アンジュ・ヴィエルジュ *Skyblue Elements* 作:トライブ
「え? 春樹くん? うーん……空気読むのが上手い、かなぁ。ちょっとぶっきらぼうで抜けてるけど、そこがカワイイって言う子もいるよ。あたし? あたしは……確かに春樹くんはカワイイっていう意見には賛同するけど、その、もう心に決めた人がいるから……あ、でも、だからって春樹くんが嫌いなわけじゃないよ? 寧ろ好感度はメチャ高だよ?」
「春樹がどんな人か? まあ、いい奴だと思うよ。ちょっと周りに流されやすいところはあるけど。苦労人体質ってヤツ? 私も去年、何度か迷惑かけたし。あと……まあ、今はちょっと落ち込み気味だろうから、そこんとこフォローしてあげると喜んでくれるかもね。え、私? ……気の利いたこととか言うの苦手だし……逆に気を遣わせちゃうと悪いし……現にもう遣わせちゃったし……」
「春樹さん、ですか。優しい方だと思います。去年、困ってた私を手伝ってくれたりもしましたし。それに顔立ちも整っているので、隠れファンもそれなりにいるのではないかと。αドライバーとしても優秀で、私も彼と1度だけリンクテストを行ってみたのですが、かなりの高レベルリンクができて嬉しかったです。去年までは彼と非常に仲のよかったプログレスがいたのですが……ああ、すみません。これ以上は……」
…………
「春樹くん、評価高いなぁ……」
夜、美海はベッドに寝そべって天井を見つめていた。頭の中には、先ほど夕食の席で先輩に聞いた春樹の評価がもやもやと漂っている。
評価が高いのはいい。自分にとって唯一かもしれないαドライバーなのだ、美海としてはとても嬉しい。強いて言うなら、ちょっと流されやすそうなのが気になるが。
しかし、ライバルが多そうというのは、少し不安になる。彼に対して反感情を持っているプログレスは、話の限りでは1人もいない。彼は、なんというか、八方美人というヤツなのだろうか。
その一方で、春樹と特別仲がいいというプログレスもまた1人もいなかった。1学年上の神凪千鳥は仲が良さそうだったが、話を聞くと今は少しギクシャクしているらしい。
「謎、だなぁ」
彼ほど周りからの評価が高いなら、もうちょっと親しいプログレスが3人か4人くらいいてもおかしくないのに。高等部2年には、αドライバーが彼を含めてなんと2人しかいないという。「学年で好きな男子は?」というアンケートが出回ったら、単純計算で票の半分は春樹のものだ。それとも、もう1人のαドライバーが、それこそ八方美人の超絶イケメンなのだろうか。
――それとも。「去年までいた、彼と仲のよかったプログレス」っていうのが。
結局「詳しいことは彼に聞いてみてください」とはぐらかされてしまったが、一体どんなプログレスだったのだろう。しかし、そんな風に言われたからと言って、「本人に聞いてくれって言われたから聞きにきたよー」なんて切り出せるほど美海は無神経ではない。
彼はきっと、悩んでいるのだ。最初に会った時も「考え事」と言っていたではないか。海風の吹き荒ぶ岬でひとり、ずっと考えていたのだろうか。そのプログレスのことを。
そう思うと、美海は途端に、自分がどうしたらいいのか分からなくなった。「過去なんて気にしてないで、今、私を見て欲しい」なんて言えばよいのだろうか。さりとて、一緒に悩んであげるのが正解なのか。彼女には、どちらも採るべき選択肢ではないということが分かっていた。だが、それ以外には何も思いつかなかった。
「私、バカだからなぁ……もっと頭が良ければ、春樹くんになんて言ってあげればいいか、私なんかに分かるのかなぁ」
口に出してつぶやいてみる。
『私なんかに』
その言葉が耳から頭に入ってきて、そうなるとなんだか悔しくて、無性に腹立たしくなった。
美海は、馬鹿な自分が嫌いだった。
…………
その後……。
「え? ダメなの?」
『友達付き合いもあるからさ、その、明日だけ勘弁してくれないかなぁ?』
美海が問いただすと、春樹は弱ったような声で返してきた。
突然携帯に春樹から電話がかかってきて、明日は友達に誘われたからそっちを優先したいと言われた。
約束したのはついさっきなのだが、これはいわゆる、ドタキャンなのだろうか。怒ってもいいか、美海は少し悩んだ挙句、
「せっかく準備したのに……」
ちょっと拗ねたような声を出してみた。すると春樹は、
『ホントごめんね。
慌てて美海の機嫌を取ろうとまくし立てる春樹がなんだか可愛らしくなって、思わず笑ってしまった。先輩の言ったとおりだ。
「もう、別に怒ってないよ。確かにお友達は大事だもんね」
クスクスと笑う美海に少し安心したのか、スピーカーから春樹の溜め息が漏れ聞こえてきた。先程はその場のノリでああ言ってしまったが、流石に3日間連続で束縛するのも何となく気が引けたし、ちょうど良いといえばちょうど良かったのも事実だ。まさか、向こうから断ってくるとは思わなかったが。
「でも、明日暇になっちゃった。どこかオススメな場所とかある?」
『オススメ? そうだね……鐘赤島以外だと、
話を聞くと、アクティブ派の美海としてはどこも魅力的に感じられたが、今回はとりあえず、お隣の島・夕玄島に行くことにした。
『夕玄島にはバスが出てるし、フェリーもあるから、好きな方で行くといいよ』
「ありがと! 春樹くんも楽しんできてね」
…………
翌朝。
既に外出の準備は整えている。昨日美海に貰ったマグカップの中のコーヒーを飲み干してシンクで洗うと、お気に入りのかばんを背負い、自宅を後にした。
「さて……下見といくか」
…………
青蘭諸島は5つの島からなり、青蘭本島から北向きに右回りに五角形を描くように、鐘赤島・賢緑島・白百合島・夕玄島が存在している。各世界への
青蘭本島以外の4つの島は、どれも大きさは本島の20%ほどしかないが、本島に設置しきれなかった様々な施設があるため、来島者は多い。また、異世界に行くための転移施設『
フェリーはこの前乗ってきたので、今日はバスで夕玄島に行くことに決めた。15キロメートルもある夕玄大橋は、途中にひとつサービスポイントを挟んで青蘭島と夕玄島を繋いでいる。
窓にへばりついて外を眺める美海は、いつも通りのワクワク顔だ。バスは閑散としているが、どうもそれが普通らしい。青蘭島の中だけでも見所がたくさんあるから、別の島まで足を伸ばしていられないという。それに、まだ来島している新入生が少ないというのもあるだろう。
「海、きれいだなぁ」
見渡す限り一面の青に、すらっと伸びる白い橋は、なかなか風景として映えるものがあった。今は春だが、夏にはきっと雄々しく立ち昇る入道雲が加わり、もっと綺麗になるのだろう。
青蘭学園生は、島の交通機関を使うのに料金がかからない。学生証を見せれば、バスだろうがフェリーだろうが、好きなだけ乗れる。また、病院で診察を受けたり、島民会館を貸し切るなど、公共施設の使用も無料。これもある種の学園生特権だ。行き帰りの交通費を払うと思っていた美海は、思わぬところで予算が浮いたので上機嫌になり、帰りはフェリーで戻ろうと心に決めた。
パンフレットを見ると、行き先の夕玄島は夕日に関する絶景スポットがいくつかあるらしい。当然だが全部回りきるのはまず不可能なので、特に評価の高い西の岬を今日の最終地点に設定する。まあ、決めたところであちらへこちらへとフラフラしてしまうのが美海なのだが。
少し顔を上げると、夕玄島の上空に黒の世界への
昨日春樹から聞いたが、各世界への門は、通常では結界によって閉まっているらしい。いつでも行き来出来ると思っていたので驚いたが、この世界でも国同士を行き来するにはパスポートが必要で、それに加えて様々な手続きを踏まなければならない。それが世界同士の事情になるのだから、当たり前といえば当たり前の話だ。
毎日、この世界の時間で言う4時~7時・12時~15時・18時~21時の間だけ、あの結界が緩んで通行が可能になるという。当然ながらこの世界で言うパスポートのようなものが必要になり、世界移動の理由やら滞在期間やらも申告しなければいけない。どこの世界も変わらないものだ、と思う。
美海の今日の目標のひとつとして、結界が緩んで通行が出来るようになる瞬間を見てみたい、というのがあった。案外、空港で飛行機の離着陸を見たがる少年のような心持ちなのかもしれない。
バスに揺られながらパンフレットを眺めて過ごすこと約30分。夕玄島の西側にある港でバスを降りた。大型の客船を停泊させる青蘭港よりはこぢんまりとしているが、これはこれで悪くない。帰りはここからフェリーに乗ることになる。最終目標の岬も、少し見渡したらすぐに発見できた。
港から島の西側の海が一望できた。正面には鐘赤島と赤の世界への門が見える。蒼い海と空とのコントラストは、思わず写真に収めたくなるような美しさだ。せっかくなので、携帯で写真を撮っておいた。美海にしては上手く撮れたので、また少しテンションアップ。
黒の門は、もう頭の上にある。遠くから見た時の大きさからしたら、真下に入ると頭の上は一面紫色だろうな、と思った。が、遠くから見た時と真下から見た時で、何故かあの門の大きさは変わっていない。というか、今写真に収めたばかりの赤の門と大きさがまったく同じである。そこはいまいち腑に落ちないが、それだけあの門は特殊なものなのだろう、と自分を納得させた。
時刻はまだ午前10時。名所を見て回る時間はたっぷりある。
「よーし、行くかぁ!」
美海は満面の笑顔を浮かべると、上空に煌く門を目指して歩き始めた。
…………
「……それでデートスポットの下見に僕を連れて行くってわけね。別にいいと思うよ、そういうの」
「で、デートじゃねえし! その、自分で案内するって言いだしたんだから、それなりに知っておかなきゃと思ってだな……」
鐘赤島行きのフェリー。その2階から海を眺める男が2人。
片方は春樹。もう1人は、春樹よりも高い身長の優男だ。名前を
「もう新入生ゲットしちゃってるんだね。やっぱここでの暮らしが長いと、手も早くなるもんなの?」
「だからゲットとか手が早いとかそういうのじゃないって! 美海はその、なんていうか成り行きで……」
しどろもどろになって反論する春樹を、冬吾は普段通りの笑顔で眺める。春樹の心が少しずつ元に戻ってきているのを感じ、素直に嬉しかった。
明日の今日で下見に行くとは、知ったかぶりをしたくなかったのだろうが、どっちにしろ付け焼刃である。あまり効果的ではないのではと冬吾は危惧したが、あえて口には出さないでおいた。代わりに、
「普通さ、ただの成り行きなんかで明日の下見とかする? 春樹は美海ちゃんのこと、大事に思ってるんじゃないの?」
「お前はしそうだけどな、この
「……確かにそうかも」
真面目に考え込む冬吾を若干殴りたくなる春樹。2人はなんというか、
今日、実は外出を誘ったのは春樹の方だった。美海には嘘を吐いたことになるが、それでも鐘赤島は個人的に大好きな島なので、どうせ紹介するなら、その見所をしっかりと再確認しておきたかったのだ。確かに冬吾の言うとおり「成り行き」で済ますのには些か苦しいものがある。
これは
「それで、どこに行きたいの? 今日は1日開けておいたけど、ユフィに言われててさ、なんか明日早いらしいから、あんまり遅くまでは無理だよ?」
「お前とデートしてるわけじゃねえし、別にそこまでしないよ。まあ、美味しいもん食べさせて、コーラルビーチを見せて、で、どうするかなって考えてるんだけど。とりあえずそこは見ておくとして……」
「残りはノープランなんだね……仕方ないなぁ。考えてあげるよ」
少し呆れつつも、冬吾は協力してくれるようだ。
「ありがとな。お礼にドリンクバーは俺の奢りにしとく」
「別にいいけど。ちょっと持ち直してくれたみたいで嬉しいし」
「あー……そうだな。お陰様で、まあそれなりに」
「ひょっとして、その美海ちゃんがきっかけだったんじゃないの?」
「さ、さあ。どうだろうね」
「あ、図星だ。それなら、質のいいお礼がしたいってのも分からないじゃないよ」
冬吾は小さく笑うと、行き先の鐘赤島に視線を向けた。その上空には、赤の世界へと続く
「もう1年経ったのか……なんか、色々あった1年だったな……」
冬吾が誰にともなく呟いた。春樹も何か感じるところがあるのだろう。視線を冬吾と同じ方向へと向ける。
中学2年の時に青蘭諸島に来た春樹にとって、去年は3年目だった。高校生になった春樹は、青蘭諸島で一番忙しかったその1年を、充実したものにしたかった。
振り返ってみれば、確かに充実はしていた。しかし、それは11月までの話であり、4人の仲間を失った12月以降は、まるで亡霊のような日々を送ってきた。生きる意味のない、無為な人生。そう思って日々を生き続けた。プログレスについて悩むことなど、もう二度とないだろう。これ以上の悩みなど、存在し得るわけがない。
などと思っていたのもつい先日までの話で、今こうして、美海というプログレスに対して悩みを募らせているわけだが。
「先なんて、分かんねえもんだよな……」
「老人みたいだね、春樹」
「うるせ。感慨に浸ってんだ」
春樹は手すりの上で組んだ手の上に顎を乗せた。少し首を傾けて鐘赤島を眺める。3つある門には特殊な結界が張られており、ある一定の距離に入ると、そこからは、どこから見ても同じ大きさに見えるため、遠近感が薄れてしまう。奇妙な感覚だったが、青蘭諸島にいる、という証のような気がしており、何となく嫌いになれなかった。
2人を乗せたフェリーは、鐘赤島へと向かっていく。
…………
世界同士を繋ぐ
黒の世界への空港ならぬ『界港』。巨大なリング型をしたその建物は近代的なガラス張りで、それこそ空港のような施設だった。
「へぇ~……黒の世界って、いつも夜なんだ。なんか健康に悪そう……」
リングの内側がよく見えるベンチに腰掛けた美海は、観光客丸出しの仕草でパンフレットを眺めている。
世界転移装置。リングの中心に位置するそれは、パッと見は3本の塔だ。左右の5階建ての塔には、1階以外のそれぞれの階層に通路が張り出しており、その先に輪っかのような足場がついている。パンフレットによると、左右の2つの塔は左右対照になっており、それぞれの輪は、美海のいる方から階段状に外向きの半円を描くように4つずつ。人工物であるはずなのに、妙に神秘的に思える。
美海から見て右側の塔は黒の世界へ行く用で、左側は黒の世界から来る用らしい。輪っかの外側は電光掲示板になっており、出発時刻及び到着時刻が表示されている。
美海が驚いたのは、世界移動の方法があまりにシステマティックだったことだ。これでは本当に空港と変わらない。全く異なる世界を繋ぐシステムをここまで整えるのに、いったいどれだけの時間と労力をかけたのかなど、中学生に毛が生えた程度の頭脳であると自負している美海には、分かるどころかそれを疑問に思う由もない。
あと少しで門が開き、世界間通行の様子を見ることができる。美海は落ち着かなさげに、ツインテールまでぴょこぴょこ揺らしながら待つこと5分……10分……15分……。
時計の短針と長針が、同時に12を指した。
それと同時に、門の中心が、ちかり、と強く煌く。門を幾重にも囲っていた魔法陣の内側あたりの一部が、外側に吸い込まれるようにして消失し、紫一色だった門の中心に、新しく白い光が生まれた。
美海は思わず立ち上がって窓にへばりついた。変化はそこまで派手ではなかったが、美海はたった今、他の世界と繋がるその瞬間を目の当たりにしたのだ。興奮して当然である。なんと言ったらいいのか分からないものだから、半開きになった口からは「はぇ~……」と気の抜けたような声が出てきている。
しばらく放心状態で門を眺めていると、門の中心から紫色の光が吐き出されてきた。光は左側の塔の一番上のリングへと集結し、1人分の人影を作り出した。それに続けて、今度は幾筋もの光が門から流れてきた。まるで流星群のような光景に、これまた言葉を奪われる美海。
光が止んだ頃には、リングの上に数十人程の人が現れていた。ほぼ全員が、物珍しげに辺りをきょろきょろ見回している。初めてこの世界に来た人にとっては、きっと空が青い、というだけでも大仰天のはずだ。
「世界の間って、あんなふうに移動するんだ……」
移動している最中はどんな感じなんだろう、と漠然と思いを巡らせながら再びベンチに腰掛ける。もう少し時間が経つと、今度は右側の一番上のリングの上に乗っていた人たちが、紫色の光になって門へと吸い込まれていった。
「私もいつか、ほかの世界に行ってみたいなぁ」
充実感に浸りながらベンチを立ち、そろそろお昼ご飯にしよう、と歩き出すと、何やら怪しげな集団が目に入った。6人の内5人が黒いマントを着て、フードをかぶっている。先程、黒の世界から来た集団のひとつだ。
その中心に、何やら位の高そうな少女が居た。後ろ姿しか見えないが、薄い色の髪の毛を美海と同じくツインテールに結い上げ、高級感溢れる黒いゴシックロリータな服に身を包んでいる。身長は大体160センチくらいか――いや、履いているブーツの底がやたらに高いため、実際の身長はそれよりも低いだろう。なんだか背伸びしているようで、美海は微笑ましくなってしまった。そして(少なくとも美海的には)驚くべきことに、悪魔のようなしっぽが生えている。そう考えると、ツインテールのすぐそばにあるあれは髪飾りじゃなくて、角?
ふと、振り返ったその少女と目があった。少し茶色がかった瞳をしている。美海がにっこりと笑みを強めると、向こうは少し頬を赤くして、すぐにそっぽを向いてしまった。
「照れ屋さんなのかな?」
美海の行き先とは反対方向に歩いていくその少女の背中を眺めながら、美海はなんだか、あの少女とは縁深い関係になりそうだという予感がしていた。
…………
お昼を食べようと思っていた場所は、既に決めてあった。黒の世界の料理を出してくれるレストランが海沿いにある、と寮の先輩に教えてもらっていた。
レストランの方まではバスが通っていないため、青蘭諸島に来た日と同じように砂浜を歩きながら目的地を目指す美海。今日は晴天なので、太陽の光がキラキラと海に反射して、とても綺麗だ。
途中で虹色に輝く綺麗な貝の欠片が落ちていたので、ちょっと子供っぽいかなとか思いつつそれを拾い、たどり着いたレストランに入る。
「いらっしゃいませ。おひとり様ですか?」
店に入ると、出迎えたのは女性の店員だった。長い銀色の髪を優雅に結った、背の高いグラマラスな女性だ。
「はい! ひとりです!」
「あらあら、元気な子ね。どうぞこちらへ」
ログハウスのような店内は、落ち着きのある暗めの照明に彩られている。昼時だというのに客はまばら、というか美海のほかに2人しかいない。店員も、カウンターの中で料理をしている、やたらにダンディな方と、今美海を案内しているウェイトレスだけだ。結構オープンな立地ながら隠れ家的なレストランらしい。バス停から結構歩かなくてはいけないのがダメなのだろうか。
案内された窓際の席に座り、渡されたメニューを見てみる……ものの、ほとんどが未知の料理だ。どんな時でもなるようになるさ、と思っている美海でも、前評判無しでいきなり「はいこれください!」と言えるほどまでチャレンジャーではないので、美海は先ほどのウェイトレスを呼んだ。
「あの、その……オススメとかってありますか?」
「ふふ。黒の世界の料理、初めてかしら?」
「はい、そうなんです」
「そうね……初めてなら、これかな? 青の世界の人にとっては、黒の世界の味付けは少し濃いみたいだけど、うちはそこのところに気を使ってるから大丈夫だと思うわ」
ウェイトレスはメニューに載っている、ドリアのような料理を指した。値段はそこら辺のファミレス並み、とはいかないが、値段相応に美味しそうだ。美海はそれを注文すると、背もたれに体を預けて窓の外を眺めた。今日の波は穏やかで、もう少し暑ければ余裕で泳ぎに行ってしまうだろう。
「あなた、青蘭学園の新入生さんかしら?」
「え? はい」
先ほどのウェイトレスが美海のところまで戻ってきていた。艶やかな微笑みが、なんだかやたらに性的に感じる。ふと美海は、彼女が誰かに似ている気がした。
「『どうして分かったの?』って顔してる。可愛いわ」
「え、可愛い? お、お世辞なんか頂いても……えへへ」
「お世辞じゃないわよ。とっても可愛らしい笑顔。名前、聞かせてもらってもいいかしら? 私はジル。ジル・マカリスター」
ネームプレートをつまんでニッコリと微笑むジル。同性ながら見惚れてしまうようなその笑顔に少しドキドキしながら、「ひ、日向美海です」と答えた。
「ねえ、美海ちゃん。マスターが料理を作り終えるまで、少しお喋りしてもいいかしら?」
「は、はい。大丈夫です。でもいいんですか? お仕事中なのに……」
「ふふ、別に大丈夫よ。うちは昼時でもこのくらいしかお客が来ないような場所だし、マスターはそういうことに、あまりうるさくないから。ほら、リピーターを増やすって大事じゃない? それにね、私は青蘭学園生の知り合いを増やすのが好きだから」
ふむふむと相槌を打つ美海。青蘭学園生の知り合いを増やすのが好き……というのは、どういうことだろう。
それを聞いてみると、ジルは「ああ」と事も無げに口を開いた。
「私ね、黒の世界出身なんだけど、昔はあの学校に通っていたのよね。高等部に行っていたのは、もう14年も前になるけど……」
「14年前……って、え?」
彼女が18歳で卒業していると仮定すれば……
「ジルさん、今32歳ってことですか?」
美海は思わずジルの全身を見回した。素晴らしいプロポーションを保った体、化粧っ気のない顔からわかる肌の質は、明らかに30代のものではない。多く見積もっても20代前半程度にしか見えなかった。青蘭大学に通っていて、ここでアルバイトしているのかな、と勝手に想像していたが、そうではないらしい。
「あら、知らない? プログレスって、身体の劣化がとっても遅いのよ。私、50過ぎのプログレスを知っているわ。っていうか、青蘭学園の先生なんだけど……よかったら探してご覧なさいな。もちろん、本人に聞くってのはナシでね。答えが決まったら私のところに答え合わせに来て頂戴。もし1発で正解したら、そうね……ゴホウビあげちゃおうかな♥」
「ゴホウビ?」
「ええ。アイス御馳走してあげる。あ、だけどアルスメル先生とララエル先生はダメだからね? 一発で分かっちゃうもの」
遠まわしに「また来てね」と言われたのに気づかない美海だが、プログレスといものは、いわゆる『不老長寿』なのだろうか。だとしたら、それだけでおトクな気分だ。
「話が逸れちゃったわね。私が青蘭学園生の知り合いを増やすのが好きっていうのはね、現役の女の子を見るのが好きだから、なの。難しい勉強に頭をひねったり、楽しく運動していたり、時には恋に悩んだり……そういう、等身大の女の子の話を聞いているとね、過去を思い出して、それとなーく幸せになれるの。私が歳をとったからなのかは分からないけれど、郷愁に浸る、っていうのかしら? そういう感情を覚えるの。体は歳をとらないものだから余計のそうなのかしら」
言葉を切ったジルは、先ほどの艶やかな笑みとは違う、どこか寂しげな笑顔を覗かせる。ちらりと美海から視線を逸らして窓の外の海を眺めるその目からは、美海には到底理解しきれない深さの哀愁が見て取れた。
「32歳が何言ってんだって感じだけど……歳をとるにつれてあの学園が遠くに行っちゃう気がして、寂しくてね……。学校って、行こうと思えばいつでも行けるのに、勝手に遠ざかっちゃう。不思議よね」
ジルの感情を敏感に感じ取った美海は、思わず身を乗り出して、
「じゃあ、私もジルさんに青蘭学園のお話、持ってきます! まだ入学すらしてないからよく分かんないけど……でも、絶対に!」
それを聞いたジルは、おやっ、と言う代わりに片眉を持ち上げ、それからまた艶やかな笑顔になった。
「ありがとう、美海ちゃん。そんなに威勢がいいと、ちょっとサービスしてあげたくなっちゃうわ」
結局美海は、また食事に来るという約束の元、食後に果物のシャーベットを振る舞ってもらったのだった。
…………
写真ではこの美しさは絶対に保存できない。
絶景スポットに再びたどり着いたとき、辺りはすでに夕日の色になっていた。その光源である夕日を目にした瞬間、美海はそう思ってしまった。
絶対的なオレンジが海も空も染め上げ、その中でなお赤く煌めく赤の世界への
今見ているこの景色だけでも、これでもかとばかりに自分の小ささを叩き付けてくるのに、一体この世界はどれだけ大きいのだろう。
この島々からは、それと同じくらい大きな世界――しかも3つも――へと旅立つことができる。そのすべて見て回ることは出来るのだろうか。
そもそも、『世界』って何なのだろう。4つの世界があって……でも、今それらは繋がっている。とすれば、今世界は1つになっているのだろうか。
まるで、自分の
そのあまりの美しさに呆然自失となり、精神が肉体を少しだけ離れて視界が広くなる、この感覚。昔泊まりに行った海のそばのホテルで、そのベランダから視た、眩い朝焼けの光景。海の向こうから強大な力が徐々にせり上がってくる、あの光景に、胸を打たれ――心を奪われた。
そして、その時と同じだ。今、自分は――恐怖を覚えている。それも、単なる恐怖ではない。自分でさえ、自分の心が何に対して恐れているのか、分からない。原因不明の、言わば生命の根源から湧き出た恐怖。
まるで、世界の偉大さ、そのほんの端っこを指先で突いてしまったかのような。決して侵されることのない神聖なる場所に、足の爪先だけ踏み入ってしまったかのような。美海は『世界そのものの姿』を、その『真理』たるものを、ほんの少しだけ垣間見てしまったのだろうか。
「一応、写真撮っておこうかな……」
カメラの画面が一面オレンジになってしまったが、何枚か撮ってみて何となく満足できたので良しとした。それよりも今は、この夕日を目に、そして脳に焼き付けておきたかった。
美海は夕日が沈むまでじっと岬に佇んでいた。そして、日が完全に落ちて、暗くなった空に星が輝き始めた後も、まだ佇んでいた。
(いつか、春樹くんと一緒に見たいな……ここじゃなくてもいいから、とっても綺麗な場所を)
そして、彼に聞いてみるのだ。
ねえ。
あなたも、怖い?
…………
日付が変わり、午前4時。
門を幾重にも囲っていた魔法陣の内側あたりの一部が、外側に吸い込まれるようにして消失し、薄黄色一色だった門の中心に、新しく白い光が生まれた。
その中から、白い光が落ちてくる。それは、世界転移装置の上に集結し、形を成す。
現れたのは、3人の人影だ。白衣の人間が2人と、その間に挟まれた、やたらと
白衣の2人は特に気負いなく少女の手を取ると、界港へと入り、入界手続きを済ませ、
「ああ、ご苦労様。ここまででいい」
入界ロビーはがらんとしていた。白衣の女性と、新聞を広げて読む男の2人しか席に座っていない。しかし、3人にとって最も意味のある女性が、そこに座っていた。
触れれば切れるようにシャープな美貌を持った女性だ。彼女からは言い知れぬオーラのようなものが発せられていた。界港のガラス張りの窓から夜空を――門を、眺めている。
「ドクター。我々も一緒にラボまで付いていきます」
「いや、だからいいって。お前たちはさっさと帰って寝ろ」
「は、はぁ……しかし任務は……」
「その任務を出したのは私だ。というわけで任務変更だ。帰れ。私もそのうち、いったん戻る」
彼女の言葉には有無を言わさぬ『強さ』があった。思わず気圧された2人は、少女の手を離すと、渋々といった感じで出界ロビーの方へと向かっていった。
取り残された少女は、女性の方へと歩いていく。女性は自分の隣の席を叩いて「座って」と命じた。
「ああ、お前を待っていたよ。9ヶ月……だったかな。どうだった?」
「質問の意図が理解しかねます。もっと具体的な質問をお願いします」
女性が少女へ問いかけると、少女は鈴の鳴るような柔らかい声で、鋼鉄のように硬い言葉を発した。女性は苦笑すると、改めて質問をする。
「お前は何を学んだ?」
「話すには多すぎます。具体性も大きく変わってはいません」
「なるほどねぇ。要するに、お前は何も学んでいないということだ」
「そんなことはありません」
「いや、ムキになるな。お前が学ぶのはこれからなんだから」
女性が笑っていると、前の席で新聞を読んでいた男が、新聞を畳んで振り返った。
「……その子が『片割れ』?」
「そうだ。似てるだろう」
「雰囲気は全然。まったく……あんな計画を、よりにもよってこの僕に無断で実行しちゃって。……失敗作を押し付けられるこっちの身にもなれってんだ」
「ああ、その件はすまなかった。でも、あの時期はお前こそむしろ大概だっただろう」
「まぁ……それもそうだけど」
「世の中は結果が全て。まあ、良かったと考えるべきだな。して、どうだ。彼女の方は。最近話を聞かないが」
「話すことがないほどまともだって事だよ。デルタ・テックの経営も順調。交渉も取引もなんでもござれだ。しかし、お前も大概狂ってんな」
「否定はしないさ。でも、狂ってる奴ほど特別だ。っていうのは、お前の言葉だろう?」
「……はいはい。そうだったね」
男性は呆れたように首を振ると、立ち上がってロビーを後にする。
「で、その子、
「今はダメだ。短くても1ヶ月後ってところだな。今は……何が起こるかは全く予想できない」
「了解っと。じゃあ明日はお前のラボな。しかし、お前もさっさと学んだほうがいいと思うぞ。その子に口出しできなくなる」
「何をだ」
男性は振り返ると、ニヤリと口の端を釣り上げた。
「『魂』ってものをな」
それだけ言い残して、男性はロビーを去った。
「……確かに私は、そこら辺には疎い。そろそろ本腰を入れて取り掛かるか」
女性はそうひとりごちて、隣に座って門を見上げる少女の頭を撫でた。少女が口を開く。
「彼は、何者ですか? ドクターに対して、
「いや、あいつはそういう奴だ。それに、彼に迷惑をかけてるのも事実なんだよ」
女性は、深い情感が篭ったため息を吐くと、
「さて、行こうか」
「はい」
2人は席を立つ。女性が少女の肩に手を置いて言った。
「これからは、今まで以上に忙しくなるぞ。明日はお前の
「はい、ドクター・ミハイル」
少女の返事を聞くと、ミハイルは柔らかな笑顔になった。
「期待してるぞ、セニア」