ぐるりと肩を回し、軽くバットを振るうと、霧栖弥一郎は打席に入った。
―――岩。岩だ。巨大な岩石の如き威圧感が、バッターボックスに入った瞬間にヒシヒシと伝わってくる。
両足を沈ませ、身体を自然に開かせたフォームは、その巨躯と相まって恐ろしい程バッターボックスと調和していた。その姿から、隙が一切感じられない。
眼も、腕も、指先に至るまで―――全てが、眼前のピッチャーに対する集中に応え、静止している。
鋳車は―――その姿に、何故だか、胸の高鳴りを覚えた。
今までも、凄いバッターとは対戦してきた。その度に絶対に打ち取ってやるという思いを昂らせ、投球をしてきた。
しかし、この眼前の男には、それとはまた違った感情が浮かんでくる。
絶対に打ち取ってやる、という敵愾心―――それとは別に、
―――絶対に打ち取りたい、という自らの勝利を希求する感情が、別にある。
それは、久々の感情であった。
―――これは、パワプロとあの橋の下で打席勝負していた頃以来であった。
見た事もない。聞いた事も無い。それでも、その姿が、構えが、その全てが。その感情を湧き出していく。
打順は、五番。四番を凡退させたことで、下位打線に繋がるこの場面で無理をすることは無い。
だが―――ここで、何の実績も無いこの男との勝負を避ける事は何の意味も無い。あかつきの沽券にも関わる問題だ。
―――勝負します。
その意図を、進ははっきりと伝えた。
内角低めに、ミットを構えた事で。
そのサインに、迷いなく、鋳車は頷いた。
高く手を振り上げ、
低くその姿を沈めていく。
沈んだその身体から、上方向へとボールが来る。
上、下、上。
視界がばらつく。
球も、思ったより身体に来る感覚がある。
そういった諸々の感覚を、―――霧栖弥一郎は言語化するのではなく、感覚として受け取った。
この男の感覚は、ただ一つ。
「来た球を、感覚の応じるままに打つ」
球筋を瞬時に判別できる、天性の嗅覚を持つ男だからこそ―――この男は、初球から迷いなくその球に反応した。
左足を軽く上げ、しかして右足は根を張る様に動かさず―――右足から頭にかけて一切軸をブラさず、上方向へ流れ来る球を、呼び込んだ。
ギィン、と球が唸りを上げる。
内角に要求した球であるにも関わらず―――引っ張った打球ではなく、右方向へ飛んで行ったその球は、僅かにポールを逸れ、ファールゾーンへと切れていった。
もう少しタイミングが合っていれば、ホームランの当たり。
-----何だ、今の出鱈目なバッティングは!
進は、明らかに動揺していた。
この男は―――人生で幾度もないであろう、アンダーからのストレートに対して、初見であるにも関わらず、その軌道にバットの上に乗せていたのだ。本能的にバッティングの軌道を崩し、アンダーの軌道に修正していたのだ。
そして―――反対方向へと球が流れた、という事実。
内角の球に対して、前のポイントで外側から呼び込んでいるのではなく―――内側の球に対して、内側からバットを出し、後ろのポイントでこの男は打っているのだ。
窮屈に違いない。
常人が真似すれば、力の無いフライにしかならないであろう。
しかし―――この男は、それを、きっちりと長打にできる技術とパワーを持っている。
身体をスイングの形でもっていく際に、バットのグリップを出しながらも、けれどもヘッドを限界まで出さず―――ギリギリのポイントまで、待って打つ。超高校級のスイングスピードと、バットの面に長くボールをつかせる技術が無ければ、成立しないバッティングだ。長い手足を器用に折りたたみ、この男は実に見事に内角の球を反対方向へと捌いた。
そのバッティングに驚いたのは、何も進だけでは無かった。
鋳車も、パワプロも、その一打にてこの男の凄まじさが理解できた。
―――面白い。
鋳車は、自身の口元が大きく歪んでいる事を、自覚した。
―――ああ、そうだ。
執念に燃えるばかりで、忘れていた感情があった。
―――楽しい。
一人のバッターと、一人のピッチャー。内在する全てがこの両者に集約されたこの時間、この空間。その楽しさを、―――いつしか、忘れてしまっていた。
進が、外角へと構える。
内角へのあの凄まじいバッティングを見せられれば、外角へと逃げる球か落ちる球か、一度その反応を見たいと考えるのは当然であろう。
だが、鋳車はここで初めて首を振った。
その瞬間―――進は顔を顰めながらも、恐る恐る、もう一度、内角へと構えた。
頷く。
今度は―――先程の球よりも遥かに厳しいボールゾーンのコースへと投げ込む。霧栖弥一郎の身体ギリギリのコース。
しかして、霧栖は恐れる事無く足を引いて避ける。
外角が来るであろうと予測していたであろうに、踏み込んでいく様子もない。
―――手足が長い分、外角への踏み込みは浅く済むのだろう。内角へのボールで外角の踏み込みを制限することは出来ない。
外角のボールを打つ為には、通常深く踏み込んでその球を打たねばならない。その動きを阻害するのが、内角へのボールだ。しかし、眼前の男にはそれが通用しない。
ここで、鋳車ははじめて変化球を使う。
外角から落とすシンカー。これに、霧栖弥一郎は空振った。
―――内側からバットを出している分、外角のボールは僅かだが、内角に比べればバットの到達が遅れる。その分、変化球を空振る確率が増えるのだろう。
しかし、この状況も―――まずもって、内角というレッドゾーンに勇気をもって投げられたからこそ得られたものだ。
------何て、厄介なバッターだ。
それでも、この勝負に集中していく自分がいる。楽しいと思える自分がいる。
そのことが、無性に嬉しかった。
そして―――次の選択は、
ストライク、バッターアウト!!
危険ゾーンの内角から、更に内側へと落ちていく、魔球シンカー。この球で、鋳車は―――霧栖弥一郎を三振にとった。
―――危なかった。
一つの失投が、状況を変えたであろう。まさしく綱渡りの様な対決であった。それ故に、達成感も大きい。
ふとベンチに戻る男の横顔を見た。
その眼は、何処までも―――嬉しそうに、笑っていた。
―――打ち取られて笑っているなんて、ふざけた野郎だ。
それでも―――何故だか嫌いになれなかった。
次からは、もうちょい試合のペースを速めていこうかと。何か、グダグダしてすみません。