そこは若い成年が管理していた。名はアサト。サーファーだった。彼は過去の事故で生身の片腕をなくしていた。
灯里とアサトはバカンスの間、共にサーフィンと船乗りをするのだが、互いに接する中でアサトは灯里に恋心を募らせた。
高まった恋心をある夕に告白された灯里は、それにどう返答するかで苦悩することになるのだった。
(文字数:約11000)
【2】ある波乗りと(前編)
**
つばの長い山高の帽子は、少女の顔を影で覆っていた。
少女は二人。
一人は柔らかな表情に子どものようなあどけなさが残っていて、もう一人は二十に満たない年齢なのに、その微笑はすでに成熟した大人の色気と風格を帯びている。
姉妹のように年が近いのに、互いに雰囲気の対照的な彼女らは、灯里とアリシアだった。
二人はボートの屋上で海の景色を眺めている。
「見えてきましたよ」、と灯里は、正面に佇む小さな島を指差し言った。「あれですよね? わたしたちがバカンスで過ごす島は」
「えぇ、もうすぐ着くわね」、とアリシアは答えた。
ウンディーネとして働いている灯里とアリシアは、束の間の夏休みを取ってネオ・ヴェネツィアを離れてとある島へと向かっていた。
彼女らの務めるARIAカンパニーは、現在CLOSEDと記された札が表にかけられている。
モーターの音を轟かせながら盛んにしぶきを上げるボートは、紺碧の海上を高い速度で突っ切っていった。
◇
昼下がりの時分、灯里とアリシアが着いたのは人家の少ないのどかな雰囲気の島だった。
二人は荷物を持ってボートと船着き場を降り、岸に立った。
砂浜の先には、ジャングルがよく手入れされた状態で鬱蒼と広がっており、その中には人工の平たい道路が敷かれていて、奥に向かって伸びている。
彼女らはその道路を歩いていき、宿泊施設のログ・ハウスが散点している広場に出た。
そしてチェック・インするため、アサトという若い管理人のいるログ・ハウスに行った。それは広場の一角にある小さな一棟であった。
木の香りの漂う室内は涼しく、あちこちに葉の大きな観葉植物が置かれており、ウッディーな空間を生き生きと彩っている。
アサトは、テーブルに向かって事務仕事をしていた。
彼は灯里とアリシアの入ってくるのに気付くと、ペンを置いて彼女らの方を向いた。
アリシアは挨拶して名乗った後、「今日から二日間お世話になります」、と言った。
「あぁ」、と彼は驚いたように発した。「予約してくださったネオ・ヴェネツィアの方ですね。お待ちしてました」
アサトは席から立ち上がり、愛想のいい表情で二人へ近付いて自己紹介すると、アリシアと少し世間話を始めた。
アサトはこの島の気候や生態などの特徴を、アリシアは自分たちがウンディーネという仕事をしていて、ネオ・ヴェネツィアの水先案内人であることを、それぞれ教え合った。
二人が話し込んでいる間、灯里は黙然として、ある疑問に考えを傾けていた。それはアサトの身体の一部に関することだった。
すなわち、彼は義肢――作り物の腕を装着しているのである。彼の片腕の肘から手にかけての範囲が、まるでロボットのようにメカニカルな見た目をしている。
灯里は、アサトがどうしてそのような腕をしているのだろうと、見るともなしに見つめながら考えていた。
義肢に関して彼は、まるでそれを生まれつき身に着けているかのように自然と振る舞った。
灯里は、アリシアが時々義肢を一瞥することに気付いていた。要するに、彼女も同じことが気になっているのである。
やがて会話は終わり、アサトとアリシアはチェック・インの手続きに移った。一枚の用紙に必要事項を記入するだけだったので、特に手間は取られなかった。
アサトとの会話と宿泊の手続きが済んだ後、灯里とアリシアは自分たちの寝泊りする一棟へ移動しだした。
管理人のログ・ハウスを出てすぐ、灯里は「アリシアさん」、と呼びかけた。「アサトさんって、怪我でもしたんでしょうか?」
「あの腕のことよね」、と彼女は答えた。「何が原因でああなったんでしょうね? 事故とか病気とか、幾つか考えられるけど、詳しいことは分からないわ」
アサトの義肢の由来が気がかりだったものの、二人はログ・ハウスに着いて主に丸太で出来たその外観に感嘆すると、ひとまず忘れ去った。
扉を開けて屋内に入った灯里は、木の優しい香りを嗅いでうっとりし、木製の家具と薄褐色の内装に目を楽しませた。アリシアはそんな彼女の無邪気な姿を見て微笑した。
二人はふかふかのベッドに横になって伸びをし、しばらくの間船旅
の疲れを癒すと、その後は宿泊所近辺のジャングルを散策して夕方の時間を過ごした。
ジャングルの中は管理が行き届いているためか、大人しく可愛らしい小動物が時々見かけられ、鳥のさえずりが響く平和で快適な環境だった。
彼女らが夜食に何を食べようか相談しながらログ・ハウスに戻った頃、日は沈んで、蒸し暑い熱帯夜が訪れた。宿泊所の界隈に電灯はないが、かがり火があちこちで焚かれているので不便でない程度に明るい。
灯里とアリシアは近くの売店で新鮮な海産物を含む食材を買ってくると、キッチンで協力して調理し、夜食を取った。その後はデッキに出てプラネタリウムで見るような満天の星に見入り、風呂に入った。木造の浴槽に張られたお湯の中で、彼女らは極楽の気分を味わった。
そして身も心もさっぱりとした二人は、寝巻きを着てベッドに入り、その日を穏やかに終えたのだった。
◇
翌日、晴れ晴れとした夏の炎暑の日和、灯里とアリシアは島のビーチにいた。
灯里はビキニタイプの空色の水着を、アリシアは同種の白い水着を着ている。
彼女らは海水浴を楽しむためにやってきたのだった。
海は爽快な様相である。水色の宝石を溶かしたように澄んだ海水は、盛んに波を起こし、繰り返し砂浜に白い泡をたくさん運んでおり、また水平線の彼方からは、温かい潮風が緩やかに吹いてきている。
灯里は手をひさしにして海を眺めると、「綺麗ですねぇ」、と言った。
「そうねぇ」、とアリシア。
ふと二人は、沖の方に一人の人間がいることに気付いた。
目を凝らして見てみると、驚いたようにアッと発した。その人間は、管理人のアサトだったのである。
海パン一丁の彼は、ボードに乗ってサーフィンしている途中で、続々と立つ大波小波のすぐ前を横切るようにして、身体のバランスを器用に保ちながら滑っている。
灯里は「アサトさん、上手に乗ってるますねぇ」、と感心し、アリシアは「きっと得意なんでしょうね」、と言った。
二人はアサトの颯爽たる姿にしばらくの間目を奪われていた。巧みに波乗りしている彼は、幾らか危なっかしい感じがあるものの、真剣でありまた楽しげで、その姿は見ていると自然と自分も楽しくなれるような生き生きとしたものだった。
――小山のように盛り上がった波のすぐ前でアサトは今、自然の躍動感に快く浸っていた。
波乗りは彼の日課と言うべきことだった。彼はしょっちゅう使い慣れたサーフボードを持って海へ行く。そしてボードに腹這いで乗って沖まで泳いで、波のドライブに乗って速く滑る感覚に満足して帰るのだ。荒天で断念さぜるを得ない日などには必ずストレスを感じるほど、彼はサーフィンに入れ込んでいた。
灯里とアリシアに見守られつつ、アサトが一つの波を乗り終えてボードを降りた後、かなり大きい波――
彼は徐々に近付いてくるその波をキッと睨み付けると、手ごわそうなその波にサーフィンを挑もうとその直前に泳ぎ出、ボードの上に立った。ところが彼は、強い勢いに押されてバランスを崩して倒れ、水中に没してしまった。
その経過を見た二人はアッと声を上げた。
「失敗しちゃいましたね、アサトさん」
「心配ね。無事なのかしら?」
不意に灯里は、浜辺まで来る大波の表面近くに平らなものが浮かんでいることに気付いた。よく見てみると、それがアサトのサーフボードだと分かった。滑り出した時の慣性で浜辺まで来てしまったのだった。
しばらくして大波は、一際多い泡を砂浜の上に広げると、中のボードを吐き出すように打ち上げた。
灯里はその近くに向かい拾い上げると、アサトが取りに来るのを待った。
水中に落ちていた彼は、やがて水面上に頭を出し、水気を振り払って目を開くと、ボードを持っている彼女のもとへ泳いで向かった。
「大丈夫ですか?」、とアサトにボードを返した灯里は、ビショ濡れの彼に尋ねた。彼は大丈夫だと答えると、「恥ずかしいです」、と言った。「波乗りに失敗して転けるところを見られるなんて」
「格好良かったですよ」、とアリシアはそのテクニックを賞賛した。「しばらく見てましたけど、アサトさん、波乗りがすごくお上手なんですね」
アサトは「そんな、上手なんかじゃないです」、と苦笑すると義肢を見せ、「結構苦労するんですよ。この腕で、波の上でバランスを取るのは」、と言った。
肉体でない作り物の腕だと、どうしても風の感覚が伝わりにくいようだった。
彼の哀愁を含む表情を見て灯里とアリシアは、やはり義肢には不便があるのだな、と合点が行った。
「波は手強いですよ」、とアサト。「でも、段々乗り慣れてくれば、これがスリリングですこぶる楽しいんです」
そして彼はニコリと笑み、灯里に向かって「一度挑戦してみませんか?」、とサーフィンに誘った。
彼女は「エェー!」、と驚きの声を上げた。「わたしがするんですか!」
アリシアは微笑し、「あらあら、灯里ちゃんはチャレンジャーね」、とからかうように言った。
灯里は何度も首を振って遠慮したが、アサトは一切構わず、「向こうへ行きましょう」、と言って、彼女の腕を掴んで引いていき始めた。「向こうでは波が穏やかで、初心者の練習には打って付けですから」
しばらく押し問答が続いたが、やがて灯里は同行せざるを得ないことを観念し、アサトの導きに従った。
アリシアは優雅な微笑みを浮かべて手を振り、二人を見送った。
◇
波打ち際に沿ってしばらく歩いていった別の浜辺に、灯里がポツンと佇んでいた。アサトは彼女のためにボードを取りに行っており不在だ。
その浜辺は彼の言った通り、波が比較的小さくサーフィンをしやすいようだった。
とは言っても、半ば強引に引き連れてこられた灯里は上手く出来る自信がなく、憂鬱そうにハァ、とため息を吐いた。元来余り身体を動かす習慣のない彼女は、サーフィンはもとより他のどんなスポーツとも無縁だった。
「不安そうな表情ですね」、と言う声がした。アサトがボードを持って戻ってきたのだった。「大丈夫ですよ。ちゃんと手ほどきしますから」
灯里は苦笑し、「わたし、運動は苦手かも知れません」、と答えた。
「それでも大丈夫です」、とアサト。「サーフィンって、駆けっこや球技と違って純粋な運動じゃないと思うんですよね。波の上でバランスを取るだけですし」
アサトはそう言うと、両端が尖っている紡錘形の長いボードを灯里に渡した。
彼女は、「でも」、と頼りない感じで言った。「わたし、経験が全然ないんです」
アサトは首を振って、「サーフィンしている人間を見ただけでも、十分な経験ですよ」
彼の言ったサーフィンしている人間というのは、自分のことだった。
アサトだけでなく灯里もサーフボードを持つと、次は準備体操に取り掛かった。二人とも、海で筋肉が引きつったりしないよう、四肢をよくよく伸ばした。
黙々と体操している途中、「この
体操とイメージトレーニングが終わった後、二人はそれぞれ自分のボードをわきに抱え、海へと入っていった。そして沖の手前のまだ浅いところまで歩いていくと、サーフィンを始めた。
灯里にとって波乗りは、やはり困難なことだった。初めてで不慣れな灯里は、何度もしくじり、相当な数の失敗を重ねた。しょっぱい水をたくさん飲んだり、身体を水面に激しく打ち付けて痛めたりした。彼女はそのたびに必ずバツが悪そうに苦笑したが、アサトにアドバイスを受けてコツを学んでいく内に、表情が真剣に変わり、失敗しても苦笑しなくなった。次第にしくじりが少なくなって、無駄な動きが削がれていった。
そしてとうとう、何回かに一回の低い確率であるが、波乗りに成功出来るようになった。
「わぁ、凄いです!」、と灯里は声高に叫んだ。「わたし、波に乗ってます!」
彼女は泡立つ波頭のすぐ前を、うまく両手でバランスを取って滑りながら、至福の笑顔を見せた。
乗りこなせるのが低く弱い波ばかりであっても、灯里は心底喜び興奮した。そんな純粋な姿を見て、海にプカプカと浮かんでいるアサトは微笑ましく思った。
灯里が成功した場合、彼は「その調子です」、と応援し、失敗した場合には、「ドンマイ」、と励ました。
慣れてくると、アサトは時々灯里と並んで滑ったが、その時は彼女がよく転けた。彼は毎度滑り去っていった灯里のボードを取りに行き、彼女に返した。
灯里はある程度やり方を物にしたサーフィンに熱中し、満面の笑顔で興じた。その笑顔は眩しく、楽しさや嬉しさなどの感情が弾けていて、アサトはサーフィンに誘って正解だったと思うことが出来た。
その内、時は夕方になった。紺碧だった海は、夕闇に黒く染められた。波はしずまり、サーフィンの出来る時間は終わった。
浜辺に引き上げた後、灯里とアサトは二人並んで座り、休憩がてら水平線上の燃えるような夕焼けを眺めだした。
「サーフィンに挑戦してみた感じはどうですか?」、とアサト。
「とっても楽しかったです」、と灯里は笑顔で答えた。
それから二人はサーフィンについて話し合った。灯里はよりうまくなる方法を興味津々な様子で質問し、アサトはそれを詳しく教えてやった。
その途中、灯里はふとある物に目が行った。それは、浜辺近くの木立の中にある小さなボートだった。ボートは小屋から張り出した屋根の下に置かれている。
灯里は一旦サーフィンのことは忘れゴンドラを思い出すと同時に、何となく漕ぎたい気持ちがウズウズしだし、ボートが自由に使えるかどうかアサトに尋ねてみた。彼は肯定すると小屋に向かい、オールと共に一艘を波打ち際まで運んで、その上に浮かべた。
二人は少しだけ気晴らしに海を回ることにして、ボートに乗り込んだ。
灯里は船尾に立ち、上手に漕いで見せようと意気込んでオールを構えた。ウンディーネとしての自負がある彼女は、自分が得手とする操船術を披露し、サーフィンの指導者を感心させるつもりだった。
アサトが座席に腰を下ろすと灯里は、馴れた手付きでオールを操り、ボートを砂浜より離れた深みまで進めた。
夕べの海は静かに凪いでいた。のみならず真昼の暑さが和らいでもいるので、灯里は快適に、思い通りに舟を運んでいくことが出来た。
「やっぱりお上手ですね」、とアサトは灯里の操船術を称えた。
灯里は喜ばしげに微笑む一方で、「わたしなんてまだまだです」、と謙遜した。「こんなにスムーズにボートが進むのは、ここが広い海で、しかも波がないからです。ネオ・ヴェネツィアの狭い水路だとこうは行きません。対向してくる舟があったりしますしね」
そう言った後、灯里は一度ボートを漕いでみないかとアサトに誘いかけた。彼女の心中には、サーフィンを教えてもらったお礼に、操船術を教えて上げようという意図があった。灯里は未だ見習いの身であるが、初歩的な技術の手ほどきであれば何のことはなかった。
その誘いに、アサトは遠慮がちに頷いて、「じゃあ少しだけ」、と答えた。そして灯里と交代してオールを受け取ると、水に差して漕ぎ出した。彼の操船術はぎこちなく、やはりその道の者には遠く及ばないものの、どうにかボートは前向きに進んだ。
アサトはしばらくオールの捌き方を心得るために意識を集中し、無言になった。ボートの座席に腰を下ろしている灯里は、そんな姿を微笑んで見守り、折に触れてアドバイスの言葉をかけた。
「何だかこんな風にボートを漕いでいると、昔を思い出します」、と操船に慣れだしたアサトは言った。
灯里は首を捻り、ボートに関して何か思い出があるのかと彼に尋ねた。
「えぇ」、と彼は肯定した。「実は僕、
アサトの経歴を知った灯里は、意外に思って驚いた。
話によると、彼の昔乗っていた船は、ゴンドラや水上バスよりも大きく、またオールじゃなくエンジンで動く類のものだった。だがそれでも、小さなボートに乗って周りの波を見下ろしていると、かつての情景がまざまざと蘇ってくるようだった。
「真っ白なセイラー服を着て、船を操舵するだけじゃなく、甲板で見張り番をしたりしてたんですよ。もう辞めちゃったけど、同僚のみんな、今も元気でいるかなぁ」
アサトは当時の仲間の姿を思い返して言った。
灯里は、どうして彼が宿泊所の管理人になり、航海士の仕事に携わらなくなったのか、そのわけを尋ねた。
アサトは微笑し、「事故のせいです」、と答えた。そして彼は、オールを動かす腕を止めた。「うっかりデッキから、足を滑らしちゃったんです。その時は運悪く、体調が悪い上に海が荒れててね。船に乗り慣れていた僕でも酔いました」
そして彼は、波に揉まれながらで船上の仲間の助けを心待ちにしていたのだが、その間にサメに襲われ、腕を食いちぎられたことを教えた。仲間は急いで救出しようとしたが、惨事を防ぐことが叶わなかった。
漕がれなくなったボートは徐々に速度を落とし、やがて停止した。その上で灯里は、アサトの悔しさや悲しさを含んだ表情を見て気の毒に思うと同時に、自分が凶暴な魚に襲われる場面を想像してゾッとした。
彼はオールから義肢を離し灯里がよく見えるようにして、「それで、こんな腕になってしまったというわけです」、と自嘲気味に言って、その由来の話を締めくくった。
灯里は表情をこわばらせたまま何も言えず、沈黙する二人の間には居心地の悪い陰湿な雰囲気が漂いだした。
間もなくそれを察知したアサトは気まずそうに苦笑し、すぐにオールを再び動かして、ボートを進めだした。
「海というのは、ものすごく怖いものです」、とアサト。「そんなこと、自分では充分理解しているつもりでしたが、認識不足でしたね。事故で改めて思い知って、反省させられました。以降僕は、怖くて沖まで出ていくことが出来なくなりました。航海士を辞めて、長年連れ添った仲間に別れを告げなければいけませんでした」
慣れた仕事を辞めたアサトは、生活を一新して再出発するために、それまで暮らしていた島を単身で去った。
「おかしな話ですよね。以前は海が主な生活の場だった僕が、今はジャングルのような森の中に住んでるんですから」
アサトにそう言われても、灯里は依然として間が悪そうにしており、彼の問いかけに対しては辛うじて曖昧な言葉で答えられるばかりであった。
「多分、灯里さんは」、とアサト。「海が怖いと言う僕が、どうしてサーフィンで沖まで出るのか、不思議がってますよね?」
問われた灯里の心中には、確かに彼の矛盾への疑問があった。海で惨たらしい事故に遭い、海に対して大きな恐怖心の芽生えたアサトが、どうして毎日のように沖まで泳いでサーフィンをするのか、怪訝に思った。
「自分でもよく分からないんですけどね」、と彼は苦笑して言った。「その矛盾は、きっとコンプレックスのせいなんだろうなぁ、なんて考えてます。僕はつらい経験をしたけれど、やっぱり海に愛着を持っているというのか、固執してるんでしょうね。別の島に移住して、木々の中で生活しだしても、海から離れられないんですよ。それにサーフィンをしていると、不思議と恐怖心を忘れて、嫌な思い出を思い出さずに済むんです。波の上を速く滑ることが出来れば、仮にあのサメがまた現れたとしても、逃げ切れるんじゃないかって思って――馬鹿馬鹿しいですよね、そんなの」
アサトはみずから蔑んだが、灯里は「そんなこと、ないです」、と否定した。「怖いという感情と向き合って自分の弱さを見つめられるアサトさんは、強い人だと思います」
彼女は彼の過去を思って憂鬱な心境だったが、明るく朗らかになっているその表情を見、塞いだ気分を和らげることが出来た。また自分がもし同じ目に遭えば心がすっかり萎縮してしまう事故の後でも気強く生きているアサトの姿を立派と感じ、敬意を持った。
だがアサトは苦笑し、「僕は強くなんかないですよ」、と否定した。
そしてアサトは口を噤み、自分が灯里のしてくれたような賞賛に値しないことを確かめた。
彼はどれだけ自分が弱く、ビクビクと海を怖がっているか考え、じっと海の中を見つめた。すると、彼の視線の先で揺れる海面に、何かある物が浮かび上がってきた。それは黒っぽい魚のヒレであった。アサトはにわかに嫌な予感がし、自分が今、かつて乗っていた船の甲板にいるような気がした。海は荒れており、頭は船酔いでクラクラしている。だが、アサトは責務を全うするために我慢強く立ち、黙然と水面に視線を注いでいる。
ヒレだけ出していた魚は、やがて全容を表した。それは、口の周りに血痕をこびり付けた獰猛な魚――サメであった。サメは彼に真っ黒な空洞のような目を向けると、すぐにその赤赤とした口をグワッと開いた。
辺りはシンと静まり、その口は、どんどん自分の方へ近付いてくるように大きくなり、やがてアサトは目の前が真っ暗になりかけた。
「――アサトさん?」
灯里に呼びかけられてようやく、彼は我に返った。アサトは、既視感のある恐ろしいビジョンに襲われて、しゃがみこんでしまったのだった。
「すいません」、と彼は言って、立ち上がった。「一瞬、怖い幻を見てしまって」
臆してしまったがためにこれ以上漕げなくなったアサトは、灯里にオールを渡し、交代した。彼は義肢と生身の腕の境目が痛むらしく、無傷の方の腕でギュッと握った。
アサトが一体何を見たのか知らないが、灯里はすくんだ様子の彼を励ますように、「また明日、サーフィンしましょう?」、と言った。「サーフィンすれば、アサトさんはきっとまた、元気になれますよ」
しかしアサトは、「そうですかね」、と懐疑的に苦笑した。
灯里は自信満々に頷いて、「なれますよ」、と答えた。「だってアサトさん、サーフィンしてる時、すっごく生き生きしてますもん。初めて見た時は、まさか海に対して恐怖心があるなんて少しも思いませんでしたよ」
アサトは朗らかな声を上げて笑い、「夢中になってますからね」、と言った。「サーフィンしてる時は、何もかも忘れて」
「ですよね」、と灯里。「わたしも、アサトさんが教えてくれたお陰でサーフィンに夢中になれました。あんなに楽しいことが上手に出来るんです。アサトさんは海を怖いと思ってるんじゃなくて、やっぱり、本当は好きなんですよ」
彼女に言われて、彼はハッとした。人懐っこい笑顔を灯里は向けてくれているのに、アサトは何となく決まりの悪い心地になり、表情がかたくなった。何か始末が悪い感情が胸中にきざし、それが自分の未だ詳しく知らない感情なので、処理に困ってしまったのだった。
だが、彼は無知であっても、少なくともその複雑な感情が、灯里と緊密に結び付いていることには確信が持てた。
灯里は上を見上げ、「そろそろ帰りましょうか」、と言った。
オレンジ色だった空は今、紫色っぽくなっており、夜の訪れが近いことを教えている。
灯里はボートを浜辺の方に向けて進めだした。
戻る途中、彼女は誰かが浜辺に立っている姿を見つけた。それはアリシアだった。彼女は灯里を迎えに来たのだった。夕方になり涼しくなりだしたせいか、アリシアは薄い上着を羽織っている。
彼女に対し、灯里は「アリシアさ~ん!」、と声を上げて手を振り、アサトは振り返って軽く会釈した。
「灯里さん」、と彼は元に向き直して呼びかけた。彼女は彼と目を合わせた。「明日には、ネオ・ヴェネツィアに帰っちゃうんですよね?」
「はひ。もう一度海水浴した後、夕方のボートに乗って帰る予定です」
「じゃあ、明日までにぜひ考えといて欲しいことがあるんですが」
「考えといて欲しいこと?」
「えぇ。ちょっと、言いづらいことなんですけどね……」
アサトは中々その後を言わなかった。彼のモジモジしている表情を見た灯里は、小首をかしげ、笑顔で「何でも仰ってください」、と促した。
そのお陰でアサトは決心が着いたらしく、頬をやや引きつらせながら、「考えて欲しいことというのは、つまり」、と言った。「灯里さんが、僕と付き合ってくれるかどうか、ということです。恋人として」
灯里は呆気に取られてポカンとした。アサトは、プロポーズの言葉を言ったのである。
アサトは、灯里に好感を抱いていたのだった。
チェック・インの手続きで初めて出会った時にも、確かに彼は灯里を好ましいと思った。だが、それは単なる平面的な印象に過ぎなかった。ところがそれが、一緒にサーフィンをし、ボートで海を巡って話し合っている内に、恋心にまで発展したのである。
灯里の物腰の柔らかさ、優しい雰囲気に対して抱いたアサトの親近感は、充実感を感じているようにボートを漕ぐ姿を見て憧れることで、より高い次元の慕情に高められた。
ボートは浜辺にかなり近付いていたが、アサトのプロポーズの言葉はアリシアには聞こえなかった。呆気に取られている灯里の表情が見えたものの、彼女はそれには特に気に留めず平静に彼らを迎えた。
灯里とアサトは、ボートを降りた。
「おかえり、灯里ちゃん。アサトさんと二人で船旅をしてたのね。楽しかった?」
アリシアは尋ねたが、灯里は茫然としたまま何も言わなかった。
アサトは微笑し、「灯里さん、少し酔っちゃったみたいです」、と言った。
「あらあら。ネオ・ヴェネツィアの水路と海は違うからね。無理もないわ」
アリシアは灯里の腕を握ると、アサトに別れを告げて、ログ・ハウスの方へ歩きだした。灯里は抜け殻のような状態で、アリシアに引きずられるようにして歩いた。
アサトは、去っていく彼女らを笑顔で見送った。
しばらくして二人の背中が見えなくなると、アサトは笑顔を困ったように崩し、ボートを小屋のそばに戻して、自分もログ・ハウスへ戻るのだった。
彼の心中には、唐突に灯里にプロポーズしてしまったことへの反省が少しあった。
(続)