忌み子、鬼子、そして――血の裏切り者。
生まれてこのかた風巻大和は、そうやって蔑まれて生きてきた。
とりわけ子供たちは、無知と無邪気さによる残虐性を大和に対して発揮した。大人たちの大和に関するそうした雰囲気を敏感に感じ取り、暴力をもって血と泥の中で屈服と服従を強いてきたのだ。
そんな場合に限って、最後の防波堤として大和を守護するのは、決まって彼が身に宿した強大無比な『力』であった。この力こそが、大和を現在の境遇へと陥れた元凶にも拘らず……
運命が用意したその皮肉に、だが大和は笑う余裕などありはしなかった。なぜなら、彼の『力』は、身体を保護してくれても、
神凪家や風巻家にとって風巻大和という人間は、決して生まれてはならない存在だった――それを大和は物心がついた頃には、既に理解していた。
そんなことはない、風巻大和は生まれてきても良かったのだと、そんな風に彼の存在をあるがままに肯定し、受け入れてくれる人間は幼い大和の前には誰もいなかった。
実際、そうした面において実の両親は、まったく役立たずも同然だった。母親とは彼が生まれて間もなく死別していたので致し方なかったとしても、父親の方は息子に一切の関心を示さなかったのだから。
大和の記憶にある父の姿は、彼のすべてを拒絶するかのような後ろ姿だけ。頭を撫でられたことも、優しい言葉をかけられたことも、一度としてないまま父はある日突然逝った。
父の訃報の知らせを受けても、しばらくの間大和の日常にさほどの影響は見られなかった。
――無理もない。その頃には、既に大和にとって父親というモノは、いようがいまいが彼の人生に影響を与えうる存在ではなかったのだ。
何より、父や親族たちに長年に渡り疎まれ蔑まれてきた幼い大和の精神は、とうの昔に外界の一切を拒絶するように分厚く寒々しい氷の帳によって覆い尽くされていた。それは子供ながらの一種の自己防衛だったのだろう。
これ以上精神が壊れてしまわないように――
これ以上辛い想いを味あわないように――
幼い大和の精神は、深く冷たい闇の中へと隠れ潜むことを選択したのだ。
もしこのまま幼い大和の精神が、深い闇の奥底に沈んだままであったなら、彼の魂はどうしようもない程に歪みきっていただろう。
己の内的宇宙である氷の牢獄に閉じ籠ったまま、永久に囚われの身になっていたか、あるいは己をこんな境遇に追いやった者たちに、殺意と憎悪を募らせて復讐の業火に身を委ねたかもしれない。
だが、そんな事態に陥ることは決してなかった。
それは灰と氷に覆われた氷河期さながらの大和の心象世界の中で、突如暖かく優しい太陽の光が差し込んで来たからだ。
風巻春香。暗黒と寒々しい世界しか知らなかった幼い大和に、光明と暖かな世界もあるのだと、教えてくれた女性。
――大丈夫、あなたはもう大丈夫だから――
彼を抱き締めながら、そう囁いてくる声が風巻大和の本当の意味での人生の幕開けだった。
× ×
新幹線の車内に設けられた個室の中に、四人の男女が乗り合わせていた。二〇歳前後の男二人に、一〇代半ばの女子高生と思しき女の子二人。
一見するだけならば、何だか遠出のダブルデートでも愉しんでいる風情である。エアコンも程よく効いており、室内は予約制のため他の乗客に侵入される心配もない。
そうすると、室内はさぞや緊張と興奮が入り交じった、ピンク色の春の花々を連想させる初々しい会話で華やいでいるに違いない。
……普通ならそう想像するだろう。だが現実はそんな愉しい想像とは裏腹に、室内はギスギスとした険悪な雰囲気に満ち満ちており、まるで冬の肌を刺すような荒涼たる空気がその場には充満していた。
「……」
「……」
「……っ」
「ハ……ハハハ……」
女の子の一人が対面に差し向かう男二人を凄い剣幕で睨みつけているが、男どもは我関せずとばかりに超然と座席に身を預け、寛いでいる。もう一人の女の子がそんな様子を何かを諦めたかのような乾いた笑み溢しながら、見守っている。
四人の男女――八神和麻、神凪綾乃、そして風巻大和、風巻美琴は、揃って同じ新幹線へと乗り込み、一路、京都を目指していた。
こんな奇妙な経緯に至ったのには、もちろん理由があってのことである。
風巻藤次率いる風牙衆たちが退却した後、大和と美琴は手短に今後の行動方針について相談し合った結果、すぐさま神凪邸へと赴くことで意見の一致をみた。が、両者の考えは見事なまでに食い違っていた。
美琴はあくまで神凪家に忠誠を誓う一術者として、神凪宗主へと現状において彼女が把握している限りの情報を報告する義務を果たす。その折に風巻の人間として同胞たる風牙衆の者たちの助命を嘆願するつもりだった。
一方大和はといえば、藤次が最後に言い捨てた神凪の聖地なる場所の情報を宗主から聞き出す腹である。そのためならば、いかなる手段の行使も辞さないつもりだった。
二人の想いは、方向性は違えど、不退転の決意で臨んでいるという点では同様であった。それはきっと互いに譲れぬものがあるからだろう。
そして各々の覚悟を胸に秘めて、大和と美琴は神凪邸の門前のすぐ間近までというところで立ち止まった。なぜならば、二人はたちどころに予期しなかった異変を目の当たりにする羽目になったからである。
なんと神凪邸の門前の辺り一帯で、一〇数人の神凪の術者たちが折り重なるようにして倒れ伏していたのだ。何者かの襲撃の跡であることは一目瞭然だった。
当然、このとき大和と美琴の脳裏には風牙衆の存在が過ったのは言うまでもない。急いで二人は門を潜った途端、邸内を何やら慌ただしく動き回る神凪の分家の術者たちとばったり鉢合わせた。
瞬間、蜂の巣をつついたような騒ぎの後、たちまちの内に数十人に及ぶ炎術師たちに包囲されてしまったのである。
この時点での大和と美琴が与り知らぬことではあるが、このとき宗主直々に風牙衆全員の拘束命令が発令されていたのである。二人は何とも間の悪い時に神凪邸へと戻ってきてしまったのだった。
一触即発の緊迫した空気の中――主演役者を変えて門前の惨劇の再演を邸内で繰り広げられるのを救ったのは、やはりというべきかこの時も神凪重吾だった。
騒ぎを聞きとがめ、
さらに、ここでもちょっとした騒動があった後、当初は重吾、和麻、綾乃の三人だったこの場に、偶然にも大和と美琴二人を加えることによって、ようやく一連の事件についての完全な真相が判明した。
まず神凪邸襲撃事件の真の首謀者は風牙衆であること。風牙衆は強力な妖魔を風巻流也に憑依させて制御化に置いていること。大和は春香を人質に捕られ、風牙衆に従わざるを得なかったこと。
その春香も今は流也と同じく妖魔に憑依させられ、風牙衆の支配下に入っていること。風牙衆の最終目的は、かつて彼らの力の根源であった『神』を封印から解き放つこと。その封印解放の鍵となる神凪家の直系――神凪煉は既に風牙衆に誘拐されたこと。
そして、最後に封印の地は、炎神たる火之迦具土を祀る霊山。地上にありて、天界の炎燃ゆる契約の地。即ち――京都。
それらすべての情報を共有し合った一同は、かつての事故の影響で実戦に赴くことが叶わない重吾と、ある事情により決戦に不参加を余儀なくされた神凪燎を神凪邸に残し、四人は宗主が手配した京都行きの新幹線へと飛び乗った。
そして――今に至るというわけである。
気に入らない、気に入らない、気に入らない!
どうしようもなく綾乃は、対面に座っている男たち――和麻と大和が腹立たしくて仕方がなかった。
そんな激情が迸るあまり殺気混じりの視線を投げつけるも、二人は微塵も気にした様子がない。
和麻は悠然と脚を組み、煙草をくわえて、ぷかぷかと紫煙を燻らせていた。一方大和は腕を組み、眠るように目を伏せていた。
よりにもよって、なぜこんな二人と共闘しなくてはならないのか。……たしかに力量の程は認めよう。
綾乃とて神凪家次期宗主である。その地位を占めるに適した、相手の力量を見抜く洞察力ならば養ってある。間違いなく和麻と大和は、自分を凌駕する術者たちだろう。もっともあくまで現時点では、というただし書きがつくが。
それでも所詮この二人は、神凪の異端児ではないか。つまるところ、部外者も同然である。神凪家の存亡がかかっているこの重要極まる一戦に、馳せ参じるに相応しい「格」の持ち主たちでは絶対にない。
なのに、父重吾は明らかに自分よりも和麻や大和を高く評価していることが、綾乃の不機嫌をよりいっそう助長させていた。
「ふぅ……」
猛る気炎を何とか深呼吸一つで鎮め、綾乃は男どもに問い質す。
「ちょっとあなたたち、随分とリラックスしているみたいだけど、少しは作戦とか立てた方がいいんじゃないの?」
もし父親が見ていたならば、泣いて喜びそうな程の自制心の発露であった。
「――と、神凪さん家のお嬢さんが言っているが?」
綾乃が投げかけた会話のボールを、あっさりと大和に投げ返す和麻に、
「知るか」
速攻でキャッチボールを放棄する大和。
「~~~っ!」
男たちの素っ気ない対応に、綾乃はまたもや胸の内で怒りの炎が燃え立つ。
「実際、作戦を立てたければ、八神とだけ話し合え。俺は関係ない」
まさかそんな綾乃に気を遣ったわけでもないだろうが、大和はもう一度口を開いた。
「なんでよ? あなただってあたしたちと一緒に戦うんじゃない。なら関係は大ありよ!」
さも自分だけは部外者だと言わんばかりの大和の言い分に、綾乃はますますいきり立つ。――ついさっきまで彼女はその心中で、彼らはただの部外者ではないかと、口酸っぱく非難していたことなど既に綺麗さっぱり忘却していた。
「そもそも俺は、お前たちと共に戦うつもりはない」
「はあ? それじゃあ、あんたは京都に何をしに行くつもり? 遊びにでも行くの?」
戦闘放棄も同然の大和の台詞に、鼻を鳴らして皮肉る綾乃。
「俺は姉さんの相手をする。だから、その間お前たちは流也とでも遊んでいろ」
皮肉に皮肉で返されて、綾乃はやや鼻白むも負けじと言い返す。
「誰が誰の相手をするなんて、そんなの解んないでしょ! 結局は風牙衆の都合次第なんだし」
「――いいや、解る」
大和は即答で応じた。
「なんで、そんなことがあんたに解るのよ」
綾乃は怪訝な表情で疑問の声を上げるも、だが大和は押し黙ったまま一向に口を開こうとしない。どうやら説明をする気はないらしい。
そうと察した綾乃は、溜まりに溜まった怒りを爆発させようとしたそのとき――
「綾乃さま」
――綾乃の隣に腰かけていた美琴が彼女の腕をそっと掴んで、静かにかぶりを振った。
「美琴?」
驚いてすぐ傍らに視線を移すも、かつての従者の顔は、苦痛と哀しみが刻まれていた。
「どうしたっていうのよ……」
綾乃は訳も分からず困惑する。
「鈍い奴だな、まだ解らないのか?」
今まで煙草を吸いながら、面白そうになりゆきを見守っていた和麻が、ここにきて口を挿んできた。
「だから何をよ!」
「要は、共に想い合うこいつ等姉弟が、壮絶に殺し合う姿を心底から見たいと思って入る奴がいるってことだ」
当初、綾乃は和麻が語る言葉の意味を上手く飲み込めなかったようだが、理解が及ぶにつれて、みるみる内に顔を青褪めさせた。
「な、何なのよ、その外道はっ!」
言葉を失う綾乃に、和麻は何か不愉快なことでも思い出したのか、顔をしかめて吐き捨てるように答えた。
「いるんだよ、そういった外道が
「……だったら尚更作戦が必要じゃない! 実質、敵は妖魔に憑依された二人だけでしょ。ならあたしたちの方が戦力的には優位なんだし、全員で一気に畳みかければ――」
綾乃は言いさした言葉を失う。そうせざるを得なかった。目の前から放たれる濃密な殺気の渦に身体が搦めとられ、指一本とて動かせない。
「いいか憶えておけ、神凪の後継者。姉さんを傷つける者は、誰であろうと許さん。必ず殺してやる」
大和は冷酷な死の棘を含めてそう告げた。
神凪の姫は、ただ頷くことしかできなかった。そうすることが、屈辱だとすら思えなかった。反抗はおろか反論すら死を招くと本能が理解していた。
そんな綾乃の様子をじっと見定めた大和は、不意に視線を隣に転じる。
「八神、お前もだ。解ったな」
「オーケー、俺もそれで構わないぜ。厄介な妖魔を一体引き受けてくれるってんなら、こっちも楽が出来ていいしな。――なあ、
和麻はいつものへらへらと締まりのない笑いを浮かべながら、だが彼女を呼ぶその声だけは強烈な力が込められていた。
「……ぁ」
恐怖によって呪縛されていた綾乃の身体は、和麻の声に打たれて、ようやく自由を取り戻した。
「はあ……はあ……」
荒い息と震える身体を何とか鎮めつつも、綾乃は大和を睨みつける。今この瞬間に、抵抗の意思を示しておかなければ、二度と逆らえなくなる。神凪家次期宗主の誇りに賭けて、そんな無様だけは晒すわけにはいかなかった。
そうした彼女の精一杯の強がりを、しかし大和は目もくれず、まったく興味もなさげに腕を組み、再び自己の世界に没入した。
「く……このっ」
綾乃は怒りを露わにするも、結局、それ以上何かできるはずもなく振り上げた拳を下げるしかなかった。
「そーそー、人間、平和が一番だぜ」
茶化す風に語りかけてくる和麻を、綾乃はきっと睨み据える。
そして、相変わらずぷかぷかと旨そうに煙を吸い込む、まさにニコチン中毒者そのものなその姿を視界に入れた途端、さっき助けられた件について礼を言う気も失せた。
(――最低)
それは自堕落なジャンキーに向けての言葉なのか、それともあんな奴に助けられなければ呼吸一つままならなかった、不甲斐ない自分自身に向けての言葉なのか、綾乃にも解らなかった。
「あたしもう寝る」
一方的に宣言すると、彼女は目蓋を閉じた。少しも制御できない、苦い己の感情を意識の奥に追い散らし、甘い眠りのことだけを考える。数秒後、綾乃は完全に夢の世界へと旅立って行った。
「和麻さん、少し話があるのですが……」
「なんだ?」
「風牙衆の件についてです」
「あー、それか。宗主にも念を押されているからな、一応善処はするさ」
「……はい、よろしくお願いします」
和麻と美琴の一連の会話を左右の耳で聞き流しながら、大和は深く黙考する。
風牙衆の思惑も、宗主や和麻、美琴の目的も興味はない。今考えるのは、この手に姉を取り戻すことのみ。
そのためならば、風牙衆――とりわけ風巻兵衛や風巻藤次に対しての憎悪や復讐すら二の次、三の次に堕する。
いまの大和に余計な思考を割いている余地はない。上級妖魔に憑依された人間を救い出すということは、大和ほどの術者をもってしても困難を極めるのだ。
僅かな失敗は、もちろん即己の死に繋がる。――が、そんなことは些細な問題である。大和が本当に恐れているのは、その僅かな失敗で春香を殺してしまう可能性があることである。
大和は自らの力量に絶大な自負を抱いている。だがそれは、あくまで敵を打倒するという一点に尽きる。故に、浄化の秘力をもって妖魔のみを祓うとなれば、話は違ってくるのだ。
浄化の炎――大和のみならず、多くの人々の生涯を狂わせた元凶たる力。一時は疎み呪ったこともあるこの力を、大和は今となっては何ら思い煩うことは、ない。
……その筈である。だが、もし仮にこの力に対して、大和が気づかぬうちに一片の疑念でも胸に懐いているとするならば、浄化の炎は完全にその威力を発揮できず、妖魔だけでなく春香をも巻き込み、滅してしまうかもしれない。
つまるところ、大和にとって妖魔に憑依された春香と対峙するということは、八神和麻が父厳馬と戦った状況と同様に、自分自身の過去の「弱さ」と向き合うことに他ならない。
そして和麻は、父親を超えることによって過去と決別した。ならば――
(奴に超えられたというなら、俺にもできないはずがない)
隣にいる男に強烈な対抗心を燃やしつつ、大和はそう誓った。
× ×
一行は京都駅に到着すると、宗主が移動手段として手配した車を受け取るべく、駐車場へと直行した。指定された駐車スペースに四人を待ち受けていたのは、威風堂々たる佇まいの4WD車であった。
レンジローバー。四輪駆動のロールス・ロイスとも称され、イギリス王室御用達のロイヤルカーとしても採用された経歴を有する高級クラシックカーである。
和麻は重悟から預かった鍵を使用し、レンジローバーの運転席に乗り込み、大和は反対側の助手席に座り込んだ。綾乃と美琴は後部座席のシートに身を預ける。全員が乗り込んだことを確認した和麻は、エンジンに火を入れて、アクセルを踏み込んだ。
一行を乗せたレンジローバーは、しばらくの間、古色蒼然とした京都の街並みを堪能する観光ドライブを続けていたが、やがて市街を離れて開発の手が及んでいない深い山林の間を縫うように敷設された国道線に出た。
「もう! 一体いつになったら着くのよ」
京都市内では窓から窺える景色を、観光客さながらに愉しんでいた綾乃だったが、車が山間部に入ってから、走れど走れど一向に変わらない景観にいい加減飽き始めたらしい。そんな文句を言いだした。
「俺は観光バスの運転手じゃないぞ」
和麻はバックミラー越しに後部座席の不満顔なお嬢さまを一瞥し、呆れたように呟いた。
「ただ、そろそろそんなことは言えなくなりそうだぞ? ――いたぜ!」
顔を引き締めて、和麻は前方を凝視する。行く手の路上に人影を見咎めたのだ。
春香だ。彼女は舗装路の中央に平然と独り佇んでいた。和麻は既にブレーキを踏んで、減速をかけていた。レンジローバーの優れたブレーキ機構は、乗り手の意に応えて直ちに車体の運動エネルギーを消失させ、停止させた。
「全員出ろ!」
和麻に言われるまでもなく、大和はいの一番にドアを開け放ち、飛び出るように路上に躍り出る。和麻も同時に車外に出た。遅れて後部座席の二人が慌てて降りてくる。
「嘘、何て妖気なの……」
四人の中で、唯一始めて妖魔を目の当たりにする綾乃が、掠れた声を漏らす。
「お前たちは早く行け」
変わり果てた姉をじっと見つめたまま、大和が三人に先を促した。新幹線の中で宣言した通り、彼は独りで戦うつもりなのだ。
「そんじゃまあ、お言葉に甘えて楽をさせてもらうとするか。乗れ、綾乃」
和麻は綾乃に声をかけると、すぐさま運転席へと乗り込んだ。
「ちょっと待ちなさいよ!」
慌てて再度後部座席に座ろうとした綾乃は、レンジローバーの反対側で降り立ったきり、まったく動く素振りを見せない美琴に気づき、眉を顰める。
「美琴、何をしているの、あなたも早く乗りなさい」
「いいえ、綾乃さま。私はここに残ります」
かぶりを振りながら、美琴にきっぱりとそう告げられ、綾乃は驚きに目を丸くする。
「な……何を言っているのよ!?」
「和麻さんがおられるのならば、今の綾乃さまに私は必要ありません。むしろこの場にこそ、私は必要だと思います」
たしかに風術師として和麻と美琴の力量は、天と地ほどの隔絶とした差がある。そうである以上、綾乃たちに随伴したところで、彼女に出来ることなど皆無に等しいだろう。それ故に、この場に残るという選択は、充分に理にかなっている。
「それは……はぁ、解ったわよ」
それが理解できたのだろう、綾乃は不承不承頷いた。
「綾乃さま、どうかご武運を」
そう言って、美琴は深々と頭を下げた。
「あなたもね」
綾乃は頷いて答えると、車内に乗り込んだ。
それを待っていたように、和麻はレンジローバーを発進させた。春香の脇を通り過ぎるも、彼女は微動だにもしなかった。
やはり事前に予期していたように、標的は大和のみなのだろう。瞬く間に鬱蒼とした山林に阻まれて、レンジローバーは視界から消える。
「おい、俺はお前など必要としていないぞ」
それを見届けた大和は視線を春香に固定したまま、美琴に向かって冷酷な色を帯びた言葉を吐く。返答次第では只ではすまさぬと、言外に語っていた。
「安心して下さい。お二人の戦いに介入するつもりはありません。ですが、それ以外に私にも出来ることはあります」
美琴は一切動じることなく、冷静に答える。
「……いいだろう。何をする気か知らないが、手を出すつもりがないのなら、後は好きにしろ」
低い声でぽつりと呟くと、大和はゆっくりとした足取りで春香へと近寄り、対峙する。
距離五メートル余り。二車線道路に車両なし。人影なし。戦闘の場としては悪くない環境である。
春香の両手の爪が、妖気に侵されて漆黒に染まり、爪剣の如く伸び拡がる。一方大和の右手には雷光が煌めき、黄金の剣が瞬時に形成された。
両者ともに交し合うべき言葉はない。大和にその意思はなく、春香にその機能がない。姉弟がいま持ち合わせているのは、攻撃する意思であり、機能だけ。
故に――大和と春香は真っ向から激突した。