山寺とも取れる場所に来る人間の大半は関係者か、若しくはとある目的の為に訪れる人間が殆どだった。
周囲一帯は緑が濃い為にここ以外に人の気配は少ない。その為に、周囲に聞こえる程の音が出たとしても、迷惑に感じる様な事は無かった。
刀華と胤栄が対戦した後、希望者全員と対戦する。
今回の参加者は気が付いていないが、そもそも宝蔵院槍術の最高師範からの教導、若しくは模擬戦などやりたくても流派意外の人間が手合わせする事は厳しかった。
事実、槍術とは言うものの、他の武器に対する造形が無い訳では無い。最低限の対策を立てる為にも一定以上の技量を持った人間が殆どだった。
その武器の事を深く理解するからこそ、その対策を練る事が出来る。そんな事もあってか、学生チームは無尽蔵とも取れる驚異的なスタミナを持つ僧侶相手に延々と戦っていた。
「今日はこれ位にしましょう。ここでの合宿も時事上、今日が最終日ですから」
「あ、ありがとう……ございました」
道場内を一言で表せば死屍累々の言葉がまさに適切だった。
これがプロの中での絶対的上位者だと誰もがその身に刻んでいる。当初こそはまだ対戦しても形にはなっていたが、最後の方は完全にスタミナが切れた状態となっていた。
肉体だけでなく、精神を完全に削り取る。ギリギリまで追い込んだ肉体と、完全にすり減った精神は既に悲鳴があがる程だった。
「そう言えば、今日は顔出しですが学園からお客さんが来る予定でした。私はこれで失礼させて頂きますね」
既に幾度となく骨身に刻む戦いをしたにも拘わらず、胤栄は息一つ切れた様子は無かった。
体捌きに更なる技術を加え、昇華する事によって最小限度の動きだけで相手を制す。幾ら実力があろうとも、連続して戦う事を完全に理解していないのであれば、この光景は当然の結果。
事実、道場内で転がっているのは破軍の学生ばかり。他の弟子達もまだ余裕が有る程だった。
当然の様に道場の床を掃除する。世界の一端に触れる事が出来たからなのか、誰もが望む未来は容易い物では無い事だけは実感していた。
胤栄が去った事で、周囲の空気は僅かに弛緩する。漸く長きに渡った戦闘が終結していた。
「こんな場所まで態々お越し頂き恐縮です」
「いえ。今回の件は貴徳原財団としてではなく、あくまでも貴徳原カナタ個人として来ていますので」
先程までは鬼神の如き戦いを見せた胤栄ではあったが、ここではそんな素振りは微塵も無かった。
普段はあまり使わない応接室には、これまた慣れていない弟子がお盆を持ちながら湯呑み茶碗に注視している。胤栄の分はともかく、客人のまでの粗相は如何なる理由があろうとも許されない。それが誰であっても同じだった。
今回の経緯に関しては、元々は西京寧音からの話が発端だった。しかし、当人でもある胤栄が不在の為に師範代の判断でどうこう出来る案件ではない。
時間も押し迫った事もあってか、寧音の師でもある南郷寅次郎から直接話が届いた経緯があった。
勿論、全員では無いが高弟レベルであれば誰もが理解している。今回カナタにお茶を用意した人間もその一人だった。
責任者が不在とは言え、もっと早く連絡すればそれ程大事にはならなかったはず。
しかし、興福寺側の不手際もあった為に、今回の様に、急なゲストに対しても細心の注意を払っていた。
「いえ。我々としてはそう言う訳には行きませんから」
下手に出ると言うよりも、寧ろ胤栄の性格による側面が強かった。
勿論、この場に居るのはカナタだけではない。風魔の四神の一人、『朱雀』の十六夜朱美が居る事も要員の一つだった。
胤栄の視線が僅かに朱美へと向く。幾ら精強な興福寺としても、風魔相手に無傷ではいられない事実があった。
「私は特に何も無いわ。そうね……敢えて言うなら青龍からお布施ってとこかしら?時間的にはそろそろだと思うんだけど」
胤栄の視線に気が付いたからなのか、朱美もまた改めて今回の目的を口にしていた。
元々ここには龍玄が用事で来ただけであって、朱美には関係の無い場所。ましてや頭領でもある小太郎もまた無関係だった。だからこそ、個人的な意味合いで朱美が説明する。そろそろの意味が分かったのは、この後十分後の話だった。
「態々申し訳ありませんね。我々も建前上は仏僧ですので」
「でしょうね。でなければこんな形で用意はしないはずだだから」
「折角ですので、滞在している学園の生徒にも幾分かは出そうかと思います。恐らくは精進料理だけでは厳しいでしょうから」
厳密に言えば破戒僧とまでは行かないが、肉類を口にする事は度々あった。建前と称したのは、偏に山中である為に時折保管している食料をあさりに来る獣を始末しているからだった。
当然来る獣はそのまま放置する訳には行かない。その結果として供養と称し、その日の食卓の彩となる事があった。
だからこそ、今回の様に直接的な物資がお布施となっている以上は拒む事はしない。龍玄もまたここに来て修行した事もあるが故の措置だった。弟子の一人が大きな荷物を運んでくる。その中にあったのは、ブランド牛の精肉だった。
「そうして下さい。その方があれも喜ぶでしょうから」
「成程。そう言うのであれば、例の噂は真実だと言う事ですか?」
「さあ。それは私では分かり兼ねますわ。それに頭領はまだ何も伝えておりませんので」
胤栄の言葉を朱美は遠回しに肯定していた。
実際に裏社会の中でも風魔に関しての情報は然程出る事は少ない。仮に出るのであれば意図的に流している可能性があった。
傭兵としての戦果はあらゆる筋から探る事は可能だが、それ以外に関しては案外と知られていない事の方が多かった。
実際に風魔に限った話では無い。幾つかの忍に関しても情報の取り扱いがどれ程重要なのか理解している為に、鵜呑みにするのは些か問題もあった。
朱美もまたその意味を理解しているからなのか、笑顔ではあるが気を許している訳では無い。言葉の裏側の意味を正しく理解出来たのは朱美と胤栄の二人だけだった。
「我々としても態々虎口に手を突っ込む様な真似は致しませんので」
「そうね。敵対するには少しだけ骨が折れるものね」
この朱美の言葉が全てだった。風魔としての戦力はどれ程なのかを十全に知る人間は居ない。しかし、ここに来た龍玄の実力を見ればどれ程高いのかは容易に想像が出来ていた。
実際に青龍よりも小太郎の方が力量はまだ高い。当然ながら伐刀者としてではなく、純粋な武芸者としての話。これで抜刀絶技が加われば、どんな結果になるのかは胤栄だけでなく寺としても考えたくはなかった。表と裏が交わる事は基本的にはあり得ない。だからこそ貴徳原の様に一部でも交じり合う意味が何なのかは考えるまでも無かった。
「訓練は厳しいけど、これだけは良いわね」
ステラは常に苛められた肉体を開放するかの様に大きな伸びをしていた。ステラの動きと同時に豊かな双丘がその存在を大きく示す。その動きにステラの周囲は視線が釘付けだった。実際にここに来てからの鍛錬は母国はおろか、一輝と続けたそれよりも苛烈な内容だった。
ズタボロになる道着の下は幾つもの痣が浮かんでいる。IPS再生槽を使えば消える物ではあったが、興福寺にはそんな物は無かった。その結果、水を使う事が出来る珠雫が破軍の人間を癒していく。
その結果、女性陣の肌はここに来た当初と同じだった。
「全く、無駄につく脂肪がどれほど治療に手間をかけたと思ってるんですか。少しは痩せたらどうですか?」
「……そりゃ、やられ過ぎたのは申し訳ないとは思うけど、私は太ってなんて無いから」
「ふっ。最初は皆そう言うんですよ。まったく駄乳をそんなにひけらかして……少しは自重したらどうですか」
珠雫の言葉には明確な敵意ともとれる程に棘があった。
ここが何も無い所であれば愚痴の一つも出るが、生憎とここには周囲に誇れる程の大浴場があった。
温泉ではないが、割と場所の特性上あつらえられた物。ここを初めて見たステラは思わず感動の声を上げたほどだった。気が付けば珠雫だけでなく、暮葉姉妹もここに居る。気が付くメンバーで不在だったのは、刀華位だった。
「誰が駄乳ですって!それを言うならシズクはどうなのよ」
「私のは無駄に大きいだけを誇る貴女とは違います。世間が言う所の美乳です。貴女の様に脂肪だけが詰まっている訳ではなく、夢と希望が詰まっていますので」
「その割には随分と慎ましい様だけど」
「どうやらわびさびの精神が分からないみたいですね」
ステラの言葉を鼻で笑いながら、周囲に異性の影が無いからなのか、浴室の中ではあけすけな話が繰り広げられていた。
実際に何がどうと言った話は既に初日の段階で出ているからなのか、今は違う意味での話が繰り広げられていた。
だからと言って互いに嫌悪感を出している訳では無い。初日の段階でそれを見切ったからなのか、他の人間は完全に二人の事をスルーしていた。
「今日も精進料理か………」
「寺に来たなら、ある意味当然だよ」
「でも、せめて動物性タンパク質の欠片位は欲しいわよね」
既に風呂場でのバトルなどおくびにも出さず、ステラは一輝と共に食事をする場所へと歩いていた。
強化合宿も残す所は後僅か。実際に一輝もまたステラの様に口にはしないが、内心は同じ様な事を考えていた。
純粋な栄養価の面だけで言えば、似たような部分は多分にある。
同じカテゴリーの物質ではあるが、両者には決定的な違いが幾つかある。実際には自分達が感じる差はそれ程では無かった。
厳密に言えばここでも動物性タンパク質は摂取している。ただ、今回の様に絶対量を出すだけの量が無いだけだった。そんな事実は誰も知らない。ブツブツ言いながらも歩くステラの鼻に少しだけ何時もとは違った匂いが届いていた。
「今日は皆さんにお出ししている物はお布施として頂きました。折角ですのでこの様にお出しさせて頂いています」
胤栄の言葉に誰もが感謝の念を示していた。口には出さないまでも、高校生の食欲には不可欠な食材。誰もがその言葉の裏を考える事無く、その料理に舌鼓を打っていた。
「久しぶりにここに来たが、変わらないな」
闇夜とも取れる程に暗い夜はある意味では侵入するには絶好の日和。
元々今回の入国は予定していないだけでなく、事前に察知した情報を確認したからこそ今に至っていた。
正式な入国ではなく密入国。元々巡回も少なかった港には一人の人間の影だけが蠢いていた。
男の眼下には二人で行動する警備の人間が周囲を警戒している。これが通常の警備であれば巡回も切れ目が無い程の人数を導入するが、生憎と今回の積み荷はそれ程高価な物は積み込まれていない。
仮に何らかのトラブルがあったとしても、被害額はそれ程にはならない証左だった。
一言だけ呟く男の言葉はそのまま闇夜に消えていく。男はまるで子供が玩具を見つけたかの様な表情を浮かべながら、今後の予定を考えていた。
「周囲に異常は無いか?」
「今の所は特に問題はありません」
「そうか。暫くはこのまま巡回だな。交代の時間まで後少しだ」
「そうだな。でも、ここまでやる必要ってあるのか?今回の積み荷はそれ程重要な物じゃなかったと思うが」
「そう言うな。荷主の指示だ。俺達は言われた事をただやるだけだろ」
「違いない」
取り止めの無い事を言いながらも暗闇の中で異常が無いかをゆっくりと確認していた。
ライトを照らす先にあるのは巨大なコンテナ。今回の警備は本来であればそれ程重要な物ではなかった。
ありふれたどこにでもある物資。仮に盗んだとしても扱うには困る様な物だった。
荷主の思惑は巡回先には伝えられていない。依頼された仕事をただ淡々とこなすだけの内容でしかなかった。
それなりに距離は離れているが、周囲には誰も居ない為に会話には困らない。そんな一時だった。
「そろそろ交代の時間だ。………おい、返事位しろよ」
先程までは直ぐに返って来た返事が突如として沈黙していた。
周囲には人の気配はおろか、動物の気配すらない。当然聞こえるのは自分達の声と歩く足音だけのはず。にも拘わらず、まるで耳鳴りでもするかの様に聞こえない空間に巡回していた男は僅かに警戒を高めていた。
周囲を見渡した瞬間、不意に感じた気配。自分の後ろから感じたからなのか、男は振り向いた瞬間、そのまま意識を完全に失っていた。
「君。これは何時届いた?」
「先程確認した限りでは、昨晩の様です」
「で、現在はどうなっている?」
「既に現場は所轄にて現地を封鎖し、現在は捜査の途中です」
「そうか……無いとは思うが、手がかりは?」
「いえ。今はまだ何も」
霞が関にある一室には秘書からの情報を聞いた長官が情報の裏取りを急いでいた。
実際に起こった事件はごく一般的にある様な事件のはずだった。
しかし、その場にあった死体には幾つかの不可解な部分がある。一つは死因となった原因が目視では見当たらなかった点。二つ目は毒物等による死因では無い点だった。
この時点で犯行に及べるのは伐刀者しかいない。恐らくは幻想形態による意識の遮断を知った後に何らかの形で殺害したと思われる点だった。
それだけではない。被害者の身元が直ぐに判別できない程に情報減としての部分は完全に排除されていた。
両手両足の指は完全になく、口腔内の歯も完全に損失している。それ以外の部分が綺麗な為に、破壊された部分は対比するかの様に凄惨だった。
写真を見ただけでも吐き気を催す。既に事案は警察レベルだけでなく侍局や検察、公安までもが動き出している。
あり得ない死因だけに犯人の予見は出来ないままだった。
「……仕方ない。既に伐刀者による犯罪に切り替えて捜査を続行してくれ。最悪は軍にも要請する事を視野に入れろ」
「了解しました」
伐刀者による犯罪は今の国にとっては軽視出来ない事が殆どだった。
最近になって随分と成りを潜めているが、『解放軍』の様なテロになればそれだけでも対処が難しくなっている。
特に今の時期は七星剣武祭の時期もあり、世界からも様々な人間がこの国に来る。その中には一部危険視される伐刀者も含まれていた。
この時期特有の現象。これまでが穏便だからと言って、今回もまた同じである確証は何処にも無い。
ただでさえ厄介な時期に起こった事件は、その関係者の精神をゴリゴリと削り取っていた。
秘書もまた同じ意識なのか、長官の指示に手早く通信を開始する。
一般的にはまだ知られていない水面下では様々な思惑が交差していた。
「それと、念の為だが、騎士連盟にも連絡しておいてくれ」
「承知しました」
長官の言葉に秘書は連絡を入れる為に退室する。机の上に置かれた所見内容に書かれていた物が事実だった場合、厄介事になる可能性は確実だった。
過去にも同じようなケースが数度あったが、そのどれもが今回の内容と同じ。同一犯で間違いはないが、本当の意味でこの事件が解決しない事だけは長官の中でも確定していた。
仮に伐刀者だった場合、何かと面倒になる事が多々ある。
一つは当事者で間違いと判断したにも拘わらず、その証拠が一切見当たらない点。幻想形態では理論上は当人に危害を与える事は出来ないとされている。しかし、その前提が覆されるケースがあった。
幻想形態と言えど、ダメージそのものはある程度は感じる。その結果として場所によっては一撃で昏倒する。しかし、その際に脳に強烈な死のイメージを叩きつけた場合はその限りではなかった。
仮に刃物が自分の躰を貫通した場面を直視した瞬間、脳に強烈なイメージを叩きつけられると、脳は直接的な危害を受けたと誤認する。その結果、その躰はまるでそれが事実であると勝手に判断し、肉体にまで影響が及ぶ事だった。
当時は荒唐無稽であると言われたが、実際に検証した結果、それが事実である事が確認されていた。
当然ながら肉体はおろか、直接的な損傷は一切与えていない。犯罪だと仮定した場合、立件が極めて難しい物だった。
検察が立証しようにも、相応の技量を持った伐刀者が居なければ、結果的には証拠がなく、実況証拠だけで終わる。いざ実証しろと言われてもやった本人の技量が全ての為に、その瞬間に手を抜けばそれで立証が不可能でしかない。
他の証拠を積み上げるとなれば、最初から凶器すら無い為に、法曹界でも物議を醸していた。
どこまでの線引きをするのかはそれぞれの判断に委ねられる。当局もその事実を知っている為に、結果的には剣技不十分で釈放になるしかなかった。
もう一つの点は実にシンプルだった。
純粋に捕縛出来るだけの能力が無い。この一言に尽きていた。
表向きは指名手配をすれば問題ないかもしれないが、そのレベルにまで達する人間は殆どが指名手配を何とも思わない。下手に通報などしよう物ならば報復措置を受ける可能性もある。そもそも法の番人が当事者を捌けないのであれば、結果的には当人を監視するより無い。
まだ人数はそれ程でも無い為に、大きな問題にまで発展していないだけの話だった。
司法だけでなく現場でさえも厳しい状況となれば、残る手段はただ一つ。それよりも上位の伐刀者を使った即断裁判しかなかった。
捕まえる事が出来ない時点でどうしようもない。ある意味では完全に実力が隔絶するが故の結果だった。
長官もまたその事実を憂う一人ではある。
理想と現実。この乖離を埋める為には同じ伐刀者を派遣するより方法が無いのは、ある意味では当然の事だった。
「………嫌だが、仕方あるまい」
長官は机の上にある回線端末のスイッチを押す。そこに繋がるのは、時事上の内閣の中心人物の端末だった。
都内の道場では興福寺にも劣らない程に熱気があふれていた。
元々の性質がそれを構築しているからなのか、まだ早い時間にも拘わらず、一組の男女がもたらす激しい戦いか神聖な空気を震わせている。
男は常に余裕を持っているが、女は終始追い込まれていた。
本来であれば無手を細剣。どちらが有利なのかは言うまでも無かった。
細剣が織り成す鋭い突きは全てが自分の狙った場所に到達する事は無い。
元々の武器としての特性を考えればあり得ない光景。しかし、女は最初からそれを想定している為に、一つ一つ躱されても気にも留めない。
寧ろその程度で攻撃が疎かになるならば苦労はしないとさえ考えていた。
「ハッ!」
一息の間に三本の剣閃が疾る。これが通常の相手であれば致命的ともとれる程の業のキレ。しかし、その剣閃が当人に届く事は無かった。
「まだ甘い」
三本目の剣閃が疾った瞬間、女の体制は完全に崩れていた。
完全な死に体。それを待っていたかの様に視界の端に浮かぶのは、一瞬で意識を刈り取る程の鋭い蹴り。
防御出来ないこの態勢、女に出来る事はその場から不様でも地面を舐めるかの様に転がるしか無かった。
女の素性を知っている人間であれば、あり得ない光景。
泥に塗れてさえも勝利の執念を絶やさない姿勢はある意味では闘争本能が働いている証拠だった。
間一髪で回避した視界の前を、刃を彷彿賭する程に鋭い蹴りが通過する。何も知らない人間であれば致命的な隙になるはずだった。
ここで一旦態勢と整える。時間にして刹那とも取れる程の時がそのまま勝敗を決していた。
地面に横たわる体躯をまるで当然の様に先程とは異なる蹴りが女の腹部を直撃する。
体制が低かった為に飛ばされる事は無かったが、それでも完全に敗北を決定付けるには十分すぎた攻撃だった。
男は油断なく残心のままに女を注視する。幾ら鍛えているとは言え、通常でさえも弟子を吹き飛ばす程の威力を持つもそれを直撃した為に、女はそれ以上動く事は無かった。
「それまでだ。誰か、別室へ運べ。それと治療をしてやれ」
「はっ」
油断する事すら無かったからなのか、男は汗は滲むが呼吸が乱れる事はなかった。
自身の肉体を研鑽する事により、既に拳の一つ、蹴りの一つが凶器となっている。治療を指示したのは、対面的な都合だった。
本来であれば態々付き合う必要が無い戦い。それを容認した以上、ある程度のケアは必須だった。
運ばれた事を確認したからなのか、男はそれ以上意識を向ける事はしない。まだ途中だった鍛錬の続きを黙々とこなしていた。
「で、その情報の精度は?」
「まあ、間違いは無いだろう。本当の事を言えば我々に言う必要すら無い情報なんだがな」
「だが、どうして今頃?」
「それは知らん。どうせ気まぐれだろう。だが、彼奴は俺と直接争った人間だ。油断は出来ん」
「それが俺とどう関係がある?」
「近々高額報酬の任務が来ると睨んでいる。例の一式は用意しておくんだ」
小太郎の言葉に龍玄は正確にその意味を理解していた。
例の一式とは青龍として行動する際に利用する装備一式。伐刀者だからと言って固有霊装頼りでは無く、万が一の事も兼ねた武器の一揃えだった。
本来であればこの道場の武器庫に保管しておくはずの物。それを寮の自室にとなれば、自ずとその意味は察していた。
だからと言って、態々自分から何かを行動する事はしない。専守防衛ではないが、何かが起こる前に処理すれば報酬が入らないからだった。
小太郎の言葉を理解したからと言って、龍玄が理事長の黒乃に進言するつもりもない。歯向かう人間は全て叩き潰す風魔だからこその考えだった。
「学内か近隣って事だな」
「具体的にはまだ調査してるが、その二択で間違いは無い。お前の事だ。手入れはしてるとは思うが、念には念を入れてくれ」
既に道場ではなく、和室一室だったからなのか、周囲に人影は無かった。
元々前線基地としての役割を果たしている為に、ここに小太郎が居ても違和感は無い。弟子達もまた時間だからなのか、既に道場は清掃作業へと移っていた。
「了解した。今日にでも準備しておこう」
既に鍛錬の時間は終わった為に龍玄もまた汗を始末していた。
気が付けば時間は既に一般的には動き出そうとする朝の時間帯。了承の意味で発した言葉によって、既に部屋の中には剣呑とした空気は霧散していた。
「なあ、せめて少し位は手加減した方が良かったんじゃないのか?」
「まさかだろ。死合とまでは行かなくても割と真剣にと言ったのは向こうだ。俺は要望をただ叶えただけだ」
「女の腹に蹴りは無いだろ?」
「阿保か。そんな分かり易い所で違う所を狙えば手抜きだと言われるのがオチだろ」
「…………だからお前はダメなんだよ。朱美からも言われてるんだろ?」
「大きなお世話だ」
その空気は紛れも無くただの親子だった。
小太郎に限った話ではないが、割と四神の誰もが任務と普段のギャップの差が大きい。
筆頭でもある小太郎もまた、裏家業の人間が思う部分だけしか知らないのであれば、これ程までに気安く絡む姿は呆気に取られる。
任務とは違った一面を始めて見た人間の殆どは驚きの余りに言葉に窮する程だった。
「そろそろ着く」
一言だけがギリギリ聞こえる程の声量に女もまた、返事ではなく頷く事で了承していた。
これが車であれば朝のラッシュに飛び込むかもしれない時間帯ではあったが、バイクである為に褒められた行為ではないが、常に道路をすり抜け学園までの道程を短時間で走っていた。
実際に道場から学園まではそこそこの距離がある。
行きは車が殆ど走らない為に問題は無いが、この時間帯はそれなりの数が道路を走っていた。
先程までの戦闘での剣呑さは既に無い。本来であれば自室でこれから朝食を取るのが何時もの予定だが、今日は既に道場で済ました為に、登校まで時間が少しだけあった。
「私の我儘に突き合わせてしまったみたいでごめんなさい」
「俺は特に問題にはしない。小太郎がそう言うから時間を作っただけだ」
何時もの場所にバイクを止め、龍玄だけでなく、女もまたヘルメットを外す。
豊かな金色の髪が解放されるかの様に肩まで流れる姿を見るのは龍玄以外には誰も居ない。そこには少しだけ申し訳ない顔をしたカナタの表情があった。
「ですが……」
「他の人間があそこまで行ってるんだ。自分だって何らかの訓練をした方が良いと判断した結果なんだろ。だったら気にする必要はないはずだ」
龍玄とカナタの組手はある意味は完全に教える様な内容となっていた。
刀華の様に殺気立った攻撃ではなく、純粋にカナタの技量を見切った上でギリギリの攻撃を仕掛ける。その結果として回避に失敗した為に強烈な蹴りを食らったに過ぎなかった。
直ぐに治療された為に痣になる事も無い。予選会とは違った内容ではあったが、カナタにとっては満足できる内容だった。
「とにかく、俺の事は気にするな。そんなに気にするなら本戦で勝ち上がるんだな」
「そうさせて頂きます」
バイクの充電を開始したと同時に、何時もの場所へとヘルメットを片付ける。その言葉に反応したからなのか、カナタの表情には先程までの憂いた表情は無かった。