俺に苦笑いを浮かべながら近付いてきたルーさんの手には1本の刀が握られていた。
「一命を取り留めたって感じだネ、直江くん」
「命が幾つあっても足りないって感じだね大和くん」
俺にからかうような言葉を掛けながら、刀の受け渡しをするルーさんとそれを受け取るヒロ。他人事だからって言いたい事を言ってくれるよな2人とも……
「すまないネ、篁くん。嫌な役を君にさせてしまって……本来ならワタシたち大人がすべき役なのに……」
「大丈夫ですよ。最初から僕がやるつもりでしたし、1度はモモ先輩と戦ってみたいっていうのも本当ですから」
謝罪するルーさんに、ヒロは小さく笑顔を浮かべて答えた。
たぶん後半の言葉はヒロの本音なんだろう。浮かべた笑顔に悲観的な雰囲気はなく、例えるなら王者に戦いを挑む挑戦者のような、勝負を楽しむような雰囲気だった。
受け取った刀を、1度だけ確かめるように眼前で刃を鞘から半分ほど出したヒロは、刃を鞘に収め左手に持つと姉さんが待つ道場の中央へと歩みを進めた。
「最初からこうする事が決まっていたのか……随分安い挑発をしてくれたな」
真正面で足を止めたヒロに向かって、姉さんは腕を組み恐ろしいまでの低い声で話し掛けた。あれは間違いなく怒っている。しかも今まで俺たちが感じた事のないほどの怒りだ。
だがヒロはその怒りを一身に受けているのにもかかわらず怯えるそぶりすら見せていない。
「安い挑発のつもりはないよモモ先輩。何度でも言うけど、ジン兄の事を1番信じていないのはモモ先輩だ」
「私は言葉を選べと言ったぞ? タカ?」
「ちゃんと選んでいるよ。選んでるからこその言葉だからね」
ドンッ
ヒロの言葉が終わった瞬間、道場の空気が弾け飛んだ。
錯覚じゃない。物理的に風圧が俺の体を圧し退けてきた。さらにまるで押し潰すかのような重苦しい空気に俺は思わず道場の床に膝をつき、息苦しくまでなって来た。
いきなり事に訳が分からない俺だったが、ワン子の様子を見ようとなんとか隣に視線を向けるとワン子も同じように床に座り込み、息苦しいのか胸を押さえていた。
「ワタシの後ろにいなさイ」
苦しむ俺たちに気付いたルーさんが庇うように前に出ると、不思議と息苦しいまでの圧迫感が和らいだ。
瞬間理解した。これが“気”というやつなのだろう。
恐らく姉さんから放たれた重圧すら感じさせる重苦しい気を、俺たちを庇うように前にいるルーさんが気を放つ事で和らげているのだろう。
視線を前に向けると、平然としている鉄心さんとヒロの姿があった。
鉄心さんは分からなくもないが……ヒロ、なんでお前は平気なんだよ? それともこれが武術をやっている人間とそうでない人間の差なのか? それともお前も非常識なのかヒロ?
「いいだろう。どうやら今日のお前は私をとことん怒らせたいらしいな」
そう言った姉さんの姿が揺らいで見えた気がした。
目の錯覚と思いたかったがどうやら違うらしい。違うと判断できるのは、姉さんだけじゃなくヒロの姿も揺らいで見えたからだ。
「篁……下手をしたら止める事は出来んかも知れんぞ」
「構いません。とは言えませんけど……死なない程度にやります」
聞き逃してしまいそうなほど小さな鉄心さんとヒロの声が、何故か俺の耳には大きく響いて聞こえた。
同時にまたしても俺の考えが甘すぎた事を悟った。
姉さんの鬱屈を晴らすために戦う事。それ自体が非常に危険な事だったのだ。だから鉄心さんもルーさんの説明した時、顔をしかめたのだ。
「ヒロ!」
思わず出た声にヒロが俺を見た。
表情で俺の言いたい事が分かったのだろう、小さく笑って頷くだけでヒロは俺に向けていた視線をすぐに姉さんに戻した。
そんなヒロを見て俺は胸が締め付けられそうだった。
「君が自分を責める事じゃないよ。選んだのは彼だ」
俺の心情を悟ったのだろう。ルーさんが俯く俺に声を掛けてきた。
確かに選んだのはヒロ自身かもしれない。でもそれで納得出来る事じゃない。
「それでも提案したのは俺です」
「らなば、君は最後まで顔を上げて見ていなさイ」
そのルーさんの言葉に俺は俯いていた顔を上げる。俺を見ていたルーさんの表情はとても真剣なものだった。
「例え2人の動きが見えなくても見続けなさイ。それが君すべき事ダ」
「はい」
しっかりと頷いて俺は視線を前に向けた。
見続けろというなら何があろうとも見続けてやる。
だから姉さんの事を頼んだぞヒロ。
あとがき~!
第36話終了。
なんとか投稿できました。
しかし全然進んでくれないよ……
書きたい事を書こうと思うと本当に展開が遅い。
結局、百代と緋鷺刀の勝負が書けませんでした。
一応の見通しは立てているけど……
本当にいつになったら原作に突入するんだろう。
できればあと2・3話で終わらせたいな……