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オーシャン・ウェーンには、悩みがあった。
オーシャン・ウェーンには苦手なものが、この世に二つあった。
箒に乗って空を飛ぶ事と、英語である。
前者は、動物の中で一番仲良くできるカラスを使用する事によって解決できた。後者も、リラックスしている時以外、つまり気を張っている内には、自然とそれが自分にとって耳慣れた言語の様に聞こえるので、理解ができた。
オーシャン・ウェーンは、魔女だった。
同時に、生粋の日本人でもあった。
オーシャン・ウェーンとは彼女自身がつけた英名であり、本名は上野海という。(笑)
英語は苦手だが英国への強い憧れがあり、先学期に日本の魔術学校から、魔法界ではその名も高いホグワーツ魔法魔術学校へと留学して来たのだった。
もう一度言おう。
彼女は生粋の日本人であり、英語が苦手である。
聞こえてくる英語は先天的な魔法能力である程度補えるが、自分の言葉はそれを補ってくれない。
「…いっっっ…た……」
マダム・フーチの飛行訓練で、箒の操作を誤って高所から落ちて校庭で呻きながら伸びているオーシャンを、マダム・フーチは駆け寄って助け起こした。
「Ms.ウエノ、あなた、苦手にも程があるでしょう。私は箒でアクロバット飛行するようにとは言っていませんよ」
助け起こされて、先生に早口で捲し立てられたオーシャンは、
「…え、なんですか?」
と聞いた。マダムは肩を竦める。
「ああ…まただわ。Ms.ウエノ、休んでいなさい」
先生は校庭の隅を指差して、英語が通じない状態になっているオーシャンに休んでいるようにとジェスチャーで示した。オーシャンはシュンと落ち込んで、先生が指差した辺りで丸くなった。
英国への強い憧れのお陰で開花した、「英語を聞き取って理解する」という地味な能力でホグワーツでの授業をなんとか凌いでいたオーシャンだったが、箒から落ちるなどの痛みを伴ったアクシデントや、パニックに陥ったりしている場面でなどは、能力はその機能を失っていた。そんな時は、オーシャンの精神が落ち着きを取り戻すまで、彼女だけ授業を中断しなければならない。これというのもその能力が開花したお陰で英語の勉強を怠っていた彼女自身のツケである。
オーシャンが数分休んだ後、マダム・フーチが寄ってきて聞いた。「もう大丈夫ですか?」
その言葉は、慣れ親しんだ日本語の様にオーシャンの耳に聞こえてくる。先生が言った意味を理解したオーシャンは「オーケー」とだけ答えて、箒を握って立ち上がった。
箒にまたがり、「飛べ」と念じて上昇すると、上昇するにはしたが今度は止まってくれない。他の生徒を軽々抜かして更に上を目指したオーシャンの箒が急制動をかけたのは、マダム・フーチが呪文をかけた時だった。急制動がかかったことによって箒から投げ出されてしまったオーシャンが落ちてくるのには、数分を要したという。
オーシャンが青アザだらけで昼食をとっていると、アンジェリーナ・ジョンソンとケイティ・ベルが隣に腰かけた。二人とも同寮のグリフィンドールで、クィディッチのチェイサーだ。
「オーシャン、そのアザ、大丈夫なの?」
聞いてくる二人にオーシャンはニコリと笑いかけて、手でオーケーサインを作った。友達は本名上野海の事を、オーシャンと呼んでくれる。
そんな三人の真正面にどかりと座ったのは、有名な双子のウィーズリー兄弟だ。二人とも同じグリフィンドール生である。
「見事な転落ぶりだったぜ、オーシャン」フレッド・ウィーズリーが言い、ニヤリと笑った。
「ああ、あんなキレイな放物線はクアッフルにも描けないさ」とジョージ・ウィーズリーもフレッドと全く同じ笑顔を見せた。
アンジェリーナは「からかわないで!」と二人を怒鳴り付けるが、オーシャンは青あざの残る顔で大人の余裕たっぷりに微笑んで見せた。今でこそ「聖母の微笑み」という二つ名のついたオーシャンの笑顔だったが、実際は英国語の会話にうまくついていけない申し訳なさと自分の不甲斐なさから、曖昧に微笑んでいるだけなのは、本人以外知るよしもない…。
片言英語で道を尋ねる事は、なんとかできるオーシャンだが、ネイティブの会話についていく会話力は現時点で皆無だった。
「Ms.ウエノ、貴女は英語を勉強しなくてはいけない。それは分かっていますか?」
ある日マクゴナガル先生からの呼び出しを受けてオーシャンが会いに行くと、先生はおよそ魔法学校の先生としてらしくない発言をしたのだった。オーシャンは頷いた。
「あなたの「呪文学」や「妖精の呪文」の成績は壊滅的です。しかし「魔法薬」やその他の呪文を使わない授業では優秀な成績を修めている。そこでわたくし、考えたのですが、英語を話す事が難しい者だからこそ、呪文の発音も難しいのでは?いかがでしょう?」
オーシャンはびっくりして、また頷いた。それはここ数年、オーシャンが考えた末に出した結論だったからだ。
英語は耳で学ぶと聞く。英語を聞くことで「聞きなれた言語の様に意味が理解できる」オーシャンにとって、それは英語を上手く話せない事へと、少しなりとも繋がっているのではないか、とマクゴナガル先生は考えたのだった。
「恐らく、日本語だと呪文を使うことも問題ないはずです。ここに置いてあるペンを、浮かしてご覧なさい。ホグワーツで学んだ呪文ではなく、日本でのやり方で」
マクゴナガル先生の机の上に置いてあるペンを見つめて、オーシャンは日本で習った呪文を唱えた。
「浮遊せよ。天翔る浮舟となれ」
オーシャンが呪文を唱えると、ふわん、と、マクゴナガル先生のペンがその場に浮かんだ。日本で学んでいた時以来、上手く使えなかった浮遊術にオーシャンが飛び上がって喜んだ反面、マクゴナガル先生は困った顔をしていた。
「思った通りですね」と、マクゴナガル先生が浮かび上がったペンを手に取る。オーシャンは首を傾げた。
「本当は、英語を勉強してくださいと貴女に申し上げたい所ですが、英語を「聞いて理解する」能力は貴女の先天的能力であって、恐らく貴女自身の語学力の問題では無いのでしょう?」
マクゴナガル先生は、気遣わしげにオーシャンに聞いた。オーシャンはまた頷く。オーシャンの頭は英語が彼女の耳に入る前に勝手に翻訳しているので、オーシャンがどれだけ勉強をしようとも、会話での意思の疎通は絶望的に不可能である。
しかし、オーシャンは考えていた。英語を聞くのが先天的能力であるように、英語を話せる様になるという後天的能力も、(勉強以外の方法で)発芽するのではないかと。
なんと言ったって、「魔法」というのは内に秘めた力だ。本人の意図せずガラスを砕く事だってあるし、瞬間移動することだってできる。
そこでオーシャンは、彼女自身の精一杯の語学能力で、マクゴナガル先生に言ったのだった。
「プリーズ、3デイズ。アイ、キャン、スピーク、イングリッシュ!」
マクゴナガル先生は一瞬呆けた顔をした。「…は?」
数瞬の沈黙の後、マクゴナガル先生は合点がいったように頷いた。
「…必ず英語を話せる様にするから、3日くれ、と…?」
こくこく、と頷くオーシャン。マクゴナガル先生は面白い物を見る目でオーシャンを見ると、言った。
「よろしい。3日で話せる様にするという貴女を信じましょう。ただし特別扱いはいたしませんよ?3日間授業にもちゃんと出て、宿題もみんなと同じようにこなすのです」
その言葉にオーシャンは少し怯んだが、それでも、コクリと一つ、頷いた。言葉が話せなくても受け入れてくれる友人達、アンジェリーナやケイティと、ついでにウィーズリーの双子達と、楽しく笑い合いたい。
「というわけで、3日3晩寝る間も惜しんで、授業中も念じ続けた結果、皆と会話が出来るようになったというわけ。魔法って無限の可能性があるわよね」
新学期の宴の席で、オーシャンは隣に座った新入生、ハリー・ポッターにそう話していた。今学期最大に有名な新入生は、オーシャンの話を聞きながら、ポークチョップに舌鼓を打っている。
分厚いポークチョップを飲み下してから、ハリーは言った。「僕、日本人に初めて会った。キレイな黒髪ですね」
そうハリーが誉めたオーシャンの髪は、烏の濡れ羽色と言うに相応しい、青みがかった黒髪だった。オーシャンは髪を撫で付けてやんわりと笑った。
「ありがとう。でも、例の3日間でちょっとだけ青く染まっちゃったのよ。その前はもう少し黒が濃かったの」
その会話を聞き付けた双子のウィーズリーが乗り出して、「誉めても何も出ないぜ、ハリー」と言った。オーシャンはムッとする。
「それは私が言う事よ。でもハリー・ポッターに誉められたら悪い気はしないわ。今度クッキーを焼いてあげるわね、ハリー」
にっこりとハリーに笑いかけるオーシャンを見て、フレッドが呻いた。
「そりゃないぜ、オーシャン!お前の手作りクッキーだなんて、俺たちも食べた事無いぞ!?」
「アンジェリーナとケイティには食べて貰ったわよ?」
オーシャンの回答を受けて、ジョージが叫んだ。「あの二人が食べてて何で俺たちに当たらないんだよ!?」
「あげようとしたけど、何か二人で怪しい研究してて忙しかったじゃない。アンジェリーナが全部食べてくれたわ」
「あぁ、あいつはお前のファンだからな!」
「お前の髪がその色になってからは、特にお前に夢中だよ!」
「どうしてくれるんだ!」といった表情でいきり立つ双子。オーシャンはそ知らぬ顔で、グラスに入った飲み物を、底に手をついて音を立てずに啜った。
ハリーがおろおろしていると、双子の弟ロン・ウィーズリーが口いっぱいにポテトを詰めたままオーシャンに質問した。
「じゃあ今は、完全に言葉を喋れるんだ。授業はどうしているの?」
オーシャンはロンを向いた。
「今でもアクシデントやパニックで能力が一時的に使えない状態になる事はたまにあるわ。それでも昔に比べて、大分減ったけど。言葉が話せない状態の私でも授業にはついていけてたんだから、貴方達も大丈夫よ。頑張ってね」
最後の励ましは、「授業」という言葉を聞いて少し顔を曇らせたハリーと、ネビル・ロングボトムにかけた言葉だった。ネビルはオーシャンの微笑みを見て、顔を赤らめている。
ロンが呟いた。「せ…聖母の微笑み…」
ジョージが頷いた。「ああ、お前らは、ホグワーツの聖母様の御前にいるのだ」
フレッドも頷いた。「今学期中に聖母様を怒らせた者には、大いなる栄誉が与えられるであろう」
「もう。フレッドもジョージもやめて」オーシャンは困った顔で双子を見た。「そんなこと言うから、先学期が大変だったんじゃないの。私を怒らせようとイタズラを仕掛けるバカみたいな子達が、毎日山ほどいたんだから」
双子はもはや、伝説の語り部の様に語っていた。
「それが何人かかろうが、我らが聖母様は怒りもしない」
「それどころか、微笑み一つで全てを許しなさる」
「あんなに憎たらしいスリザリンの生徒にまで笑顔で対応するんだから、恐れ入ったぜ。あれは」
「代わりに全部アンジェリーナがぶちのめしてたな」
「ああ、あんな恐ろしい彼女は初めて見たぜ」
結果的に、ホグワーツの聖母の噂はますます広がり、一部では尾ひれがついて「戦乙女」として恐れられているそうな。
「へえ…」そう呟いたハリーの様子を見て、オーシャンは申し訳なさそうに笑うのだった。
何とか気合いで英語を話せるようになった主人公ですが、ホグワーツで無事に学校生活を送れるのでしょうか…?