来季、 松本啓二朗外野手はレギュラーになれるのか。
神のみぞ知る。
結果から言えば、第一打席の勝負はキャッチャーフライという呆気ない終わりであった。
高めの直球とスライダーのコンビネーションで緩急をつけ、見事猪狩のバットに詰まらせた。猪狩は高めのボール球に手を出し、第一打席は終了した。
「-----」
猪狩は、ジッと鋳車の姿を見た。
―――アンダースローへの、転向。
それは、口にするほど簡単な事ではない。
投球フォームと言うのは、幾度となき反復の中で磨かれて行くモノだ。反復の中で無駄を削り、また足りないものを付け加えていく。投球の向上は、言うなれば螺旋階段を駆け上がっていくようなものだと猪狩は考えている。どれだけ投球が変わるとしても、その主柱だけは変わらないし、変わってはならない。
―――強くなったパワプロに勝つために、この男はアンダーへ転向したと聞いた。
その話を初めて聞いた時、実に情けない男だと思った。
今まで自分が信じてきたスタイルを捨て、あっさりと別のスタイルに転向する―――パワプロに勝つために、所詮借り物の付け焼刃の武器を手にして勝とうとしているのか、と。
だが、今打席に立って解った。
この男のアンダーフォームは付け焼刃なんかじゃない。
本物の―――アンダースロー投手だ。
慢心は、捨てる。
―――さっきの打席で、ある程度軌道は読めた。
読めた、というのはストライク・ボールの見極めである。オーバースロー投手の場合、球が落ちていく軌道を描く為、低めのストライク・ボールの判断が重要になる。
しかし、アンダースローにとってはこれが逆になる。浮き上がる軌道で訪れるその球は、常に高めのストライクゾーンからボールゾーンへと流れていく。この球に手を出した瞬間、空振りをするか、先程の様なフライになるかのどちらかでしかない。
―――この球に手を出してはならない。
猪狩は先程の打席の残像を頭に浮かび上がらせながら、再度打席に立つ。
―――来い。次で終わりだ。
※
一球目が、投げられる。外側のボールゾーンから切れ込んでくるスライダー。
先程見ていなかったボールの軌道に、猪狩は手を出せなかった。
「ストライク!」
パワプロのコールが聞こえる。
ワンストライクノーボール。
鋳車は二投目を放つ。
―――手を出すな。
猪狩は全身に指令を出す。この軌道は―――ボールゾーンへ流れる高めの直球だ。
「ボール!」
よし、と猪狩は一声上げる。
このボールさえ見逃していけば、いずれ必ずカウントを取るに辺り甘めのボールを放らねばならない時が来る。その球を、迎え撃つ。
もう一球同じような高めのボールが来て、猪狩はそれを見逃す。ワンストライクツーボール。ここで、ようやくもうその釣り玉は通用しないと相手は察したはずだ―――そろそろ、来る頃だろうと猪狩は思った。
一球目と同じような、ボールゾーンから切れ込んでくるスライダ―。
猪狩は、ここで初めてバットを振るった。
外目のボールを、無理矢理にしばき上げるように右方向に引っ張り上げる。ギィン、という金切り声を上げてボールは、彼方まで飛んで行く。
「チッ」
猪狩は一つ舌打った。
―――ボールはファウルゾーンへと吸い込まれて行った。もう少しタイミングが合えば、ホームラン級の当たりであろう。
ツーストライク、ツーボール。猪狩は追い込まれたが―――それでも勝利を確信した。
外目から切れ込んでくるスライダーか、甘めの直球。この二つに的を絞れば、次は打てる。
五投目を、鋳車が投げる。
低めのリリースから鋭角に投げ込まれる、高めの直球。―――ボールゾーンへ流れる軌道の球だ。当然猪狩はそれを見逃そうとして―――。
球が、消えた。
「え―――」
一声、そんな間抜けな声が猪狩の喉奥から響くと同時に―――パワプロの声から、隠し切れぬ歓喜の声が上がった。
―――ストライク!!!
恐る恐る、進のキャッチャーミットを見る。
丁度守の外角低めのストライクゾーンに、球は収まっていた。
パワプロは呆然と立ち尽くす守をよそに、鋳車の下へと走り出していた。
「進―――今、何が起きた」
眼前から消えた、今のボールを―――兄は、弟に訊いた。
「シンカー、です。兄さん」
―――シンカー。
アンダースローから放たれる浮かび上がる直球。その軌道をなぞりながら、急激に利き手側に落ちるそれは、ミスター・サブマリンと呼ばれた山田久志の決め球でもあった。
「兄さんは最初の打席を、高めのボール球で打ち取られています。だから、鋳車さんは―――その残像を兄さんの頭に残しながら、最後にその軌道から落ちる変化球を決め球にしようと、恐らく決めていたんだと思います」
ボールゾーンへ流れるだろうと決めつけていた、ボール。常に浮かび上がる軌道を見せ続けて、猪狩の視点は常に高めに固定されていた。
フォームで上下に視点を動かし、リリースで視点を上下に動かし、そして―――あの男はシンカーと直球で更に上下に幻惑した。
「成程―――僕は負けるべくして、負けたのか」
向こうより響くパワプロの泣き声を何処か他人事のように聞きながら、猪狩守はそうポツリと呟いた。
「何たる、恥だ。僕は―――慢心を捨ててなお、あの男を超えられなかったのか」
猪狩はそう呟くと、進に、帰るぞと言った。
「―――嫌な事は出来るだけ早い方がいい。これから父に会いに行く」
苦虫をかみつぶしたような表情で、猪狩守はそう言った。