雷使い ~風と炎の協奏曲~   作:musa

7 / 8
風巻大和

「両方とも派手だねぇ。ま、死なない程度に頑張って時間稼ぎをしてちょうだい、と」

 風術によって上空を飛翔する中、八神和麻はそんな手前勝手な独り言を漏らした。

 その和麻は、今単独で行動していた。

 風巻大和と風巻美琴の意を汲んで、敢えて二人を死地に残したままレンジローバーを発進させた和麻だったが、幾らもしない内に、風巻流也に襲いかかられてしまった。

 すぐさま車外に躍り出た和麻ともう一人の同乗者――神凪綾乃は、流也と対峙する。

 ――が、流也を前にしてもなお意気込む勇ましい神凪の姫君を、独りその妖魔(バケモノ)の前に置き去りにして、和麻は単身その場を離脱したのだった。

 もちろん、命惜しさに逃亡したわけではない。あのお嬢さんには目的を果たす上で、重要極まる役割を請け負ってもらったからだ。

 すなわち――囮、である。まぁ事後承諾になってしまったのは、不可抗力というものである。彼女の尊い犠牲は無駄にはするまい。

 そして、和麻は知覚力を最大限に拡げて封印の地を走査していた。いや、正確に言えば、捜索対象は三昧真火である。宗主の説明によれば、何でも三昧真火の内に風牙衆が奉じる『神』が封印されているらしい。

 三昧真火とは、一切の不純物のない『火』の元素(エレメント)の結晶。地上には存在し得ない天界――高天原(たかあまはら)にのみ存在する、赦しなく触れたモノを、悉く焼き尽くす純粋なる炎のことである。

 そうなれば、三昧真火をかき分けて封印の深奥に辿り着くことができるとしたなら、たしかに神凪の直系しかいないだろう。だからこそ、風牙衆は和麻の弟――神凪煉を誘拐したのである。

 とはいえ不幸中の幸いというべきか、なにせものが三昧真火であるだけに、和麻にしてみれば、太陽を見つけるのと同じくらいに簡単な作業だった。

「あれか――なら、我が弟は……見ーつけた」

 上空から封印の地の様子を、和麻ははっきりと見て取れた。神代から謳われる伝承の地であり、『神』が封じられた祠にしては、想像以上に小さい。

 周辺には、煉と風牙衆の頭領――風巻兵衛と数十人の配下の風術師が控えていた。宗主の依頼によれば風牙衆の人間の殺害は、やむを得ぬ事情がない限り御法度ということになっている。

 和麻個人の信条では、『人間を生贄にする奴は即刻死刑』と決めていたのだが、それが雇い主の意向とあれば、是非もない。どちらにしろ風牙衆ごとき、和麻の手にかかれば生かすも殺すも、たいした手間ではないのだから。

「それじゃまぁ、お仕事、頑張りますか」

 何処までも気楽にそう嘯くと、和麻は戦場へと降り立った。

 

 

             ×               ×

 

 

 風巻大和は劣勢に陥っていた。

 妖気と怨嗟に染まった黒い烈風の魔弾が次々と撃ち出され、大和はそのたびに手にした黄金の剣で、あるいは雷撃を召喚して迎え撃つ。

 一〇、二〇、三〇――そのすべてを斬り伏せ、燃やし尽くしてなお、敵の手数が途切れることはない。

 これぞ風使いの真骨頂。精霊術師の中でも“最速”と謳われる、風術師が誇りし至高の業。

 その事実をあらためて噛みしめながら、大和は手を緩めることなく漆黒の弾幕を蹴散らしていく。――が、できるのはそこまでだった。

 攻勢に移れない。攻撃が出来ない。敵が、姉が、誰よりも大切な家族(あいて)が、それをさせてくれない。

 いや、それ以前にそもそも自分は――本当に攻勢に移りたいと思っているのだろうか?

 考えるな、ソレは余計な思考だ。

 集中しろ。いま考える必要があるのは、いかにして春香を救うのか、ということのみ。それ以外はすべて些事である。……しかし、そうするには、春香の肉体ごと妖魔を焼き祓わねばならぬという矛盾を孕んでいるのだが。

 そして、その矛盾を解決してくれる筈の唯一の手段――浄化の秘力。

 だが、果たして自分は本当にあの力に、何よりも大切な姉の命を預けることを心底から同意できるのだろうか? 生まれてこのかた風巻大和の人生において、不幸と災いばかり撒き散らしてきたあの『炎』などに?

「!?」

 これまでにない規模の暴風の一撃を斬り払った大和だったものの、威力に圧されるあまり上体が僅かに泳いだ。

 その隙を妖魔は見逃さない。風の魔弾を防いだ影響で、いまだ乱気流渦巻く空間にも拘わらず、平然と横切り、怒涛の如く殺到する春香。振りかざすのは、手から伸び生えた爪剣。それを弟に向けて情け容赦なく振り下ろす。

 大和は咄嗟に剣を掲げて応じるも、体勢の不利ばかりはどうしようもなかった。あっさりと後方へと弾き飛ばされる。

 路面に放り出された大和は、二転三転しつつ即座に起き上がらんと図る。が、そこに妖魔の追撃の手が伸びる。

 それを気配だけで察知した大和は、そうはさせじと牽制による雷撃の一撃を見舞った。迸る雷撃の槍は一直線に春香目掛けて突き進む。

 だが、彼女は腕の一振りで風を起こし、雷撃をあらぬ方向へと弾き飛ばした。そのまま今度こそ何の障害もない間合いを走破し、再度襲いかかってくる。

 だが、大和とて先刻の再演を繰り返すつもりなぞ毛頭ない。既に万全の態勢を整えて待ち構えていた彼は、真っ向から春香と斬り結んだ。

 激突する黄金の雷剣と漆黒の爪剣。舞い散る火花とともに刃越しに交わる視線。普段の穏やかで優しさを湛えた姉の眼差しは、そこに欠片も見出せなかった。ただあるのは、底なしの憎悪と狂気にまみれた双眸だけである。

「く……っ」

 そんな場合ではないと弁えている。それでも激しい怒りと絶望で胸が押し潰されそうになる。

 いま大和の前に立っているのは、かつて姉であったというだけの、ただの怪物に過ぎない。その現実をまざまざと見せつけられる。

 だからこそ救い出さなければならない、それも今すぐに! そのための方法もとうに解っている。だが……

 何も大和とて浄化の秘力をもって、人々に憑いた魑魅魍魎を焼き祓うのは、これが初めての事態というわけではない。これまで退魔師として、その経験ならば幾度も積んでいる。

 なのに、この期に及んで大和が躊躇うのは、これまで浄化してきたのが所詮は低級な邪霊に過ぎなかったからである。つまりは、自らの『力』の由来に思い悩むまでもなく、あっさりと焼き祓うことが出来たのだ。

 だが春香に憑依しているのは、上級妖魔である。これまでと同じというわけにいかぬのは、道理であった。実際、大和を以ってしても全身全霊で『力』を振り絞らねばならない相手なのだ。

 もとより炎の性は――『烈火』。ひとたび術者の制御を離れるや、すべてを焼き尽くさずにはおかぬ激烈な破壊の力である。まして相手が上級妖魔であるならば、僅かな心の揺らぎが術式の制御を暴走させてしまうだろう。

 故に大和はこれまで深く考えずにいられた、己の身に宿る『炎』について直視せざるを得なくなったのだ。つまるところそれは、風巻大和とはそもそも何者であるのか、ということに他ならない。

 春香の猛攻を捌きつつ、そうやって大和が表情を歪めて苦悩する中――

『クク……どうした、大和よ? 随分と苦戦しているようではないか』

 ――低く陰湿でありながら、どこか喜悦の色を含んだ声が、そのとき何処からともなく響いてきた。

 風巻藤次である。どうやら近辺の山林に身を潜めて、大和たちの戦いの様相を覗き見ていたらしい。

『先日は何やら大言壮語なことを口にしていたようだが、蓋を開けて見ればその様よ。これで理解しただろう? 貴様には春香を救うことなど出来はしないということに!』

 耳障りな哄笑とともに嘲りを浴びせてくる藤次。

 大言壮語? 『俺は俺だ。それ以上でもなければ以下でもない』――あの言葉のことだろうか? 

 あの台詞の意味するところは、風巻にも神凪にも縛られることのない、「自分だけの道」を進み行くということにあった。事実、あの言葉自体に嘘はない。心からの本心である。――故に、そこにもう一つの矛盾が成立してしまうことに、今さらながらに大和は気づいてしまった。

 大和は、風巻の『風』でもなく、神凪の『炎』でもない第三の道――『雷』を選び取った“雷使い”である。

 だがいま大和が直面している状況は、ただの雷使いでは決して解決できない問題だった。なぜなら、妖魔に憑依された春香を救済せんと欲するならば、どうしても神凪の『炎』――浄化の秘力が必要なのだから。

 かくして、大和はこれまで貫いてきた自身の在り方を、真っ向から否定する挙にも出なくてはならなくなったのである。

 己の人生を歪めた『炎』に、最愛の家族の命を託さなければならない不安――

『炎』を行使することによって、これまでの己の道を否定しなくてはならない苦悩――

 二重の重荷が大和を責め苛む。力の行使に踏み切るのを躊躇わせる。姉を救わねばならぬと心は急くも、どうしても決心が定まらない。

 そんな大和の焦燥の念を嘲笑うかのように、藤次はからかう口調で言った。

『大和よ。貴様の大事な姉を救う方法ならばあるぞ』

「何だと!?」

 まったく予期しなかった言葉に思わず目を見開く大和。

『何、実に簡単なことだ。――貴様が死ねばいいのだ』

 そんな彼に、藤次は酷薄な色を帯びた口調で冷厳と告げるのだった。

 

 

 

 

 

「はあ……はあ……はあ……」

 同時刻、孤軍奮闘する神凪綾乃もまた妖魔(りゅうや)相手に苦戦を強いられていた。いや、戦闘の内容を詳しく検分すれば、大和の戦いよりもいっそう厳しいかもしれない。

 神凪家の至宝たる炎雷覇の一撃は悉く漆黒の爪剣に弾き返され、炎術による攻撃は風術によって完全に封殺される。なのに、流也の爪剣は風術は、振るわれる度に確実に綾乃の肌を切り裂いて血飛沫を宙に散らしていく。

 宗主が娘のために用意した、最高級の呪的防御を施した特注の学生服は、妖魔の攻撃の前にはただの布服同然の有様だった。

 近接戦闘能力、防御力、そして炎術師の専売特許である火力に至るまで、妖魔が綾乃のそれを大きく優越していることは明らかだった。

 綾乃が初めて経験する、遥か格上の相手。このまま戦い続けたところで勝機などない。その現実を誰よりも認識しながら、綾乃は必死に緋色の刃を揮い続ける。

 そんな怪物と対峙していてなお、恐怖と絶望に身体が凍えることは、ない。なぜならば、それを塗り潰すほどの激情が綾乃の胸の内でふつふつと燃え上がっているからだ。

「そこをどきなさい……どけって言ってるでしょうがァァァッ!!」

 名家の令嬢にあるまじき咆哮を上げて、神凪の姫君は懸命に抗う。

 何のために? 目の前に立ち塞がる流也を倒すためか?

 ――否、否、否!

 それは、あの裏切り者に天誅を下すためだ、あの卑劣漢を斬り捨てるためだ、八神和麻に呪いあれ! 

 もはや綾乃は流也など眼中にない。いまの彼女は和麻憎し――その一念のみで戦っていた。ゆえに、綾乃は不屈の闘志を胸に灯し、格上の相手にも怖じることなく立ち向かえるのだ。

 戦闘の火蓋が切られてよりこのかた、一体どれ程の時間が経過しただろうか。終始、無我夢中で剣を揮っていた綾乃は、まったく記憶していなかった。

 ふと気がついたそのときには、既に流也の姿は影も形もなかった。――倒したのではない。それだけははっきりと憶えている。ならば、一体何処に消えたのか?

 だが綾乃には、それに思いを致す余裕はなかった。酷く身体が重い。まるで自分の身体ではないかのように、思い通りに動いてくれない。

 無理もない。彼女の身体は至るところに裂傷を負っており、その傷口から体内に妖気が侵入し、心肺機能を破壊しはじめていたのだ。にも拘わらず、綾乃はその身体を押してさらに先へ進まんと、ふらふらとした覚束ない足取りながらも移動を開始した。

 勿論、流也を追撃するためではない。和麻に、あの卑劣な裏切り者に、正義の裁きを加えてやるのだ。その想いだけを胸に秘めて、綾乃は路面に血の軌跡を刻みながら、ゆっくりと歩み出す。

 すでに炎雷覇をきちんと持つ力もないのか、垂れ下がった右腕の先に辛うじて引っかかっているだけという有様だった。切っ先が地面に擦過し、耳障りな音響を奏でる。

 そんな風に歩くことしばらく、ぼやける視界の中、綾乃はたしかに仇敵(かずま)の姿を見咎めた。その傍らに小さな人影(れん)が付き従っているのを見届けたものの、綾乃の意中にはなかった。

「このっ……」

 綾乃は二人の前で立ち止まった途端、双眸から憎悪と殺意を滾らせて、卑劣な裏切り者に向かって断罪の刃を振りかざした。が、それを振り下ろす力は、もはや残されていなかった。崩れ落ちる身体と同時に、意識もまた深い闇の中へと沈んでいった。

 

 

 

 

 

「俺が死にさえすれば、姉さんは助かるのか……?」

 春香の仕掛けてくる苛烈な攻めの応酬を、剣を盾にして防ぎながら大和は静かに呟いた。

『そうだ! もとより貴様は生まれてきてはならない存在だったのだ。だから、その穢れた血を、その呪われた生命を、天へと還すがいい!』

 大和の言葉を聞きとがめたのか、藤次は嬉々として声を張り上げて答える。

 たとえ姿が見えずとも、いま山林の陰に身を潜める藤次の表情が、喜色満面に彩られているであろうことは一目瞭然だった。

 彼は期待している。大和の死の瞬間を。もっとも愛する者に殺されることによって奏でられる、絶望と悲嘆の断末魔の瞬間を。血肉を沸き立たせ、胸の鼓動に早鐘を打ち立てながら見守っている。

 それを脳裏で幻視して、大和は――自分自身の馬鹿さ加減を笑った。

 もし仮に大和がこの場で自害し果てたところで、風巻藤次が、風牙衆が、春香を解放するはずがない。間違いなくその命が尽き果てるまで、使役され続けられるだろう。

 つまるところ、大和の死は春香の死も同然なのだ。その現実が、逆に冷え切っていた彼の心に火を灯した。

 だからとはいえ、不安や苦悩が直ちに消え失せたわけではない。だが発想を逆転させうる切っ掛けにはなった。

 これまで姉の命をただ背負うことばかりを考えていた。だから、その恐怖に精神が怖気づき、その重さに身体が竦んだ。

 だが違うのだ。始めから背負う必要などなかったのである。なぜならば、現在の状況に際し、大和と春香の命は同義(イコール)なのだから。

 なぜ自分の命(、、、、)をあらためて背負う必要がある? 己の命であるならば、自分勝手に使い切ればいい。これまでがそうであったように。

 どうせ死ねばもろ共。これより試みるのは、心中覚悟の大博打。事後承諾になるものの、姉には黙って付き合ってもらうことにしよう!

 そう意気高らかに決するや、雷使いは腹の底に溜まりに溜まった怒りをここにきて解き放つ。

「フ――ッ」

 大和の全身から雷電が迸る。荒れ狂う雷火。のたうち回る紫電が大気を灼く。

 どうやら妖魔であっても生存本能はあるらしい。まるで死の恐怖に駆られるかのように春香は慌てて飛び退く。

 そして、その判断は正しかった。雷使いの行使する『炎』が変化する。黒曜石の如き荘厳なる漆黒へと。

『黒い雷……まさか、神炎だと!? 貴様、春香を殺す気かッ!』

 それだけは決してするまい思っていたのか、驚愕のあまり声を荒げる藤次。

 無論、否である。ただ大和は結末(エンディング)に気を遣わないことにしただけだ。幾通りも脳裏で再現される幸福と破滅の未来。それに一喜一憂するあまり現実の行動が疎かになった。

 故に――考えない。未来とは現実から派生する結果のことである。将来において起こり得る可能性だ。つまり、未来は何も決まっていない(、、、、、、、、、、、、)、ということである。

 ならば、そんなモノに心を煩わせる必要はない。それに、たとえ未来がどうであろうとも、大和の成すべきことは何も変わりはしないのだ。

 春香を救う。この世で唯一の家族をこの手に取り戻す。そのためならば、大和の胸の内でこれまで灯っていた偽りの誇り(、、、、、)を打ち捨てる。

 ――そも、風巻大和とは何者であるのか?

 決まっている。雷使いであると自らを定めた者である。

 そして、その在り方を誇りにすら思っていた。しかし、いま思えばそれは誇りに懐くほどの決断であったかどうか。

 結局は事実から目を背けるための逃避でしかなかったのではないか。そう、風巻大和が風巻と神凪の血脈であるという現実から。

 風巻も神凪も自分を嫌悪し否定した。故に風巻大和もまた風巻を神凪を嫌悪し否定する。

 その決断の末の“雷使い”。

 ……だとするならば、これほど滑稽な話もあるまい。結局のところ、自分もまたあれほど嫌悪していた者たちと同じことをしていたのだから。

 この自己矛盾から抜け出す方法は一つしかない。

 ――認めるのだ。自分自身に流れる二つの血脈を。

 雷使いという「殻」を自ら被ることで、現実を誤魔化すようなことはもうしない。自分は神凪と風巻の血脈を受け継ぎし混血児(いかづちつかい)。それこそが、風巻大和の正体であった。

「あああああァァァッッ!!」

 間違った不安を打ち払った炎術師が吼える。歪んだ苦悩を打ち壊した雷使いが吼える。新たな誕生の産声を上げるかのように、風巻大和は高らかに咆哮した。

 それに呼応するように、黒い雷が大和を中心に雷火の花を咲かせ、凄まじい勢いでますます猛り狂う。

 すると、大和の身体が突如、ふわっと羽毛のように軽やかに浮き上がった。雷使いの身体が地表から三メートル余りの地点で静止した途端、あれほど猛威を揮っていた黒い雷の嵐がぴたりと嘘のように鎮まり返る。

 そして――

 

「出でよ――建御雷神(タケミカヅチ)!」

 

 

 ――大和が召喚の言霊を詠唱した。

 凛然と輝く黄金の光が大和の身体を柔らかく包み込むや、広範囲に伸び拡がり瞬時に収縮して、巨大な人型を象る。

 身の丈は六メートルを優に超えているだろう。その巨大な体躯を、狩衣と呼ばれる日本の古い装束で包んでいる。……これだけでも充分すぎるほどに怪異であったが、何より驚愕するのは、その巨人の頭部。そこには、なんと雄々しい二本の角が伸び生えた牡鹿の頭が据えられていた。

 黄金色に輝く鹿頭人身の光の巨人。よりにもよって、この日本の地でそんな冗談じみたあり得ざる存在が顕現した。

『な、ななななんだ、それはぁぁぁ……ッ!』

 藤次の絶叫が周囲に響き渡る。

『――上級精霊』

 怪異なる姿に化身したにも拘わらず、不思議とその声は以前のままの大和の肉声だった。

 上級精霊。

 それは人々の想念――世界よ、かくあるべしといった、自覚無自覚問わず、諸人の祈りや願望を『世界』が受け取りカタチを成したモノ。

 ヒトの想念の結晶たる神話や伝説。それに名を遺す神々、英雄たちの伝承を『核』として、一群の精霊を一柱の神や英雄に見立てて、世界(ほし)が具現化させた神秘の存在。

 それが、上級精霊。

 これが、前回最強の風術師をして驚嘆せしめた大和の切り札だった。

 そして、風巻大和が招聘した上級精霊の名は、建御雷神(タケミカヅチ)。ここ日本で古来より奉られている一柱の『神』である。

 その怪異なる巨人が一歩前へ踏み出す。半実体化を果たしたために、本来精霊にはあり得ない筈の質量を帯びたのだろう、脚が踏み締める大地に衝撃が奔る。が、そんなことにまったく頓着することもなく、己は発生した瞬間からこうだったと言わんばかりに、鹿頭人身の上級精霊は春香目掛けて突進する。

 その偉容を目の当たりにした妖魔は、まるで怯えたように後ずさりすると、既に周囲の空間に装填済みだった漆黒の魔弾を次々と撃ち出しつつ後退をはじめた。

 砲火とともに絶叫する大気。空間ごと捩じきり奔る風の矢は、狙い過たず迫り来る巨人へと殺到した。

 結果は、全弾――命中。

 さもありなん。そもそも黄金色の巨人は、防御も回避も一切取ることなく、ただ愚直に突進を続けるだけであった。故に、この結末は必然だ。

 魔弾による一斉掃射の直撃に晒された爆心地は、狂ったように大気が渦を巻き、粉塵が巻き上がっている。

 そんな有様にも拘らず、春香はまだ足りぬとばかりに攻撃の手を緩めない。続々と射出される大気の弾丸は、ミサイルよろしくさらに爆心地へと放り込まれる。

『殺ったか……!? ハーハハハ、どうやらソレはとんだ見かけ倒しだったようだな!』

 その戦況を山林の奥から見届けた藤次は、高らかに勝利の凱歌を上げた。

 だから、気づかなかった。春香が攻撃を叩きつけながらも、着実に後退を続けているということに。

 これほどの猛撃を加えながら、未だ妖魔は臨戦態勢を解いていない。――警戒しているのだ。では、何を? その答えはすぐに出た。

 もうもうと立ち込める粉塵の中から、鹿頭人身の巨人が躍り出る。金色に輝くその巨体に損傷の痕は見受けられない。まったくの無傷である。

 タケミカズチはその巨躯に似合わぬ俊敏さで以って疾走を続行。相変わらず愚直な直進ぶりで春香へと肉薄する。

 無論、妖魔とてそれを黙って見過ごす道理はない。再度装填される暴風の魔弾。空間に固定された漆黒の砲台の数は、四〇挺を超えている。その照準がすべて黄金色の巨人へと向けられる。

 殺意を引き金として、放たれる黒い砲火――全弾一斉射撃。再度絶叫する大気。妖気に侵されて狂乱する風の精霊が上げる悲鳴とともに、暴風が雨となって降り注ぐ。

 まさにそれは先刻の再演だった。回避や防御を行わず、直進するタケミカズチ。そこに飢えたサメの如く殺到する魔弾の群。

 故にこの結末もまた繰り返されるのは、必然だったのだろう。

 容赦なく巨人を滅多打ちにする黒い暴風の一斉掃射は、だが――

『馬鹿な……効いていないだとッ!』

 ――何の効果も発揮しなかった。

 もはや脇目も振らず逃げる春香に、それを追うタケミカズチ。両者の間隙は、瞬く間に埋まっていく。その様子は、さながら荒熊が野うさぎを追い立てるかのような、見る者に哀れみを誘う光景だった。

 そこにはもう風牙衆の誇る切り札、強大な力を持つ上級妖魔の威風など見る影もない。黄金色の巨人の前にいるのは、ただの狩られるだけの獲物に過ぎなかった。

 やがて、ついに巨人の両腕が春香の身体をわし掴みにする。凄まじい絶叫を上げる妖魔。

 それは当然といえば当然の結果だった。なぜなら、鹿頭人身の巨体を構成しているのは、浄化の炎に他ならないのだから。

 従って、春香の身に危害が及ぶことはない。大和によって完璧に制御されているが故に。

 大和は苦悩と不安を乗り越えて、ついに宿願を果たし得たのである。

 ――いや、まだだ。最後の仕上げが残っている。

 依然、妖魔は巨人の手のひらの中で、しぶとく生き延びている。これを完全に滅することで、大和は本当の意味で姉を取り戻せたと言えるのだ。

 鹿頭人身の巨人は春香を収めたままの両手を、まるで大切な宝物を抱え込むよう己の巨大な胸元へと押しつける。すると、声にならない妖魔の絶叫が迸ると同時に、辺り一帯は清浄な黄金の光に包まれた。

 

 

 化身を解き本来の姿に戻った大和は、その両腕に春香を抱き上げたまま、ゆっくりと宙を下降していった。足先から静かに地面に着地を果たすと、大和は腕の中で眠る姉の容態を確かめる。

 春香の身体に巣くっていた妖魔は、既に欠片も残っていない。が、血色はあまり良くない。とはいえ、さっきまでの死人のような青白さに比べれば、遥かに生者の肌艶に戻っている。意識の方は依然戻らず、どころか時折苦しげに顔を歪めてさえいる。

 無理もない。浄化の炎はたしかに妖魔を焼き祓ったが、長期に渡る憑依によって春香の身体は、少なくないダメージが蓄積されている。さしもの浄化の炎といえど、その負傷までは癒せない。

 春香の身体を案じるならば、至急霊的治療の施せる専門機関に診てもらう必要があった。

 ……だがそうすれば、この場に集結した風牙衆を確実に取り逃がす羽目になる。

 とりわけ風牙衆の主犯格である風巻兵衛と風巻藤次。この二人にひとたび逃亡を許せば後々の禍根となり得るのは明白だった。個人的な報復を執行すると言う意味でも、是が非でもこの場で仕留めておきたかったのだが。

 やむを得ない。姉の安全と引き換えにはできない。

 業腹ではあったが、どうやら神凪陣営に後を託すしか他にないようだ。それに八神和麻の力量を鑑みれば、万が一にもあの二人を取り逃がすような事態にはなるまい。

 そう結論を下したそのとき、大和はこちらに近づく気配を感じて振り返った。

 学生服を着込んだ女学生――風巻美琴である。そう言えば、彼女もまた近辺の山林に身を潜めていたのを、大和は思い出した。戦闘が終息したのを見計らって出張ってきたのだろう。

「大和さん、お疲れ様でした」

 大和の腕の中で眠る春香を見遣って、美琴はほっと安堵の吐息をついた。

 大和はそんな美琴の様子を眺め見て、彼女が姉と親交があったことを思い出す。どうやら彼女は彼女で春香の身を案じてくれていたらしい。

「それで、何の用だ?」

 そう水を向ける大和に、美琴もまたすぐに応じてくる。

「大和さんは、これからどうするおつもりですか?」

「……姉さんを病院に連れていくつもりだ」

 大和は会話の意図を理解しかねて眉を顰めるも、別段隠すことでもないため正直に答えた。

「やはりそうですか。……大和さん、一つ提案があるのですが聞いていただけませんか?」

 大和の瞳を真っ直ぐに見つめながら、美琴は口を開いた。

「提案だと? なんだ、それは?」

 美琴の言葉にますます胡乱げな面持ちになっていく大和に、

「春香さんは私が責任をもって病院に連れていきます。ですから――大和さんには、長さまたちを追ってほしいのです」

 美琴はきっぱりとそう告げた。

 大和は驚きに目を見開いた。美琴の提案はまさに寝耳に水だった。まるで大和の葛藤を見透かしたかのようなピンポイントな話。――だが、実に魅力的な話であるのも事実であった。

 たしかにその提案に乗れば、大和も後顧の憂いなくして兵衛たちを追討することができるだろう。ましてや近辺に潜んでいた藤次は、既に逃走した後だろう。となれば、大至急追撃を仕掛けたかった。

 彼女に姉の身柄を預けるのは、少しばかり抵抗があるのは事実である。が、風牙衆の謀略に馳せ参じるどころか、こうして神凪陣営の一員として彼らの妨害作戦に赴いている以上、今さら美琴が春香に危害を加える可能性は極めて低いだろう。

 ……その理屈を頭では理解していながら、それでも素直に返事をできないのは、やはり春香から離れて行動するのに「少しばかり抵抗がある」程度では済まない自覚があるからだろう。

 美琴の信頼云々という話ではなく、ただどうしようもなくイヤなのだ。幼い子供が母親のスカートの裾を握り締めて放さないのと同じ理屈である。

 我ながら情けない有様だったが、一瞬でも目を離せば最後、再び誘拐されるのではないか、という恐怖がどうしても頭から離れてくれない。

 そうやって、いつまでも煩悶の渦から抜け出せずにいると――

「……行って……きな……さい」

 ――大和の腕の中から小さく掠れるような声が響いた。

「姉さん!?」

「春香さん!?」

 二人はともに凝然と春香に目を向けた。

 春香はうっすらと目を開き、苦しげに面持ちを歪めながらも精一杯言葉を紡ぐ。

「私は……もう大丈夫……だから……あなたは、自分のすべきことを……やりなさい……」

「――姉さん」

 姉の言葉を聞くや否や、大和の思考を曇らせていた迷いの霧は瞬く間に晴れていった。

 そうだ。この世に己の果たすべき使命というものがあるとするならば、それは姉を護ることに他ならない。

 そして、いまその使命を脅かしている障害は、風巻兵衛と風巻藤次なのだ。姉の安全は既に確保している。ならば、自分はあの二人の追討に全力を傾けるべきだ。

 ひとたび決断を下すと、彼の行動は迅速だった。無言のまま大和は美琴の両腕に姉の身体を、大切に大切に譲り渡した。

「行ってくるよ、姉さん」

「ええ――いってらっしゃい、大和」

 そして姉弟は、ほんの一時だけの別れの言葉を交わし合う。

 それを最後に大和の全身は黄金の輝きに包まれる。再度顕れる鹿頭人身の巨人。タケミカズチは、遥か上空へと一気に飛び跳ねてその場を後にした。

 


▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。