普通、人間というのは、大半が平凡な日常を過ごしている。
それはこの学園都市という一風変わった街でも同じ事で、ただ常識情報が多少変わるだけの話だ。一部の特殊な人間を除き、皆平穏な毎日を暮らしている。間違っても、数日置きに厄介事に巻き込まれたりはしない。
その、はずなのに。
「……っまじかよ……」
思わず頭を抱えた陽向の数メートル先では、この前(誠に不本意ながらも)知り合った御坂美琴……と瓜二つの、軍用ゴーグルを付けた少女が、不良に絡まれていた。
また例のパターンか。陽向は叫びたくなった。何故ならその少女は、『
厄介事の匂いがする。いやむしろ、厄介事が起こる気しかしない。陽向は激しく逃げたい衝動に駆られた。しかし数秒立ち止まったその間に、その少女……通称ミサカと目が合ってしまったのだ。逃げられるはずもない。
ミサカを御坂美琴本人だと勘違いしている不良と、そいつらに囲まれ無表情ながらも困惑しているミサカ。陽向は彼らの元に大股で歩み寄った。
「ああ、御坂さん!奇遇だね!」
我ながら白々しい事この上ない台詞と共に、不良とミサカの間に割り込む。不良達の注意を引く事には成功したらしく、彼らは一斉に陽向の方を向いた。
「何だテメエ?」
その中で一際体格の良い男が陽向を睨み付ける。その手には金属バットが握られていた。
しかし、陽向は怯む事なく微笑む。
「あれ、いたの?ごめーん、オーラ無さすぎて気付かなかったー」
「んだとコルァ!!ふざけてんじゃ……ねえぞ!!」
わざとらしい挑発の言葉。それに不良らしく過剰反応した相手は、手にしていたバットを躊躇いなく振り下ろした。
その場にいた誰もが、その少年然とした、辛うじてセーラー服を着ている事で性別が判別できる少女の頭が、カチ割られるところを想像した。
しかし、いつまで経ってもその惨事は訪れない。
「なっ……」
陽向は、自分の倍以上の体格はあろうかという相手が両手で振り下ろしたバットを、片手一つで受け止めていたのだ。
陽向は不良の十人や二十人、相手をしても負ける事はまずない。
――――何故なら、自販機程度なら片手で持ち上げられるほどの、怪力の持ち主だからだ。
金属バットが、陽向が握っていたところからぐにゃりと折れ曲がる。まるで針金でも曲げるかのように、陽向はそのバットを二つに折り畳んでしまった。
凍りつく空気。その元凶である陽向は、にっこりと微笑んだ。
「あ、ちなみにこれ能力使ってないんだけど――――」
恐怖。その一つの感情が場を満たす。
そして固まった空気を粉々に砕くように、陽向は言った。
「まだやる?だったら……手加減しないよ」
次の瞬間、不良達は一人残らず逃げ去っていた。
「……大丈夫?」
不良の姿が見えなくなり、陽向は背後に振り向く。ミサカは暫くの沈黙の後、言葉を発した。
「特にミサカの身体に問題はありません、とミサカは質問に答えます。……しかし、ミサカはお姉様ではありませんよ、とミサカはお姉様の知り合いと思われる人物に説明します」
「ああうん、分かってるよ」
陽向は何気なく、本当に何気なくそう言った。しかし直後、少し驚いた様子のミサカを見て、自分がやらかした事に気付く。表情や仕草があまりにも違うので忘れていたが、ミサカは御坂美琴と瓜二つだった。初対面で見分けたのは不自然だったか。
「……あなたはお姉様とミサカの区別が付くのですか、とミサカは驚愕と共に問いかけます」
なんとか誤魔化さなければ。その一心で、なるべく自然に言葉を発する。
「うん、まあ……仕草とか全然違うし。でも本当によく似てるよね、お姉様ってことは妹さん?」
上手くいった。一時はそう思ったが、話題を変える為にしたその質問を、陽向はこれから、長きに渡って後悔する事となる。
「ええ、妹です、とミサカは自己紹介します。個体としては9889号ですが……」
一瞬、呼吸を忘れた。
9889。このたった四桁の、10000にも届かない数字が示す事実に、陽向はほんの僅かに動揺した。
「9、889号……?コードネームみたいなもの?」
その一瞬の動揺を耳慣れない単語への戸惑いに見せかけて、陽向はその場を取り繕った。
目の前のミサカは気付かなかったのか、無感情に言う。
「はい、そのようなものです、とミサカは曖昧に答えます」
へえ、と生返事をして、陽向は一度呼吸を整えた。
そうだ、この時期実験はまだ終わっていなかった。何故忘れていたのか。覚えていればあんな質問はしなかったし、そもそも気まぐれでミサカを助けようなど、欠片も考えなかっただろう。今日は厄日か。
厄介事の気配が俄然強まってくる。これ以上関われば、vs一方通行、なんて事になりかねない。当然陽向は超能力的にはレベル1、レベル5第一位たる一方通行に敵う道理はない。
そんな事を陽向が考えていると、唐突に隣から声がかかった。
「どうしたのですか?とミサカは突然黙りこんだ相手を心配します」
完全に物思いに沈んでいた陽向は、突然振られた質問に混乱した。
そして、その混乱のままに口を開いた。
「いや、えーっと……君の事、どう呼ぼうかと思って!御坂さんだと君のお姉さんと被るし……」
やらかした。完っ全にやらかした。陽向は自分の発言に、我ながら頭を抱えたくなった。
どう呼ぼうって何だよ。親交深めてどうする。というか初対面でいきなりこれは、流石に不自然すぎるんじゃないか……!?
脳内で悲鳴を上げる陽向。その先程の発言に、ミサカは首を傾げた。
「どうというと、それは……あだ名の事でしょうか、とミサカは目の前の名も知らぬ人物に問いかけます」
「うん……あ、こっちの自己紹介がまだだったね。俺は緋乃陽向。よろしく」
ミサカの発言に、陽向は半ば自棄になり、満面の笑みで自己紹介をする。ついでにさっきの発言が流れてくれないだろうか、と期待してみるが、ミサカは、その期待を見事に裏切った。
「よろしくお願いします、とミサカは軽く会釈をします。……で、あなたはミサカにどのような呼称を付けるのですか、とミサカは期待の眼差しであなたを見つめます」
期待、されている。陽向は光のないはずのミサカの目が、きらきらと輝くのを幻視した。
「あー……ハクちゃん、とか?」
もうどうにでもなれ。そんな投げやりな気持ちで、陽向は、ほら89だし、と呟く。
そういえばインデックスの時も、こんな瞳に負けた気がする。自分は年下女子のおねだりに弱いのかもしれないと、陽向はそんな他愛のない事を考えた。
「ハク……ですか。悪くないです、とミサカは自分だけの名前に満足します」
対するミサカは、『ハク』というあだ名を気に入ったらしく、何回か繰り返し呟いている。
自分だけ。その言葉は、この頃の個性のない彼女達には特別な意味を持っているのだろう。とても、重い意味を。
それを自分が与えてしまった事に、陽向は過ぎた事ながらも躊躇いを感じた。
「……そっか、なら、良かったよ」
だけど、それを口にする事もできない。自分は、『何も知らない』のだ。そういう事になっている。
もう終わりにしよう。こんな茶番劇は。陽向は、ミサカに別れの言葉を告げようと……したのだが。
「あの、お願いがあるのですが、とミサカは控えめにあなたを伺います」
そうは問屋が卸さない。陽向はまだ、この少女と関わらねばならないらしかった。
「……何かな?」
ため息を吐きたい気持ちを抑えて頼み事とやらを問うと、ミサカは答えた。
「此処が何処か分からないのですが、とミサカは道案内を頼みます」
どうやら、このミサカは迷子だったらしい。
「すいません、本来であれば目的地への道が分からなくなる事はないのですが……とミサカはイレギュラーな事態への困惑を顕にします」
時は経ち、現在ミサカと陽向は、ミサカの指定した通りへと、人混みの中歩みを進めていた。
あの時、不良達に追いかけられた結果、予定とは違う場所に来てしまったらしい。陽向が迷子かと聞いたらミサカは否定していたが、まごう事なき迷子である。
「あはは……まあ、そういう事もあるよ。……ハクちゃん?」
ミサカの言葉に苦笑いで返した陽向は、ミサカが隣にいない事に気付いて足を止めた。
辺りを見渡すと、その姿はすぐに見つかった。ミサカは数メートルほど後ろ、何やらファンシーショップの前で立ち止まっている。
「どうしたの、ハクちゃん……あ」
ミサカの元に駆け寄った陽向が、その視線を辿ると、そこにはショップ限定・ゲコ太ストラップの文字と、ゲコ太のイラストが。
そういえばミサカ遺伝子持ちはゲコ太が好きだったなあ、と陽向は遠い目をした。
「……それ、欲しいの?」
近付いても微動だにしないミサカに、陽向が思わず聞く。するとミサカは視線をそのままに答えた。
「欲しい、と言われればそうですが……ミサカは必要経費以外の金銭を所持していません、とミサカは残念な思いを隠しきれません」
全くの無表情ながら、その姿は確かに落ち込んでいるように見える。されど一向に動こうとしないミサカ。これは買わないと梃子でも動かないな、と陽向はため息を吐き、ショップへと足を進めた。
「……?どうしたのですか、とミサカは戸惑います」
ようやく顔を上げたミサカに、陽向は言った。
「欲しいんでしょ?買ってあげるよ」
「色々とありがとうございます、とミサカは感謝の意を述べます」
ミサカは陽向の購入したストラップを前に、心なしか目を輝かせていた。
「いや……いいよ、それくらい」
対する陽向は、自分の行動の無意味さに、額に手を当てている。
自分は何をやっているのだろう。先ほども思ったが親交深めてどうする。どうせ相手は――――
そこまで考えたところで、ふいにミサカが言葉を発した。
「……すいませんが、そろそろ『実験』の時間なのでミサカは行かなければなりません、とミサカは別れの言葉を告げます」
『実験』。その言葉の本当の意味を、陽向は知っている。きっと今日、このミサカは――――
それでも、何もできない。できたとしても、きっと陽向は何もしないだろう。陽向はそういう人間だった。
「……実験?能力関係の?」
けれど、そう聞いたのは何故だったのだろうか。
陽向自身もよく分からないうちに、ミサカはそれを無自覚に切り捨てた。
「ええ、そのようなものです、とミサカはやはり曖昧に答えます」
夏の、暑く湿った風が吹く。それに少しだけ目を細めた後、陽向は笑って言った。
「そっか。……じゃあ、縁があったら、またね」
そうして手を振って、ミサカに背を向けて歩き出す。
これで良かったのだ。自分が望んだ事だ。そもそも自分が何をしなくとも、あと一ヶ月後には
あのミサカは、死んでしまうとしても。
「ッ……!!」
陽向は思わず振り返った。一度死んだ陽向は知っていた。死の恐ろしさを。死の苦しみを。だから……だから?
――――振り返った先に、ミサカはもう、いなかった。
「…………あほらし」
モブキャラが街を闊歩する。そんな書き割りの風景の中、陽向はようやく我に返った。
どうせこの世界は
もう二度と、陽向が振り返る事はなかった。