君が望めば、その右腕は治る―――そう眼前の男は言った。
何の特徴も無い、何の印象にも残らない、そんな男が。
―――望めば、治る。
酷使の果てに潰れてしまった、この右腕が。
「望むだけだ。それだけで―――君の右腕は、以前よりも素晴らしいものになる」
さあ、言ってみろ。
望みを。
言葉にするだけで、その望みは叶う。
山口は、ジッとその言葉を聞いていた。
何と怪しい男だろうか。
されど、山口は確かに感じ取っていた。
その言葉は、嘘ではないのだろうと。
―――さあ、どうする。そう男は言った。
山口は、迷う事無く―――言い切った。
「要らない」
何故だい、と男はあくまで穏やかに聞いた。
―――君には、その資格がある。君の思いは本物だ。君の野球に対する執念は本物だ。君のチームへの思いもある種病的だ。その願いを、その思いも、言葉にするだけでカタチにできるのに―――。
「カタチにするのは、あくまで私だ。この右腕の末路も、カタチにしたのはあくまで私だ。―――だから、ここからその思いも願いもカタチにするのはあくまで私じゃなければいけない」
穏やかな風が、両者の間に吹き渡る。
「私が積み重ねてきた今の私を、ただ願っただけで否定させてたまるものか。私は私だ。右腕が潰れたのもその上でサウスポーに転向するのも、あくまで私の意思だ。―――だから、要らない」
実にシンプルな言葉であった。
自分を形作るのは、あくまで自分。
自分の意思。自分の行為。自分の努力。
それを積み重ね、今の山口賢という人間を形作った。
―――否定させてたまるものか。
この右腕の犠牲を。右腕を潰してでもチームを勝たせたいと願い続けてきた過去を。
「後悔はしていない。―――だからもういい。私の願いは私にしか叶えられない。私はもう一度―――この左腕で返り咲く」
その言葉を聞いた瞬間に、男は一つ微笑んだ。
強い風が吹いた。
その時に―――男の姿は、もう消えていた。
★
夢を、見ていた。
自分が特別になる夢。
特別な才能を持った、選ばれた人間になるのだ。
誰も打てない球を投げて、どんな球でも追いつく様な守備をして、どんな球も打ち砕く。
そんな、才能あふれる人間に。
―――そんなもの、ないというのに。
自分には存在しなかった。
けれども、思う事だってあった。
努力すれば。
例え自分が持っているものが大した事の無くても―――塵でも積み重ねれば、いつか巨峰に辿り着くんじゃないかと。
けど、所詮は塵は塵だ。
風が吹けば、すぐに塵は塵として吹き飛ぶ。
認められなかった。
そんな当たり前の事実に。
だから―――。
★
蛇島は、夜の街を歩いていた。
高野連による調査、発覚していく自らの所業、そして―――居場所なぞどこにもなくなってしまった、男の末路。
「-----どうすればいい」
いずれ絶望するのはお前の方になるという石杖の言葉が―――呪いのように、今頭をもたげている。
しっぺ返し。因果応報。
そんな言葉は、準備を怠る阿呆にしか関係の無い言葉だとばかり思っていた。
―――誰か。誰かは解らない、誰か。
今自分はとにもかくにも特別になりたくて仕方がない。
特別になって、この状況を打破するのだ。
―――だから、あの瀬倉の左腕のような、力を―――。
されど、誰に会う訳でもなく。
ただ蛇島は夜の街を彷徨い続けていた。
―――君には無理だよ。
声が聞こえる。
―――君にはない。“病”の如き思いが。瀬倉君にはあったが、君には無かった。
まだ、声が聞こえる。
特別になりたい―――そんな願いを込める度に。
―――瀬倉君の最後に身を竦めるような“普通の”人間の君に、そんな資格はない。
うるさい。
うるさい。
ならばどうすればい。どうすればいい。
こんな“普通”の人間が―――どうやって救われればいい?
「------許しは、しない」
そんな言葉も、意味なんざない。
もう―――この男には、何もないのだから。
瀬倉が許せない。チームメイトが許せない。自分を負かせた奴が許せない。石杖が許せない。
だが、―――今の自分には、何もない。
自分という個体がどれだけ脆弱なのか―――絶望と共に、彼は理解できた。
★
「------帝王が勝ったでやんすか」
「え、本当に?」
「本当でやんす。ほら、見てみるでやんす」
恋々高校との試合を終え、帰りのバスの中。矢部はパワプロにスマホを見せつけた。
「えーと、なになに------うわ、海東学院のエース、とんでもない事になっているね」
そのスマホには、大々的に海東学院と帝王との試合の様子が記事になって書かれていた。
注目を浴びていた左腕エースが、突如として選手生命を終わらせてしまう程の大怪我をしてしまい、試合が一時中断してしまったからだ。
「左肘の開放骨折-----もう、選手生命は終わりでやんすね。ここまで来てしまったら」
「------」
パワプロは沈痛な面持ちで、その記事を見ていた。
「山口選手があんな事になって心配していましたが-----やっぱり強いですね。帝王。瀬倉選手が開放骨折する前に、彼を打ち崩していましたからね」
猪狩進がそう一つ頷くと、呼応するようにパワプロが呟く。
「-----やっぱり、キリス選手。ただものじゃなかったんですね」
霧栖弥一郎はこの試合において全打席出塁を果たしグランドスラムまで打っていた。------この日、対戦打者の半分以上を三振で切って捨てていた瀬倉の、その決め球を相手に。
「------」
「どうした、カズミ?」
「いや-----」
鋳車はいつものように、無表情のまま会話の中に溶け込んでいた。ジッと耳を傾けながらも、会話に介入する事無くただ何事かを考えていたようだった。
「------凄い奴だったんだな。霧栖弥一郎」
ボソリ、と鋳車はそう呟いた。
―――覚えている。
ボールゾーンに投げ込んだ球を、悠々と逆方向へと飛ばしたあのバッティングを。
あの瞬間に、理解できた。あの男は、只者ではないと。
だからこそ―――何となく、嬉しい。自分の目利きが、間違っていなかったようで。
「試合が終わったけど、今日も帰ったら練習だなぁ。------あ、そう言えばカズミは今日お休みだったっけ?」
「ああ。スマン。今日は休ませてもらう」
「どうかなさったんですか、鋳車先輩」
「いいや。大した事じゃない。まあ―――」
無表情のまま、鋳車は続ける。
「今日は親父の命日だ」
★
ぱしゃり、と水をかける。
夕焼けが、山道中腹にひっそりと佇む墓石を照らしていく。
―――かつて、鋳車和観は夕暮れが嫌いだった。
子供には辛い現実を忘れたかった時。パワプロと川辺で勝負していた時。いつも夕暮れになると現実に引き戻された。
夕暮れが来る度に、終わりがくるような気がしていた。
線香を供え、墓石の前に座る。
目を閉じ、諸手を合わせる時―――いつも、自問自答気な問いかけを鋳車は唱えていた。
―――なあ、親父。アンタが早死にしちまってから、俺達の人生散々だった。
いつもは心の中に閉じ込めている文句を枕詞に。
―――けど。それでも俺は好きな事をやれている。お袋も、何とか今日を生きている。それもこれも、俺以外の何処か知らねえ他人のおかげだ。
はじめて出来た友達。
そこから輪が広がる様に出来たチームメイト。
今、自分と自分の夢は、彼等に生かされている。
―――なあ、親父。アンタも無念だったな。愛した女をあんなヨボヨボのしわくちゃにしちまう位に苦労を掛けて。俺は、自分が生まれた事が申し訳なくて仕方が無かった。
自分は、好きな事をやれて。
でも―――母親は自分の幸せをなげうって。
この対比が、許されてもいいものなのか。
―――だからさ、親父。俺はこれを、死ぬ気でやり続ける。それでさ、プロになって、お袋がもう働かなくても生きていけるくらい稼いでやるんだよ。そこでも同じだ。死ぬ気でやってやるよ。何処の球団に入るかも解んないけど、お袋を近くに呼んで広い家でも借りてさ。大金叩いて旅行に行かせるのもいいかもしれないな。死ぬ前に、少しくらいいい思いをさせて、アンタの所まで送ってやるよ。それは、約束する。
グッと、合わせた両手に力を入れる。
―――俺の野球は、もう俺だけのものじゃない。あの川辺から始まった時に、二人のものになった。そして、今は、色々な人間のものになった。だから、敗けられない。だから、まあ、あの世があるならそこから時々覗いててくれ。頑張っているから。
手を離し、目を開ける。
夕暮れの赤橙が、ゆらゆらと影を薄めていた。
覚悟を、入れ直す。
その儀式を―――彼は毎年のように、この墓場で行っていた。
自分が生きている意味と、その為に努力し続ける事を、固く誓う為に。
無言のまま柄杓を掴み、元の場所へと戻す。
そうして山道の中腹から、寮まで戻ろうとして―――。
「あれ?」
山道の階段を、駆け上がって行く物が一人。
「鋳車----君?」
息を切らし、鋳車の眼前に立つのは―――一人の、少女だった。
早川あおい。
彼女は首を傾げながら―――その場に、立っていた。
飯塚君、今日も勝ち星つかず。本当に往年の番長の様だ-----。