あかつき側の狙いは実に明確であった。
―――得点はどうでもいい。この回をもって確実に早川あおいを降ろす事を念頭にその後の下位打線は続いていく。
短いタイプのバットを更に短く持って、球数を稼いでいく。
球が暴れている現在、彼女に正確な制球は期待できない。だが彼女の球威と聖のフレーミングを以てして下位打線が芯を食らわせるのが難しい。ならば、前に飛ばさずとも粘っこく球数を稼いでいく。
明らかなデッドラインである100球を超えさせるために。
ボールゾーン側の際どい球も、甘めに入った球も、構わずファールゾーンへ。ねちっこく続けたその攻撃により、スリーアウトを取った頃には彼女の球数は108球となっていた。
肩が熱い。痛い。
心身ともに、あおいは限界に達していた。
「あおい」
「------はい」
「降板だ」
「解り---ました」
これから九番を挟んで上位打線に繋がる。ここで降板させるのは当たり前の話だ。
「さあて―――みずき。次からはお前だからな」
「はい!」
監督の呼び声に、水色の髪をした少女が応える。
「さあて、これからクリーンナップの打順だ。―――解っちゃいるとは思うが鋳車は強敵だ。残るチャンスは少ない。早く攻めていくぞ」
※
六回裏。変わらず小柄な男がマウンドに立つ。
―――打順は、クリーンナップを迎える所だ。
小山雅が、打席に立つ。
厳しい内角攻めにより、今まで二打席連続の凡退を喫している。―――その現状の原因は、よく理解している。
怖がっている。
あの投手が投げる球に。容赦のない雰囲気に。
きっと、二流投手が下手糞な内角攻めをする程度ならば、きっと甘めに真ん中に寄った球を迎え入れる準備が出来ていたと思う。
けれども、あの投手は明らかに―――内角の投げミスを一切しなかった。
甘目によって長打を打たれるならば、デッドボールを与えた方がマシだと、心の底から考えているのだろう。抜け球は真ん中ではなく、身体付近のコースに飛んでくる。
それだけの覚悟が、勝利への執念が、あの男から伝わってくる。
今も、そうだ。
異様な雰囲気の球場の様子に、それでも一切球質も制球も変わらない。それだけ、この試合に集中して臨んでいるのだと思う。
情けない。
実に情けない。
―――今眼前に本物の一流投手を眼前にして、恐怖を覚えるその心が、その恐怖を忘れられない自分自身が、そしてその恐怖を完全に見透かされている現況が。
全てが、情けない。
内角の球に思わず反応が一瞬遅れる。外角の球に踏み込めない。
恐怖が、自分自身が打てるコースを完全に消していく。
―――くそう。
次は、確実にアウトローから外へ逃げていくシンカーだ。絶対そういう配球をするはずだ。今、小山雅がこのコースを打てる訳が無い。だったら、百パーセントここに投げ込む。
ギリリ、と歯を食いしばる。
ざくり、と―――右足を踏み込ませた。
ギィン、と音が鳴る。
珍しく―――進の顔に、驚愕の色に染まる。
三塁線に、鋭い当たりが流れていく。
パワプロはその打球に飛びつく。
グラブに入ったその球は思った以上の威力があり、グラブを弾く。
それでも何とか前に転がしたパワプロは、その球を掴み、即座にファーストへと送球する。
―――間に合え。
その思いが、自然と彼女を飛び込ませた。
ヘッドスライディングを敢行しベース板へと指を届かせた瞬間にミットが鳴る甲高い音が同時に鳴り響く。
セーフ、というコールがしっかりとその眼に映した。
思わず、ベース上でグッと握り拳を作った。
※
四番六道聖が打席に立つ前に、進はタイムを取り鋳車へと声をかける。
「踏み込みが段々鋭くなってきた気がします。もう一度内角中心の配球に変えますか?」
「いや。無駄だ―――ようやく、三巡目になって内角への恐怖が薄れてきたんだろう。意外と相手の適応が早かった。それだけだ。だったら、これからは普通の敵として相手した方がいい」
「こうも簡単に、適応できるモノなんですね」
「意外だったか?」
「ええ」
「まあ、ここからは内角への意識からの外側への変化球の方式は一旦捨てろ。一人一人切っていくぞ。場合によっては新球を使ったって構わん」
「解りました」
ここで、バッテリー間において切り替えが行われる。
―――内角を執拗に攻めた事は、ここに来てその恐怖を克服させる事に繋がってしまったらしい。
そうなってしまえば、先程の配球はただの単調で、危険なものでしかなくなってしまう。
ここからが、言ってしまえば―――鋳車和観の真骨頂だ。
その様子を眺め、六道聖は―――配球がこれから変化するのだろうな、という予感がついた。
単調であれど凄まじい威力を誇った内角攻めの配球から、鋳車という投手の特異性をふんだんに詰め込んだ配球へと。
その予想は、当たっていた。
第一球、二球共に直球を投げ込む。真ん中高めから這い上がっていくような、特殊軌道による高めの真っ直ぐ。
―――ぐ。
ボールゾーンへと流れるその球は、浮き上がる軌道を描いていく。その軌道は、どうしてもゾーン内で収まるのか、収まらないかの判別がつきにくい。だから、思わず手が出てしまう。
高めの出し入れを繰り返し、そして―――その軌道から落ちていくシンカー。目線を高めに固定された状況下から、いきなり目線から消える魔球が放たれていく。
今までキャッチャーとしてアンダーの配球を知り尽くしている聖ですら、何とか食らいつくのが精いっぱいであった。六球目に、意表を突いたアウトローからのスライダーを放られ、思わず追いかけたその球に、見事に空振り三振を喫する。
そして、五番の川星ほむらを迎える。
―――凄いピッチャーっす。
小柄な体をぐるりと回して、彼女もまた打席に立つ。
―――けど、負けてやる気は一切ないっす!
心中でそう唱え、バットを構えた。
そうして―――インハイへの直球を投げ込んだ瞬間、一塁ランナー小山が動き出す。
即座に球を捕球すると、無駄なく進は二塁へと送球する。
―――セーフ!
進は一つ舌打ちをする。
―――くそ、面倒な事になった。
チラリと、打席に立つほむらの姿を眺める。
―――チャンスの時、彼女は一瞬で極限の集中状態を手にする。
バッターには、チャンスが苦手な者と得意な者が存在する。
当然、その大半が時の運が絡んでくる要素だ。プロの選手であれば、得点圏打率なんぞ毎年毎年一割前後上がったり下がったりする事も珍しくはない。
だが、それでも、明らかにそのバッティングが変わる選手は存在する。
例えば、ランナーがいる状況で併殺を恐れて低めの球を手を出せないバッターや、内野安打などの足で率を稼いでいくスタイルのバッターなどは、明らかに得点圏での選択肢が減っていく事となる。ランナーが置かれている状況は、明らかにそれまでのバッティングを変えてしまう要素となる。
そして、それが極端にプラスに働く者も、またいる。
それが―――川星ほむらというバッターである。
イニングが進めば進む程、試合が接戦であればある程、そして得点圏にランナーがいる状況であればある程―――彼女は、その集中力が飛躍的に増していく性質を持っている。
―――ここは、球数気にせず確実に仕留めます。
進はその意思表示として―――彼に、この試合初めてのサインを出す。
ずっと、ここ一カ月の間温めていた、新球を。
彼は、ゆっくり頷くと―――投球動作に入った。