風の精霊は、メッセージをきちんと彼に届けてくれただろうか。
何もない夜の闇を映し出すばかりの窓の外に目をやりながら、彼女――風巻春香は憂いに満ちた面持ちで風巻大和のことを想った。
春香を姉と慕う大和であるものの、彼女たちは実の姉弟というわけではない。等親が幾分か離れた親族である。
だが幼い頃より共に過ごした絆は、実の姉弟同然に強く、そして深い。――だからこそ、それを最もよく知る「敵」に利用されたのだ。
それが、風牙衆――風巻春香が属する一族の総称であり、風巻大和がついに溶け込むことが叶わなかった組織である。
哀れな子だった――などという同情と憐憫は、誰よりも誇り高い彼を傷つけるだけだということは解っている。しかし、それを誰よりも知る春香であってもなお、大和の半生を憂いなくして想うことはできなかった。
『炎』が大和の運命の流れを激流に変えた。あの力さえなければ、きっと大和はもっと穏やかな人生を歩めたに違いない。そう、彼の両親とともに、今も……
大和の両親は、既に早世している。だが意外に思われるだろうが、実のところ、大和は
そう、風巻大和は、その身に『神凪』の力を宿しながら、たしかに『風巻』の血が流れているのだ。
その事実は、科学的にも証明されている。そして、それはもちろん神凪、風巻両家にも伝わっていた。
にも拘らず、大和一家を取り囲む両家からの軽蔑と敵意の視線は、まったく取り払われることはなかった。
おそらく両家の人々は、DNA鑑定という最新の科学技術による目に見えにくい「証明」よりも、大和の身に発現した『力』という実際の目に見える「現実」を重視したのだろう。
即ち――風巻大和という人間は、その母が不義を働いた末に生れ落ちた“悪魔の仔”であると。
そんな周囲の雰囲気を感じ取ったのだろう、ただでさえ出産により身体を壊していた大和の母親は、その無行の圧力に耐えきれず、結局、快癒することなくそのまま病没した。それから数年後、大和の父親もまた任務中の事故により他界した。
こうして大和は、一〇歳になる頃に孤児の身となったのである。その後、大和の境遇に同情した春香の一家が、周囲の一族の反対を押し切り、それとなく彼の面倒を見てきたのだ。
その春香の両親も既に他界している。だからそんな彼女たちにとって、いまや本当の意味で「家族」と呼べるのは、お互いのみであった。
大切な家族、別ち難き絆。それが今、春香の同胞と呼ぶべき人々の手によって利用されている。いや、もしかしたら風牙衆にとって既に春香は同胞ではないのかもしれない。
そう、孤児だった大和を家族として迎え入れた、一〇年以上昔から。
物思いに沈んでいた春香の耳に、ふと部屋の外から足音が聞こえてきた。その足音は扉の前で止まると、
「
皺がれた声とともに部屋の扉が押し開かれ、一人の男が現れる。全身から陰惨な気配を漂わせた不気味な老人である。
「……長、さま」
表情を厳しく引き締め、春香はそう呟いた。
この老人こそが、風牙衆頭領、風巻兵衛である。
風牙衆の長年に渡る神凪家の怨讐と憎悪を晴らさんがため、ついに復讐計画を実行に移した首謀者。そして、そのために春香を誘拐し、大和を意のままに操り、無理矢理に彼をこの謀略に利用している人物でもあった。
その一族の長を前にして、春香は意を決して嘆願する。
「長さま、私はどうなっても構いません。ですから、どうかお願いします。大和は解放してあげてください!」
あまりに必死な春香の様子に、兵衛はさも面白いものを見たとばかりにクックックッと愉快気に喉を震わす。
「おお、何とも麗しい姉弟愛じゃのう。だがそれはできぬ相談じゃて。あの“血の裏切り者”には、まだまだ役に立ってもらうつもりじゃからのう」
兵衛の言葉を聞き、春香は怒りのあまりに顔色を朱に染める。
血の裏切り者――それは風巻と神凪が大和に押し付けた蔑称だった。
仮にも同じ「組織」に属しながら、長きに渡り反目し合ってきた両家は、大和の存在によって各々の血統の誇りと伝統を汚されたと感じ取ったのだろう。奇しくも、まったく同様の
そんな時だけは、風巻と神凪はお互いに懐く感情を忘れ去り、まさに息ぴったりな以心伝心ぶりを発揮したのだ。その皮肉に春香は、寂しい笑いを溢さずにはいられなかった。
だがしかし、いったい大和が何をしたと言うのか? 子は親を選んで生まれてくることはできない。
結局、すべての人間は、多くの面において運命という巨大な大河の流れに身を任せる他にないのだ。己の出生などは、その最たるものと言えよう。
だからこそ、自身の力ではどうしようもない領域のことで、大和を非難するのは、あまりに理不尽な仕打ちであった。
だが風巻と神凪の一族の者たちは、その春香にとって当たり前な物事の道理に、誰も思い致そうとはしない。その事実に春香は、ずっとやるせない想いを懐いていた。
「くくく」
だがそんな彼女が悩み苦しむ様は、兵衛にとって心底からの愉悦であるらしい。
窪んだ眼窩の奥から、まるで鬼火のように炯々と輝きが灯り、春香の全身を舐めるように凝視した。
改めて見ても、ひと際美しい娘である。美人にありがちな、何処か対面する者を威圧するような硬質な雰囲気はまったくなく、むしろそれとは逆に、穏やかな気持ちにさえさせてしまうのは、慈愛溢れる彼女の人柄の成せる業かもしれない。
とはいえ、真の意味でいま兵衛を愉快にさせているのは、春香の
いよいよ、かねてから計画していた、
その瞬間を想像するだけで、兵衛は愉快でたまらなかった。
「だがのう、春香よ。我が風巻家の直系の一人たるお主がそこまで懇願するのなら、儂もそこまで鬼ではない故、大和の処遇について考えてやらんでもない」
そんな本心をおくびにも出さず、老風術師はさも心から春香を案じている風に語りかける。
「ほ、本当ですか!?」
心にもないそんな兵衛の言葉に、だがそれを知らぬ春香は、跳び上がらんばかりに喜びを露わにする。
それを満足げな面持ちで見やりながら兵衛は、
「うむ、そのためには春香よ、お主には更に役に立ってもらわねばならぬ。我が息子――流也のように、な」
そう言ってニタリと顔を歪めて嗤った。
× ×
横浜市の閑散とした夜道を、少女は一人歩いていた。
時間は深夜、それも学生の制服姿での少女の一人歩きは、かなり奇異に映るものの、だがそれを気にする者は誰もいない。もし仮に心無い者に絡まれたとしても、彼女なら心配あるまい。
少女の名は、風巻美琴。神凪傘下の退魔組織、風牙衆当主家の娘である。彼女も異能の操り手たる退魔師の一人、風術師なのである。
いま美琴は急いでいた。ある人物との待ち合わせがあるためだ。一刻も早く彼と会って今後のことについて相談しなければならない。
そうしなければならない原因は、風牙衆にあった。
美琴は、最近一族全体の様子に強い違和感を懐いていた。ピリピリとした肌を刺すような緊張感が伝わってくるのである。まるで激しい戦いが迫っているかのような。
美琴もこれが、神凪邸襲撃事件が起こった今ならば、さして不思議には思わなかっただろう。だが、一族の様子がおかしくなったのは、あの事件より以前の話なのである。その事実に、美琴は胸中で嫌な予感がしてならなかった。
実のところ、美琴は風巻家の直系に生まれながら、幼少の頃から神凪宗家の本家屋敷に奉公に上がっていたため、一族との繋がりはかなり希薄だった。
それでも、昔から風巻本家には定期的に顔を出すようにと、一族の頭領である風巻兵衛に命じられていた故に、一族とは完全に交流が断絶しているわけでもなかった。
だが美琴は、以前から一族の者たちの自分を見る眼差しに、どことなく冷たい敵意のようなものを帯びていることに気づいていた。おそらく彼らは、美琴を神凪家の命令によって風牙衆を監視している密偵だと見なしているのだろう。
勿論、そんな事実など存在しない。美琴は自分を幼い頃より神凪宗家に召し上げた、神凪家宗主たる神凪重吾の真意を、年齢が長じるにつれて徐々に察するようになっていた。
そうした考えに至った理由は、美琴が奉公に上がった後に命じられた、役目の数々にあった。
彼女の最初の仕事は、神凪家次代の宗主最有力候補と目されていた現宗主の娘である神凪綾乃の付き人だった。それも四年前にその任を解かれた途端、次に下された役目が、綾乃と同様に宗家の人間である神凪燎の付き人だったのである。
次代の神凪の中核を担うであろう人物たちと、風巻直系である美琴を早くから縁を結ばせるのは、間違いなく宗主の意図があってのことに違いない。
それと言うのも、同じ「組織」に属しながら、一向に不和の絶えない神凪と風巻を将来において融和させんとする遠大な目的の一環なのではないかと、美琴は考えていた。
組織改革には、まず頭から開始しなければならないことは、古今東西および表裏の世界に関係なく人間世界の現実なのだから。
美琴はこの宗主の理念に、次第に強い共感と理解を感じ取るようになっていた。風巻家と神凪家の関係を憂うる気持ちは、彼女とて同様であったからだ。
それ故に、美琴は以前から風牙衆の異様な状況について、宗主に相談を持ちかけようと考えていた。神凪宗家に奉公に上がっている美琴には、宗主との面会が比較的容易に可能なのだ。――が、美琴はその選択をしなかった。いや、できなかったというべきか。
美琴の疑惑には、確たる証拠がない。あるのは状況証拠でもない美琴個人の心象でしかないのだ。もしそんな状況で宗主との面会が適ったとしても、宗主を納得させることなどどだい不可能だっただろう。
また、美琴個人の思惑もあった。風牙衆は神凪家内で地位は決して高くない。いや、むしろ冷遇されているとさえ言える。
それは戦闘能力に至上の価値を見出す神凪では、当然の帰結であった。
だからこそ、一族の人間として風牙衆の疑惑を、何の証拠もなしに不必要に喧伝するのは、あまり得策ではなかった。
――だが、いま思えばその判断は、致命的な誤りだったのかもしれない。
なぜならば、美琴が感じ取っていた異常は、ついに現実を侵食し始めていたからだ。
昨夜、神凪家の分家の人間が何者かによって殺害された。それも、犯人は風術師だという。
神凪家は下手人を八神和麻だと断定した。彼には神凪家を深く憎悪する動機があり、なおかつ風術師でもあった。これ以上ない完璧な容疑者だったのだ。
美琴はそこに疑問を懐く。あまりに出来すぎてはいまいか。八神和麻が犯人ならまだいい。だが、彼が
ならば、裏で糸を引いている黒幕がいることになる。まさかそれは、彼女の一族なのではあるまいか?
そう思えばこそ、美琴は彼――風巻大和にコンタクトを取ろうとしているのだ。大和には既に連絡を通してある。
とはいえ、美琴は大和と特に親しい間柄というわけではない。むしろ美琴と親交があるのは、彼の義姉である風巻春香の方である。実際、彼女を通じて面識があるだけである。
だが、その春香もしばらく前から連絡が途絶していた。彼女に限って万が一にも悪事に加担するとは思えないが。ならば今一体何処に?
嫌な想像を振り払い、美琴は歩調を速める。アスファルトを叩く軽快な音が街路に響く。
「急がなくては。大和さんなら何か知っているかもしれません」
美琴の呟きは、虚空へと消えるはずだった。それを――
「若い娘がこのような時間に出歩くとは、あまり感心できないぞ。美琴」
――拾う者さえいなければ。
背後から聞こえてきた声に愕然と振り向く美琴。彼女が歩いてきた舗装路、ついさっきまで無人だったはずの場所に、いま壮年の男が佇んでいた。
「おじ様……」
美琴は呆然と呟いた。
彼の名は風巻藤次。美琴と同じく風巻家の直系の人間である。そして、彼の背後にぴたりと侍っている三人の男たち。皆一族の者だ。
「なぜここにっ!?」
動揺が抜けきらない美琴の声には、震えが混じっていた。
「こんな夜更けに、可愛い親族の娘が一人出歩いているのだ。迎えに行かないわけには行かないだろう?」
芝居がかった口調で藤次は、にこやかに笑みを浮かべながら言った。
たしかに美琴と藤次は親戚関係にある。だが少なくとも、美琴の帰りが遅いからと言って、迎えに来るほどの交流はない。
とはいえ、神凪家襲撃事件が起きたばかりだ。まったくあり得ないというわけではないが。
そこまで考えて、ようやく自分の思考が正常に戻るのを自覚した。
そもそも、この横浜に藤次がいること事態があり得ないのだ。今日美琴が外出することは、無論、誰にも告げていない。故に迎えに来れるはずがない。そう、あらかじめ尾行していない限りは。
「くッ――」
美琴は身構えた。致命的なまでの行動の遅さに内心で、ほぞを噛む。
当然、敵はその隙を見逃さない。美琴の背後にさらに二人。新手だ。気配で分かる。間違いなく風牙衆。
そう、敵だ。それを目で、肌で美琴は理解する。風牙衆――やはり彼女の一族こそが、神凪家の真の敵であったことを!
「お前がこそこそと嗅ぎまわっていた事を、我々が気付かないとでも思っていたのか」
驚愕と焦燥に身を震わす美琴に頓着せず、藤次が冷厳と言う。
そこには親族に向ける温かみなど微塵もない。口調も眼差しも北風にも似た冷気を纏い、美琴の全身を突き刺す。
「なぜですか……どうして反逆などをッ!」
「何故だと、それを今更問うのか? それほどまでに神凪に毒されたか!」
美琴の悲痛な叫びは、だが藤次の嘲笑と憎悪で返された。
解っている。彼女とて解っているのだ。
三〇〇年前の昔、風牙衆は暗殺、誘拐、破壊工作を生業にする犯罪結社だった。その残虐行為を見咎めた時の幕府は、神凪に討伐命令を出した。激闘の末、風牙衆は敗北を喫し、神凪の下部組織として吸収された。それが、風牙衆の零落の始まりである。
神凪の支配直後は、それこそ奴隷の如き扱いを受けていたと伝え聞くが、時代が進むにつれて、社会の枠組みの変化は神凪にも及んだ。現在では、仕事を行えば正当な報酬もでる。物質面での供給は、三〇〇年前とは雲泥の差である言えるだろう。
だがしかし、風牙衆が欲するもう一つのモノは今なお手に出来ていない。
それは――名誉であり、誇りである。
この世の理の守護者たらんとする神凪。それを補佐する風牙衆も神凪の一員なのだと。風牙衆もまた『正道』を行く精霊術師なのだと、神凪に認められたことは今も、ない。
風術は下術だと公然と罵倒され、
たしかに風牙衆は物質面では改善されたが、精神面では未だ神凪の奴隷であり続けた。
それが風牙衆の現実だった。
「そう、奴隷の時代は終わったのだ。今度は我らこそが神凪どもを支配するのだよ!」
藤次の哄笑が夜風に乗って響く。
「そんなことは不可能です!」
神凪と風牙衆を隔てるのは、圧倒的な力の差である。
風牙衆の戦闘能力は神凪の分家にも劣る。それもまた現実なのだ。だからこそ、三〇〇年に渡る隷属を耐え忍んできたのではなかったのか。
「ふん、そんな事は最早問題ではない。その気になれば今からでも神凪を破滅させられるのだからな」
両家の間に存在する絶壁を、だが藤次は勝ち誇った笑みを相貌に刻みながら、一言で斬って捨てた。まるで神凪など、もはや敵ではないと言わんばかりに。
「ッ!?」
そんな藤次の様子に、美琴は疑問を感じて必死に思考を巡らせた。
本来、力の差が明々白々にも拘わらず、風牙衆は神凪の術者を惨殺し、真っ向から反逆の狼煙を上げたのである。強力な切り札を用意しているものと見て、間違いあるまい。
ならばそれはやはり風牙衆の歴史に記された、かの『神』なのであろうか?
三〇〇年前、風牙衆の力の源として君臨していたとされる『
現にそう考えでもしなければ、これ程の暴挙を冒す説明がつかない。それともあるいは、この事態の背後には、美琴がかねてから風巻兵衛の命令によって受けさせられていた、
……解らない。いま判明しているのは、状況は明らかに美琴が当初想定していた以上の速度でもって悪化し続けていることだけだ。
こんなところで足止めを食らっている場合ではない。一刻も早く事態の収拾を図るために動かなければならない。こうなったら手段を選んでいる贅沢など許されない。
ある決意を固めた美琴は――そのとき、ふと藤次の自分を見る眼差しに言い知れぬ悪寒を感じ取った。
藤次の顔つきは醜く歪みきり、双眸は美琴の懊悩を悦んでいるかのように嗜虐の光を灯して彼女を凝視する。
言葉を交わさずとも理解した。風巻藤次は、どうしようもなく風巻美琴を憎悪しているのだと。
「……何故だ。風牙衆の勝利のために、これまで我々は多くのものを失った。頭領においては、実の息子を捧げまでしたのだ!
だというのに何故お前のような神凪に媚びへつらう裏切り者が無事なのだ!」
裏切り者――その弾劾の言葉に美琴は胸を穿たれた。だが、彼女は己を叱咤する。このようなところで、呆けている場合ではない。
認めよう。彼らからすれば自分は裏切り者である。そして、これから行うこともまた、その範疇に含まれるだろう。
――宗主にすべてを話し、慈悲と恩情を請うのだ。
美琴は風牙衆全員が反逆行為に加担しているとは考えていない。必ずや自分と同じように反対するものがいるはずだ。だとすれば、まだ望みはある。
そうだ。どんな逆境でも諦めさえしなければ、つねに希望の光は差し込んでくるはずだ。
為すべきことがはっきりすると、心中で荒れ狂っていた動揺と焦燥の感情は、嘘のように鎮まり返り、今の美琴には包囲を抜ける隙はないものかと四方に視線を走らせる余裕すらできた。
そんな美琴の変化に、藤次は彼女の心中を推し量らんとするかのように目を細めた。
「まさかお前は、この期に及んでまだ神凪に縋りつくつもりなのか?」
ずばりと的を射た鋭い藤次の指摘に、思わず目を見開く美琴。
「――図星か。何処までも見下げ果てた奴だ」
藤次は心底軽蔑したとばかりに冷やかな眼差しで美琴を見据えた。
「まったく理解出来んな。なぜ自分の力で立ち上がろうとしない? なぜ神凪などという古く腐りきった大樹なぞに寄りかかろうとするのだ?」
「それは、私が――」
美琴はそこで一旦言葉を切り、物思いに沈むように静かに目を伏せた。が、美琴はすぐさま目を開けて決意に満ちた瞳で、
「――いいえ、私たち風牙衆もまた『神凪』だからです。今更三〇〇年前のような邪道には戻れません」
そう決然と言い放った。
その言葉には次代の風牙衆を背負うとともに、一族の者たちを正しき道へと導かんとする気概と意志が宿っていた。
「み、美琴さま……」
すると彼女の威厳ある立ち振る舞いに、藤次が率いていた一族の者たちが揃って狼狽えた。美琴の想いの丈に、感銘を受けたのだろう。
それを見咎めた藤次は、怒りを露わに吐き捨てた。
「ええい、愚か者どもめ! こんな小娘の戯れ言に毒されよって!」
「し、しかし藤次さま。美琴さまのお言葉にも一理あるのでは……」
藤次の背後の控えていた一人が彼の剣幕に怯えながらも、必死になって抗弁した。
「そんなモノがあるはずなかろう! 何より我らの征くべき道は、邪道ではない、正道なのだ」
藤次は断固たる口調で滔々と語る。
「三〇〇年前に神凪によって捻じ曲げられた我ら風牙衆の『道』を、今こそ正しいカタチへと回帰させるのだ!」
だが美琴もまた負けじと声を張り上げる。
「それこそが邪道なのです! 三〇〇年前に風牙衆はその『道』を歩んだがために、一度滅びたではありませんか。もしかつてと同じ道を歩めば、今度こそ完全に滅ぼされるでしょう」
だからそうなってくれるなと言う、彼女の切なる祈りにも似た言葉は、だが――
「その通りだ。故にこそ我らが滅ぼされる前に、神凪を滅ぼさねばならぬのだ!」
藤次の心には、微塵も響くことはなかった。
「貴様たちは忘れたのか、頭領が手に入れられたあの『力』を! アレらさえあるならば、神凪とて敵ではない。
何よりそれ以上に、神凪の人間を手にかけたことで、我らには逃げ道など、とうに残されていないのだ。そう既に賽は投げられた。
――前進せよ、同胞たちよ! 我ら風牙衆に突き進む以外に道はない!」
美琴の言葉に戸惑っていた風牙衆の者たちも、
「そ、そうだ、おれたちにはもう後戻りはできないんだ……」
と藤次の演説を聞き、たちどころに動揺を鎮めた。それを見て彼は、不敵な笑顔を浮かべる。
「そうだ。それでいいのだ、同胞たちよ。さあ、その小娘を捕えよ。頭領の許へと引き渡せば、我らに更なる力が得られるだろう!」
美琴を取り囲んでいる一族の者たちの視線に、冷徹な光が灯る。これで、もはや彼らの翻意を期待できなくなった。
「くっ」
どうやら藤次には、
扇動とは、つまるところ他者を自分の考えに巻き込むことを言う。口に乗せる言葉に、相手の理解と納得を獲得させうる、確かな説得力を持たせることも当然だが、何より自分自身が己の言葉の「正しさ」を信じている必要が絶対にある。
それも当然だ。自身すら「説得」できない人間が、どうして他者の理解と納得が得られようか。
そして今の美琴には、自らが語ったにも拘らず、その『正道』を完全に信じきれていなかった。
もし風牙衆が投降したとして、果たして神凪は平和的に受け入れてくれるのだろうか? もしそれが叶ったとして、神凪と風巻の融和はいっそう遠退くことになるのは確実だった。いや、今後その関係はますます悪化していくものと考えた方が自然である。
ならばそこに、美琴が思い描いた理想像たる風牙衆の未来は、果たして存在するのだろうか。
……きっとそんな彼女の迷いを、一族の者たちに見透かされたに違いない。そもそも、こんな自分が、彼らを説得しようなどと思ったこと事態おこがましかったのだと、美琴は自嘲した。
だがそれでも美琴は思う。自分が風牙衆の反乱に加担することだけは、決してできないと。それだけは、まぎれもない美琴の内にある真実だった。
ならば、いまは生き延びねばならない。おそらく藤次に捕まれば命はあるまい。美琴は、そんな漠然とした予感を感じていた。――が、それはかなりの難事であることは明らかだった。
隙がないのだ。一族の者たちが動揺していた瞬間も、美琴は目敏く隙を窺っていたのだが、包囲に綻びが生じることはついになかった。
本当に優秀な術者たちだ。風牙衆は、神凪家にその力量が認められずとも、実力派集団なのだと改めて痛感する。
やはりどう考えても自分一人では、この包囲を突破することは不可能だ。それでも諦めるわけにはいかない。美琴は意を決して敵中へと跳びかかろうとしたそのとき――突如黄金の炎が噴き上がった。