ARIA The Visions   作:Yuki_Mar12

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(文字数:約11000)


【3】ある波乗りと(後編)

 

 夜。灯里とアリシアはログ・ハウスに帰り着いた後、夜食の準備をし、室内のテーブルで食べ始めた。

 その間アリシアは灯里に対して、違和感を感じていた。

 浜辺で再会して以来、灯里がずっと放心状態のままなのである。箸使いは普段よりぎこちなくて、よく皿の食べ物を掴めずに落とした。アリシアが「灯里ちゃん?」、と問うた時は必ず彼女は「はひ」、と答え、頭脳明晰になるのだが、すぐにまた放心状態に戻ってしまうのだった。

 

 灯里とアサトの間に何かただならぬ出来事が生じたことを、アリシアは明敏に感付いていた。みずから進んで話しださない灯里の様子は、それがショッキングな出来事であるに違いないことを彼女に推測させた。

 

 夜食の後、二人はお風呂に入った。そして身体の汚れをシャワーで軽く洗い流した後、満々と張ったお湯に浸かった。

 

 灯里は深いため息を吐き、「温かいですねぇ」、と言った。「何だか、今日は長かったように感じます」

 

 その様子には、何となく彼女の意識が明瞭に回復しだした感があった。

 

「充実してたってことじゃない?」、とアリシア。

 

 灯里はエヘヘ、と脱力したように笑うと、「確かに、そうかも知れないですね」、と答えた。「生まれて初めて、サーフィンにチャレンジしたんですから」

 

「波乗りは上手に出来た?」

 

 灯里は首を振った。

 

「最初は全然出来なかったです。波の勢いが強くて、ボードの上でバランス取るのが難しくて。でも、アサトさんがトレーニングしてくれたお陰で、何とか小さい波には乗れるようになりました」

 

 浴槽の縁に両腕を置いて二人は、夜食の時間出来なかった分を取り戻すように、じっくり色々と話し合った。

 灯里はサーフィンのことを一通り話した後、アサトが昔航海士であったことや、その時期にサメに襲われるという事故に遭ってしまったことを教えた。

 アリシアは、その事故のせいで彼が義肢になったことを知りショックを受けた。

 

「そんな事故に遭ったのなら、海が怖くなるのも無理はないわね」

 

「だけどアサトさん、すごいんですよ」、と灯里。「サーフィンすることで海への怖さと戦ってるんです。もしわたしが同じ事故に遭ってたら、絶対に二度と海へは近付けなくなるんじゃないかなぁ……」

 

 灯里の顔は、若干赤らんでいた。かれこれ三十分近くは、お湯に使っていたのだった。

 彼女は目をつむって腕に首を乗せると、「少し、眠くなってきました」、と呟いた。

 

 アリシアは桃色のその顔を見ると微笑し、「上がりましょうか」、と言って、立ち上がった。「あんまり長湯しすぎると、湯あたりしちゃうからね」

 

 そして二人は浴室を出、身体の水気をタオルで拭うと寝る準備に取り掛かった。

 

「今夜はこの島での最後の夜ね」、とアリシアは言った。寝巻きに着替えた彼女は、日中とは違いメガネをかけている。

 

「そういえば、そうですね」、と、同じく寝間着姿に変わっている灯里は答えた。

 

「少し、デッキに涼みに出ましょうか? 今夜は昨日ほど蒸し暑くはないみたいよ」

 

 灯里は頷くと、アリシアに先へ行っていて欲しいと頼まれたので、部屋の端の大きなガラス戸を開け、デッキへと出た。

 

 明るい室内の外の暗がりで、灯里は満天の星の輝きに見とれた。

 

 遅れて来たアリシアは、お盆を持っていて、その上には、瓶とグラスとランタンが乗っている。瓶は二本あり、片方は果物のカクテルで、もう片方はジュースだった。

 彼女はそれをテーブルに置くと、灯里と向かい合って座った。

 

「はい、灯里ちゃん」、とアリシアは、ジュースの入ったグラスを彼女に差し出した。アリシアはカクテルの入ったグラスを手に取った。

 二人は笑顔でグラスをかち合わせると、それぞれ自分の喉を潤した。酸っぱさと甘さの混じったジュースの味は、灯里に爽快感を与え、アルコールを含むカクテルは、アリシアの気分をほんの少しだけ高揚させ、しょっちゅう微笑するようにさせた。

 そしてアリシアは二口目のカクテルを少量、上品そうにグラスを傾けて飲んだ。彼女はたびたび飲んだが、灯里は最初の一杯だけ飲んでしまうと、それ以上は飲まず、乾いたグラスを持ってただ夜空を眺めた。

 

 灯里はふと、アリシアが自分と離れ離れになった後海辺で何をして過ごしていたのか気になり、尋ねた。彼女は特になにもせず、一人浜辺でゆったりと過ごしていたことを教えた。

 その後彼女らは雑談を始めたのだが、今ひとつ気分が盛り上がらず、よく沈黙した。灯里は微熱でもあるかのようにぼんやりとしていた。

 

「やっぱり眠たいのね。灯里ちゃん」、とアリシアは微笑して言った。

 

 灯里は困ったように笑い、「サーフィン、頑張りすぎちゃったみたいです」

 

「そう。なら今日は先に寝た方がいいわ。眠たいのに無理に起きているのは、身体に毒よ」

 

 アリシアにそう言われても、灯里は「大丈夫です」、と強がって笑顔を作り、遠慮した。「アリシアさんとまだ、こうして涼んでいたいです」

 

 ところがその表情は陰っており、彼女の苦悩が微かに現れていた。

 

 アリシアは首を振り、「無理しなくていいのよ」、と言った。すると灯里は湿っぽい表情で、「すいません」、と頭を下げた。

 

 灯里はアリシアに付き添われて部屋に戻り、歯磨きを済ますと、ベッドに入った。

 彼女は、デッキに再び行って不在のアリシアのベッドを見つめながら、ボートが浜辺に着く直前の、アサトのプロポーズを受けるシーンを思い返していた。

 彼は灯里に、自分と付き合ってくれるかどうか明日までに考えて欲しいと願った。その願いに灯里は、意識がごっそり奪われていた。もしプロポーズがなければ、彼女は今アリシアと一緒に輝かしい星空や海辺で共に過ごした時間の感想を、美味しいドリンク片手に楽しく述べ合っているはずだった。

 空っぽのベッドを見つめる彼女の気持ちは、憂鬱だった。

 

 アサトのことを、灯里は確かに好きと思っていた。しかしそれは、一人の人間として好んでいるという意味であって、ハグやキスをする相手として好んでいるという意味ではない。痛ましい過去の記憶を持ちつつも前向きに暮しているアサトの姿勢に敬意を持ってはいるが、それは潜在的な好意ではなく、入念に吟味してみても、果然単なる敬意でしかなかった。それは相手を近しくする気持ちではなく、むしろ遠ざける気持ちだった。

 

「断ろう、かな……」

 

 プロポーズに対し、灯里はそう決意しかけた。だが、踏ん切りが中々付かなかった。彼の哀愁を含む表情を、断ることでまた見なければならないのかと思うと、切ない気分になった。

 断るという選択を進んで出来ず葛藤を起こした灯里は、懊悩した。無理難題な要求をふっかけたアサトも、また優柔不断な自分も嫌悪せず、眉を顰めてひたすら悩んだ。答えを出したいけれど上手く出せない苦しみを、味わい尽くした。

 彼女はベッドの上で何度も寝返りを打ち、悶々と自問自答したが、やがてリラックスしたように、静穏になった。慈しむように眠気が、彼女の悩みを頭から抜き去って、落ち着かせてやったのだった。葛藤の解決はひとまず保留となった。

 灯里の眉間のしわは消え、閉じた目蓋は彼女の表情を安らかにした。

 その様子を部屋に戻ってきて見たアリシアは、感慨深そうに微笑むと照明を消し、またデッキへと行った。

 夜はすでに、森のかがり火が消えるほどに深まっていた。

 

 ――アリシアはほろ酔いの状態で、デッキの柵に片肘を突いて星空を見上げ、物思いに耽っていた。

 灯里について、彼女が恐らくアサトからプロポーズを受けたであろうことを想像し、その複雑な心情を思いやった。

 アリシアは、ある程度の事情を見通していたのだった。アサトと別れる時、ろくに挨拶も出来ず放心状態だった灯里の様子は、彼女が彼に対し気まずい感情を抱いているということを、アリシアにほのめかしていた。

 アリシアは微笑し、ベッドで寝ている灯里に思いを馳せ、「明日は大変ね」、と呟いた。

 そして満天の星の内、ひときわ眩しく光る一等星を眺めて目に涙を溜めた。それは感情が高ぶったせいではなく、アルコールのせいだった。

 流れない涙は視界をぼやけさせ、彼女にあるビジョンを見せた。

 それは、灯里が自分に代わってARIAカンパニーを切り盛りしている光景だった。

 プリマになった灯里は、誰からも人気があって、毎日千客万来でてんてこ舞いしている。仕事をこなすかたわら、女の子から憧れの綴られた手紙を送られたり、照れ臭そうにする男の子から冗談半分に愛を告白されたり、青年――アサトのような――から、真剣なプロポーズを受けたりしている。

 しかしアリシアは、それらの好意の表現に対し、灯里が実際どのように応じるのか、皆目見当が付かなかった。それはまったく未知の、未来のことで、アリシアは、灯里が器用に言い逃れられる賢い(・・)ウンディーネに成長するのか、それとも心労を厭わず、一々真摯に答える心配りの細やかなウンディーネに成長するのか、まるで分からなかった。

 だが、彼女がどう成長するのかという疑問へのヒントは、明日得られそうだった。

 アリシアは、灯里とアサトの関係がどのような成り行きを辿るのか、期待した。

 ただのバカンスだと思っていた島での短い期間が、まさか灯里にとって精神的に成長出来る機会になろうとは、彼女は微塵も予想していなかった。

 

 グラスに残ったカクテルを全て飲み干してしまうと、アリシアはろうそくの火を吹き消す時のように息を吐き、「さて、わたしもそろそろ寝ようかしらね」、と呟いた。彼女の目は、眠気で重くなった目蓋のせいで細まっていた。

 アリシアは空になった瓶とグラスとランタンを部屋に持って帰り、片付けた。その後寝る準備に取り掛かり、すやすやと安眠している灯里の顔に癒しを見出すと、自分も安らかな眠りに入るのであった。

 

 

 翌日、灯里とアリシアは朝食を取ってすぐ帰れるよう荷物をまとめた後、海水浴に行くため水着に着替えた。

 アリシアは、入念に鏡をチェックして髪型を調整している灯里の表情を見て、微笑を誘われた。彼女の頭の中には、やはり例の異性の姿がくっきりとあるらしい。

 

 やがてそのチェックが終わると、アリシアは、「さぁ、最後の海水浴よ。楽しみましょう、灯里ちゃん」、と意気込んだ。彼女は「はひ」、と答え、二人は外に出た。

 

 今日は昨日と同じくらい快晴で、また暑かった。焼け付くような日差しを浴びてジャングルの木の葉は輝き、辺りにはむせ返るような草いきれが漂っている。

 

 やがて二人が浜辺に着くと、鮮やかな海では昨日と同じくアサトが波乗りに興じていた。沖で、本当に海を怖がっているとは思えないほど、生き生きと彼は波を乗りこなしていた。

 

「アサトさん、今日も絶好調ね」、とアリシア。

 

「はひ。やっぱり凄く上手です」と灯里。

 

 アサトは一つの大きな波を乗り終えると、彼女らの姿を目にし、勢いよく向かってきた。

 灯里は近付いてくる彼の姿を見ながら、心臓の鼓動を早めた。一体彼に挨拶した後、何を話せばいいのかと困惑した。単刀直入に昨日要求された答えを求められても、彼女には未だ自分で納得の出来るものは思い付いていなかった。

 

 アリシアは隣の灯里の不安げな表情を見ると、彼女の肩に手を添え、「灯里ちゃん」、と笑顔で呼びかけた。彼女はアリシアの方を向いた。「今日もまた、アサトさんとサーフィンを頑張ってきなさいな」

 

「でも、アリシアさんは?」

 

「わたしは昨日と同じで、ゆったり過ごすだけよ。だから、一緒にいても退屈と思うわ」

 

 アリシアがそう言った後、二人はそばまで来たアサトと挨拶を交わした。

 そして彼は灯里に顔を向けた。

 彼女は何を言われるのか不安だったが、アサトは屈託のない笑顔で、「今日もサーフィンしましょう。昨日よりいい波が来てますよ」、と誘うだけであった。

 アサトは彼女の腕を掴むと、また昨日と同じく、微笑するアリシアに見送られて、浜辺へと移動した。

 

 

 灯里は、いい波というのがどんな波か分からず、アサトにその説明を求めた。すると彼は、指を水平線に向けた。海では、昨日見たものより高い波が盛んに立っている。いい波というのはすなわち、彼が乗りがいを感じられるくらい大きい波のことだった。

 灯里は例のことについて一体いつ詰め寄られるのかとビクビクしていたが、アサトは彼女のためにボードを持ってきた後、準備体操を始めた。灯里は怪訝に感じ緊張しつつも、四肢をほぐした。

 そして体操が終わった後、彼は、「サーフィンのノウハウは、昨日やったので覚えてますよね」、と言って海に入り、ボードに乗って沖まで泳いでいった。

 予想と違う彼の振る舞いに、灯里は拍子抜けしてしまったが、少なくとも今は不安がる必要のないことを知ると、波の小さいところで昨日の成功の感覚を取り戻すべく、アサトに続きボードに乗って泳いでいった。

 

 そして二人はただ、サーフィンばかりして時間を過ごした。

 波乗りを夢中になって楽しんでいる灯里は、小さい波ばかりでは飽き足らず、より大きい波にも乗って、すっかり満ち足りた気分になった。

 夕方近い頃になると、灯里はアサトと共に浜辺に上がり、今日で見納めとなる景色を味わった。

 

 アサトが一向にプロポーズについて何も言わないので、灯里は彼が恐らく失念してしまったのだろうと楽観的に考えた。

 ところが、アサトの言った一言で彼女はハッとし、昨日に戻った気がした。

 彼は真顔で、「夕べ言ったことなんですが」、と切り出したのだった。「今日また会った時にすぐに聞こうかな、と思っていたんですけどね、灯里さん、何だか表情が暗くて具合が悪そうに見えたんで、ずっと遠慮してました。でも、今のお元気そうな灯里さんになら、はばかりなく聞けそうです」

 

 昨日のプロポーズに対する答えを、彼は求めた。

 灯里は当惑した。言うべき答えを用意しておらず焦り、サーフィンにかまけて思案を怠っていた自分は、なんてずぼらなのだろうと思い蔑んだ。

 

「考えるのが難しい話だったと思います」、とアサト。「もしかしたら一晩というのは、熟考するのに十分な時間じゃなかったかも知れませんね」

 

 灯里は観念し、「すいません」、と謝った。「昨日の夜、寝るまでちゃんと考えたんですけど、まだ、答えが出ないんです。わたしは、アサトさんと付き合うかどうか、決めなきゃ行けないんですよね?」

 

 彼は頷いた。

 

「もし、わたしが付き合うと答えたら、それでアサトさんはどうするんですか?」

 

「どうする、とは?」

 

「わたしとアサトさんは、住んでるところが違います。わたしはネオ・ヴェネツィアに住んでいて、アサトさんはこの島に住んでいます。仮に恋人同士になったとして、わたしたちはどうやって一緒に過ごすんですか?」

 

「僕は宿泊所の管理人を辞めて、ネオ・ヴェネツィアに移ります」

 

 本気でそう考えているらしいアサトの言葉に、灯里は気迫を感じ、呆然とした。

 

「ネオ・ヴェネツィアに行って、また船乗りをやり直すんです。灯里さんのしているウンディーネに、男はなれないんですよね? だけど、その他の船乗りはなることが許されているはずです。僕はまたオールか棒を握って、自分が乗っていたのとは違う舟の乗り方、操り方を勉強するのです。過去のトラウマを克服してね。その時は灯里さん、ぜひ手ほどきをしてください」

 

 灯里は震えかけの声で「そんなの、無理です」、と言った。「わたしはまだ見習いの身なんです。だから、舟の漕ぎ方を教えるなんてこと、恐れ多くてとても出来ません」

 

「それでも僕は、構いません」

 

 灯里は迷子になった子どものように困惑し、顔を歪め、「そもそもどうしてアサトさんは」、と言った。「わたしなんかに付き合ってくれるかどうか聞いたんですか?」

 

 灯里の言葉を受けて、アサトは恥を恐れず、それは彼女が好きだからだと言った。

 ストレートな告白を受けて、灯里は嬉しさを感じる反面、その大胆さを恐いと思った。

 

「すいません」、とアサト。「昨日から始末の悪い気持ちに苛まれてるんです。昨夜、僕はベッドに入っても中々寝付けませんでした。灯里さんにどう答えられるのか不安で堪らなくてね。何度も寝返りを打ちましたし、目をつむってもすぐ勝手に開きました」

 

 灯里は、寝られなかったのは自分も同じだと思った。

 

「最初は、そんな気持ちはなかったんです。初めてお会いした時は、並一通りの好印象以上のものはなかったんです。だけど昨日の夕方、海でボートを漕ぐ姿を間近に見て僕は、自分自身の姿をダブらせて、自分もこんな風に漕げたらいいな、と思ってしまったんです。つまり、あなたに憧れたということなんですよ、灯里さん」

 

 そう言われた灯里は、いよいようろたえて、どうしてアサトはここまではっきりと自分の気持ちを主張出来るのか疑問に思った。ぐずぐず悩んでいる自分とは大違いだと感心しもした。

 アサトは付き合ってくれるかどうかと、イエスかノーで答えられる形で彼女に問いかけたが、灯里は、彼がイエスの答えをせがんでいることを察していた。だからこそ、ノーと答えてその気持ちを裏切りたがっている自分も、大胆なアサトと同じで怖いと思った。

 拒否することによって彼の期待や望みが無残に打ち砕かれることは必至だ。

 灯里は拒否の断行が果たしてアサトにどれほどの失望をもたらすのか考え、彼の落胆する姿を予見すると、安易にノーと答えるわけには行かなかった。

 が、アサトは灯里の返事をこれ以上先延ばしにしてやるつもりはないらしかった。

 不意に、灯里はアサトに両肩を掴まれてビクッとした。彼のぎらついた双眸が間近く、生身の肌に触れる義肢が冷たかった。灯里はバツが悪くて、思わず目線を落とした。

 

「答えて欲しいです」、と、アサトは言った。

 

 耐え難い緊張感の中で灯里は、こういう場合、アリシアならどうするだろうかと考えてみた。プリマ・ウンディーネであり三大妖精の一人として称される彼女は、人気があり、よく異性に言い寄られる。その場面を灯里は、時々垣間見ていたが、アリシアは、ことごとく断っていた。相手の口説き文句を曖昧な言葉でかわして、突き付けられた好意を器用にいなしていた。

 

 灯里は、彼女を真似てアサトのプロポーズを回避しようかと思い付いたが、到底そんなことは自分には出来ないとすぐに直感した。自分はあんなに器用じゃなく、不用意に真似すると状況を悪化させかねないと危惧した。

 

 灯里が辛うじて出来るのは、消極的な態度を見せることだけであった。

「やめてください」、と彼女は俯いて言った。「わたしは、アサトさんに好かれるような人じゃないです。こんなに後ろめたい思いに、苛まれてるんですから……」

 

 アサトは否定し、「灯里さんは立派な人です」、と称えた。だが灯里は、首を振って否定し返し、苦笑した。「もし立派だったら、今ちゃんと、アサトさんの気持ちに答えられているはずですよ」

 

 二人がじりじりと駆け引きしている途中、ふと轟然たる波の音が水平線より響いてきた。

 アサトは灯里を見つめていた目を海の方に向けると、遠くにかなり大きな――(いち)メートル半はある波が、緩やかに浜辺に向かって押し寄せている光景を目にした。

 

「分かりました」、とアサトは灯里の肩から手を外して、何かを決心したらしい様子で言った。

 

 青い空は、黄色っぽく変わりつつある。灯里とアリシアが島を去る時間が近付いていた。

 

「灯里さん、もし僕があの波を乗りこなせたら」、と彼は言った。「僕の気持ちに、『はい』、と答えてください」

 

 そして彼は灯里の返事を待たず、ボードと共に沖へ颯爽と向かっていった。彼女は茫然として、アサトがボードの上に腹這いになって泳いでいく姿を眺めていた。

 その時、彼女を呼ぶ声がした。アリシアの声だった。アリシアは灯里を迎えに来たのだった。

 

「あら、アサトさんは?」、と彼女は尋ねた。

 

 灯里は「向こうです」、と、すでに波の近くまで行っているアサトを指差して、彼が人の身長に近い特大の波を乗りこなそうとしていることを教えた。

 

 二人は並び立って、アサトが難度の高い波乗りに挑む姿を眺めた。灯里は、彼が成功することも失敗することも望まず、開いた目を虚心に水平線の方に向けていた。

 

 ――アサトは、波乗りに成功する自信があった。大波をきっと乗りこなして、プロポーズに対する灯里の肯定を得られるだろうという希望を持っていた。

 ところが彼は、波の間近に迫ると、海が急に手ごわくなったような感覚がして、怯みかけた。身体にかかる水が重たくて、飛び散るしぶきがいやに冷たかった。また、吹く風はなぜか目をよくしょぼしょぼとさせた。

 しかしアサトは、自分が恋を賭けて今から波乗り臨むことを再認すると、勇を鼓した。するとその脳裏に、灯里の微笑する表情や、凶暴で恐ろしいサメの口、昔の同僚の懐かしい姿が立て続けによぎった。彼はそのビジョンを雑念と思って意気込みで掻き消すと、ボードに乗り、波との勝負を始めた。

 無心で挑めば大丈夫だ、行ける、と彼は思っていた。

 がしかし、アサトは敢えなく転倒してしまった。その波は、彼が経験したことがないほど強勢で、たとえ何度も波乗りしている身であっても、簡単に乗りこなせるものではなかった。大波は、彼の張り切った気持ちと淡い希望をさらっていってしまった。

 

 海の冷たい深みまで沈みながら、アサトは、大事な勝負に負けた不格好さに失笑を禁じ得なかった。

 彼はどんな顔で浜辺に戻り、灯里に対すればいいのか分からなかった。失敗したと言ってはにかめばいいのか、シュンとすればいいのか。彼は、いっそこのまま海の底まで行ってしまえればいいのに、と儚く願った。

 がとにかく、自分の求めていた恋の成就は諦めねばならなくなったのだ。それは必定だった。

 

 手ぶらで浜辺に戻ったアサトは、灯里とアリシアに「大丈夫ですか?」、と言われて、迎えられた。彼はずっと低く俯いていて、二人がどんな表情をしているのか見えなかった。無様な自分は嘲笑されていても仕方ないと思った。

 だがアサトの目の前に、ある大きな物が差し出された。それは、波乗りに失敗した時に流された、彼のサーフボードだった。

 

 アサトは顔を上げると、「惜しかったですね」と、笑顔の灯里に励まされた。彼はボードを受け取ってはにかみ、「失敗した姿を二度も見られて、本当に恥ずかしいです」、と答えた。

 

「行けるかな、と思ったんですけどね」、とアリシア。

 

 アサトは「また今度、リベンジしようと思います」、と言うと、暮れかけの空を見上げた。「そろそろログ・ハウスへ戻りましょう。夕方が近くなってきましたよ」

 

 アサトがそう言うと、灯里とアリシアは頷いて、浜辺を離れた。

 

 道中、灯里とアサトの心中には相手への複雑な思いが残っていたが、それに関してはどちらも口に出すことはなかった。

 二人はアリシアを交えて他愛のない話をし、別れる前の最後の一時を楽しんだ。

 

 

 ログ・ハウスに戻った後、灯里とアリシアは、軽くシャワーを浴びて、汚れを洗い流した。そして着替えを済ますと、出かける前にまとめておいた荷物を持って宿泊所を後にし、帰りのボート乗り場へと向かった。

 

 ジャングルを出、互いに思い出話に興じながら岸部の船着場に近付くと、二人はアサトの姿を見かけた。

 その途端、会話は止み、灯里の表情が曇った。

 

 アサトは彼女らに挨拶すると、「島での二日間はどうでした?」、と問うた。

 

 アリシアは、「とてもリラックス出来ました」、と答えた。

 

「そうですか」、とアサトは満面の笑顔になった。「宿泊所の管理人として嬉しく思います。灯里さんはどうでした?」

 

 間が悪そうに佇んでいた彼女は、何か言おうとしたが、その前に口を閉じてしまった。彼女の内面には、アサトへの複雑な思いが依然として渦巻いており、容易に感想を述べることが出来なかったのである。

 がしばらくして、吹っ切れたように微笑し、「たった二日なのに」、と言った。「その期間が何だか、すごく長かったような気がします。多分それは、わたしが色んな新しい出来事を経験したせいなんじゃないかなぁ、と思います。たくさんの内容が詰まった、素敵な二日間でした」

 

 そしてアサトと目を合わせると、一緒に過ごした時の思い出を確認するように、互いに微笑み合った。

 

 空が赤く染まっていた。帰りのボートの出発する時刻が、間近く迫っていた。

 

 二人は別れの挨拶をし、アサトは、「また来てくださいね!」、と言って彼女らを見送った。

 

 ボートは灯里とアリシアを乗せると、モーターの音を鳴らしだして、船着場と島を離れた。

 ボートより見える島の姿はどんどん小さくなり、やがて辺りに見えるのは、夕闇で黒っぽくなっている海の広がりだけになった。

 

「二人とも、少し表情が少しおかしかったわね」、とアリシアは、灯里とアサトについて言った。彼女は灯里と並んで、島へ向かう時と同じように景色を眺めている。「笑顔だったけど、どこかかたい感じがあって、まるでお見合いみたいだったわよ」

 

 アリシアに事情を察されて、灯里は困ったように笑うと、アサトにプロポーズされたことや、最後のサーフィンで大波に乗ることが出来れば、恋人として彼と付き合う予定だったことなどを洗いざらい話した。

 アリシアは、どの話に対しても平静な様子で耳を傾けた。

 

「もし、アサトさんがあの大きな波に乗りこなせたら」、とアリシアは言った。「灯里ちゃん本当に、彼とお付き合いするつもりだったの?」

 

 灯里は緩やかに首を振り、それは分からないと言った。が、彼女は、もしアサトが波乗りに成功していたら、その勢いに負けて付き合うことになっていたかも知れないと思った。

 

「本心では、お断りするつもりでした」、と灯里は言った。「その決心は、昨日寝る時には付いていたような気がします。お断りするとは言っても、わたしはアサトさんのことを嫌いなわけじゃありません。むしろ尊敬してますし、好きだと、多分思ってます。でも今のわたしは、どんなプロポーズも断らなきゃいけない立場にいるんですよね」

 

 彼女は反省するように苦笑し、自身が一人前のウンディーネを目指していることと、早く腕を上げるために毎日ゴンドラ漕ぎの練習に精を出していることを思い出した。

 日々の時間を、その目標に近付ける以外のために犠牲にすることは、少なくとも今の彼女には出来そうになかった。

 

 アリシアは目を細め、「プロポーズであれ何であれ、断るというのは大変なことね」、と言った。「それは、相手の気持ちを裏切ることになるから」

 

 灯里は「難しいことですよね」、と同感して言った。「自分も相手も納得出来る答え方が、思い付けばよかったんですけどね。わたしはぐずぐず悩むばっかりで、アサトさんの気持ちにちゃんと答えて上げることが出来ませんでした」

 

 灯里がそう言うことでアリシアはようやく、彼女の悩みの理由を十分に飲み込めた気がした。

 

「大丈夫よ」、とアリシアは、灯里を横目で見ながら言った。「確かにアサトさんは気持ちを成就させられなかったけど、何も悔やんでなんかいないと思うわ。それは、灯里ちゃんが真剣に悩んだお陰よ。その心労を、彼はちゃんと理解してくれているはず」

 

 灯里は「そうだったら嬉しいんですけど」、と言って苦笑した。

 

「自信を持ちなさいね」

 

 そう言ってアリシアは、灯里の肩に手をポンと置いた。彼女が一晩中悩んでいたことを知っているアリシアは、その心労に貴い意味があるということを伝え、励ましたかった。

 その思いは通じたらしく、灯里は、アサトのプロポーズをすぐに断ろうとしなくてよかったと安堵した。そして、悩んでいた時間を、それがたとえ苦渋にまみれた時間であっても、満ち足りた気分で、いささか快く思い返せるようになった。

 

「さぁ、明日からはまたお仕事ね」、とアリシアはにっこりとして言った。「このバカンスで休んだ分、精一杯働きましょう」

 

 灯里は、「はひ!」、と元気に答えた。

 

 大きな夕陽が、水平線の上に乗っていた。

 

 小島を発ったボートは、航跡の白い泡を途切れ途切れに描きながら、ネオ・ヴェネツィアに戻るべく、海上を走っていった。

 

 

 

(完)


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