―――俺は、感謝しなければならないのだろう。
野球に。出会ってくれたもの全てに。このろくでもない人生を劇的に変えてくれた、その諸々に。
野球が無ければ、俺の人生はどうなっていたのだろうか?
俺自身はおろか、母親すらこの手で救う事も出来ずに、惨めに生きていたのだろうか?
―――今、ここでマウンドに立てる事がどれだけの奇跡を繰り返して実現できたものなのか。それを理解できないほどに、馬鹿じゃない。
だから、手は抜けない。
―――さっさと打たれろこの卑怯モン!
―――何我が物顔でマウンドに立ってんだ!さっさと出ていけ!
周囲から、そんな声が聞こえてくる。やたら口うるさいヤジだ。こんな風に言っている奴はほんの一部だが―――それでも、周囲から感じられる敗北を望む空気は、しっかり解っている。
ヤジが聞こえる度に、パワプロが面白いようにその方向を睨み付けている。やっぱり、アイツは人がいい。別に自分の打席であるならば特に怒りも湧かないのだろうが、今マウンドに立っているのが仲間だから、奴は今怒っているのだろう。
別に、気にする事じゃない。
俺はそんな事よりも―――眼前のバッターをどう打ち取るかが重要だ。
不思議なモノだ。こんなにも暑いグラウンドの上なのに、何故か身体の芯から寒気が走る。
集中すればするほど、打たれる恐怖が湧き上がれば湧き上がる程、俺の身体から熱を奪っていく。体中の血という血が、強迫観念の如く「打たせるな」と喚き散らす。
この恐怖に比べれば、あんな連中のヤジなんぞ屁でもない。
―――やってやるさ。俺はあかつき大付属の鋳車和観だ。
身体を、沈み込ませた。
※
沈み込まれたフォームから、球が放たれる。
そのリリースから放たれた球は、浮き上がるような軌道を描く。
―――高めの直球っすね。
極限まで集中したほむらの意識が、その球を捉える。先程も随分と見せられた球だ。
迷うな。振り抜け―――。
そうしてバットを振り抜こうとした―――その瞬間、
―――まだ、っすか?
球が、来ない。
直球のタイミングで呼び込み、バットを振り抜いた。しかし、その軌道上に未だボールが届いていない。
浮き上がったボールが―――そのまま高めへと到達するのではなく、その軌道から外れるように曲がって来た。
何とかバットを届かせようと腰を砕かせ片手でバットを振り抜く。当然当たるはずもなく、そのまま派手に体勢を崩しながらくるりと一回転し膝から崩れ落ちた。
ストライクの申告を聞きながら、川星ほむらは愕然とした表情でその球を思い返した。
------カーブ、っすね。
ここにきて、この男は更なる球種を織り交ぜてきた。
―――何なんすか、あの球。
普通、カーブとはリリースの瞬間から浮き上がる軌道を描いて、その大きな変化によって緩急をつけるボールだ。それにタイミングが外される事があっても、リリースの瞬間にそれを直球と見紛う事はあるまい。
だが、この男のカーブは―――いざ曲がりはじめるまでその瞬間まで、直球だと思った。思ってしまった。
浮き上がる軌道は、上手投げのピッチャーにとっては特殊な軌道であるが、アンダースローにとっては何処までも普遍的な軌道だ。
だからこそ―――高めの直球と差異が解りにくい。その上カーブといってもそれほど曲がらない。故に、曲がりはじめも異様に遅い。
どちらかと言えば、高めに抜けたチェンジアップが、唐突にカーブの様に曲がってくる―――そんな、とかく変な球だ。
だが、その威力は凄まじかった。
その次に―――大きく高めに外れた直球を思い切り空振りしてしまう程度には。
空振り三振、バッターアウト。
その様を、何処か他人事のように川星ほむらは眺めていた。
※
六回裏の恋々高校の攻撃は、小山雅の内野安打があったものの結局その好機を生かせず、無得点で終わった。
「―――行くわよ、聖。このままじゃ、絶対に終わらせないんだから」
「みずき------」
実に気の強そうな女が、実に気の強そうな言葉を発した。
その声には、多少の気負いも見える。
「ランナー無しだったら、遠慮なくクレッセントムーン、使わせてもらうわよ」
「ああ。―――だからこそ、余計なランナーは出してはいけないな」
「そうね。この回は幸運にも9番からだし、確実に打ち取るわよ」
両者は互いのグラブを合わせると、マウンドへ向かう。
―――あおいさんが、あんなに頑張ってくれたんだ。
頑張ったのは、マウンドだけじゃない。
キャプテンとして、そしてこのチームが大会に出られるように―――その全てに、頑張って来た先輩がいる。
ここで終わる訳にはいかない。
―――見ていなさい。絶対に負けないんだから。
そうして、ピッチャー交代のアナウンスが告げられる。
―――ピッチャー、早川あおいに変わりまして、橘みずき―――
何処までも強い意思をその眼に宿しながら、橘みずきはマウンドに立つ。
※
バッターボックスには、鋳車和観が入る。
―――代打は、出さないか。当然だが、あちらも全力という訳だな。
点が入ったと言っても、まだ一点。このタイミングでは鋳車は引っ込めない。
―――上等じゃない。投げやってやるわよ。
足が上がり、左腕は大きく背後へと持っていく。
そのまま、腰の回旋と共に、大きく腕を振り回し、球を放る。
―――随分、ダイナミックなフォームだ。
そんな感想を抱きながら、鋳車はバットを振るう。
キン、と音が鳴り、球は後方のファールゾーンへと向かう。
随分、球威もある。多分130は出ているか。
俺より速いじゃないかと心中ぼやきながら、バットを短く持って、再度バッターボックスに。
二球目、三球目共に直球。鋳車、何とかこれに食らいつく。ツーストライクに追い込まれる。
―――さあ、お前の変化球はどんなのだ。
好奇心半分といった具合で、鋳車はバットを構える。
四球目、外角に投げつけられたボール。
それに食らいつこうとバットを出した瞬間―――外へと、逃げていった。
手元で大きく、逆方向へのカーブといった具合に-----大きな曲がりとキレを両立したそのボールは、バットはおろかミットすら通り抜ける。
振り抜いた瞬間、鋳車は即座に一塁へと走っていく。
素早く後逸したボールを取りに行きしっかり送球し、一つアウトを取る。
―――まだ、あんな隠し玉があったとはな。
鋳車和観は驚きながらも、だが一つ同情する。
―――とは言え、捕ってもらえないボールは、意外に脆い。十分、つけいる隙はある。
早川あおいが降板し、橘みずきがマウンドに立った。この系統は変則リレーとしてはこれ以上ない程有効だろう。右のアンダーから左のサイドへ。きっと目移りしてしまうに違いない。
けれども―――ここで、きっと打ち崩せる。そう鋳車は予感していた。