ARIA The Visions   作:Yuki_Mar12

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 マン・ホームで育った十代半ばの青年アユムは、マン・ホームに今はない旧式の時計に憧れ、アクアの時計屋で働くためにネオ・ヴェネツィアまで兄アヤトと共にやってくる。アクアに着いたその日は仲良く過ごした兄弟だが、翌日彼らはそれぞれの目的のため、別れる。
 アユムは自分を雇ってくれる時計屋を探すが、中々上手く行かなかった。彼は落ち込むが、ウンディーネの少女と出会い、彼女に励まされることで、諦めずに自分の希望を叶えようと意志を燃やすのだった。

(文字数:約15000)


オリキャラ編
【1】その、若い志は……


**

 

 

 

「宇宙って案外退屈な景色なんだなぁ」

 

 兄のアヤトがすぐそばの窓より外を眺めて言った。弟のアユムは、「そうだね」、と答えた。

「マン・ホームのテレビで見てた時はワクワクしたものだけど、実際の宇宙はただ真っ暗なだけで、のっぺりしてるんだね」

 

 二人は声を潜めて話したが、それは彼らのいる場所が宇宙船の静かで暗い客室内だからだ。乗客の中にはぐっすり眠っている者や、これから眠ろうとしている者がおり、静寂が求められるので大きな音は立てられない。しかし小声でささやく程度であれば、別段問題はなかった。近くの乗客は、少々の話し声には気を留めず安らかに寝息を立てている。

 彼らが乗っている宇宙船は、太陽系航宙社の運行するもので、マン・ホームとアクアの間を定期的に往復している。マン・ホームは人類の母星の地球であり、アクアはおよそ一世紀半前にテラ・フォーミングで開拓された、いわば第二の地球と言うべき惑星だった。かつては広大な砂漠が広がり、その中に大きな氷の塊があるだけの不毛な星だったが、今は水量の豊かな生命の星となっている。

 二人の乗る宇宙船はマン・ホームを出発し、アクアに向かっている途中であった。

 

「アクアってどんな星なんだろうな? マン・ホームに似てるってことはよく聞くけど」

 

「ガイドブックによると、アクアはまだ発展途上だから自然が手付かずのまま残ってるんだって」

 

「要は景色が綺麗、ってことか?」

 

「実際はどうだろうね。ガイドブックの写真はすごく綺麗に見えたけど」

 

「そりゃ、当たり前だろ。宣材の写真なんだし」

 

 ふと、アクアまで後どれくらいの距離があるのか気になったアユムは、目の前の座席の裏側にあるディスプレーを指でタッチし、現在の航空状況を表示させた。

 

「後、五千万キロメートルだって。凄い距離だね」

 

 画面の中の宇宙では、手前にマン・ホームが、奥にアクアがあり、宇宙船はその間に引かれた点線の上を、スイーッと繰り返し辿っている。

 

「五千万キロねぇ。言われたところで、ケタが大きすぎてどれだけ凄いのか実感出来ねぇな。気が遠くなるほどの距離だってことは分かるが」

 

「時間で言うと、宇宙船の時速が一千万キロだから、後五時間くらいだね」

 

「長いなぁ」とアヤトは言って、大きくあくびした。

 

 そして、彼は眠るべく腰に掛けた毛布を取って、肩より下まで覆い、目を瞑った。

 すると、隣で弟が何か手に取ったことが、音で分かった。彼は弟が何をしているのか気になり、薄目を開けて見てみた。

 アユムは、鎖付きの小さな懐中時計をまるで慈しむように、うっとりと眺めていた。その時計は色がすっかり褪せて、時針が永遠に止まったままのジャンク品だった。

 

「おい、アユム」と兄は目をパッチリと開ける。「その時計、家に置いてこなかったのか?」

 

 アユムはみずから蔑むように苦笑いした。

 

「この時計のために、アクアへ行くんだからね。絶対に欠かせないよ」

 

「やれやれ、熱心なことだねぇ。そんな朽ち果てたもんにも、お前にとってはやっぱり情があるんだな」

 

「うん。これは宝箱同然だもん。確かに、今回の旅は僕の突飛な思い付きだと思うよ。時計屋で修行するためなんかに、わざわざ宇宙を渡るなんて。だけど、僕の生きがいはこの古い時計にしかないって、確信をしちゃったからね」

 

「そっか」とアヤトは短く、微笑んで答えた。「自分の希望を裏切れないんじゃ、仕方ねぇな」

 

 彼の言葉の後、アユムは懐中時計をしまい、兄と同じように毛布を取って身体に掛けた。

 二人は揃って目を開けたまま、物思いに耽った。

 

「しかし、何年前だったっけ?」とアヤト。「お前が初めて古時計を見て、それに憧れを抱いた日って」

 

「十年前だよ。僕はまだしっかり覚えてる。小学校の社会見学で行った古い洋館で、見たんだ」

 

 アユムは、昔語りを始めた。

 

「その洋館は、十九世紀末の動乱の時代の建物らしくて、凄く古かったんだけど、オシャレだった。塔みたいなのがあって、出窓が付いてて、石で出来てて。洋風のお庭が付いてもいてね」

 

 彼はその洋館に着いて、しばらくの間は、担任の教師と一緒に行動していたようだったが、ある時その教師が、社会見学の課題のために生徒達を自由にしたらしい。

 

「僕は特に歴史的建造物なんてものには興味がなかったから、時間潰しのためだけにあちこちの部屋を見て回ってたんだけど、ある小さな書斎みたいな部屋に入ると、ゴーン、っていう音がしたんだ。鐘というよりは、シンバルに近い種類の音だったね。結構大きかったからびっくりしたよ。調べてみるとその音は、一台の柱のように大きな時計からするんだね」

 

「それが、例の古時計だったというわけか」

 

「うん。僕は見慣れないその時計の様に夢中になって見入ったね。軽くて薄いデジタル時計しか知らない僕には、それは、フォルムとか、ギミックとかが、凄く珍しかった。新種の生物を見つけたりしたら、きっとこんな気分になるんだろうなぁと思ったね。金属の板状の振り子が催眠術をかけるように振れたり、その奥にある歯車が互いに噛み合って回っている姿は、僕の関心を異常にそそった。何でかは分かんないけど、一つ一つの仕掛けがどんなに小さくても他と連動して動いてるのが、無性に格好良く思えたんだ」

 

「それからお前は父さんと母さんをよく困らせたもんだよな」、とアヤトは、呆れるように言った。「どこにも売られてない古時計を誕生日やクリスマスの日にせがんで」

 

「本当に、どこにも売られてなかったんだよね」とアユムは答えた。「悲しかったな。子供心に欲しいものが手に入らないことほど苦痛なことはないよ」

 

「さっきの時計が手に入ったじゃねぇか」

 

「それはそうだけど、これは、ある古い時計屋のお爺さんがたまたま捨て忘れてたもので、売り物じゃなかった。それに、ボロボロだし――でも、こんなものでも、僕には嬉しかったな」

 

「あの爺さんに出会えたのは、確かにお前にとってラッキーだった。爺さんが、古い時計の大半が、設計図ごとアクアに移されて再利用されてることを教えてくれたんだもんな」

 

「本当に、幸運だったよ。お爺さんと出会う前までは、まさか自分がアクアに行くなんて思いも寄らなかった」

 

「親切に弟子入りさせてくれる時計屋、すぐに見つかるといいな」

 

「うん」

 

 アユムが頷いた後、兄弟は静かになった。和やかな思い出話は、二人が眠るのにいい効果をもたらしたらしかった。

 

 彼らを含め、多くの乗客が寝ている宇宙船は、無重力の中を突っ切って、彼方の水の惑星に超高速で向かった。

 およそ五時間の後、宇宙船はアクアの外気圏まで進み、大気圏に突入した。寝ていた乗客は起きて、宇宙より地上までの景色の移ろいをじっくり眺めた。宇宙の黒から空の青への移ろいは乗客の目を例外なく楽しませた。

 大気圏を突破した宇宙船は、たくさんの島々が集合して出来た水路の街”ネオ・ヴェネツィア”の、マルコ・ポーロ国際宇宙港に降りた。

 

 アヤトとアユムの兄弟は宇宙港を後にすると、サン・マルコ広場という名の大広場に行き、そこでこの街の空気に含まれている濃い味のする異国情緒を味わった。

 

「マン・ホームに似てるっていう話は、どうやら本当のようだな」とアヤトは言った。「別の星で、宇宙に浮かんでいる位置は違えど、空気は同じ味だし」

 

「だけど、雰囲気はまるで違うね」

 

「そうだな。何と言うのか、過去に遡った気がする」

 

「ガイドブックによると、このサン・マルコ広場は、ナポレオンが賛嘆した場所らしいよ」

 

「ナポレオンか。ずいぶん昔の偉人が褒めた場所なら、そりゃ過去に遡った気がするのも当然だな」

 

「兄さん、これからどうする? しばらく観光して回るか、ホテルにチェックインしに行くか」

 

「スーツケースを引いての観光は不便だろう? 早くホテルに行こうぜ。どんな部屋なのか楽しみだしな」

 

 アユムは頷くと、アヤトと共に宇宙港の近くにあるホテルに向かった。

 そこは、シュロの木が門のそばに植えられて南国の風情を醸し出している、背の高い、それなりに高級なホテルだった。

 彼らはそして受付で手続きを軽く済ますと、照明やら壁の絵の額縁やらがやたらにゴージャスなツインの部屋に入った。

 そこには当然のごとく時計があったが、それがマン・ホームの博物館で見たのとそっくりの置時計だったので、アユムは感激した。彼はその時計をくまなく調べだし、アヤトは呆れた顔で、その様子を見ていた。

 

「凄いやこの時計。洋館で見たのと同じ造りなのに、ずっと新しい」

 

「爺さんの言ってた、古い時計がアクアに移されてるっていう話は、その通りなんだな」

 

 アユムは時計に抱きついて、「アクアに来たって実感がするなぁ」と感嘆した。

 

 アヤトは冷ややかな眼差しで、「ようやくかよ。やっぱアユムってマニアックなんだな」と言った。

 

 やがてアユムのお熱が冷めると、彼らは早々に部屋を出た。宇宙船で蓄積した疲れがあったが、二人は明日別れるため、少しの時間が惜しかった。

 彼ら二人はネオ・ヴェネツィアに着いたその日、目一杯一緒に楽しい時間を過ごしたのであった。

 

 

 兄弟水入らずの和やかな夜が明けて訪れた朝は、青空が冴え渡り、微風が吹いて、すこぶる穏やかだった。

 

 ホテルのガラスの入口より並んで出てきた二人は、うやうやしく頭を下げるスタッフに別れの挨拶をかけて、シュロの木のそばに来た。

 

「俺との同行はここまでだ」とアヤト。「これから俺たちは別々の方へ旅立つ」

 

「心細くなるね」とアユムは、言って不安のにじむ顔で笑った。

 

「馬鹿。そんな風な顔したって俺は甘やかさないぜ。俺は別の島へ、お前は時計屋へ、それぞれ一人で行くんだ」

 

 そう言ってアヤトは腕時計を見、「そろそろ行く時間だな」と言った。「水上バスの出発時刻が近い」

 

 アヤトは目線を上げてアユムを見つめると、「大丈夫だな?」と念を押すように尋ねた。「前にも言ったが、働かせて欲しいと頼む時は、とにかく低姿勢で行くんだぞ。頭だけじゃなく、腰も低くしろよ。それが第一に大切なこと。それで第二は……」

 

 アユムは兄のお節介に微笑し、「大丈夫だよ、兄さん」と言った。「一人で心細くても、僕はやっていける。お金を持ってないわけじゃないし、それに、僕はもういい年なんだから」

 

 十六歳のアユムの自負を聞いた後、アヤトは、彼の方に手を伸ばし、その頭を撫でてやった。撫でられている間、アユムは照れ臭い気持ちだった。

 

「そんなら、兄さんも安心だ。次に会うのはいつか分からねぇが、その時は、仕事の話をたっぷり聞かせてくれよ?」

 

「勿論、ちゃんと話すよ」

 

 アヤトは弟の頭から手を離すと、「じゃあな」と言って、振り返って歩いていった。

 

「いい旅してきてね。兄さん」とアユムは兄の背中に声を掛けた。

 

 アヤトは「おうよ」と答えて、アユムの方に束の間振り返ると、「お前こそ、グッドラックだぜ」と笑顔で言った。

 

 そしてアヤトは遠くまで行き、アユムの目に見えなくなった。

 

 アユムは内心で兄の背中を追いたい気分だった。それは甘えだとみずから戒めて我慢したが、彼は、やはり心細かった。これから彼は一人で、自律して行動しなければならなくなったわけだが、その行動の目的である予定が彼に圧迫感を与えていた。

 アユムは今日、自分が時計造りをして働いていける時計屋を探し求める旅をするのだ。それが見つからなければ、知り合いのツテもろくな滞在費もない彼は、マン・ホームにとんぼ帰りすることになる。

 意志は確かにあるものの、成功出来るか、彼は不安だった。

 

 遠くの海原に、船の走る姿が見える。恐らくあれには、アヤトが乗り込んでいるのだろう。アユムはその船に目線を注ぎ、兄の応援を思い出し、おのれに喝を入れた。ポケットより例の懐中時計を取り出して見つめ、成り行きがどうなるのか分からないが、とにかく最後までやってやろうと、それに向かって意気込んだ。

 

 

 アユムがまず最初に難儀したのは、複雑な道だった。

 

 ネオ・ヴェネツィアは複数の島が橋に繋がれたことにより出来た街のため、乱れた蜘蛛の網のごとく道が入り組んでいる。

 アユムは地図を持ってはいるものの、上手く道順がたどれず、あっちへ行きこっちへ行きを繰り返した。

 しばらくさまよっていると、彼は「もしもし?」、と誰かに話しかけられた。

 挙動不審だったので、迷っていることを察知されたのだろう。彼はおずおずとその方へ向いた。

 話しかけたのは女の子だった。

 彼女は屈託のない笑顔をしており、青いラインの入った純白の、セーラー服のような衣装を来て、桃色の髪の上に同じ特徴の帽子を乗せている。そしてその髪は、耳のすぐそばで金色の輪に束ねられて、腰の辺りまで真っ直ぐ伸びている。

 朗らかで人懐っこいその雰囲気に、アユムは胸がときめくような感覚がした。

 

「どこかお探しですか?」

 

「え、えぇ。時計屋を探してるんですけど」

 

「時計屋ですか!」、と少女は驚いたように言った。「わたしも、時計屋さんに用があるんですよ」

 

「本当ですか? 偶然ですね」

 

 呆然として、アユムは少女の手のある物に気付く。それに対して彼は強い見覚えがあり、同時にまた、親しみもあった。彼はそれを指差し、「懐中時計ですね」と言った。

 

 少女は、「はひ」と答え、鎖付きのそれを胸の高さに持ち上げ、アユムによく見えるようにした。「昨日突然壊れちゃって。動かなくなっちゃったんです」

 

 彼女の持つ懐中時計は、自分で買ったのではなく、知り合いからの貰い物らしかった。それは、壊れて使い物にならないものであるという点ではアユムのものと同じだったが、その様相はてんで異なっていた。彼女の方はシルバーのボディが日光をよく反射しすこぶる高級感があって綺麗なのに、アユムの方は錆が多く付いていて、汚くくすんでいた。

「僕も同じの持ってるんです」とアユムは言いたかったが、自分の時計が余りにもみすぼらしいので、断念した。

 彼はしかし、生き生きとした光彩を放っている少女の懐中時計を見て、嬉しくなった。彼にとって綺麗な古時計を見るのは、未だ新鮮な感慨をもたらしてくれることだった。

 

「その時計って、珍しいものなんですか?」

 

 アユムは尋ねた。少女は首を振り、「時計屋さんで普通に売ってます」、と答えた。

 

 それを聞いたアユムは、マン・ホームの時計屋のお爺さんから聞いた通り、アクアでは古い時計が広く使われていることを知って、胸が暖かくなった。マン・ホームでは自分を除いて誰も関心を持たないどころか過去に忘却してしまったものを、ここでは大勢の人々が使っているのだ。

 アユムは思わず「見せてくださいませんか?」、と少女に申し出てしまった。

 

「はひ、それは構いませんけど、壊れてるので動かないですよ?」

 

「いいんです。見るだけで、僕には十分楽しいですから」

 

 少女は懐中時計を渡し、物好きなアユムをきょとんとした顔で眺めていた。アクアに住む者にとっては特に珍しくもない代物を異常に珍しがるその様は、滑稽とまでは行かなくとも、おかしく思われた。

 ボディーを一通り見終えたアユムは、懐中時計のカバーをパカッと開けて感嘆した。

 

「時計、お好きなんですね」、と少女。

 

「えぇ、そのために僕は、マン・ホームから来たんです」

 

「えっ、そうだったんですか?」、と少女は、アユムの出身地を知って驚いた。「スーツケースをお持ちなので、旅行に来た方だと思ってはいたんですけど」

 

「変わってますよね」、とアユムは自虐的に呟いて時計のカバーを閉じると、少女に返した。「たかが時計のためなんかに、旅に出るなんて」

 

 アユムの苦笑を見た少女は、何かわけがありそうだと見て取り、彼に興味を持った。

 彼女は、アユムに時計屋に用のあることを今一度確認すると、一緒に行かないかと誘った。アユムは遠慮がちに迷惑でないかどうか尋ねたが、少女は微笑して、「ご案内します」と、いかにもガイドに慣れたような調子で言った。それに頼もしさを感じたアユムは、「助かります」とお礼を述べた。実際、道に迷っていた彼には、少女の案内は渡りに船の提案だった。

 

「僕はアユムって言います。お姉さんは?」

 

「灯里……水無灯里です」

 

 二人は互いに名乗り合うと、時計屋を目指し並んで歩きだした。

 

 

 ネオ・ヴェネツィアの街中を彼らは、自分の紹介をしながら進んでいた。

 アユムは、古い時計に興味を持った経緯や、アヤトという兄がいることを教え、灯里は、マン・ホームで生まれ育ち、東京よりアクアまで来たことを教えた。

 アユムは灯里が自分と同郷であることにもそうしたが、それよりも、彼女の言った恐らく職業であろう言葉の方に、より強い興味を持った。

 

「ウンディーネ、というのを、灯里さんはしてるんですか?」

 

「はひ。ゴンドラを漕いで、ネオ・ヴェネツィアに来る方々の観光をお手伝いするんです。まだ半人前ですけどね」

 

 彼は、ウンディーネが水の妖精という意味の言葉であり、また、一流の操船術ゆえに実際に妖精と称される三人のウンディーネがネオ・ヴェネツィアに存在することを、水先案内業界における主な三社の名前と共に知った。

 

「その妖精の一人が、アリシアさんなんです」と灯里。「わたしの務めるARIAカンパニーのトップで、先輩です。トップとは言っても、従業員はたった二人だけなんですけどね。つまり、わたしはトップの二番目です」

 

 言った後、灯里は冗談めかして誇りに思うように「エヘヘ」、とはにかんだ。その苦笑が、どことなく愛らしくて、アユムは同じく苦笑で応えるのに苦労した。彼は、灯里が笑顔になる度に、何か特別な感情が芽を出すような気がして、胸苦しかった。

 灯里の自己紹介はしばらく続いたが、やがて区切りを迎え、自然と話題がアユムの旅の理由に移行する。

 

「アユムさんは、どうしてアクアへ来られたんですか?」

 

「僕は」、と彼は、やや重々しい口調で言いだした。「修行しに来たんです。時計屋にね」

 

「修行?」

 

 アユムは頷くと、不格好だと億劫がりながらも、ポケットからボロボロの懐中時計を取り出して、灯里に見せた。

 

「わぁ、凄い年代物ですね」と彼女は、錆だらけの懐中時計を見て言った。

 

「この時計、見ての通り、壊れ物なんです」、とアユムは、時計のカバーを開けて、鉄くずが転がる白い盤を見せた。「これだけ古く汚くなると、修理することは最早叶いません。僕はこういう造りの時計が好きなんですが、マン・ホームには、これの他には同じような時計が、数少ない展示物を除いて一つも見つからないんです」

 

「ほとんど、なくなっちゃったんですね」

 

「マン・ホームでこういう時計はもう、過去の物となったんです。今使われているのは、デジタル表示で薄型の、新型の時計ばかり」

 

 アユムは、愚痴を吐くようにそう言った。しかしそれがいかにも偉そうで分相応でないように思えて、彼はすぐさま新型を全否定するわけではないことを弁明した。

 

「だけど旧式の時計を知ってからは、不思議と、その便利さが味気ないと思うようになったんですよね。妙に、こういう古い稀少な時計に、愛着が湧いちゃったとでも言うんでしょうか」

 

 灯里は自分の壊れた懐中時計に目線をやると、アユムのそれと見比べてみた。片方は錆一つない明るいシルバーで、片方は錆にまみれて泥の中より拾ったような色をしている。同じタイプでも、二つの時計は極めて対照的だった。

 彼女は、マン・ホームにいた頃の暮らしと、巷に溢れていた新型時計の様を思い出し、アユムの言に共感した。自分の持っているような時計が一つもない故郷は、やはり便利過ぎて味気ない気がした。

 

「分かるような気がします」と灯里は言って、シルバーの懐中時計を胸の高さに持ち上げた。「流れる時間を大切にしようとする思いが、こういう綺麗な時計を見つめていると感じるんですよね。多分、この時計を作った人は、時計そのものだけじゃなく、時間を美しく、愛おしくしたいと願って、こんな風に綺麗に作ってくれたんでしょうね」

 

「そういう考え方や価値観って、マン・ホームにはもうないですね」、とアユム。「時計が占めるスペースは狭いし、時間はただ、昼と夜の長さを数字で表すだけです。だからいっそ、自分でこんな風な時計を作ってやろうと思い立ったんですが、その作り方すら、マン・ホームでは忘れられてしまってるらしくて」

 

 それを聞いた灯里は、悲しみを秘めたような、遠くを見るような表情になった。

 

「それで、ある人の情報を頼りに、僕はアクアの時計屋に修行しに来た、というわけです」

 

 灯里はアユムの旅の動機を理解した。

 アユムは彼女に、何のツテもないのに時計屋を探して、受け入れてくれるところがあるかどうか不安だと吐露した。

 灯里は彼の思いに共感した手前、きっと大丈夫だと励ましたかったが、根拠なくそうするのは無責任なように思われて出来なかった。彼女はただ心の中で応援し、アユムの不安でかたくなった表情を見つめることしか出来なかった。

 

 

 やがて二人は、ある小さな時計屋にたどり着いた。そこでは、マン・ホームでは有り得ないほど多種多様な時計の数々が、昆虫の標本のごとくずらりと陳列されていた。

 

「いらっしゃい」と言って、髭で口の周りを覆った店主は二人を迎えた。二人の他に、客の姿はないようだった。

 

「おや、灯里ちゃんじゃないか」と彼は彼女の来店を珍しがるように言った。「久しぶりだね。アリシアさんは元気でやってるかい?」

 

「はひ。今日も予約が一杯で大わらわです」

 

 灯里と店主は元々知り合いらしく、会っていなかった間の情報を親しげに交換し合った。局外者のアユムは、そんな彼らの姿をはたで眺めながら、微笑ましいと思いつつも、幾らかの疎外感を感じずにはいられなかった。

 

 やがて灯里は世間話を終え、壊れた懐中時計を店主に差し出す。

 

「これの修理をお願いしに、今日は伺ったんです」

 

「どれどれ」と店主は、時計を受け取りその具合を目で確認しだした。

 

 彼は時計のあっちこっちを指でいじった後、「成るほど。こりゃ部品を変えた方がよさげだなぁ」と言った。

 時計の故障は単純ではないらしい。が、そこまで程度が重大なわけではないようだった。

 

「直るまで時間はかかりそうですか?」

 

「いや、大した故障じゃなさそうだから、明日には終わると思うよ。それより灯里ちゃん、そちらのお兄さんは連れかい?」

 

 店主がアユムの存在に気付くと、灯里はその名と、彼がマン・ホームからの旅行者であることを教えた。

 

「ほぉ、マン・ホームからわざわざ。それはどうしてだい?」

 

 働かせて欲しいと言うべき時が、アユムに訪れようだった。彼は疎外感を味わった後で、余りいい心のコンディションではなかったが、到来したチャンスを無に帰すわけには行かず、兄アヤトの戒めを思い起こしつつ、「ここで働かせて欲しいんですけど」、と告げた。

 それを聞いた店主はきょとんとし、「お兄さん、正気かい?」、と、特に馬鹿にするわけでもなく、彼が本気かどうかを真剣に確かめるように聞いた。

 アユムは、「正気のつもりです」と答えた。そして彼が、今はアクアにしか存在しない旧式の時計に憧れ、その作り方を学びたいがためにマン・ホームを発ったことを教えた。

 店主は腕組みして困惑するようにううんと唸った。

 灯里は、アユムと店主との間に、物々しい雰囲気がそこはかとなく漂っているように感じた。

 

 しばらくした後、店主は「うん」と頷いた。

 アユムはそれを承諾と受け取り、心の中で飛び上がりかけたのだが、店主の言葉は「申し訳ないが」、とその後に続いた。「うちはもう、人手は足りてるんだよ」

 

 糠喜びしたアユムは索然として、「そうでしたか」、と答えた。

 彼は最初の当てが外れたことを悟り、表情が冷めた。

 灯里は顔を少し俯けて、アユムのその表情を怖々窺っていた。

 

「お兄さん、多分、他の時計屋をこれから当たるつもりなんだろう?」

 

 アユムは頷く。

 

「だろうな。今教えといてやるが、アクアの時計屋に雇用してもらうためにはな――まぁ、これは時計屋だけに限らないんだが――アクアの職業学校を卒業していることが必須条件なんだよ」

 

 必須条件。まさかそんな公的な規約があるということを、アユムは露も知らなかったので愕然とした。自分は時計屋を志望してはいても、マン・ホームの学校を卒業した身であるため、その条件に適っていなかった。

 アユムは、アクアの時計屋で働きたいという願望を実現させるためには、時計屋を訪れる前に学校に通わなければならないことを知った。

 そうするには長い時間のみならず、多くの金銭が費やされる。

 店主の教えは、彼の心に絶望を生じさせた。

 表情の暗いアユムだったが、苦労して笑顔を取り繕い、「そうだったんですね」と言った。今はとにかく諦めるのが賢明だと判断したのであった。

 

「マン・ホームから来てくれたのに、悪いね。だけど、そういう決まりなんだ」

 

 アユムは別れを告げると振り返り、目に楽しい旧式時計の数々が並ぶ店を名残惜しく後にした。

 灯里は彼を放って置けず、店主に時計の修理をよろしくと頼み、別れを告げると、アユムの後を小走りで追った。

 

「アユムさん」と彼女は、彼の隣に追いついて笑顔で話しかけた。「他の時計屋さんに行きましょう?」

 

 灯里の方へ振り向いたアユムの表情は、彼女とは対照的に暗かった。

 

「僕、今からマルコ・ポーロ国際宇宙港へ向かおうと思ってるんですが」

 

「そんな、たった一店ダメだったからって諦めるのは、幾ら何でも早すぎますよ」

 

「灯里さんも聞きましたよね? アクアの時計屋で働くには、それに相応しい学歴が必要なんです。それがない僕は、欠格なんです」

 

「学歴の役割は、その人が知識を持っていると証明することだけですよ。やる気さえあれば、それを認めて雇ってくれるところがきっとあるはずです」

 

 灯里がそう言った後、アユムは立ち止まった。彼女も同じく立ち止まり、彼が少なくともマン・ホームへとんぼ返りする恐れはなくなった気がした。

 

「大切なのは」と灯里は言いかける。「学歴より何より、何かをやり抜いてやろうとする気概です」

 

 灯里はそう言って、アユムが元気を取り戻してくれることを願った。ところが彼は、陰気臭く失笑した。

 

「すいません。今の僕には、その気概さえありません。この星の決まりに逆らってまで、本当に時計屋になりたいのか、少し自問する時間が欲しいです。ひょっとすると、僕は古い時計を作ることを、自分の生業じゃなく、憧れの対象として済ましてしまうべきなのかも知れませんね」

 

「わたしだって、ただの憧れだけで、ウンディーネになろうと思ったんです。学歴も知識も、技術もなく。元々舟を漕ぐことが得意だったわけじゃ全然ありません。だけどプリマに――一人前のウンディーネになりたいという気持ちは本物でした。今はまだまだ半人前で、地道に練習する毎日ですけど、後悔の気持ちは少しもありません」

 

 灯里の断定の後、しばしの沈黙が二人を包んだ。アユムは葛藤し、灯里は彼の決断をじっと待った。

 

「本当に古い時計がお好きなら、諦めないであげましょう……?」

 

 灯里は尋ねた。アユムは押し黙ったままだったが、少し後、ぼそりと礼を言うと、一人立ち去った。

 影で真っ黒の彼の背中を見つめる灯里は、たとえそうしたくても、何となく気が咎めて、これより先までアユムを追っていくことは出来なかった。

 

 

 夕日が赤く染まりだした頃、足任せに歩いていたアユムはある小さなカフェの前を通りがかり、そこのテラス席で一服しようと考え椅子に腰掛けた。彼がその店で一服しようとした理由は、カフェ近隣の時計屋にあった。その時計屋は、彼が灯里と一緒に訪れた店よりも規模がやや大きく、離れたカフェの席からもどんな時計が並んでいるのかくっきりと判別出来た。

 ウェイターが注文を聞きに来ると、アユムはコーヒー一杯だけを頼んだ。彼は間もなくやってきたその黒い飲み物を飲んで苦いと感じたが、大して苦にならなかった。社会の厳しさの一端を知って落ち込んだ彼の心境に、コーヒーの苦味は好都合な刺激だった。

 

「本当に時計が好きなら、か……」、と彼は呟いた。

 

 灯里のことを思い出したのだった。せっかく真心から励ましの言葉を掛けてくれたのに、アユムは冷淡な態度で彼女と別れてしまった。恩知らずな自分が厭わしかった。

 灯里は気落ちした彼に、自分が同じような由来でアクアに来たことを強調して伝えた。アユムが時計屋に憧れてそうしたように、彼女はウンディーネに憧れて故郷を――マン・ホームを離れた。

 灯里の言葉は今、アユムの心の中で重々しい残響を鳴らしていた。

 沈みつつある夕陽を見て彼は、本当にマン・ホームへ帰ってもいいかどうか自問した。未だ熱を持っている志を折っていいものかどうか、疑った。

 すると、さっきまではそうするほかないように思えたが、今は別の選択肢が、アクアに留まるという選択肢が、ふっと、コーヒーの味で冴えた頭の中に浮かび上がってきたような気がした。

 そして彼は、兄であるアヤトを思い出した。兄は今頃どこに着いて何をやっているだろうか思いを馳せた。

 

「少なくとも、僕みたいにマン・ホームへ帰ろうかどうか考えてるなんてことはないな。絶対に」

 

 旅好きの兄で、すでに大人として色々な成長を遂げている彼が、たとえ旅の困難に出会っているとしても、そう簡単にくじけるとは思えなかった。そんな性ではないと、その弟であるアユムは知っていた。

 

 彼はポケットより懐中時計を取り出すと、目の前に持ち上げ、じっくり眺めだした。このために――このような時計を一から作ってみたくてアクアにやって来たのだと、確かめるようにみずから言い聞かせた。

 すると突然、彼は、「もしもし」とある男に話しかけられた。アユムが時計より目を離し振り向くと、席のそばに、中年の小太りの男がカップの乗ったソーサーを手に立っていた。彼はグレーのヘアーを全て後ろに流し、鎖付きの眼鏡をかけている。

 

「同席しても、よろしいですかな?」と、男は続けた。

アユムはうやうやしく肯定した。

 

 男は席に座ると、甘い匂いのする飲み物に口を付け、フゥ、と大きく息を吐いた。

 

「お兄さん」と男。「変わったアイテムをお持ちですねぇ」

 

「懐中時計のことですか?」

 

「えぇ。見たところ、相当古いお品のようですが」

 

 アユムは苦笑し、「マン・ホームの捨て物なんですよ」、と言った。

 

「ほぉ。あなたはそれを、マン・ホームで拾ったと?」

 

「実際は違いますけど、拾ったも同然です」

 

「失礼ですが」と男は前置きを述べ、「どうしてそんなものを大事そうに持っておられるんですか?」と青年に問うた。

 

 錆だらけの時計について尋ねられたアユムは、自分と時計の関係の由来と、アクアへ来た理由を男に教えた。

 

「成るほど。わざわざ時計屋になりたくて、アクアまで。いやはや、宇宙の旅は長くて大変だったでしょう?」

 

「マン・ホームとアクアの間には、約一億五千万キロの隔たりがありますからね。途方もない距離です」

 

「まったくです。しかし嬉しいなぁ。時計を愛するがゆえにアクアまで足を運んでくれるとは」

 

 それは皮肉に聞こえるような気がしたが、その大胆っぷりを褒められたアユムは、「大したことないですよ」と謙遜しつつも、内心で嬉しく思った。

 

「働かれる時計屋は、もう決まったんですか?」

 

「いえ、それが、断られたんです」とアユムは答えた。「アクアで時計職人になるには、アクアの学校を出てなくちゃ、いけないんですよね」

 

「うん。一応そういう規約はあるけどね」

 

「僕、やる気とか憧れだけで時計屋のおじさんに頼み込んだんですけど、ダメでした。無知で格好悪いですね」

 

 アユムは自嘲的に苦笑した。

 

「他の時計屋を当たるつもりは、あるんですか?」

 

「他を当たったところで、同じ理由で断られることがほとんど明らかなので、マン・ホームへ帰ろうかと考えてたんです。でも、どうしても諦められない自分がいて、ここでコーヒーを飲んで、じっと悩んでるんですけど」

 

 それを聞いた男は、顎を持って考えだした。アユムは彼をじっと見つめていたが、やがて男は、「少し驚くことをお兄さんに教えて上げよう」と言った。「実を言うとわたしは、時計屋をしてるんだ」

 

 アユムは急な暴露に、予想された通り驚きポカンとした。

 

「驚いたね、やっぱり」

 

「ほ、本当ですか?」

 

「あぁ。証拠はあすこにある店だ」

 

 男は指をさっきアユムが気に留めた時計屋の方に指した。すると時計屋のカウンター内に立っているスタッフが朗らかな笑顔で手を振ったので、男も手を振り返した。

 

 アユムは困惑した。男のした暴露は余りにも唐突過ぎたため、彼は、働きたい旨を願い出ようか、それとも気恥ずかしさでそそくさ立ち去るか迷い、心の中に激しい葛藤を引き起こした。

 灯里の励ましの言葉が、彼に立ち去ることを選ぶことを禁じたが、アユムは再び断られることを恐れ、働かせて欲しいとは中々言いにくかった。

 

 だが、彼の葛藤は気を使った店主の言葉により解けた。店主は、「君、うちで働いてみるかい?」と言ったのだった。

 アユムはそれが予想だにしない奇跡の言葉だったため、一瞬耳を疑った。

 

「うちで、時計作りを学んでみるかい?」

 

「それは、願ってもないお言葉なんですけど、いいんですか? 僕、学歴も時計屋の勤務経験も全然持ってません」

 

「それは大した問題じゃない。わたしは、君が懐中時計を大切そうにしている姿を見た時、心の中にある憧れを知って、その可能性に賭けてみたいと思ったんだ。それに、スクールの紹介状が必須だという規約は、それが紹介先とのやり取りをスムーズにしてくれるからというだけで、実質的な必要性は低いんだよ。スクールを出ただけで出来ることなんて、高が知れてるからね」

 

 店主の粋な計らいで、アユムの願いは叶うことになったのだった。彼は感慨無量になった。感謝の気持ちはとめどなく溢れ出てくるのに、上手くそれを言葉に変換することが出来なかった。

 

「スクールの紹介状の代わりに、僕は別の条件を出そう。それは、早く知識を付けて腕を磨いて、一人前になること!」

 

 店主の激励に、アユムは目に涙をためた。

 

「ようし。今日は前祝いだ。ここでの代金はわたしが持つよ。君は早く、あすこにあるわたしの店に荷物を全部持っていきなさい。あのスタッフ――ヨシと言うのだが――に声をかければ、案内してくれるだろうよ」

 

 アユムは了解すると、ただ今より彼のボスとなった店主のもとに歩み寄り、かたい握手を交わした。

 そしてスーツケースを引いて近くの時計屋に向かい、そこでスタッフのヨシに挨拶し、自分が泊まる部屋に連れていってもらった。

 彼はアユムと同い年くらいで、とても親切に彼に接してくれた。

 

「新しい後輩が出来て嬉しいなぁ。俺はヨシ。これからよろしくな」

 

「僕はアユムって言います。まだ時計については全然知りませんが、一生懸命学んでいくつもりなので、よろしくお願いします」

 

「気合充分だなぁ」と彼は感心した。「だけど今からそんなんじゃすぐに疲れちまうぜ? 今日はとにかく部屋でゆっくり休みな。工房や仕事の詳細、休日の割り当ては明日するよ」

 

 アユムとヨシは、固い握手を交わした。

 アユムはそれから食事や風呂について教えてもらい、しばらく休んだ後、店長とヨシと他のスタッフ達と、近くの料理屋に集まり、そこで小さな歓迎会に参加した。歓迎会でアユムは、みんなに自分の名前や趣味を知ってもらうだけでなく、彼も、他の仲間たちのことを色々と知った。アユムは入って間もない時計屋のメンバーに、最初は遠慮がちにはにかんでいたが、やがて馴染みだしたようで、満面の笑顔になった。

 意気をくじかれ、陰気臭い終わりを迎えそうだったその日だが、一転し、華やかに終わることが出来たようだった。

 

 

 「よかったです。アユムさんが、マン・ホームに帰ることにならずに済んで」

 

 そう、灯里は言った。彼女はある女性とアユムとを乗せて、水路でゴンドラを漕いでいた。

 その女性は、ブロンドの長く艶やかな髪を、後ろでフィッシュボーンっぽく凝った感じで編んでいる。彼女は灯里に「アリシアさん」と呼ばれていた。つまり彼女は、灯里が言っていた例の、ARIAカンパニーのトップの妖精というわけだ。

 

 晴れた空の下、幅広い水路で三人は心地よい風を浴びながら、澄んだ空気を吸い込んで、空気が含む薄い英気の、身体中に充溢するのを感じた。

 

「灯里ちゃんの話を聞いてわたしも心配だったけど、本当によかったわね」

 

 アリシアは、大人びた調子で灯里の言葉に添え、アユムの希望の成就を喜んだ。

 

「お陰様で、憧れの時計屋で働くことに決まりました」

 

 アリシアは優雅にウフフ、と笑った。

 

「アユムくんの話を聞いた時、灯里ちゃんが初めてARIAカンパニーに来た時のことを思い出したわ」

 

「わたしも、自分がウンディーネに憧れてアクアに来た時のことや、アリシアさんに初めて会った時のことを思い出しました」

 

「あれからどれくらいの時間が経つのかしらねぇ……。ずいぶん前のことだと思うけど、灯里ちゃんはまだ半人前で、ゴンドラの漕ぎ方に相当癖があるわよね」

 

 アリシアの仮借ない口振りに、灯里はエェーと嘆いた。

 

 アユムは彼女の表情を見て笑みがこぼれ、「している仕事は違えど、僕は灯里さんよりもっと未熟ですよ」と言った。「技術はもとより、知識だってまだまだ半端なんですから」

 

「だけど、きっと二人とも、これから大きく、立派に成長していくのよね」

 

 アリシアは、雲が点々と浮かぶ高い空を見上げてそう言った。

 

「早く腕を上げて、一人でお客さんを乗せられるようになりたいです」と灯里。

 

「ぼくも、早く腕を上げて、一人で自分モデルの時計を作ってみたいです」とアユム。

 

 同じように意気込んだ彼ら二人は、互いに微笑み合った。

 

 そんな二人の姿を、最も年長のアリシアは優しい姉のように頬を緩ませて眺め、彼らがそれぞれの挑戦に成功し、幸せを掴むことを、期待し、また祈るのであった。

 

 

 

(完)

 


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