――これは、思うにアルくんに出会う前であろう時期の、恋と失恋に沈む彼女の、日常の、ワンフレーズのような、ごく短いお話。
(文字数:約4000)
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今日はやけに、髪にさわる。
彼女は、それでもう何度目か分からないくらい、繰り返し続けて来た憂鬱そうなため息を、ふたたび繰り返す。そして、自分の好みで分けた前髪を、撫でるようにして、入念な手付きで、あんばいよく整える。
「今日は何だか、藍華ちゃん、しんみりしてるね」
「え、そう!?」
ぎょっとした様子でそう言い、海の方に向けていた顔を、わたしの方に回す。どうやら図星らしい。
わたしと藍華ちゃんは、海を望む高台に来ていた。前には落下事故を防ぐための鉄の手摺りがある。時おり吹く風と、
「何かあったの?」
そう尋ねると、彼女は海に向き直って、撫でている途中の前髪をおさえて、「ううん」と渋面でうなり、「別に」、とだけ、みじかく、素っ気なく答えた。そしてその渋面は、だんだんと苦笑に変わっていき、最後に彼女は、「うん」と、口角を少しだけ上げて、まるで自分に言い聞かせるように、うなずいた。
「何にもないよ」
「うそぉ?」
「うそじゃなぁい」
それは、いかにもわざと取りつくろったような、いつわりと、疑惑の調子だった。
わたしは、ぜんぜん納得ができなかった。ぜったいに藍華ちゃんは、何かある出来事――少し熱っぽい表情を見るに、それはたぶん、よい出来事だろうと思う――を経験したに違いない。そのことは、強く、自信を持って、確信ができた。
わたしは、いぶかしく思うような表情で、「やっぱりうそだよ」と、実際にそうは口にせずに、眼力で問いただすつもりで、もっぱら、彼女を見つめることに徹する。すると彼女は、間が悪そうに、目を下に伏せた。実情を隠し通すことは、彼女にとって、不得手なようだった。つまり、何があったのかを、明かしたのである。
「たいしたことじゃないの。ただ、すてきだなぁって思う人と、目が合っただけよ。ゴンドラ漕いでる時に」
「へぇ」
「ね? わざわざ言うようなことじゃなかったでしょ?」
そう言うと彼女は、うそだとすぐ分かる不機嫌をよそおって、くちびるを忌まわしげに結び、恥ずかしそうな様子で、前より倍くらい速い手付きで、落ち着きなく前髪を撫で始める。
緊張する必要などないのに、わたしに尋問でもされているかのように、態度がいやにかたくなっている。だから、少しだけ、前髪が乱れる。
わたしは首を振って否定し、「お陰で納得できたよ」、と答える。
「納得……何に?」
「今の藍華ちゃん、何だかシュンとしちゃって、いつもより色っぽいんだもん」
「でもね――」
彼女が言いかけて、前髪をさわる手を、手摺りに下ろし、海を、もの静かな――何も見つめていないと思えるくらい、静かな眼差しで、虚心に眺め出す。
横から吹いてくるそよ風が、彼女の名前と同じ色の髪を、やわらかに揺らす。今まで彼女の自然な振る舞いを封じていた緊張は、和らいだように見える。
「すれ違った時は、あたしの胸がときめくだけで、他はなんにも起こらなかったんだ。おたがいに、たんに通り過ぎていくだけだった――そう、おたがいに本当に赤の他人同士で、何の縁もなく、ぜんぜん関わる意味がないかのように。けど、あの人と目が合った時、あたしの心には、何か、心地いい麻酔のようなものが、ぐさっと、深く打ち込まれたような、そんな不思議な気持ちがしたのよね」
「もしかしたら」、とわたしは、憂いに沈んだような顔の彼女に、言いかける。「そのすてきな男の人の方も、藍華ちゃんに、同じように、胸をときめかせてくれたかも知れないよ?」
「そうは思えないなぁ」、と彼女は諦めた様子で、独り言めかして答える。「あたし、がさつな性質だし、目が合った時、どうせどぎまぎして、見苦しく取り乱してたと思う。おしとやかに――もしもできるなら、アリシアさんのように、しっとりと、余裕たっぷりに、振る舞えたらよかったんだけどね」
そう言って彼女は、困ったように眉を下げ、いくぶん哀れっぽく、はにかんだ。
わたしはその顔を見て、胸がきゅんと痛むように感じた。
ぐうぜん通りすがりの男の人と目が合って、すれ違っただけなのに、藍華ちゃんは、わたしが同じ経験をした場合に、恐らくそうするだろうと予想されるよりも、はるかに深刻に、痛切に、心を痛めているようだった。
きっと、その思いがけない出会いが、彼女にとっては、千載一遇の、恋のチャンスだったのだと思う。男の人の、一生忘れられないような面立ちが、その出会いの瞬間に、深く、記憶に焼き付けられたのだと思う。そうに違いない。でなければ、こんなに落ち込まないだろう。もしもそのチャンスを無に帰せず活かしていれば、彼女は新しい異性の知り合いを得、彼との交流を重ね、次第に仲良くなり、しまいには睦まじく結ばれたのかも知れない。だとすれば、後悔するのは、やむを得ないことである。
藍華ちゃんは今、海を見ると同時に、ビジョンを見ている。得られたはずの、幸福な、恐らく人が人生で味わえる内で最高に近い、かなりのていど幸福な、失われた時間を、お蔵入りになったフィルムとして、半ば優しい気持ちで、半ば虚しい気持ちで、眺めている。そしていつまでも飽かずに、前髪を、他のからだの部分と、心と同じく、悲しみに打ちひしがれた手で、ほとんどつねに触れているのは、ひょっとすると起こり得る、そのチャンスの再来に、備えているためなのだ。
藍華ちゃんは、取り逃した幸福を、今度は逃がすまいとして、意気込んでいる。
だけどそのチャンスは、もうきっと来ないんだ。わたしの直感がそう告げている。
多分、藍華ちゃんも、同じように感じているのだろう。だからこんな、ひとけのない、海を眺めるためだけに存在するような場所で、わたしとの、たいした目的のない、率直に言ってくだらない、のんびりとした時間に、付き合ってくれているのだ。
わたしは、やるせない思い――それは間違いなく、藍華ちゃんへのシンパシーだった――を感じて、その清潔な白いセーラー服に包まれた身体に、そっと、向かって行った。藍華ちゃんは、びっくりした。
「ちょっと、灯里?」
わたしは、悲しみのとりことなっているともだちに、恋人のつもりで、抱き付いたのだった。
彼女が恋した男の人には、ぜったい、とうてい、じぶんの魅力は及ばないけど、彼と同一人物のつもりで、失意の彼女のなぐさめになれると信じて、その胴体を包み、いつくしんだ。
「どうしたのよ、急に?」
「藍華ちゃんの気持ちを考えると、こうせずにはいられないよ」
「あたしの、気持ち?」
彼女は平静を失って、どぎまぎしている。その様子は、恐らく彼女がひとめ見て気に入った男の人と、すれ違って、目を合わせた時と同じだろう。
藍華ちゃんの身体は、不思議なかおりがした。それはもしかすると、かおりじゃなくて、何かゆうぜんと立ち上がる、気配のようなものだったような気もする。すごくいいかおりだった。香水なんかじゃ決して起こせない、彼女特有――きっと、そうだと思う――の、少し強情で、そのために時々損をしてしまうというような、そんなぶきっちょな感じのする、かぐわしい、愛おしいかおりだった。
「そうね」、と彼女は静かに答える。「あたしは、正直、少し寂しいって、感じてる」
そして、藍華ちゃんは、わたしの思いやりと、好意――しかしそれは、赤い糸に結ばれた異性のカップルが持ち合うような、性的なものではなくて、平たく言えば、友情である――に答えて、わたしをいだき返してくれた。
ともだち同士で、恋人ごっこのような真似をして、わたしと藍華ちゃんは、たわむれたのだった。
やがて抱擁が解けると、彼女は照れた様子で、ぷいっと何事もなかったように振り返り、ネオ・ヴェネツィアの街へと降りる高台の階段を、ひとり下りていきだした。
「さぁ、早く帰って寝て、明日からはまたゴンドラ漕ぎとガイドの練習よ!」
声高に言って、彼女の影は、徐々に黒さを増しながら、下の方へと、遠のいていく。
わたしは、早く付いてきてよと無言で主張し、また求める、愛着のある背中に、口元だけで微笑みかけ、少し遅れて、その後を目指す。
やがて追い付き、並んで歩く。
夕日は沈み、夜空に、無数の星が、群れをなして浮かび上がる。
その中にわたしは、友情か愛情、あるいは信頼などをほのめかす、微かな、それでいてめざましい光が、ひとつぶだけ輝いているのを、くっきりと見出した。
そしてしみじみと、何かとうとくて新しいような感情が、その光によって、心の中にあたたかく照らしだされるのを、おおきな喜びとともに、感じるのだった。
(完)