俺は竈の女神様   作:真暇 日間

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竈の女神、考える

 

 喧嘩を売るにも作法がある。まず、これこれこういう理由で喧嘩を売りますと言うことを相手に伝え、そして時間と場所を指定し、喧嘩の結果によって払う物をお互いに決める。文句があったり拒否する場合にはその旨を相手に伝え、受ける場合には受けるということを同じように伝える。それがよくある喧嘩であり、最も好まれる『正々堂々の喧嘩』と言われるものだ。

 だが、時々そう言った作法をすべて無視していきなり殴りかかってくるような奴も存在する。具体的に言うならアレスだったり、ヘラクレスだったり、人間にとって身近な所で言えば十字軍と呼ばれるものであったりする。そう言った存在はその多くが自分達は正義であり、自分達の行いの全てが正しい行為であると信じていることが多い。いわゆる狂信者と言う奴だが、狂信とは時に人間の身体の限界を超える力を与える事すらある。信仰とはそう言うものであることはわかっているのだが、人間の思い込みの力とはやはり恐ろしいものだ。俺も元は人間だがな。

 だが、同時に宗教で救われる者もいる。その違いは、宗教を心の支えとした時の依存の強さにある。

 例えば、宗教を杖のようなものとした場合、依存の弱い者はちょっとした支えだったり、あるいはファッションとして持っているだけで歩いていくのに必要はない、ステッキのような杖だ。しかし依存の強いものの杖は松葉杖や、あるいは義足と言った『これがなければ歩けない』と言うレベルの杖。そもそもの目的が違えば形態も重要度も格段に違ってくるものだ。

 逆に考えれば、そう言った大切なものに触れさえしなければそうそう喧嘩を売られるようなことは無い。神にとって最も大切な物は、自身の信者の信仰。信仰を奪われれば生きて行くことができず消えるしかない神にとってそれが最も大切で、最も失ってはいけない物。愛の女神から愛情を奪ってはならないように、別の神話に接触するにしても権能が重なる相手の既得権益ともいえる信者を奪ってはいけない。基本的にそれさえ守れば恐らく他の神話世界を歩き回っても文句は言われることは無いだろう。

 

 問題は、俺の抱える権能が多すぎると言うこと。ギリシャ神話の中なら持っている権能は多ければ多いほど便利になるが、他の神話体系の神と色々と付き合いをしようとすると権能が被るだけでライバルとなりえる。つまり、神話体系を超えての付き合いをしようとすればこちらにそのつもりが無くとも相手から敵視されることもあり、敵視されることがあれば喧嘩を売られることもあるだろう。面倒だがそう言った問題は付いて回る。

 ああ、全く、本当に面倒臭い。とは言え今さら集めに集めた権能を捨てるのも勿体無いし、できていたことができなくなるのはストレスに繋がる。まあ、俺は元々できていたこと、あるいは努力の結果としてできるようになったことが権能として認められた結果司るものが次々に増えただけだから権能が無くなったところでできなくなるわけではないんだが、それでもやりやすさが違う。

 そうして自分の司るものに関わることなら大きな力を振るうことができるからこそ、多くの神は自身の権能を手放すことを嫌がる。雷と火山を司っていたにも拘らず雷の権能を放り捨てた挙句に火山の権能を分解して、火と山から出る鉱物を用いた鍛冶を司るようになったギリシャ神話の原典のヘファイストスは超特殊例だと言える。

 まだ人間がいない時代の地上。それは恐らくあまり楽しい物ではない。人間がいない以上できることはあまり多くは無いだろうし、地上の観察をしようにも動物しかいないならすぐに飽きる。知恵を持つ動物たちはお互いの縄張りから出ようとしないためにお互いが出会って家庭を作ったりと言うようなことは殆ど無いし、万が一であったとしても起きるのは恋物語ではなく殺し合い。それに、俺の見たことのない生き物が大量に地上を駆け回っている今、俺が下界に降りたらどうなるかわからん。と言うかまず間違いなく何人かついてくることだろう。それははっきり言ってまずい。

 

 ではどうするか。ここで思い出してほしい。

 

 俺の権能。いくつか組み合わせると……面白い物ができると言うことについ最近気が付いた。

 


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