場内が、ざわめいていた。
観客席にいる数少ない女性客の悲鳴を皮切りに、次々と何だ何だと注目が集まっていく。閑散とした、静かな雰囲気だからこそ、そのざわめきは如実に辺りの空気を変えていた。
唐突に―――肘から大量の出血を始めた瀬倉。
涙を流して、彼は笑っていた。
笑いながら、その場に座り込んでいた。
その後―――担架で運ばれた瀬倉は、そのまま救急車を伴い付近の市民病院へと運び込まれていった。
何が起こったのか―――全く解らない。
霧栖弥一郎に本塁打を打たれ、その直後にああなったのだ。
※
つまるところ―――死んだのだ。瀬倉は。
敗けたくないという意思に呼応し、彼の左肘は変異した。
彼が理想とする、魔球を作り上げんと。肉体を変異させ、左肘の関節を増やした。
しかし、ピッチャーとして完膚なきまでの敗北を味わわされた彼は、肉体を変異させていた原動力となる病的なまでの「思い」が打ち砕かれてしまう。
その結果―――増えた関節は自壊し、付随する骨が砕かれ、ああいう結果となってしまったのである。
ピッチャーとしての「死」を迎えてしまった。
彼の命の証である左肘の損壊と共に。
―――人ハ、自分ガ何者デアルカヲ常ニ探求シ続ケル生物デース。
そう、あの博士は言っていた。
そして、―――自分は「こういう存在だ」と決着をつけた人間は、とても幸せなのだとも。
しかし、―――決着を付けれない人間もまたいる。こうあるべきなのに、出来ない。誰にも打たれないピッチャーでありたいのに、そうあれなかった瀬倉のような人間も。
そう言った人間が選ぶ道は二つしかない。
諦めるか、それとも食い下がるか。
食い下がって食い下がって、それでも成りたい自分に成れなくて。
自己を否定し、自己を変える事を要請し、自己を変異させる。
自らの弱さゆえに―――自己を、変えてしまう。
それはまるで―――心の弱さにつけこむ悪魔の如く。
―――彼ハ、悪魔ニ憑カレテシマッタノデース。
そう博士は最後に締め括った。
「悪魔------か」
ぼんやりとしたその言葉は、確かに―――このぼんやりとした現象には、当て嵌まっている気がした。
※
「なあ-----アリカ先輩」
「何だよ」
試合は、当然の如く一時中止となった。
「------何だったんすか?アレ」
「知るか。ホームラン打たれたショックで開放骨折なんか聞いた事ねえ。まだ脳の血管千切れてぶっ倒れる方が可能性としちゃあるぜ」
「だよなぁ」
信じられない思いは、試合当事者が一番如実に抱いているものだ。
「------ま、考えても仕方ねえさ。そんな事より、二点差だぜ。霧栖」
「もうここからは―――正真正銘の馬鹿試合かもなぁ」
これから―――クリーンナップと向き合う場面。
久遠ヒカルが、その相手をする。
今の所、残念ながらまともに抑えられていない。
「次のイニングだな。次のイニングを抑えれれば、あの三人に打席に回るのは終盤しかない。となれば―――」
「継投か?誰に?」
「だよなぁ-----」
誰に継投した所で同じ話だ。あの中でベストな選択肢として久遠を投入したのも、投手陣の薄さの証左なのだ。―――どれほど帝王が山口に依存していたのか、現在チーム全員が噛みしめている事だろう。
次のイニングが勝負どころである。
クリーンナップをキッチリここで仕留めきれれば、大量点に繋がる場面はこれから終盤にかけてやってこないだろう。
仕留めきれれば、の話であるが。
※
どういうことだ。
あれは―――一体どういう事だ。
蛇島は愕然とした思いで―――救急車に運ばれる瀬倉の姿を見ていた。
左肘が壊れた。
何故だ。
何故だ。
何故、ああなったのだ。
―――私が求めていたのは、あれ程に危険な力だったのか―――。
得た力は、死と隣り合わせ。
左肘の崩壊。それはまさしく―――ピッチャーにとっての、死と同義である。
あの男は何を差し出し、何によって、あんな事になったのだ。
―――何なのだ。
凡人が力を得ようと思うならば、あれだけの代償を払わねばならないのか?
死と隣り合わせの力。それを求める狂気。代償すら恐れぬ強固な意志。
試合が再開する。
次は、自分の打順からだ。
まだ試合は中盤。点差は二点。今の久遠ヒカルの出来ならば、まだまだ逆転の目はある。
―――こんな所で立ち止まる訳にはいかない。
自分はまだまだ、先を行く人間なのだ。
立ち止まれる人間ではない。立ち止まってはいけない。
動揺する心を静めながら、彼は―――瀬倉に変わったピッチャーが、下位打線を処理する様を見届けていた。
※
あの唐突な瀬倉の“終わり”を目の当たりにして―――久遠ヒカルの心に到来したモノは、憐れみでしかなかった。
ざまあみろ―――そう思いたくなるのだと、思っていた。
けど、思う。
―――自分はあの状況下で、それでも自分の決め球を信じて投げられるだろうか。
石杖に弱点を看破され、攻略され、塁を埋められ、迎えた打者は―――中学から滅多打ちにされている天才スラッガー。
自分の心の支えである決め球。
それが仇となり、彼は逆に追い詰められた。
それでも―――それでも、奴は自分の決め球を信じた。あの場面、あの打者に、しっかりと投げ切った。
それだけの覚悟が、今の自分にはあるのか。あの場面で―――キッチリ勝負に向かえる心が自分にはあるのだろうか。
瀬倉。
あの男は、確かにクソッタレの畜生だ。
けど―――例えどれだけその原動力が邪であろうとも、奴は勝利への執着心だけは何処までも本物であった。
自分は、どうだ。
―――勝利へ、執着しているか?
していない。
今の自分の心は、執着ではない。
「勝ちたい」という気持ちより―――「勝たなければならない」という義務感。それだけが、今の自分の心を支配している。
友沢先輩の、山口先輩の仇だから。自分のトラウマを打ち砕かなければならないから。そこに外的な理由がいくつもいくつも並びたてられている。
そうじゃない。
「自分が」勝ちたいからだ。
「自分が」投手として独り立ちしたいからだ。
―――エースに、なりたいからだ。
いつから忘れていたのだろう。
自分は、―――ただ、エースになりたかったんじゃないか。
きっと、瀬倉だってそうなりたくて、そう在りたくて、あれほどの球を手に入れたのだ。
忘れていた。
そして思い出した。
ならば―――やるべき事は、ただ一つ。
腕を振って―――自分のありのままを、ただただあのマウンドで表現するんだ。
※
マウンドには、久遠ヒカルが上がる。
帝王の下位打線は沈黙し、攻守交替。一挙六点の猛攻の後、海東学院の攻撃に入る。
ここまで許した失点、四点。もうこれ以上の失点は許されない。迎えるバッターは、凶悪クリーンナップ。
打席には、蛇島が入る。
―――さあ、かかってきなさい。
瀬倉の末路への動揺は、もう切り替えた。
どうであれ、何であれ―――ここで勝てば、甲子園には出場できる。
残りの地方戦は消化試合のようなものだ。瀬倉がいなくなり、甲子園本戦の勝ち残りの目は無くなってしまったが、それは仕方がない。今考えるべき事は―――目の前の帝王を、打ち果たす事。
二点程度、この久遠ヒカルというピッチャーにとっては頼りない点差だ。挽回は、十分に可能であろう。
そして、一球目が投げられる。
腕の振りが、鋭い。
真っ直ぐのタイミングで、蛇島はバットを出す。
しかし―――。
「ストライク!」
球は見事に―――外角へと逃げていった。
「な―――!」
思わず、声を上げる。
腕の振りが鋭い。コースを狙って緩んだリリースから放たれるスライダーは、もうそこにはなかった。
はじめて、久遠の目を見た。
迷いも、恐怖も、そこにはない。
―――何が起こった。
そう顔をしかめるも束の間―――二球目が、放たれようとしていた。