アンジュ・ヴィエルジュ *Skyblue Elements* 作:トライブ
夜だった。
海の上に立っていた。波の音が心地よい。
「助けて……」
上から声が聞こえた。女性の声だ。上を見ると、緑色の光があった。天頂の1点を中心として、その光はゆらゆらと揺れていた。
「助けて……」
手を伸ばしてみたけど、届くはずもない。声はか細く、しかししっかりと耳まで届いている。
「助けて……」
どうにかしなきゃ。でも、どうすれば? 勢いばかり先走っても、何もできない。
「助けて……お願い……」
それでも、じっとしているのが堪らなくもどかしくて、一歩前に踏み出した。
途端、足が海に沈み込んだ。当然といえば当然だったが……そのまま身体まで一気に沈み、すぐさま頭も水の下に沈んでしまう。
海の中から、まだ緑の光が見えた。助けてあげなきゃ……でも、もがいてももがいても沈むばかり……息ができない……視界が掠れる……――――――――
…………
「――――ッはぁっ!」
唐突に目が覚めた。全力疾走した後のように息が乱れている。なんとか息を整えながら枕元の時計を見ると……朝6時半。二度寝すると、起きなくてはいけない時間を寝過ごしてしまいそうな、微妙な時間。
「……また同じ夢だ」
ここ最近、ずっと同じ夢を見る。海の上に立って、助けを呼ぶ緑の光を見上げ続ける。しかし、海の下に沈んだのは初めてだった。普段は気づいたら朝、という感じだったのだが……。
「くそ、いったい何なんだよ……」
神城春樹は悪態を吐きながら、布団を抜け出した。
…………
夢のせいで早起きできたので、学園に着くのも普段より早い時間だった。しかし、原因が原因だけに、あまり喜べない。
「……ねー、今日もあの夢?」
「あたしもそれ。ホント何なんだろうね」
「なんか変な魔術でも流行ってるのかしら」
「女神さま……なわけないかなぁ」
「新手の思考作用兵器……」
「いくらなんでも陰謀論すぎじゃね?」
「それとも誰かのエクシードなのかなぁ」
春樹が教室に入ると、先に来ていた数人のプログレスがそんな話をしているのが聞こえた。
「おはよう、みんな」
「あっ、おはよう春樹くん! ねえねえ、今日もあの夢、見た?」
「うん。見たよ。海に沈んだところまで」
「やっぱり? 見る夢はαドライバーもプログレスも同じなんだね」
現在は7月の中旬。今日が一学期最後の登校日だ。明日から、みんな待ちに待った夏休みが始まる。
しかし最近、妙な現象が起きている。1週間前くらいから、毎晩毎晩同じ夢を見るのだ。しかも、話に聞く限りでは、αドライバーとプログレスは、全員が同じ夢を見ているらしい。現に、クラスのプログレスはみんな同じ夢を見たというし、下級生や上級生に聞いても同じ。こんなのはいくらなんでもおかしい。
先生なら何か知っているかと思えば、先生でもまともな情報を持っている人は1人もいない。逆に、向こうも混乱しているらしかった。
「なんか、変なことにならなきゃいいけど」
「だよね~。不気味だよねー」
「そういや、
「うん。今朝もおんなじ夢だったってー」
「そっか……先生方といい、年齢は関係ないのか」
「みたいだねー」
春樹の席の前に立つ小柄な少女は、
あまり考えてもどうしようもないので、しばらくスマホでニュースを眺めながら、あるいはプログレスの子とお喋りしながら時間を潰していると、だんだんと教室に生徒が集まってくる。1人1人のプログレスが持つエクシードの多様さと同じように、その性格も十人十色、千差万別。しかし、その話題はやっぱり夢の話で持ちきりだった。
「おはよ、春樹」
「おはよう、冬吾。目の下に隈ができてるぜ」
「やっぱ? 昨日遅くまで起きててさ。それで今朝は夢に起こされちゃって。あんまり寝られてないんだ」
「息苦しかったよな」
「あ、春樹も同じなんだ。なるほど、どうりでお早い登校なわけだ」
「うっせー」
青蘭学園高等部2年生の中でもう1人しかいないαドライバー、冬吾と挨拶を交わす。文武両道、才色兼備で背が高くイケメンで性格もいい、完璧な彼にしては、今朝はかなり眠そうだ。彼もそれを自覚しているのか、登校の途中で買ったらしいボトル缶コーヒーをぐいっと飲むと、「ちょっと顔洗ってくるね」と言って席を立った。こういうところもイケメンだ。そして、席を立ってから教室の出口までの僅かな距離でも、プログレスに愛想を振り撒いている……というか普通に挨拶しているだけなのだが……。そういうところは真似できそうになくて、少し悔しい。
「春樹さん、おはようございます」
「ん、おはよう、ユーフィリア」
そんな冬吾と入れ替わりになるように、1人の美少女が春樹の席の前に立った。名前はユーフィリア。白の世界出身のアンドロイドだ。さっきの冬吾の恋人で、大人びていながら妙に子供っぽいところもある、魅力的な子だった。冬吾が惚れたのも分かる話だ。
「やっぱり、例の夢ですか?」
「そう。こうも続くと、不安になっちゃうよ」
「あの、そこまで気にしないでくださいね。夢は所詮、夢ですから」
「それはそうなんだけどさ……そうなのかな……」
彼女は事あるごとに「夢について不安に思うな」と言ってきた。それは何も、春樹にだけではない。不安そうにしている人がいれば、誰にでも言って回っている。そう言われるたびに、彼女の持つ包容力が合わさり、少し不安が消える気がした。
それからもう少しすると、始業のチャイムが鳴り、担任のララエル先生が教室に入ってきた。見た目はたおやかで落ち着いた女性だ。流れるような金髪が麗しい、非の付けようがない美女。性格も明るく、快活なのにやけにのんびりとしていて、生徒を安心させる。褒めて伸ばすということがとても得意で、担当科目の家庭科だけに留まらず、彼女に教わることでその
そして、何よりも特徴的なのが、エプロンの上に白いマントを羽織っていることだ。青蘭での暮らしが長かったり、そもそも赤の世界出身の人ならすぐに分かる。その白いマントは翼が変化したもの――すなわち、天使なのだ。
「さぁ、みんな席に着いてね。一学期最後のホームルームを始めますよ」
聴き慣れた声で、一学期最後の日が始まった。
…………
1年生の教室は、2年生のよりももう少し慌ただしかった。青蘭諸島に来て数ヶ月、という子がとても多く、それに加えて連日の夢の件、そして明日から夏休みという事実で、かなり浮き足立っていた。
かくいう
「おはようございます皆さん。席についてください。ホームルーム始めますよ」
担任教師の
「さて……グズグズしてると学園長先生と教頭先生が来ちゃいますからね。早速でテンション下がるかもしれませんが、宿題です」
クラス中の、えーー、というブーイングもさらりと流し、プリントを配り始めた。夏休みの過ごし方、宿題、学校が開いている日、行ってはいけない場所――――
「あれ? せんせー」
「はい、なんですか那月さん」
「20周年祭の間って、どうして賢緑島に行っちゃいけないんですか?」
「ああ、それですか。あとで説明するつもりでしたが……まあいいでしょう」
プリントを見ると、確かに「行ってはいけない場所」リストの中に、カジノや西倉庫群、飲み屋や怪しい店が立ち並ぶヤクラ横丁と並んで「賢緑島全域」と書いてある。その横に「世界接続20周年記念祭の期間中」という記述もある。
賢緑島はその大部分が青蘭庁の土地で、しかも機動隊の基地や訓練場がある。夕玄島や鐘赤島、白百合島とは異なり、上空に異世界への
とはいえ、青蘭諸島を構成している島の1つである以上、その全域に「行くな」というのは少しおかしな話である。
クラス中の生徒がそう疑問に思っていると、
「世界接続20周年記念祭の開催にあたり、賢緑島は3日目の夜……最終日の夜に、花火を打ち上げるんです。そのために大掛かりな仕掛けを使うので立ち入り禁止です。ご理解とご協力をお願いしますね」
本条はあくまで事務的に理由を告げた。美海はそれなら納得だったのだが、突っかかる人は突っかかる。
「そんなに大掛かりな仕掛けなんですか、先生?」
そう突っかかったのは、このクラスの委員長を務める、黒の世界からの留学生、ソフィーナ・アルハゼン。『理深き黒魔女』と呼ばれたり呼ばれなかったりする彼女的には、本条の言う「大掛かりな仕掛け」が気になるのだろう。
しかし、本条は落ち着いた様子で、
「賢緑島はとても離れているでしょう。そんなところで花火を打ち上げたって、他の島からはちょこっとしか見えません。なので、
「は、
「皆さんも、世界接続20周年記念祭は楽しんでくださいね。ただし、後で学園長先生や教頭先生からもあると思いますが、長期休暇だからといって、あまり羽目を外さないように」
青蘭での生活が長くなると自然に慣れてきてしまうのだが……その他の機能として「一定距離内のどこから見ても同じ大きさに見える」というものがある。今、窓の外を見ても、夕玄島の上空に浮かぶ黒の世界への
そして、本条が言う「大掛かりな仕掛け」とはこれのことだ。賢緑島から打ち上げる花火に「どこから見ても同じ大きさに見える」に近い魔術を使って、どこの島にいても平等に花火を楽しめるようにするのだろう。
ソフィーナは、そういうことならと一応納得したようだった。
ところで、プログレスというものは珍しい存在だ。間違ってもそこらへんを探して見つかるような存在ではない。それがαドライバーともなれば、その希少価値というのはとんでもないもので、青蘭庁が日本本土に手を伸ばして必死に探しても、1年間に1人見つかればいい方だ。
そんな希少な存在を集めたこの青蘭学園は、当然ながら生徒数が非常に少ない。各学年1クラスしかない。その上、中等部など1クラス数人しか生徒が在籍していないほどだ。
そんなわけで、入学式や卒業式など、来賓を招くような式典ならともかく、終業式などの内輪な式典は、わざわざ体育館に全校生徒を集めたりしない。学園長と教頭が各クラスを回って、そのクラス――つまり学年――ごとに話をする(ちなみに、中等部は先に述べたように生徒数が極端に少ないため、3学年まとめて話をする)。そこまで長々と講釈を垂れるわけでもないので、学年ごとに伝えるべきことをしっかりと伝えられる、こういった方法を取っているのだ。
本条が夏休みの間の宿題の確認や、過ごし方の注意などを改めて説明していると、教室のドアがノックされた。小窓から、人の良さそうな笑顔の男性が覗いている。
「ああ、教頭先生がいらっしゃいました。さ、皆さんちゃんとお話を聞くように」
本条が男性を招き入れながらクラスに呼びかけた。
「おはよう、1年生諸君。初めての夏休みでわくわくしている子が多いかな?」
教室の入口を腰をかがめて潜りながら、よく通る野太い声で話し始めたその男性は――知ってはいるが、改めてすごい人だった。
とにかく身長が高い。2メートルを越しているだろう。それに、半袖ワイシャツの袖から伸びる腕は、冗談かと思うくらい太くて筋肉質だ。どのくらいかというと、このクラスの女子の太ももの太さを上回るくらい。そして、恐らくは全身が同じく筋肉質なのだろう。首元の筋肉も、ちょっとありえないくらい太い。
「初めての夏休みで色々とやりたくなる気持ちは分かるけれど、くれぐれも危険な行為はしないように。特に、配られたプリントにも書いてある『行ってはいけない場所』には行かないように。青蘭庁の職員がそこら中にいるから、もし立ち入れば分かるんだよ。それから――」
初めて青蘭での夏休みを迎える生徒が多いので、藤平の言葉も注意じみたものが多い。が、それも仕方ないことだろう。青蘭は一見、地上の楽園のように思える部分が多いが、その実治安が悪い場所もある。特に、今年度の初めに少し関わった、青蘭島西の倉庫群は、空き倉庫に不良が
「――――さて、少しお説教っぽくなってしまったが、初の長期休暇、しっかりと羽を伸ばして、二学期に備えて欲しい。それから、世界説20周年記念祭もある。せっかく青蘭にいるのだから、節度を守って、しっかりと夏休みを楽しんでね。私の話は以上です」
話をそう締めくくると、藤平は教室から出て行った。すると今度は、入れ替わりで別の男性が入ってきた。
「バトンタ~ッチ。てなわけで次はあたしからね。とは言っても、藤平先生が夏休み中の過ごし方については全部言ってくれたと思うし、あたしからは手短に済ませるわね」
入ってきた男性は、かなり美形な青年だ。しかし男性なのに、女性のような喋り方。有り体に言えば、おネエである。しかし、外見は少し奇妙だった。美海も何といえばいいのかイマイチ分からなかったが……外見から年齢を判別できないのだ。ニコニコの笑顔で話す姿はまるで20代のように若く見えるが、髪に若干混じる白髪を見ると50代くらいにも見えるし、忌憚なく達観しているようにも見える泰然とした態度は80代の老人を思わせる。
そして、美海は彼を、別の姿で知っていた。青蘭島の商業地区の噴水広場によくいる、クレープ屋の店主。6月くらいまで本当に気付いていなかったのだが、彼こそが学園長だったのだ。聞けば、時々……よりはかなり頻繁にだが、ああしてクレープ屋の店主として、青蘭の様子を見守っているらしい。彼の趣味だそうだ。クレープが大好きで、屋台を見かけたら(お小遣いがあるときには)必ず購入する美海が、顔見知りの店主こそが学園長だと知ったときは、大いに恐縮したものだ。
「さて……みんな早く終わってくれーって感じだし、ささっと済ませちゃいましょう。まず、くどいようだけれど、立ち入り禁止の場所には行かないでね。あと、当然だけどエクシードの無断使用は禁止よ。魔術を使える子も、魔術の無断使用は禁止。他にも――」
美海にとって学園長は、クレープ屋の店主として接した場合を除くと、入学式の話を聞いて以来のこととなる。そして、彼は公の場で話すときは、敬語を使うことでそのおネエ口調を抑えるのだ。気付かなかったのにはそういう理由もあるが……。
やっぱり、つかめない。美海には縁遠いが、彼は物事を大局的に見ている気がする。
そして、本条とも藤平とも異なる点があった。それは、
「注意事項はこんなものかしらね……さてと。最近、みんなは変な夢を見るわね? みんなが同じ夢を、毎晩」
そう。生徒が皆不安に思っている、連日の夢について話し出したのだ。これには、正直学園長の話なんて……と半分聞き流していた生徒も身を乗り出した。あの夢に関する情報は、ここにいる全生徒が求めている。しかも、本条ですら少し傾聴しているようだ。
クラス中の注目を一身に集めながら、空木は言う。
「そこまで心配することじゃない……って言っても、そういうわけにはいかないわよね。でも、みんな薄々感づいているでしょう。これは一種の『予兆』なの。だから、今すぐどうこうってわけじゃない。これは信じて欲しいわ。
だけど、その時は来る。この中には、その『時』を分かっている子もいるわ」
空木のその言葉を聞いて、クラス中の視線が、1人の生徒に集まった。
黒の世界出身の魔族の女の子だ。名前はクレア・プロスペキア。鈍い銀色の髪をツーサイドアップに纏めた、少し鋭い風貌の彼女は、『未来を見通す千里眼』のエクシードを持つという。
もちろん、この奇妙な夢が続き始めたとき、皆はこぞって彼女に聞いた。この先どうなるのか、と。
しかし彼女はこう答えるだけだった。
「アンタたちにもアタシにも関係ないことが、そのうち起きるだけよ。……少なくとも、しばらくは」
その先はまだ見通せていないという。それを皆が毎日毎日聞くものだから、いよいよクレアは「アタシは天気予報か!」と怒ってしまい、それ以来は誰も聞いていない。ただ、彼女は「何かあったらこっちから言う」と言ってくれた。そのクレアが未だに何も言わないということは、何も変わっていないのだろう。
そんなクラスの変化を宥めるように、空木は言葉を重ねた。
「ともかく、その夢はそのうち終わるわ。だから……そうね。ひとまず、みんなは『自分のエクシードの取り扱い』について十分注意するように。許可を得たからって、振り回しちゃダメよ。繊細に操作すること」
話のつながりがイマイチ見えなかったのは、多分美海だけではない。どうしてあの夢とエクシードがつながるのか……?
それはさておき、空木の言葉は少し美海に刺さるものだった。美海のエクシードは確かに強い。だが、繊細さに欠けるということは、最後にバトルした5月下旬から今までのおよそ2ヶ月の間によく分かっていた。
同じチームの琉花は、水を糸のように細く伸ばせるようになっていた。また、忍はさらにエクシードを併用した忍術に磨きを掛けている。そんな中で美海は、さらに強い風を操れるようになった。……出力が高いおかげで、それでも十分な戦力になるのだが、隣を歩くチームメイトに比べて、幾分劣っているように思えてならなかった。
――そういえば、夏休みに入ってから、雄馬先生が特別に稽古を付けてくれるんだっけ。後でお話聞きに行こっと。
少し前、雄馬が「お前のエクシードの特訓に打って付けの人物がいるんだが、稽古付けてもらうか?」という提案をしてきた。劣等感を感じている美海にとっては、まさに渡りに船だ。その予定が、夏休みに入ってすぐとのこと。
――私と同じように、風を操るのかな。頑張ろう、春樹くんの……ううん、チームのために。
そう、強く誓う。それと同時に空木が、
「よし! 最後に、世界接続20周年記念祭のブルーミングバトルに出る子たち! 期待してるから、悔いの残らないように精一杯頑張りなさい。以上! 楽しい夏休み生活をね!」
そう。美海も出場するブルーミングバトルは、夏休みに入って2週間後に開催される、世界接続20周年祭の2日目に行われる。対戦カードは既に決まっており、同じクラスの
だから、頑張るのだ。
そうして、青蘭島に来てから初めての夏休みが始まった。夢のこともある。ブルーミングバトルのこともある。等身大の学生としては、宿題だってちょっと不安だ。
でも、それを優に超えるくらい、楽しみで仕方なかった。