甘い物としょっぱい物、そして喉を潤す水。この三つにより無限の連環が描かれ、溜まり行く美味さは連鎖する。
ポテチとケーキ並べて両方をつつきつつたまにお茶で口のなかをリセットしているのと状況的には変わらないが、甘い物と言うのが非常に少なかった時代においてはこの程度の事でも夢に見るほど羨ましい状況だったこともあるそうだ。
「あまい! しょっぱい! あまい! しょっぱい! あまい! しょっぱい!」
この男も、その連鎖に心を奪われた一人。甘い・しょっぱい円環はなかなか抜け出すことができないらしい。あまい! しょっぱい! あまい! しょっぱい! と何度も繰り返しながらクッキーとポテトチップスを交互に貪っている。
だが、この無限とも思える円環にも終わりと言うものが存在する。所詮は短時間で作り出したものだし、そこまでの量がない以上はそれがなくなるまでの時間はそう長いものではない。人間の一生から考えても短い時間で消えてしまうものが、神から見て長い時間持つ筈もない。あっという間にポテトチップスとクッキーは姿を消し、僅かに残った水が寂しく光を反射するだけになる。
元々、人間のような形で降臨したりしない限り食事を必要としないのが神格であり天使なのだが、必要としないだけで娯楽として楽しむことはできるらしい。ギリシャ神話のように食物に何か特別な効果があるわけでもないのに口にするのは、あくまでも娯楽のため。身体を栄養するだとか人間の食べるものを食べることで理解を深めようとするわけではなく、ただただ娯楽と信仰のためなのだ。
娯楽のためと言うだけあって多くの神は自身の好みの物以外は敬遠する。好きでもないものを捧げられたところで見返りとして何かを渡すことはなく、捧げられたそれがどれだけ貴重であろうとも気に入らなければ加護を与えるどころか天罰を当てる事すら考える。それこそが神格だ。我儘であり、独善的である。初めから神格だった存在で、我儘でも独善的でもない存在がいるものだろうか。
断言しよう。居ない。かつて地上に生きる動植物であったりすれば当時の記憶や意識によって対応が変わって来たりもするが、産まれたときから神であるならば人間の事だけを考えて人間だけを愛して、等と言う事はまずありえない。何しろ神の多くは自然の権化だ。最も多くの信仰を齎す人間をそれなりに愛することはあるだろうが、自然の中で同じように生きている動物や植物などの全てを滅ぼしてまで愛することはありえないだろう。
信仰に関しては、そうやって捧げられる物がどれだけ自分の舌に合ったか、そしてそれを用意するためにかけた手間などを見る。信仰が無ければ手間をかけることをしたがらないだろうし、信仰があればどれだけの手間をかけてもそれを苦労と思うことは無いだろう。狂信者こそ神にとってはありがたいものであるそうだが、俺は狂信されるのは正直困る。すでに狂信者が数人知り合いにいたりするし、一番やばい奴が俺の弟子でカレーの狂信者をやっていたりするが、まあ誤差だ誤差。在るか無いかと言う所で既に誤差では済まない差があるような気がするが、気にしない。気にしても変わらないことは気にしない。気にしてどうにかなることで、かつ俺に都合の悪い事だったら何とかしたかもしれないがな。
……流石にこいつらにカレーを出して中毒にする気にはなれないからな。いくらなんでも……なぁ?
※描くのが巫女だとは言ってない