柘榴は花恋 -近頃、私、愛したい-   作:純鶏

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今までのあらすじ

相田 政は、学校の中庭で椎名 智華に告白をする。
目の前で椎名に逃げられたことで、
傷心していた相田は、宇垣 涼平に会うことを決心する。

宇垣の家に行き、椎名に愛の告白をしたことを相田は告げた。
その後で宇垣は、自分自身の想いや抱えていたものを相田に告げる。

ついには、宇垣は椎名を殺すことを告げ、
椎名が宇垣の家にやってきたことで、相田は玄関へと走り始めていた。


8話では選ばなかった、もう一つの真実。
相田が選択した、本当の物語の行く末が始まる。


3章(裏) 真実、私、幸の未来
11話 失心と食愛


 7月22日20時頃。太陽は地平線の向こうへと沈み、光の無い外の世界を、外灯が眩しく照らしていた。

 霞ヶ丘町の霞ヶ丘公園から少し離れたところに、“宇垣(うがき)”という立札が玄関にかけられた一軒家がある。その家の玄関から、霞ヶ丘高校の制服を着た男子生徒1人。そして、その男子生徒と一緒にカバンを持った私服姿の女子が、手を引かれるように走って出てきた。

 

 終業式を終え、椎名(しいな) 智華(ちか)に告白し、宇垣の家を訪ね、宇垣から予想もしない言葉を告げられた相田(あいだ) (つかさ)。宇垣の家の玄関にいた椎名を血走ったような表情で手を掴み、玄関を出ては夜の霞ヶ丘町の道を走っていく。

 

「はぁはぁっ、はぁっ……」

 

 相田は椎名の手を離せないまま、宇垣がついて来られないであろう場所を探しながらひたむきに走る。

 外灯に導かれるように、光があるところを頼りにして、止まることなく進んでいく。

 

「ねぇ! ちょっと……」

 

 相田の後ろから椎名の声が聞こえてくる。

 だが、相田の耳に椎名の声が届いても、相田の頭の中は宇垣の言葉が離れない。椎名の声は聞こえても、椎名の言葉は聞いていない。

 相田の脳裏に浮かぶ言葉。相田の耳から離れない宇垣の声。“椎名を殺す”という言葉が、相田の精神を蝕んでいき、普通ではない状態にさせていく。段々と思考が鈍っていく度に、相田の中の不安感は大きくなり、焦りが生じていた。

 

【挿絵表示】

 

 外灯に照らされた道路を走りながら、霞ヶ丘公園の前についたところで相田は失速し始める。今までは無我夢中で何となく走っていた。だがここで相田の中で、次はどこに行こうかという迷いが生じてしまう。宇垣から逃げることよりも、宇垣から隠れることを考え始めてしまったからだ。

 

「ちょっと相田くん、離してっ!」

「あっ………」

 

 だが、足が止まり始めたことで、椎名は相田に握られていた自分の手を振り払う。

 2人が立ち止まった場所が外灯の近くのせいか、相田の驚きと焦燥の混じった表情。椎名の嫌悪感を抱いている表情がよく見える。

 

【挿絵表示】

 

 相田は周りを少し見て、自分が今いる場所が霞ヶ丘公園であることに気づく。しかし、すぐに椎名の表情が怖いことで頭がいっぱいになってしまう。誰が見ても椎名は明らかに怒っている顔をしていた。

 

「……ご、ごめん」

「ねぇ、なんで宇垣くんの家にいたの!?」

「そ、それは…………」

 

 相田は言葉に詰まる。なんて言えばいいのか。どう答えればいいのか。思考しながらも言葉が何も出て来ないことに、相田は余計に慌て始める。

 だが相田は今、落ち着いて話をしていられる状況ではないことを知っている。それは先ほど、宇垣が椎名を殺すと言っていたからだ。実際に宇垣が椎名を殺そうとしているのかは定かではないが、宇垣が椎名を家に呼んでいた。椎名がここにいる時点で、言葉を選んで椎名に説明している暇はない。

 

 相田は今日、宇垣の家に行き、宇垣のことを知った。宇垣の部屋を見て、宇垣の心情を聞いた。相田が知らなかった宇垣の深い部分を、知ることができた。

 だが今は、相田は宇垣のことが分からないでいる。むしろ、宇垣という人間が余計に分からなくなってしまっていた。だから相田は、宇垣のことを上手く話せないでいる。分からない人間である宇垣を信じられなくなっていた。

 

「お願い! 隠さないで話して!」

「…………実は、その……おれっ」

 

 椎名の真剣な眼差しで見つめられ、相田も困惑しながらも椎名をまっすぐに見る。視線を逸らさず、椎名に宇垣のことを離す決心をする。

 それでも相田は、椎名に理解してもらうことよりも、宇垣から逃げることを考えている。とりあえず今は、椎名の問いに答えていく。

 

「あいつに……椎名さんに告白したことを言いに行ったんだ」

「…………え?」

「そしたら、あいつ………椎名さんとは付き合う気はないって言ったんだ」

「そんなっ!?」

 

 椎名は抱いていた怒りの感情を上書きするような、目を見開いて驚愕の感情を全面に出していく。相田が今まで見たことがないくらい、椎名は感情を顔に出している。

 相田はいつもとは違う椎名を見て、余計に落ち着いて話を聞いてもらえる状態ではないのだと察した。

 

「とりあえず、今は安全な場所に逃げるんだ!」

「え、なんで?」

「だって、今のあいつはまともじゃない! 逃げないと……っ」

 

 今の宇垣は何をするか分からない状態である。好きな女子である椎名を宇垣が殺すわけがないと。友人である宇垣が人を殺すわけがないと。相田は宇垣を信じることが出来ない。もしかしたら、自分までも殺されてしまうかもしれないと。相田はそう考えていた。

 だから、相田は宇垣から逃げることばかり考えてしまう。今は逃げるべきであることを、椎名に強要してしまう。

 

「ゃ、やめてっ!」

 

 椎名は自分の手を握ろうと手を伸ばした相田を見て、拒絶するように後ろに下がる。宇垣から逃げようとする相田と同様に、状況が飲み込めない椎名もまた余裕がないといった様子である。

 

「まともじゃないってどういうこと!?」

「それは……」

「教えてよ! 宇垣くんがどうしたっていうの!?」

「あいつは……」

 

 “椎名さんを殺そうとしている”という言葉を、相田は一度言い淀んでしまう。

 だが、すぐに相田は堪えきれず言ってしまう。一度は椎名に言うべきかと躊躇(ためら)ったのだが、相田は息を飲んで決意してしまう。

 

「あいつは、椎名さんを殺そうとしているんだ!」

 

 椎名に告げてはいけなかった。決して告げるべきではなかった最悪の言葉を、相田は椎名に言ってしまった。

 

「……なに、言ってるの!?」

「あいつ、今日はおかしいんだ。普通じゃない。さっきまで一緒に居たから分かる。異常なんだよ!」

「そんな! 宇垣くんが私を殺すなんて……ありえないよ! 宇垣くんはそんなことしない!!」

「でも、ありえるかもしれない。今の涼平は、それくらいヤバイんだ!!」

 

 椎名は相田の言葉を信じようとしない。気が動転している相田の言葉を、簡単に信じられるわけがなかった。

 相田もまた、簡単に信じてもらえるとは思わなかった。だけど、信じてもらうしか他ない。今まで宇垣と一緒にいた自分を、椎名に信じてもらうしかない状況に陥っていた。

 

「わけわかんない! さっきから、相田くんの方がおかしいよ!」

「俺はおかしくない! おかしいのは、涼平のほうなんだ! 俺が一番、涼平のこと知ってるから分かるんだよ」

「……何それ? 宇垣くんのこと知ってるからって、なんでそんなことが分かるの?」

「だって、俺はあいつとは今までいつも一緒だったから。いいや、むしろ今日あいつと会って気づいたよ。あいつは普通じゃないって」

 

 椎名を諭すように、相田は言葉を連ねていく。椎名に信じてもらうしかないから、自分を信じてもらえるように椎名に伝える。

 

「そんなの……私だって、ずっと宇垣くんのことを見てきたんだから。宇垣くんのことは分かってるよ。宇垣くんは絶対にそんなことしない!」

「でも、確かにあいつは言ったんだ! 椎名さんを殺すって。あいつは、殺すつもりで椎名さんを呼び出したんだ! だから、早く逃げないと殺されちまう!」

「ふざけないでよ!!!」

 

 ところが、相田の言葉は重ねれば重ねるほど、椎名の心を逆なでにしてしまう。

 

「そんなの信じられるわけないじゃない!」

「それは、そうかもしれない。けれど今は涼平が来ない場所に行こう。もっと離れた場所でなら詳しく話せるからさ」

 

 このまま公園の前で椎名と会話していれば、宇垣が声に気づいてここに来てしまう。これ以上は椎名に何を言ったところで信じてもらえない。相田はそう思い、手を伸ばして手提げカバンを持っている方の椎名の腕を強引に掴む。

 

「離してよっ!!」

 

 椎名は相田に腕掴まれたことで余計に感情的になり、できるだけ強く腕を振り回しながら、拒絶の態度を全面に示していく。だが、やや小さめの手提げカバンを持っているためか、相田の腕を振り払うことが出来ないでいる。

 相田もまた、手を離さないようにしっかり掴んでいる。手を離して、逃げられでもしたら。それこそ、宇垣のいるところにでも行ってしまえば、椎名は殺されてしまう。椎名を守るためにも、相田は自分の握った手を決して離すわけにはいかなかった。

 

「離して。離してよ……もう、わけがわかんない。なんで? なんで相田くんは……」

「落ち着いて、椎名さん。ショックなのは分かるけど、今は」

 

 椎名を落ち着かせようと、相田は椎名の腕を引いて抱きしめる。

 椎名を殺されたくない。憧れの人を絶対に守りたい。好きな人を決して失いたくない。相田の中に芽生えた恋愛という名の感情が、相田が椎名を抱きしめずにはいられなくさせた。

 

「やめてっ!!」

「うっ!?」

 

 相田が椎名に言葉をかけている途中で。相田に抱きしめられた椎名は、右手に持っていたカバンを地面に落とし、一気に全力で相田を押した。後ろによろけた相田はコンクリートに尻餅をつき、地面の上に手をついて倒れた痛みに耐える。

 

「なんで、なんでなんでっ! なんで、あなたはいつも、私の邪魔ばかりするのっ!!!」

「椎名さん……」

 

 椎名は頭を抱えるように、手の平を髪の毛と額に当てながら、苛立っているように喉から声を吐き出し、指先が力んで震えている。

 

「いつもいつも、私の邪魔をしてばっかり! いつもいつも、宇垣くんの隣にあなたがいる。いつだって私が宇垣くんのために頑張っているのに、いつだって宇垣くんはあなたにだけ優しくする! 私じゃなくてあなただけ大事にされる! こんなのおかしいよ!!」

 

 我慢の限界を超えた椎名は、怒りの感情にまかせて喋り始めた。相田を見下すように強い視線を向けて、怒りを露わにしている椎名を、相田は何も言えずに見つめるしか出来ない。

 

「私は宇垣くんのことが好きなんだよ? 誰よりも愛したいと思ってる。もう誰よりも愛してる。だって、私なら宇垣くんを愛してみせる! 足りないなら、もっともっと愛してあげる! もし愛されなくても、私はあの人を愛したい!」

 

 相田の胸の中に、棘が刺さったような痛みが生じる。棘のある太い網で心が縛られているかのように、辛く苦しい痛みが残って消えない。目の前にいる大好きな彼女が殺されないようにしているのに、それが分かってもらえない心の混沌が、相田を悲しみと絶望の世界へと引きずり込んでいた。

 

「相田くん、なんで私に告白したのよ? 本当に私のことが好きなの? 答えてみなさいよ!!」

「……嘘じゃない。俺は、椎名さんのことが本気で好きだ」

「は!? 私のこと何も知らないのに? 私の何を好きなの? 私の何を愛してるっていうの?」

「それは……」

「答えられないよね? 答えられるわけないよね!? 私のことが本当に本気で好きじゃないんだから!」

 

 椎名の気迫に、相田は言葉が出なかった。

 もし、相田がここで何を言おうとも、その言葉は薄い。相田を見下している今の椎名には、相田の言葉は怒りしか芽生えないのだろう。椎名が激情に陥っている時点で、相田はもう取り返しのつかないところまできていた。

 

「だからあの時。あなたに告白された時、私は気持ち悪さと怒りで気が狂いそうだったの。宇垣くんのそばにいるだけでなく、私まで苦しめようとしてくるあなたを初めて殺してやりたいと思った。顔隠して、声を抑えるのに必死だったんだからね!」

 

 椎名は嘲笑うかのように、蔑んだ言葉を口から放つが、表情は何一つ笑っていない。笑みを失い、殺意が満ちた表情で、心の奥底からドス黒い声が止まることは無い。

 

「そうそう、告白の答えを言わないとね。私ね、あなたみたいな人間が大嫌いなのよ! 深く知ろうともせず、上辺しか見てない上に、都合の良い妄想ばかり考える。あなたも他の男と一緒! 私を愛したいんじゃない。女性を愛したいだけ! 半端な気持ちで告白してんじゃないよ、このゲス野郎!!」

 

 椎名の吐き捨てた言葉は、相田の精神をへし折ってしまう。衝撃を受けた相田の心は負傷し、相田を衝き動かすものは何も無い。力を失った相田は声すら出ず、立つことすら出来ないくらい、ボロボロになってしまっていた。

 

「やっと、やっと本気で愛したい人が出来たのに……どうしてよ。どうして、あなたは……私の邪魔をするの? 好きなら、邪魔しないでよ。なんであなたが、私を愛そうとするのよ! 私はあなたに愛されたかったわけじゃない!!」

 

 椎名は泣きそうに、悲しみいっぱいの表情を浮かべ、まるで悲劇のヒロインを本気で演じている役者のように嘆き始める。髪が乱れるほど頭を抱え、感情を露わにして手を上下に振り、自分の不遇さを全身で表現してみせる。終いには、顔を両手で覆い、膝を地面につけて頭を垂れる。

 

「……そうよ。あなたさえいなければ。やっぱり、あなたがいるから宇垣くんは」

 

 椎名が抑揚のない声が椎名の口から漏れた瞬間、地面に落としたカバンに手を伸ばし、チャックを開けて、中に手を入れる。

 そして、椎名が立ちあがり、手に掴んでいたものを相田は見る。その瞬間、相田は腕を上げて手の甲を見るように。椎名に向けていた視線を手で遮った。

 

 恐怖が相田の手を衝き動かし、憎悪が椎名の手に力を込めさせる。

 

「あなたさえ、いなければあぁぁっ!!!!!」

「あがっ!?」

 

 相田が上げた腕に激痛が走る。それは切られたり、刺さったりといった痛みではない。硬い棒のような物で殴られた痛み。

 椎名は嫌悪感に満ちた表情で、憎悪にまみれた声で、カバンから取り出した黒い棒を持って、相田を殴っていく。

 

「わたしがっ! 宇垣くんがっ! あなたのせいでぇ!!」

「うぐっ……や、やめ……があっ!!」

 

 相田は両腕で顔を隠すが、頭と首は殴られ、振り下ろされて殴られる衝撃が腕から顔伝わっていく。叩かれる激痛が腕から消えることなく発生し、腕の感覚を麻痺させていく。何もすることも出来ず、ただ痛みに耐えるしかできないでいた。

 

「いなくなれ! 消えろ!! わたしから、宇垣くんから、いなくなれぇぇぇっ!!!」

 

 椎名は両腕で、護身用で持たされていた黒棒を頭の後ろに構え、しなりを与えるように本気で振り下ろす。一撃ずつ力を込めて、全力で目の前の相田を叩く。

 腕が折れるまで。顔が歪むまで。口が開けられなくなるまで。椎名は、相田の顔を本気で壊そうとしていた。

 

「…………ぇ、なん、でっ」

 

 嗚咽を吐くように、相田の口から言葉が小さくこぼれた。

 

「ぉ、れぇ……ぁ」

 

 何度も何度も椎名に叩かれながら、降り続く衝撃を腕に食らいながら、言葉が漏れていく。

 

「………………き、み……ぉ」

 

 相田は無意識に、本能的に、歯を噛み締めて、精神を蝕む感情が湧き上がっていく。

 絶望によって心は狂い、激痛によって思考は狂い、理性は本能によって相田は狂い始めていった。

 

 だが、見方を変えれば、相田は狂い始めたのではない。人間としての本能に。愛したいという本能に従っただけであった。

 

「うぇっ!?」

 

 声が漏れたのは、椎名の口からだった。

 椎名は相田に攻撃を与えていた。そのはずだったのに、自分に激痛が走り、驚きと痛みが相まって両手に込めていた力が抜けていく。

 

「ただ……こ……ろさ、れぇ……たくなか……った」

「……ぁ、ぅぇ……っ」

 

 相田は椎名を殴った。

 椎名が腕を振り上げて力を込めていた最中に、椎名の横腹を本気で殴った。

 

 人は相手から自分を信じてもらうのに、相手を信じていただけでは自分を信じてはもらえない。

 自分から相手に信じてもらうために。不信感を与えないために。

 人は信じてもらえるような言動と行動を含めた振る舞いを行わなければならない。

 

 相田は椎名に信じてもらいたかった。椎名を好きだということを。宇垣から逃げなきゃいけないことを。全ては、椎名を愛したいからこその行動であることを。

 

 地面に背をつけて倒れていた相田の体の上に乗っていた椎名が、相田と同じく腹を両手で抱えて地面に倒れる。突然の痛みによって握っていた黒棒を落としてしまい、椎名から離れてしまう。

 

「この気持ちは本気で……嘘じゃないんだっ!!」

「……ぃ、ぃぁ……た、すけぇ……て」

 

 椎名は自分のお腹の痛みに堪えるように、地面に横たわりながらうずくまる。下手したら胃にあるものを吐き出してしまいそうなくらい、椎名は体内にダメージを食らってしまっていた。

 なぜなら椎名は、無抵抗の相田に対して油断していた。相田の絶望に満ちた表情と、脱力した様子から、何も出来ない状態であると思っていた。

 しかし、その油断から椎名はお腹に隙を与えてしまい、力の入っていないお腹から体内へと衝撃を大きくもらってしまったのである。

 

 逆に、相田からしてみれば椎名に対して攻撃しても当然といえるのだろう。椎名を傷つけたくない以上に、宇垣に殺されたくないという想い。椎名の与える激痛からなんとか逃れようとする想い。つまりは、死にたくないという想いが相田を本能的に行動させてしまう。

 人間というものは、意識がないと苦しみから楽な方へと行動する。たとえ死ぬと分かっていても、死ぬ気であったとしても、意識を失えば痛みや苦しみから逃れようとする。それは無意識下にある本能。生きようと足掻く人間の性からは、誰であろうとも逃れられない。

 

 だが、相田を衝き動かしたのは、人間の生きようとする本能だけではなかった。

 

「うっ!! ……ぃや、いや! たす、けて……もう、いや……なの……ぅぁ……ぁ」

 

 相田は倒れている椎名の体の上に乗り、攻撃をされないように両腕を掴んで押さえる。

 ひどく怯えながら、力なくジタバタと抵抗する椎名。たくさん殴られたことによって麻痺している腕を硬直させ、椎名に体重をのせながら、相田は虚ろな目で椎名を見つめる。

 

「好き……なのは、本当、なんだ……っ!」

 

 まっすぐに、相田は椎名を見て言った。ぼんやりとした意識でも、愛を込めて、真剣に語る。

 

 椎名の髪、椎名の目、椎名の口、椎名の首、椎名の手。

 怖がり、歪んでいる椎名の顔。怯え、震える椎名の体。

 椎名から漏れる、弱々しい声。椎名の瞳から流れる涙。

 

 相田は全力で伝わるように、自分の愛を伝えようとした。

 

「ぅぅ……ぅぁ……ぁっ」

「ほんとうに……あい、して…………ぇぁ?」

 

 一瞬で、相田の心に何かが発生する。爆発的に体内に何かが広がっていく。

 椎名が何かをしたわけでも、相田が何かをしたわけでもない。

 目に見えない何かが、相田の中で湧いて出て来て、まるで墨汁のように心を染め上げていく。

 

「ぅ………ぁ、んだ……っ!? これ!?」

 

 相田は経験する。今まで経験しなかったものを、経験してしまった。

 相田の中にある“愛したい”という感情であり、欲望であり、本能であるもの。宇垣が今まで味わってきた、誰かを愛したいと思えば湧き上がる殺意の正体。真っ黒に淀んだ恋愛感情を、相田は初めて心に抱いてしまっていた。

 

「う……ぐっ!」

 

 相田は心の底から、椎名を愛したいと思った。愛したいという欲望が、頭も心も埋め尽くし、溢れて止まることがない。時間が経てば経つほど増え続け、染まっていき、抑え切れなくなっていく。

 

 相田自身からしても、自分が今、とてつもなく異常な状態であることは察知出来た。だが、異常な状態になっては手遅れである。まるで病気にかかっているかのように、すぐに治ることは非常に難しい状態と言える。

 

「…………あ、ぃ……し……」

 

 相田は懸命に正常になろうと。異常に染まらないようにと耐える。

 しかし、相田がいくら堪えても正常にはならない。正常な人間が異常な状態になることが難しいように、異常な人間が正常な状態になることもまた難しい。

 

 相田は目を閉じ、必死に自分の意識が感情に溺れないようにと足掻いていく。押し込んで、閉じ込めて、少しずつ少しずつ、自分の恋愛感情を殺していく。殺意のように湧き上がる脅威を自分で押し殺していく。

 

「…………ふぅ」

 

 空を見上げながら、呼吸をし、相田は月を見る。満月が綺麗だなと思い、自分が椎名言うべきだった言葉を頭に浮かべる。

 落ち着いた。もう大丈夫だ。これで、自分の想いを言葉にして伝えるんだ。相田はそう決意し、空にある満月から地面にいる椎名へと視線を向ける。

 

 

 椎名と相田の目が合った瞬間。椎名の瞳に、相田の姿が邪魔で見えなかったはずの満月が映った。

 

「ぎゃあああああああああああああああああっ!!!」

 

 椎名の喉から出てきた阿鼻叫喚の叫びが、公園の外まで大きく響いていく。

 

「がぁっ、いだぁいっ! だ、がぁああああっ!」

「……ちゅぐ、じゅぐぅっ!!」

 

 椎名の目から見える光景は、夜空と満月と公園の外灯。体重を乗せ、両腕を掴んだまま押さえ、覆いかぶさりながら、味わったことのない痛みを相田に与えられてしまう。

 

「が、ぐぅぅっ!!」

「いやぁ、がぎゃあああああぁぁぁっ!!」

 

 相田は椎名の首筋の口をつけ、吸いながら噛みつき、一気に食らいついては肉を引きちぎっていた。

 何が起こっているのか分からない椎名は、全力で暴れて抵抗する。今まで出したことのない力で相田を横に倒し、欠損した部分に手をあてる。自分の体の肉を失われている感覚。血液が淀みなく溢れ出ていることを感じ、えぐられた肉と血液を口に含んでいる相田を見て、椎名は恐怖に染まる。強すぎる痛みのせいで口から言葉が出なくなり、強まる恐怖のせいで両足の股の間から黄色い水が漏れ出していった。

 

「ぐっ……ぁ、い……うぁ、ぇぅ」

 

 椎名は上半身を立たせ、尻を地面につけながら足を動かして後ずさりしていく。首筋を押さえながら、痛みと恐怖に染まった表情を浮かべながら、まるで化け物を見るような目で相田から目を離さない。

 

「だ、ず……げぇ……ぇっ」

 

 椎名の言葉から出て来た言葉は、救済を求める言葉。相田に向けてではなく、相田以外の他者に向けて。誰でもいいから自分を守ってほしい。目の前にいる人間に殺される恐怖から、救ってほしいという想いから出てきた言葉だった。

 

「ずじゅ、ちゃっ……くちゃっ……」

 

 相田は椎名に押されたことでよろけてしまい、地面に両手と両膝をつけた状態のまま、口の中にある皮と肉を必死に味わっていた。それは、お腹が空いていたり、味が美味しいからという理由ではない。相田の中にある“愛したい”という欲望が心を占領し、衝動的に味わいたいという恋愛感情の表れであった。

 

「…………んぐっ! はぁ……はぁっ!」

 

 口の中の肉と血を吸い尽くし、飲み込んだ相田の顔に幸せの色がにじんでいく。相田が椎名に対して行った行動は、相田の中に愛が芽生え、愛したいという感情が湧き起こり、愛することの幸福を感じさせていた。それはまるで子どものように。

 

 もし、人という生き物が純粋に真っ直ぐに愛を与えようとする時、どういった行動をするだろうか。

 例えば、人間が赤ん坊の時だ。母親に対して愛の感情を抱いた時に。誰かに甘え、愛してもらいたい時に。赤ん坊は思考する間もなく、無意識的に、本能的に行動する。愛したい人と愛されたい人に対して、愛着行動といった愛のある行動を起こしていく。心と本能で感じて行動する赤ん坊にとって、母親に対する行動のほとんどが愛の混じった行為といえる。

 

 そういった愛のある行為の中でもっとも初期であり、もっとも生物的なものを言うのであれば、それはきっと体内に栄養と取り込むという食事に該当するのだろう。つまりは母親の母乳を飲む時である。

 赤ん坊は愛着を持たない人間の母乳は飲まない。愛され、受け入れられたことで、身を委ね、愛したいという感情が芽生えた母親の母乳を飲む。その時、母親の体に触れ、母親の皮膚を握り、母乳が出る乳房を吸い、愛したいという感情と本能が勢い余って噛んでしまう。

 ただでさえ、脳を持った生物は感情を露わにする際に、手や脚ではなく、本能的に口を使う。手や脚が発達していない赤ん坊もまた、泣いて声を出したり、怒って噛んだり、笑って口を開いたりと、感情を口で表していく。

 

 では、赤ん坊は母親の乳房を食うのかと問われれば、そんなケースは無いに等しい。まだ、赤ん坊の時はあまり噛む力が無いことと、噛んだ時によって母親の苦しい反応を感じることで、成長によって噛むという行為は無くなっていく。もしくは、噛む力がつく前に母乳は出なくなり、離乳食を食べるようになる。

 ところが、人間が成長した時。理性が混乱し、本能的に愛したいという欲望が暴発した時。人間というものは相田のように、吸って、噛んで、相手を愛し、愛を感じようとするのだろう。

 

「ぅ、しぃ……な、ち……かっ」

 

 甘噛みという行為があるように、愛し合っている人間が噛むこと自体、珍しい話ではない。相田にしてみれば、愛したいという想いの強さで噛んだというだけである。理性的な愛ではなく、本能的な愛の強さによる行為なのだから、人間という生物という観点からしてみれば、正常とも言える行動であった。

 

「ころ……しぃ……た、ぅ……ぁぃ……し、ぃぁ……ぃ、ぁ」

 

 相田は痛む左の胸を右手で掴み、よろめきながら椎名に近づいていく。腰を抜かして歩けない椎名の一歩手前まで近づいていきながら、まともじゃない表情で、苦しそうな声で椎名に言葉を伝えようとしていた。

 椎名を殺してしまいそうなくらい愛したいという本能的な欲望に対し、相田の中にわずかに残っていた理性が、好きな人を殺したくないという願望を抱かせていた。とはいっても、願望というものは本能と欲望に負けやすい。異常な状態の相田は今、異常なくらい願望を強く抱かないと、異常な状態を覆せない状態まできていた。

 

「い、いやっ! だ、だれかっ! ころされぇるぅ!! だれがあああああああ!!!」

 

 相田の必死の“殺したくない。椎名智華”という言葉を必死に口から出したが、皮肉にも椎名にとっては“智華、殺したい”“愛したい”に聞こえていた。

 相田に殺されると思っている椎名は目を見開き、相田をもう人間として見ていない。相田に対して謝ることも、殺さないでと懇願することもない。言葉の通じない化け物と認識している椎名は、全力で声を荒げて叫ぶ。

 

 椎名の精一杯の声が響き渡ったおかげで、椎名の叫びを聞いて、息を切らしながら1人の男性がやってきた。

 

「つかさっ!!」

 

 相田と椎名のいる公園にやってきたのは、相田の友人であり、椎名の想い人であり、相田と椎名のこの悲惨な現状を作り出してしまった人間の1人。椎名が一番会いたかった人間で、相田が一番会いたくなかった人間。宇垣涼平である。

 

 宇垣は相田が家から出た後、相田を追いかけようと玄関を出て、相田と椎名を探していた。急に公園の方から椎名の叫び声が聞こえたので、宇垣は走って公園にやってきたのだった。

 

「な、んで。こんな、ことに……っ」

「ぅ……がき、くん!! た、たすけ……て」

 

 宇垣の表情に、悲しみの感情が露わになっていった。泣きそうになるのを我慢するように、ぐしゃぐしゃになりそうな顔を堪えながら、宇垣は相田を見る。椎名の声を聞いた宇垣は、次に椎名に視線を向けた。救いを求める表情を浮かべている椎名を見て、宇垣は歯を強く噛み締めていた。

 

「つかさ……っ! よくも……」

 

 宇垣がそう呟くと、椎名が落としてしまった黒い棒に顔を向ける。宇垣は椎名が護身用に持っていた短めの棒が転がっているところまで行き、拾って強く握り締める。

 そして、腕を振り上げたまま、相田と椎名のいるところへと力強く向かって行った。

 

「僕の……僕のぉ……よくもぉぉぉっ!」

「っ!!!」

 

 宇垣がそばまでやってくると、相田は抵抗せずに目を閉じた。

 宇垣が振り下ろした黒い棒が、鈍い音を鳴らすように肉体に当たり、相田の耳に響いていく。

 

「あがっ!!!」

 

 相田は痛みに耐えるように歯を噛みしめていた。抵抗しようにも、相田はもう抵抗することができないでいた。だから相田は、目を閉じ、宇垣の振り下ろした黒い棒に殴られるのをそのまま耐えようとしていた。

 

 ところが、相田の肉体に痛みは無く、肉体を殴る鈍い音は、痛みから出るうめき声は、相田のそばから発生していた。

 

「がああっ! いだいっ!! な、なんでぇ、うがきぐ……ん」

「喋るなっ、このクソが!! よくも、よくも僕のつかさにケガを負わせてくれたな!!」

「が、ぎゃあああっ!!」

「なんてことしてくれたんだ!! 僕は……僕わあああ!!」

 

 憎しみと殺意の混じった声で、取り乱したように怒り、涙を流しながら、宇垣は椎名を全力で殴り、足で蹴っていく。

 

「やっぱり、おまえがいなければよかったんだ! おまえがいるせいで、僕がっ! つかさが!! 苦しまずに済んだんだ!!」

「うげぇ……っ!! や、めて……ぅぇっ」

 

 宇垣は椎名のお腹を足で踏み、唇を噛み締めて椎名を見下ろす。顔を真っ赤にしながら激情に任せている宇垣を、相田は呆然と見つめる。今何が起こっているのかが、まだ頭ではまともに理解出来ない状態でいた。

 

「なんで、なんでだよ! なんのために……くそ! ちっくしょおおおおおっ!!」

「ぅ、ぁぃ……ぅ……ん」

 

 黒い棒を投げ捨て、椎名の服の胸元を強く掴み、宇垣は椎名の顔を本気で殴る。何度も何度も、止めることなく椎名の顔を全力殴り続けていく。

 

「……や、めろ」

 

 目の前で椎名が殴られ、痛めつけられていく姿を見て、相田は黙ってままではいられなくなっていた。椎名という人間が壊れていくのを、相田は我慢出来なくなっていく。小さい声を漏らしながら、ボロボロの体を椎名の方へと動かしていく。

 宇垣は殴り疲れると、握っていた拳を椎名の首元に持っていき、首が絞まるように全力で握り始めた。

 

「ぅ、ぁ……がぁ……ぁ………ぁっ」

 

 絞め殺されそうになっている椎名を見て、相田の中でとてつもない焦りが芽生え、相田を衝き動かしていく。

 だが、焦りは嫌悪感へと変わっていき、宇垣に対して怒りを抱かせていた。

 

 決して、椎名を救いたい。椎名を守りたい。椎名が死んでほしくない。という理由からではない。まるで、相田が椎名を殺したいほど愛したいから。殺意の混じった“愛したい”という欲望が、相田を衝き動かしているようだった。

 

「やめろぉぉぉっ!」

 

 相田は宇垣にぶつかり、羽交い絞めでもするかのように、両腕の脇から腕を入れ、背中に体をくっつけながら、後ろへと勢いよく引っ張る。

 椎名の首を絞めていた宇垣は、相田に力強く引っ張られて、一緒になって地面に倒れる。勢いよく倒れたことで、痛そうな表情を浮かべる2人であったが、少しして椎名の方を見た宇垣は一気に顔が青くなっていく。

 

「うっ……ぐぅ!!? うぇぇぇっ」

 

 宇垣は右手で必死に口元を押さえ、倒れていた体を起こす。だが、堪えきれずに口から茶色の液体を嘔吐してしまう。胃液と胃の中の残留物を地面に吐き出して、両手を地面につけたまま、涙をこぼしていく。

 

「うえっ! おええええっ!!」

「お、おい……」

 

 何度も辛そうに嘔吐する宇垣を見て、相田は自分のせいなのではと不安になっていった。

 宇垣が何故吐いているのか、相田はその原因は分からないでいた。だが、相田は無我夢中に止めようと、一気に宇垣を引っ張った。その影響で、宇垣に吐いてしまうような衝撃を与えてしまったのではないか。何かしてしまったのではないか。そんな考えが相田の頭によぎってしまう。

 

「うぇっ……うぅ……んっ。はぁ……はぁ」

「どうしたんだ、涼平!」

 

 宇垣は嘔吐が止まると、空気を体内に取り込む。少しずつ呼吸を取り戻し、相田に背を見せるように、倒れている椎名の方へ体を向ける。

 

「……………」

 

 宇垣は相田に顔を見せないかのように、そのまま無言で立ち上がる。呼吸はいつの間にか整い、服についた砂を手で払って綺麗にし、ズタボロに服が乱れている椎名をずっと見つめていた。

 

「おいっ! きいて……うっ!?」

 

 相田は立ち上がり、目の前の宇垣の肩を掴む。苛立ちの感情をぶつけながら、肩を引っ張って宇垣の顔を見た。が、宇垣の表情を見てすぐに声が出なくなる。

 なぜなら宇垣が、相田が声を出せなくなるくらい、椎名に向けていた表情に気味の悪さが際立っていたからだ。

 

「おまえ……」

 

 相田は驚愕する。宇垣が、今まで見せたことのないような表情浮かべていたことに。椎名を殴って、瀕死の状態まで追い込んで、今まで辛そうに嘔吐していた宇垣が椎名に見せていた表情。

 

 笑みの表情。それは、笑顔である。

 嬉しそうな、幸せそうな、いい笑顔。とてつもなく、歓喜に満ちた笑顔。

 相田は宇垣の顔を見れば見るほど、その表情に宇垣の感情が表れ、溢れ出していることが分かっていく。

 

 相田は、今までに感じたことのない恐怖心が芽生え、後ずさりしてしまう。

 宇垣の楽しいや嬉しいといった感情が込められた笑顔。誰が見ても笑顔と答えるような表情をそばで見てしまっただけに。相田の中で近寄りたくないという想いや感情が込み上げ、無意識に宇垣と距離を取ってしまう。

 

 それでも相田は、宇垣から目を離さない。むしろ視線を宇垣から離せないでいる。ずっと見つめたまま、頭の中で言葉を考える。心に抱いた違和感や恐怖心からくる感情を声にして、宇垣に疑問を問いかけようとする。

 

「おまえは……誰だ!?」

 

 相田が宇垣に問いかけた言葉。この問いは、相田の中で今までの宇垣との決別を意味していた。

 宇垣と今まで一緒に過ごして来た相田だからこそ。今まで宇垣と友人関係を築いてきたからこそ。目の前の宇垣に対して拒絶する。相田の中で異質なほど“宇垣ではない”という違和感が芽生えたからこそ。目の前の宇垣は、相田と共に過ごした宇垣という人間ではないと確信していた。

 

「……ふふっ、政くん安心して。私はもう“宇垣 涼平”だよ」

「えっ!?」

 

 宇垣の笑顔は優し気な微笑みと変わる。それと同時に相田へと視線を変え、相田の問いかけに答えた。

 そこで相田の表情が強張っていく。目の前の宇垣が振り向き、視線を向けて喋るという動作だけで、相田の背筋が凍る。仕草、表情、立ち方、雰囲気が、今まで宇垣とは全く違っていたからだ。

 

「大丈夫。私はあなたの知っている“ともだち”に変わりないから」

「……は?」

 

 それはまるで、大人の女性が初対面の人間に対して怖がっている子どもに優しく言うような感じだろうか。宇垣が告げた言葉は、余計に相田に恐怖を与える。

 

「……ふふ。涼平くん、可哀想に。本当はみんなが幸せになれればいいのにね。でも、仕方無いのよね。こうなってしまったら、もう運命には逆らえないもの」

「な、何を、言っているんだ?」

 

 相田は動揺を隠せないまま、ただ問いかける。疑問を問いかけるしか、今は出来ないように。震えた声で、答えを求める。

 しかし、目の前の宇垣はぶつぶつと独り言を喋っている。悲しげに自分自身を見つめて、相田を無視するように自分に対して呟いていく。

 

「さて、どうしようかしら。私が彼のためにできることは……いいえ、もう何もしなくてもいいのかな。もうどちらかは人ではなくなるんだから」

「だから! 何を言ってるんだ!!」

 

 問いかけに応じない宇垣に対して、相田は怒鳴ってしまう。わけのわからない状況に、不安で押し潰されそうになる心境に、相田はもう我慢出来ない。

 

「政くん、怒らないで。今はもう、何もかも手遅れなの」

「なにが? 手遅れって、どういうことだよ!?」

「……今のあなたに分かりやすく言うとしたら、あなたの知っている“宇垣 涼平”はもう人じゃなくなってしまったの」

「人じゃ、なくなった……?」

 

 相田は困惑する。ただでさえ疲弊し、思考がままならない相田に、目の前の宇垣が放つ言葉は難解なものになっている。

 

「もっと分かりやすく言うとね。涼平くんだった部分は欠けちゃったのよ」

「欠けちゃった、って? 何を言ってるんだ? 何、言ってんだよ!!」

「……はぁ。政くん、私に怒っても意味ないのよ。落ち着いて? ね?」

「そんなこと言ったって……もう、何が何だか……もう分かんねぇよ」

 

 相田は両手で頭を抱え、現実逃避をするかのように目を閉じる。受け入れられない現実と理解出来ない現状に、相田の精神は押し潰されそうになっていた。

 

「ふふっ……あなたって、本当にどうしようもないのね」

 

 呆れたように微笑み、相田の方へと歩み始める宇垣。相田を見下すような、言うことの聞かない子どもを見ているかのような言い方で暗い声をかける。それでも相田は、話しかけている宇垣を無視するかのように、ぼそぼそっと独り言を呟く。

 

「なんで、こんなことに……こんなつもりじゃ」

「分からないのなら、彼のためにもあなたに話してあげる」

 

 宇垣は相田に寄り添い、相田の耳元にそっと呟いた。

 優しく包み込むようで、相田の心を覆い隠そうとするかのように。甘くも優しい雰囲気で、宇垣は言葉を告げる。

 

 「好きな人を、ただ“愛したい”と願った。私の愛する“宇垣 涼平”という人間のことをね」


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