ARIA The Visions   作:Yuki_Mar12

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 オレンジ・ぷらねっとの見習いウンディーネアリスは、連日の雨でゴンドラ漕ぎの練習が中々出来ず、退屈を感じていた。
 練習の代わりに彼女は部屋で勉強したり、本読みしたりして過ごしたが、今一つ身が入らない。

 アリスは勉強していた机の上で眠り始め、ある夢を見る。その中で彼女は友人といさかいを起こし、すれ違い、孤独になり、挙句妙な異世界へワープする。

 夢が覚めた後も、アリスはその印象に影響を受け続け、憂鬱な気持ちだった。
 しかし雨が上がり、天気の回復したネオ・ヴェネツィアで、彼女は友人たちと出会う。

 雨降りの間会えなかった彼女らとの交流の中で、アリスの心の憂鬱は、段々と和らいでいくのだった。

 ――これはそんな、センチメンタルなお話。

(文字数:約11000)


アリス編
【5】その、雨上がりの夕焼けは……


**

 

 

 

 小さな円が、通りを次々と通っていく。

 黒い円、水色の円、花柄の円……色々あるそれは、全て水の粒を弾いていた。

 すなわち、円は傘だった。

 

 水の都ネオ・ヴェネツィアの今日は、雨降り。

 

 アリスは自身がウンディーネの修業をしている会社”オレンジ・ぷらねっと”上階の物見で、一人雨に濡れた街の景色をぼんやり眺めていた。

 引きも切らず雨粒を落とす灰色の空の下では、晴れている時よりも少ない数の人々が、傘を差して歩いている。晴れている時にはよく見える彼らの様子――どんな顔をしている、どんな服を着ている、どんな髪型をしているなどのことは、その傘のために今日は少しも分からなかった。

 

 ここ最近、ネオ・ヴェネツィアでは陰気臭い日々が続いている。

 雨下ではゴンドラを漕ぐというウンディーネの修行が出来ないので、そんな時アリスは代わりに、部屋で仕方なくスクールの勉強をしたり、本を読んだりする。

 今日はスクールで課された宿題を済ませた後、復習と予習をした。しかししばらく続けた後、ひどい退屈を感じだし、全身がむずむずした。そのために彼女は気晴らしがしたいと思い立ち、今物見へ外を眺めに来ているのだった。

 

 だが、物見に来たところで特に楽しいということはなかった。

 アリスは相変わらず退屈そうに、ハァ、とため息を吐いた。

 

 雨は一向に降り止む気配を見せない。

 

 アリスは無性にゴンドラ漕ぎの練習がしたいと思い苛立っていた。ゴンドラ漕ぎは、ウンディーネの見習いという身分である彼女にとって、日課であり、日々の生活から欠けるべきでないことだった。

 日課とは言え、アリスはゴンドラ漕ぎを強いられて渋々するのではなく、主体的に、熱心な態度で毎回取り組んでいた。

 天才と称される彼女は、技術に関して言えば同僚は元より、幾らかの先輩すら凌ぐため特に改善の余地がなかったが、内面に関してはそれがあった。すなわちアリスは、少々独りよがりで他人と打ち解けにくいという性分を持っているのである。その性分は、ゴンドラの乗客に観光案内する職業の者としては、やはり欠点となる。

 しかしその欠点は、他社の先輩である水無灯里や藍華と打ち解け仲良くし、合同練習等で交流を重ねていくことで徐々に快方へと向かっていた。彼女らと接することを続ければ、アリスはいずれ自分が、それが通常であるところの不愛想な表情を、人懐っこい表情に変えられる気がした。

 

 先輩との合同練習には、雨によるキャンセルのため何日かのブランクが出来てしまっている。アリスは久しぶりに彼女らと一緒に練習したいと思った。だがしかし、天気が悪くてはそれは叶わない。

 

 満たされない望みは、彼女の苛立ちを一層募らせた。

 

 

「何か出来ることはないんですかね?」

 

 部屋に戻ったアリスは、同居人でかつ先輩でもあるアテナに相変わらずの様子で問うた。ゴンドラ漕ぎでも勉強でもない有意義な過ごし方を、彼女は切に求めていた。

 

 アテナはベッドの上で上半身を起こして、読書している。彼女は本から顔を上げ後輩に眠たそうな目を向けると、窓の外の雨模様をじっと見つめた。そして苦笑し、「そうねぇ」と答えた。「こんなに雨の日が続くと、じっと休む以外どうしようもないわね」

 

 諦念に満ちた答えを聞いて、アリスは憮然とした。

 

 ――雨が降り出した日、アリスたちは、雨で波紋の絶えない水路のゴンドラを陸揚げした。メンテナンスするためである。そして格納庫に移し、目に見える汚れや、付着した貝を取り除くなどして、外面を綺麗にした。その作業に従事することで、その日一日は潰れた。

 次の日も雨だった。アリスたちは憂鬱な気持ちで、再び格納庫に向い、更なるメンテナンスを加えることになった。すなわち、何艘かのゴンドラは所々湿気ていたので、腐朽を遅らせるよう、防水用のコートを施すことにしたのである。そのついでに汚れたオールを磨きもした。

 三日目も雨だった。アリスたちは少々うんざりして、色があせているゴンドラにワックスを塗った。するとゴンドラは漆塗りのようなぴかぴかとした光沢が出て、見違えるように輝いた。

 それでゴンドラのメンテナンスは終わった。何艘かの老朽がひどいゴンドラは、専門の業者に改修を委託した。

 補修したゴンドラを見て、アリスの練習したいという希望はいやましに募った。自分の真っ新(まっさら)のように黒光りするゴンドラを、灯里と藍華に早く見せて自慢したいと思った。

 しかし四日目も雨だった。それはつまり今日である。アテナとアリスは朝方部屋の掃除に取り掛かったが、昼頃にはすでに終わってしまった。

 

 結局アリスは机に向い、教材とノートを広げ、再び勉強することにした。教科書を読んで知識を復習し、問題集で実際にそれが身に付いているかどうか確かめた。その後には、予習もした。

 一つだけに限らず色々な教科の勉強をしている内、いつの間にかアリスは、ノートの隅に無意識の内に落書きするようになっていた。悶々とした気分で描いたそれは、まるで自分の苛々する心中を映し出したかのような、絵とは言いがたいもやもやした何かだった。

 

 アリスは振り返ってアテナを見た。

 彼女は相変わらず開いた本を見つめ、読書に没頭している。

 

 机の方に向き直ってアリスは、フゥ、と息を吐いた。そして首を傾け、湿っぽい表情で視界をぼやけさせた。勉強に打ち込むことに単調さを感じ、嫌気が差した。

 

 余りの退屈さに、アリスは目蓋が重くなり、ウトウトし始めた。

 彼女は見切りを付け、身が入らない勉強を止めにした。そして机の上の物を全部(さら)えて突っ伏した。

 

 寸時も途絶えず聞こえる、しとしとという雨音……

 

 腕の中で首をゆっくりと回転させ、窓に視線を遣ると、雨天の鈍い光を反射して落ちる雨粒を見た。アリスは、そこはかとなく雨雲に恨めしい気持ちを抱いた。

 

 しばらくすると、アリスは目を瞑り、深い呼吸を繰り返すようになっていた。

 眠りに、落ちたのだった。

 

 

 目を覚ました後、アリスはとある水路の桟橋に、他社の先輩である灯里と藍華と共にいた。

 そばには三艘のゴンドラが浮かんでいる。彼女らはゴンドラ漕ぎの合同練習のために集まった。

 雨は止んでいる。がしかし、空はどんよりと暗く曇っている。

 

「また降りそうだね」、と灯里が曇り空を見上げ、言った。

 

 藍華は頷いた後、低いところに垂れ込めている雲を見つめ、「そうね」、と答えた。「この分だと、たっぷり練習するのは無理っぽいわね」

 

 憂鬱そうな二人は、悪天候のぶり返しを予想して傘を持ってきていた。

 アリスは冷たい目付きで彼女らの用意したその雨具をむかむかした様子で見つめた。 

 

 彼女は傘を、持ってきていなかった。

 雨が止み、何日かぶりに練習が出来るようになったので、彼女はやる気に満ち満ちていて、意気軒昂だった。

 ようやく練習が出来るのだ、これ以上雨に降られてたまるものかという気持ちで社を出たせいか、念のために傘を持っていくという考えは彼女の頭になかった。

 

 藍華は片目だけやや大きく見開いて、いぶかしく思うような表情で、もし雨が降ったらどうするのかとアリスに尋ねた。

 アリスは雨が降るということは考慮から外しているので、「大丈夫でしょう」、と答えた。彼女の内面に満ちているやる気は、悪天候への恐れをすっかりなくしていた。

 アリスの自信満々な返答を聞くと、藍華はどこか白けた感じの態度で納得し、灯里は呆れたようにぽかんとした。

 

 曇天の下、雨が降るだろうと予想している二人と、まるでしていない一人は、それぞれ自分のゴンドラに乗り込んで水路に進みだし、練習を始めた。

 今度の練習は天気が悪いせいか、三人のウンディーネを包む雰囲気が普段とは異なり、中々盛り上がらず、皆沈黙しがちだった。

 

 しばらくすると、灯里と藍華が思ったより微弱ではあったが、再び雨が降りだした。

 三人はゴンドラをひとまず停止させ、今後について相談しだした。

 

「やっぱり降ってきたね」、と灯里。「これからどうしようか?」

 

「そうねぇ」、と藍華。「取りあえず、しばらく止むのを待つことにしよう?」

 

 二人はゴンドラの上で雨をやり過ごすことにし、持ってきた傘を差した。

 

 まだ成果を得られず物足りないアリスは、藍華の取り決めを不服に思い、「わたしは続けます」、と言った。

 

 灯里は「風邪引いちゃうよ」、と言い、近くの桟橋で降りて雨宿りするように勧めた。しかしアリスは首を振って拒否した。灯里は困ったように眉を下げた。

 藍華は呆れたようにため息を吐き、「後輩ちゃん」、と呼びかけた。「やる気一杯なのはいいけどさ、晴れるまで我慢しなよ。雨が降っちゃ、ゴンドラ漕ぎなんか出来ないでしょ?」

 

 藍華の諭すような言葉でアリスは、自分の意気込みに水を差されたように感じ、いよいよ不服に思いだした。

 彼女は平然と「出来ますよ」、と(うそぶ)いた。「先輩方は持ってきた傘を差して、せいぜいパラパラという雨音でも楽しんでいてください」

 

 後輩の嘲弄するような言葉に藍華は怫然とし、彼女を鋭い目付きで睨み付けた。

アリスは怯まずに彼女を同じような目付きで睨み返すと、プイとそっぽを向いてオールを構えた。

 

 彼女は先輩たちの方へ向き直り、「それじゃ、わたしは行きますので」、と無感情に言うと、ゴンドラを漕ぎだし、二人のもとを去った。

 

 

 降り出した雨は、徐々に勢いを増してゆき、やがて辺りは白く煙りだした。

 

 アリスは長い髪や制服からたくさんの水を滴らせながら、孤独に練習を続けていた。悪天候の下、彼女は寒気がし、雨を吸った制服を重たく感じた。

 何となく、身体がだるかった。寒くて手足が凍えるし、視界が悪くて自分がどの辺にいるのかピンと来ない。

 孤軍奮闘していたアリスだが、状況の不利にとうとう練習の中断を決意し、近くの橋の下にゴンドラを漕ぎ入れると、そこで雨宿りすることに決めた。

 

 橋の下はトンネルのように暗く、外では空より落ちてくる雨粒が、無数の波紋を水面に繰り返し描いている。

 雨音としぶきに閉ざされたその陰気な場所は、アリスに孤独を感じさせ、物思いに耽らせた。

 

 アリスは、何となく惨めな気持ちだった。いやに冷静な様子の藍華に反抗して、一人強情を張ってゴンドラを漕いできた割に、結局少しの成果も感じられなかった。また、灯里の進言を無視した挙句寒い思いをする羽目になった自分が、愚かだと思った。

 

 どうしてあんな意固地な真似をしたのだろうかと、彼女は考えた。そして練習へのやる気において、先輩との間に隔たりのあることを知って悔しく感じたことを思い出した。

 長く降り続いた雨がようやく上がって練習に向かう途中、アリスはてっきり、灯里も藍華も、自分と同じく久しぶりの練習に意気込んで来るに違いないと、確信に近い強さで信じていた。それなのに二人は用心深く、天気の急変などに配慮して、練習の中断は十分有りうると思う様子で、傘を用意してきていた。

 アリスは傘を持つ二人の姿を目にした時、彼女らが練習に対し余り情熱を持っておらず、どことなく面倒臭がるように消極的で、もしも雨が降り出だせば容易に中断するに違いないと悟って軽蔑を抱いた。

 灯里に雨宿りした方がいいと勧められた時、アリスは一人だけ傘を持っていない自分だけよそに行くなんて絶対に嫌だと思ったし、藍華の我慢しろという小馬鹿にしたような注意には、猛烈な反発を感じた。

 

 しかし先輩への軽蔑は、今は心が狭い自分に対するものに変わっていた。びしょ濡れになってしまったアリスは、灯里の進言を素直に聞いておいた方がよかったと後悔し、藍華の注意に関しては、確かに彼女の言う通りで、長く満たせなかった鬱憤の解消の優先に、躍起になり過ぎていたと反省した。今回の天候が練習するにおいて成果の得られるコンディションでないことは、冷静に考えればすぐに察せられることだった。

 

 アリスは、灯里と藍華は恐らくもう練習に切りを付け、桟橋でゴンドラを降りて、雨を凌げる近くのお店かカフェにでも行っているだろうと推測した。そして、彼女らがくつろいでいるだろう温かく明るい環境を想像し、寒く暗い場所に一人差し置かれた自分の境遇と対比して、ひどく寂しい気持ちに苛まれた。彼女を慰めてくれるのは、膝を抱く自分の両腕の頼りない温もりだけだった。

 

 アリスはやがて眠気を催して、うつらうつらとしだした。

 憂鬱、寒さ、間の悪い気持ち――全て忘れてしまいたいと切に願っている惨めな彼女は、その身を眠気に委ね、座った状態のまま寝入った。

 

 

 やがて起きると、雨雲はすでに去ったらしく、空には青の天井があまねく表れて澄んでいた。

 彼女は寒さに硬くなった身体を起こして、周りを見回した。すると、自分が世にも奇妙な場所にいることを知り、驚愕した。寝ている間にゴンドラが水に流されたのか、どこか不案内なエリアまで移動したらしい。

 

 そこは、水が満ちているだけの空間だった。周囲には視界を遮る建物が一つとしてなく、あらゆる方面に水平線が見える。

 アリスの周りの水面では、アメンボが滑ったり、カメが首を出して泳いだりしている。

 

「どこだろう? ここ」

 

 アリスは呟いた。すると近くを滑るアメンボが返事した。

 

「波紋の下をよく見るといいよ」

 

 そしてアメンボはアリスの乗るゴンドラよりどんどん遠ざかっていった。

 

 一体何があるのかと、彼女は不思議な気持ちで、アメンボの描いていく波紋の下を見つめていた。水の中では無数の魚が、鱗を日の光に輝かせながら泳いでいる。

 

 アリスはハッとした。ゆらゆら揺れる水の下に、見覚えのある何かが沈んでいることに気が付いたのである。

 彼女は目を凝らして見て、それが果たして何なのか調べようとした。

 

 その何かは、上が鋭く尖っていて、堂々と屹立するようにあり、ネオ・ヴェネツィアの鐘楼のように見える。そして鐘楼より下には、同じように見覚えのある、ネオ・ヴェネツィアによく似た街並みが、水に光を遮られて、目の届きにくい暗がりの中に広がっている。

 

 すなわち水中のそれは、アリスの故郷の街だったのである。

 沈没したネオ・ヴェネツィアは彼女を大いに動揺させ、混乱させた。

 

「降り終わったんだよ」、と誰かが言った。近くに小舟があり、それに毛の長い肥満体の、頭に小さな王冠の載った猫が乗っている。どうやらその猫が言ったらしい。「全部の雨がね」

 

 アリスは愕然とした。猫に詳しく話を聞くと、もう二度とアクアに雨は降らず、永久に晴れの天気が続くそうだった。

 

「みんなは……ネオ・ヴェネツィアのみんなは、どうしたんですか? どこへ避難したんですか?」

 

「さぁねぇ? 知らないよ。まぁ少なくとも、こんな退屈な世界とは違うところへ行ったことは、間違いないねぇ」

 

 そう猫が言うと、アリスの乗るゴンドラが揺れ動き、大きな波紋が辺りに広がった。

 

「しかし君は何で残ったのかね。みんなと共に行きゃいいのに。物好きなんだね?」

 

 猫の言葉は最早アリスの耳に入らず、彼女は蒼白な顔で呆然とした。猫は興醒めし、自動で動くらしい小舟で去っていった。

 

 アリスは少し辺りを調べてみようと思い、起ち上がってオールを水に差すと、ゴンドラを漕ぎだし、四方八方を隈なく調べ回った。

 がしかし、どこへ行っても水だった。世界は何もかも、雨に飲み込まれてしまったのだった。

 オールを持って水平線の先へ越えてみても、彼方に別の水平線があるだけで、他には何もなかった。

 水に映る太陽が、眩しく照っている。何も楽しいことなんてないはずなのに、太陽はまるで笑っているかのように、輝いている。

 

 アリスはどうしていいのか分からなくなって、へたり込んだ。考える気力は出なかった。考えることが多すぎるのだ。故郷が浸かっている水上の世界、自分だけが残された理由、ネオ・ヴェネツィアの人々――灯里や藍華の行方。

 「どうして?」、と尋ねたいことは枚挙に暇がなかった。

 

 絶望に気が遠くなりだした頃、どこからか透き通った声が響いてきた。

 

 ……ちゃん?」

 

 聞き覚えのある、慕わしい声だった。

 

 ……アリスちゃん?」

 

 

 目が覚めると、アリスは机の上だった。

 彼女は、自分を覗き込むような褐色の肌の顔と、薄紫の短い髪を見た。

 呼びかけたのは、アテナだった。

 

「大丈夫?」

 

 彼女は、怯えるように目を剥いて呼吸の荒いアリスに、心配するように尋ねた。すると彼女は机上に寝ている上半身を勢いよく起こし、目を何度もしばたかせた。

 

「いつの間にか、寝ちゃってました」、とアリス。彼女は苦痛な夢から目覚められたと知り、安堵した。

 

「雨、上がったわよ」

 

 アテナに教えられ、アリスは窓の方を見てみた。すると彼女の言う通り、外では雨が降っておらず、雲間に爽やかな青空が覗いている。

 

 アテナは散歩に行こうとアリスを誘った。

 彼女は気晴らしがしたかったので、その誘いに二つ返事で乗ると、冷や汗をタオルで拭い、やや乱れた髪を直した。

 

 そして二人は部屋を出、足任せに漫然とネオ・ヴェネツィアを巡り始めた。

 

 雨に温もりを奪われた街は少し肌寒かったので、アテナはアリスに、近くのカフェに寄って温かい飲み物を飲まないかと尋ねた。アリスは頷いた。

 

 やがて入店した二人は円いテーブルに着き、シナモンの香りがするカプチーノを飲んで温まった。そしてホッと一息吐き、甘くて美味しいという感想を述べ合った。

 

 その後アリスはアテナに、自分の見た夢の話をした。灯里と藍華に強情に反発し、仲が悪くなってしまったことや、橋の下で孤独と寒さに震えたこと、ネオ・ヴェネツィアが水没したヘンテコな世界に転移したことなどを、彼女に教えた。

 夢について話す彼女の口振りは、現実に目覚めたゆえに気楽だったが、反面そのビジョンが明瞭に蘇ってくるように思えて、気重だった。

 

「そんな夢を見てたんだ」、とアテナ。「道理で、呼吸が荒かったわけね」

 

 アリスはため息を吐き、「でっかい()な夢でした」と嘆くと、沈んだ表情で手元のカップを取り、中身に口を付けた。

 

 アテナの目に、彼女は寂しげな様子に見えた。彼女は眼差しが陰っており、背が丸く、少しやつれている。

 

 アリスは、テーブルにカップを置くと、アテナに向かい、先輩たちに悪いことをしたと反省するように言った。

 灯里と藍華と疎遠になったのは夢でのことなのに、彼女らの見せた表情――灯里のおずおずと俯いた顔や、藍華の責めるような刺々しい眼差し――が鮮明に思い返されるせいで、アリスの心は後悔の念にずきずきと疼いた。

 

 アテナは彼女に微笑みかけ、「大丈夫よ」、と慰めた。「夢で仲違いしても、現実で仲直りすればいいじゃない?」

 

 しかしアリスは「憂鬱です」、と顔を俯けて言った。「先輩たちと、顔を合わせるのが」

 

 アリスは、自分が余りにも夢の影響を受けすぎていることを熟知していた。夢で起きた不幸について深刻に悩むのは、至極馬鹿げたことだと分かっていた。だが、思慮を欠いたみずからの不遜な態度、灯里と藍華の冷淡でよそよそしい表情、味わった孤独の心細くするような辛さは、彼女の記憶にくっきりと焼き付いていて、消え失せる気配を少しも見せなかった。

 

 不幸な夢による今の憂鬱は、アリスにとって、解消したいと強く望むものであった。気が進まなくても、アリスは()()()に会いたかった。

 

 ふと、アテナが「あっ」と発した。

 彼女はにこやかな表情でアリスに呼びかけ、窓を見るよう促した。

 

 二人が揃って窓を見ると、アリスはハッとし、猫のような背をピンと真っ直ぐに伸ばした。

 窓の外に、灯里と藍華がおり、店内を覗いているのである。

 

 灯里と藍華はアリスたちに軽く手を振ると、入店した。彼女らはアテナに挨拶し、アリスに久しぶりと声を掛けると、外の肌寒いことを互いに確認し合った。彼女らも雨上がりの街を散歩している途中で、同じカフェに立ち寄ろうと考えたようだった。

 

 アテナたちは、二人のスペースを開けるため、互いに身を寄せ合った。彼女らと向い合わせで座った灯里たちは、同じ飲み物を頼み淹れてもらうと、その温かい甘みを快さそうに味わった。

 

 彼女らが来ることで、アリスはいささかバツの悪い気持ちになった。夢でのいざこざが思い返されたのである。

 

 藍華は彼女の俯きがちな目を覗き込み、「どしたの? 後輩ちゃん」、と尋ねた。「何だか顔が暗いけど」

 灯里はきょとんとした表情で、アリスを見つめている。

 

 アテナは、灯里と藍華の何も知らない様子と、彼女らへの応じ方に気を揉んでいる後輩とを見比べ、微笑した。そして、アリスが灯里たちの出てくる夢を見たことを教えた。

 

「へぇ、そうなの?」、と藍華。

 

「どんな夢だったんだろう?」、と灯里。

 

 二人は興味深そうに笑顔を見合わせた後、どんな夢を見たのか教えてくれるよう、本人に迫り頼んだ。

 

 アリスは首を振って「大した夢じゃないです」、と答えた。

 その後も彼女はしつこく尋問を受けたが、絶対に口を割らなかった。

 埒が明かないと思った藍華は、「何よ。勿体ぶっちゃって」、と不満そうに言った。

 

 腕を組んで目を瞑る藍華の呆れた様子を、アリスは上目遣いで遠慮がちに窺っている。

 彼女の眉間の皺を見ると、そこはかとなく夢での藍華がその刺々しい雰囲気を纏って蘇ってきた。 

 アリスは、彼女が冷淡でないことを確かめるため、恐る恐る「合同練習」、と呟いた。藍華は目を開いて彼女を見、きょとんとした。「また、参加してもいいですか?」

 

「え?」

 

 藍華はよく聞き取れず首を傾げ、再度言ってくれるよう頼んだ。

 

 アリスは拒否の答えを受けることに怯え、口が重かったが、どうにか勇気を振り絞って、さっきよりも大きい声で、合同練習に参加してもいいかどうか尋ねた。

 

 質問が何か知った藍華は失笑し、「何でそんなこと聞くの?」、と嘲るように言った。「今更参加していいも悪いもないでしょ? しょっちゅう一緒に練習してるんだし」

 

 アリスを見つめていた灯里は眉を下げ、心配するような顔で「どうしたの?」、と彼女に尋ねた。「何だか今日のアリスちゃん、らしくないね」

 

 アリスは苦笑して、「すいません」、と謝った。「わたしが練習に参加すると、先輩方に迷惑をかけるかも知れないって、ふと考えちゃったんです」

 

 それきり彼女は深く俯いて、黙りこくってしまった。

 

 灯里と藍華はその様子をしばらくじっと見つめると、互いに顔を見合わせ、苦笑した。二人とも、アリスが自信をなくすような夢を見たに違いないと、確信したようだった。

 

 藍華は頬を緩め、「馬っ鹿ねぇ」と言うと、テーブルに片肘を突き、手で頬を持った。アリスは顔を上げ、その金色の瞳を見つめた。

 

「あたしがあんたに迷惑を感じてるんなら、とっくの昔に付き合うのを止めてるって」

 

「わたしとの練習は、迷惑じゃない、ですか?」

 

 藍華は朗らかに笑うと、「あったり前よ」、と率直に答えた。「迷惑するどころか、むしろ感謝してるくらいよ……ね? 灯里」

 

 藍華の目配せを受けた彼女は、「うん」、と頷いた。「アリスちゃんと一緒に練習するの、わたし好きだな。ゴンドラ漕ぐの上手だし、色々と参考になるもん」

 

「灯里先輩……」

 

 アリスは自分を見つめる灯里の清々しい笑顔を見て、瞬時に涙が込み上げてきた。

 

「よきライバルだと思ってるわよ」、と藍華。「灯里に対してもそうだし、もちろん後輩ちゃんに対しても、同じくね」

 

「一緒に練習すると、みんなで成長を共感し合えるもんね」

 

 藍華は「えぇ」、と頷いた。「少し生意気なのが鼻につくけど、後輩ちゃんのそつのないオール捌きには一目置いてんのよ。何でそのあたしが、あんたとの合同練習を拒否する理由があるの?」

 

「ライバルは、お互いに高め合ってこそライバルだよね」

 

 藍華は「うん」と答え、アリスをにっこりして見つめた。「だから、余計な心配するの禁止。いいわね? 後輩ちゃん」

 

 アリスは再び俯き、腿の上に置く両手で制服をギュッと握り締めた。

 

 彼女は、先輩たちの友情に対する感謝の念の横溢を抑えきれなかった。目元が涙でじんわりと温かくなりだしたアリスは、その感情の奔流が止んで落ち着くのを待つだけで、今は手一杯だった。感情が内面より流れ出ていく時、その中には憂鬱が混ざっていた。

 アリスは哀れっぽい自分の様子を気恥ずかしいと思いつつ、灯里たちのくれた励ましの言葉を、快く噛みしめていた。

 

 彼女を除く灯里と藍華とアテナは、アリスの繊細な様子を見守ると、互いに目配せし、微笑み合った。

 

 灯里は「アリスちゃん」、と呼びかけると立ち上がり、彼女に近付いていって制服を握り締めているその腕を優しく掴んだ。

 アリスは未だ涙目をしていて笑むことが出来ず、自信がないので、俯けた顔を上げられなかった。

 

「藍華ちゃんが、久々に合同練習しに行こうだって」

 

 藍華はすでに席より立ち上がっていた。彼女と灯里はアテナに対し、練習に行ってきますと言うと、アリスを引き連れてテーブルを離れていった。アテナは三人に微笑みかけ、「頑張ってらっしゃいね」、と励まして見送った。

 

 

 涙で目元の赤いアリスは、灯里たちと一緒に水路に向い、練習を始めたものの、彼女らの間に中々溶け込みにくかった。

 が、先輩たちの心配りのお陰で、彼女は徐々に本調子を回復し、やがて屈託なく笑えるようになった。その頃には涙は乾いており、目元の赤みは引いていた。

 

 三人の見習いウンディーネたちのする合同練習は、雨のせいでいつもより時間が短かったが、すこぶる充実したものとなった。彼女らは雨で出来なかった分を挽回するように、精を出してゴンドラを漕いだ。

 

 練習を終わりにし、水路から引き上げる時、三人は、海の果てに真っ赤に燃える夕焼けを眺めた。

 

「雨、止んでよかったですね」、とアリス。彼女は心底そう感じた。

 

「本当だねぇ」、と灯里。

 

「やっぱり、ブランクのせいで腕が鈍ってたわね」、と藍華。

 

「明日も、また頑張って練習しましょうね」

 

 アリスの誘いかけに、他の二人は頷いて答えた。

 三人は朗らかに笑い合い、再び夕焼けを見つめた。

 

 アリスにとって今二人と共に過ごしている時間は、昼間見た夢などとは違い、寂しさや寒さとは無縁の、気持ちが自然と和らぐような非常に愛おしい時間だった。

 

 彼女らの背後で鐘楼の晩鐘が、ゴオンと厳かに鳴った。その音は街中に響き渡り、夕べになったことを知らせた。鐘の音を聞いた人々は、今日一日平和に暮らせたことに感謝を捧げ、天に祈り、互いに微笑み交わすと、「さようなら、また明日ね」、と言い合って別れた。

 

 ネオ・ヴェネツィアは水の中に沈んでなんかおらず、日に明るく照らされて、生きている。

 

 手でひさしを作って夕焼けを眺めながら、アリスは、すぐ近くにある幸福感を、溢れるような感謝の念でひしと胸に抱きしめ、包み込んだ。

 

 長い陰鬱な雨の日々は、ようやく明けた。

 

 明るく照る雨上がりの夕日は、翌日の夕べも同じくネオ・ヴェネツィアの空に浮かび、ゴンドラ漕ぎの練習に励んだ三人のウンディーネ達をねぎらい、そして慈しむかのように、穏やかな眼差しで優しく見つめたのだった。

 

 

 

(完)


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