アンジュ・ヴィエルジュ *Skyblue Elements*   作:トライブ

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10話 フタロブルーのシアン

 肌寒い日の朝。いつもの通り市に行くと、珍しく大ぶりのシアンが売っていた。やや濁った美しい空色の果実を少し眺めて、3個買った。自分以外誰も食べないだろうが、まあいいだろう。

 

 

…………

 

 

 3月も中ごろに差し掛かり、徐々に暖かい日が増えてくるようになった。春の兆しを感じさせる陽の光が、青蘭諸島の冬を安らかな色に塗り替えようとしている。しかし、今日はやけに肌寒かった。

 黒の世界でもそこそこ暖かい地域出身のアルマ・カミュオンは、ポケットに手を突っ込みながら夕玄島の自宅へと戻る道を歩いていた。3月なのでもう授業は新学期まで無いが、生徒のプログレスのエクシードの調子を少し見てやるために、朝から青蘭島に行っていたのだ。

 時刻は昼頃、頭上には、黒の世界へと繋がる(ハイロゥ)が煌めいている。時間的に今は通行可能で、その真下にある界港と門との間で、キラキラと光る紫色の粒子が引っ切り無しに行き来していた。

 

「……お、大型輸送機か」

 

 しばらく道を歩きながらその様子を見ていると、一旦粒子の行き来が止まる。少しして、(ハイロゥ)から大量の粒子が吐き出された。その粒子は寄り集まり、輝きを放って実体化した。白の世界から来た、大型の輸送機だ。外見は6枚の(はね)を持つ、樽のように寸胴な蝶を思わせる。しかし、羽ばたきで飛んでいるわけではない。翅の各所に円形の光を放つ何か(デルタが言うには、大型のリフレクター・コアらしいが、アルマはさっぱりだった)が装着されており、そのエネルギーで飛んでいるのだそうだ。黒の世界出身のアルマからしてみれば、白の世界のテクノロジーは意味不明。青蘭に従事して数年、もう見慣れた光景ながら、未だに少し胸が躍るのは、自分がまだ少年心を持ち続けていることの証明なのだろうか。

 方角からして赤の世界へと飛んでいく輸送機を立ち止まって少し眺め、何を運んでどんなやり取りが起こるのだろうとぼんやり思いながら、アルマはまた歩きだした。

 

 アルマの自宅は夕玄島の居住地区のはずれに位置している。海が見える断崖に近い、白と黒と茶くらいしか使わない、シンプルなモダンアートのような家だ。アルマがこの仕事に従事する際に、青の世界で著名な建築家が建てたこの家に一目惚れして頂いたものだったが、今なおとても気に入っている。打ちっぱなしのコンクリートの外壁、直方体をいくつも組み合わせたような外観。所々に和風を感じさせる装飾があるのもお気に入りだ。奇抜な外観だが屋内が非常に使いやすくデザインされているのもいい。現に彼はもう数年ここに住んでいるが、引っ越したいと思ったことは一度もない。

 そんな特徴的な見た目だからか、時折この前を歩く人々が写真を撮っていくことがある。それは別に構わないし、むしろ、この家を一発で選んだ俺のセンスは大したもんだろう、と思ったりもする。見られて困るものが大っぴらにあるわけでもない。……地下には魔術工房があったりするのだが。

 

 その日、自宅に辿り着くと、それまでに一度もない光景があった。アルマの家の正面の道路を挟んで向かい側の、ちょっとした草むらに、1人の女の子が座っていたのだ。長い髪を頭の左サイドで1つに結い上げた、横顔だけでもはっきりとわかる美少女だ。ベージュのコートに赤いマフラーと、防寒対策はばっちりのようだが、この寒さの中では少し気になってしまう。

 こんな寒空の下、彼女は小さなレジャーシートを広げて座っており、その上には色鉛筆の箱が置いてある。視線は、スケッチブックとアルマの家を何度も行き来していた。

 端的に言えば、その女の子はアルマの家の絵を描いていたのだ。

 写真を撮っていく人はそこそこいたが、流石に絵を描いている子は初めてだった。その子があまりにも熱心に描いていて、その視界に入ってしまうのが(はばか)られたので、アルマはその女の子の後ろにそれと無く回ってみた。まあ案の定というか、集中している彼女は気付かない。それよりも、その絵はとても――――

 

「……上手いな」

「は、ひゃぁ!?」

 

 思わず口に出してしまうと、女の子は驚いてアルマの方を振り返った。

 

「あぁ、ごめんね。驚かせちゃって」

「あ、あの、ごめんなさい。勝手に、ここ、座ってしまって……」

「え? あー……それは別に大丈夫だよ。ここ私有地じゃないし」

「そ、そうなん、ですか。よかった」

 

 女の子はたどたどしく言葉を紡いでいる。何とも可愛らしい子だ。この女の子のことを、アルマは一方的に知っていた。入学前の書類に写真が載っていた。この世界出身の、青蘭学園高等部の新一年生だ。名前は、そう。

 

(とお)(なぎ)()(ゆき)ちゃん、だっけ」

「え、なんで、あの、名前……」

「俺、青蘭学園で講師やってるんだ。アルマっていいます。君、4月から入学の高等部一年生だよね?」

「あぇ、あの、はい、そうです……あの、やっぱり、いけなかったでしょうか?」

「そんなことないさ。ただ、あんまりにも熱心に描いてたもんだから、家に入るの躊躇っちゃって」

「え、あ、あなたの家、なんですか? ご、ごめんなさい! 勝手に、描いてしまって」

 

 その女の子――深雪は、猛烈な勢いで頭を下げると、すぐさま撤収しようとしだしたので、アルマはそれを慌てて止めた。

 

「いいんだよ、描いてて。それより、何時から描いてるの? もうお昼だけど、お腹空いてない?」

「え、あ、お腹……ちょっとだけ、空いたかも、です」

「それなら何か持って来よう。あと寒くない? 厚着してても、何時間も外にいたら冷えちゃうよ」

「だ、大丈夫、です。コートの下に、3枚着てます、から……それに、その、本当に、お構いなく……」

「ダメ。4月からとはいえ、俺の生徒だから。しっかり面倒見させてね」

「あぅ……あの、ありがとうござい、ます」

 

 深雪は仄かにはにかんで、今度はお礼のお辞儀をしてくれた。アルマはそれがなんだか嬉しかった。

 

「いいってことよ。その代わり、1個だけ条件出していいかな」

「え、えと、なんでしょう?」

 

 深雪が不思議そうな顔で見上げてくる。そんな彼女に、アルマは満面の笑みで告白した。

 

「まだ描きかけなのに、君の絵に惚れちゃった。描き終わったら見せに来て。買い取るから」

 

 

…………

 

 

「これが我が家……色鉛筆のみで、美しく描くものですわね? ええ、ええ、とても素晴らしいと思いませんこと?」

「思ったから買うって言ったんだけど……」

「あ、あの、別にこれ、全然、売れる、なんて……」

「……アルマが買いたいと思う気持ちは、分からないでもないですね? それでも4月からは講師と生徒という関係になる以上、変な金銭関係を持つと問題になりますわよ?」

「それもそうかー……残念だ」

 

 アルマの家に住み着いている、黒の世界の魔女王が直々に作った自律人形(オートマトン)、クルキアータは、ひねくれものの彼女としては珍しく、深雪の絵をストレートに褒めていた。

 なんだかんだあって、深雪が描き終わった絵を持ってきてくれたのは、それから実に2時間後だった。日差しがあったので寒さはそこまででもなかったものの、彼女の頬はほんのりと赤くなっていた。今はミルクと砂糖たっぷりのカフェオレで一息ついている。はふぅ、と漏らす吐息が、これまた可愛らしい。

 それよりも、深雪の絵だ。「色鉛筆だけで描いたとは思えないほどリアル!」とかいうわけではない。ただ、妙な幻想の感じがそこにあるように見えた。普段は洗練されたシンプルさを感じさせるこの家だが、その絵の中ではまるで神様が積み上げた積み木のような、不思議と吸い込まれるような魅力があった。淡い青の空の色、遠くに見える赤の世界への(ハイロゥ)、空白で表現された雲、しなやかな黒い帯の道路。家を囲むそれらは、主張しすぎないのに確かな存在感を示している。見ていて、なんだか不思議で、気持ちがいい絵だった。

 

「あ、あの、その絵、あげます。売るなんて、とんでもないです」

「タダ? いやいや、そんなの俺の気が済まない。何かお返しをしなきゃ」

「でも、そんな……」

「深雪さん、とりあえず乗っておきなさいな? 彼は本気で貴女の絵に惚れ込んだようですよ? なら、その賛辞を素直に受けないのは、むしろ無礼というものですわ?」

「え、えっと……はい、分かりました。その、お金とかで、なければ……」

 

 深雪はそれでも、かなり申し訳なさそうに申し出に乗ってくれた。ちなみに深雪が初めてクルキアータを見た時には、それはもう驚いていた。何せ、クルキアータはその大きさも人形級。身長たったの72センチだ。小枝のように細い手足といい、家の中でも差している日傘で宙に浮いているのといい、青の世界で普通に生きてきたら、こんなものにお目に掛かることはまずないだろう。

 一方のアルマは、だからといってすぐにお返しを思いつかない。何かあるだろうか。金銭はアウト。となれば画材だろう。色鉛筆セットとか……と思ったところで、

 

「そういえば、青蘭学園には美術部、ないんだよな」

「え、そうなんですか!?」

 

 今日一番の大声で驚いた深雪は、ハッとして「ご、ごめんなさい……」と(しぼ)んだ。

 

「あ、あの、美術部があれば、(あぶら)()も、描けるかな、って、思ってて……好きなんです、油絵」

 

 落ち込んでいる様子も小動物らしくて可愛いのだが、受けたショックは本物だ。それもそうだろう。

 

「うん。美術室はあるんだけど、部が出来るほど人がいないみたいなんだよね。それで、授業でしか使わないから、油彩画の画材は無かったはず……油彩画って時間かかるもんね。絵具だって、水彩画のやつとは違うんだろうし。あ、でも、それを置いておける場所……そうだ、これがいい!」

「え、えっと……?」

 

 アルマは天啓にも等しい思いつきに歓喜した。そうだ、これなら彼女の才能を、大好きなことを潰さずに済む。

 

「うちの家の部屋を1つあげるから、そこを深雪ちゃんのアトリエにしよう!」

「は、はいっ? そんな、も、申し訳ないです!」

「いいのいいの。どうせ物置みたいになっちゃってる部屋があるし。あ、物置って言っても、別に窓無しの部屋とかじゃないから。とりあえず見てってよ。ほら、おいで」

「え、あ、あの……はい」

 

 アルマに誘われて、また申し訳なさそうにしながら、それでも席を立つ深雪。その後ろで、テーブルに直接座っていたクルキアータは、やや呆れ顔ながら優しい表情で2人を見送っていた。

 

 

…………

 

 

 後で知ったが、芸術家を保護し、様々な面から支援する後援者のことを、パトロンというらしい。

 

「つまり、俺は深雪ちゃんのパトロンになったってわけだ」

「その……ありがとう、ございます。油彩画、描くのに、場所も、時間も、必要だから……」

「任せてよ。その代わり、描いた絵はうちに飾らせてね。いつかうちを開放して、個展開こう」

「あ、あはは……そ、そんなに大した、ものじゃない、です」

「謙遜しないの。それに、もし仮に大したものじゃなかったとしても、それは今の話じゃないか。それなら、ここでもっといっぱい練習して、凄いもの作ろう。そのためなら、いくらでも応援するからね」

 

 アルマが深雪のパトロンになって数日後。物置だった部屋を片付けて、それから幾らかの結界を構築し、無事に深雪専用のアトリエにした。中は魔術的な防音仕様となっており、ドアプレートを「作業中」にしておけば、外の音がほとんど聞こえなくなる。これで作業に集中できるだろう。

 今は青蘭島の商業地区、クリスタルモールに画材を買いに来ている。買うものは沢山あった。絵具やブラシ、ナイフや筆洗油など……。上質なアルミのイーゼルと、彼女が好きな大きさのキャンバス、そして使いやすいサイズのパレットは、先に注文しておいた。

 

「絵具って、色々な種類があるんだな」

「はい。どれも、微妙に色味が違ってて、使う絵具が違えば、絵も結構、変わるんです」

 

 ここ数日彼女に付き合ってきたが、普段は舌足らずな深雪だが、今は珍しく饒舌な気がした。その高揚感はアルマもよく知っている。彼に例えれば、魔術道具や魔法薬の問屋に入った時のような感覚だろう。視界に入るもの全てが魅力的で、様々なインスピレーションを沸き立たせ、モチベーションを向上させる場所。

 隣り合う色と手を取り合うようなグラデーションで並べられた、色鮮やかな絵具のチューブ。絵具に(ひた)されるその時を今か今かと待っている、まっさらなブラシやペイントローラーの数々。店内の照明を照り返して「私を手に取れ、素晴らしい絵を描かせてやろう」と尊大に主張するペインティングナイフ。同じような表情をした透明の瓶の中に、それぞれ全く違う内面を忍ばせる画用液。その光景が今、深雪の心に薪となって投入され、激しい創作意欲を燃え立たせているのだろう。

 

「さ、買いたいもの、なんでも買おう。値段とか気にしないでね。芸術なんだから」

「あ、あの、本当に……これって何かの、罠、だったり……」

「先生がそんなことするわけないだろ? まあ、俺は教師じゃなくて講師なんだけどさ。とにかく遠慮しないで」

「……な、なら、すみません。ありがとう、ございます」

 

 深雪は頭を下げると、買い物カゴに画材をどんどんと入れていった。同じ筆を何本も。同じ絵具を何個も。確かに途中で無くなってしまうよりかは、予め何個も用意しておいた方がいいよね。とアルマは納得した。

 

「えっと……セルリアンブルー……プルシャンブル―……フタロブルー……」

「青、随分たくさん買うんだな」

「あ、えと、ご、ごめんな――」

「ああ、そうじゃなくて。いろんな種類があるんだなーって」

 

 アルマがそう付け加えた。よく見ると、彼女がカゴに入れた絵具は同じ青系の色ながら、どれも異なるものらしい。

 そんな絵具のチューブを繊細な指先で持って眺めながら、深雪は呟くように言う。

 

「セルリアンブルーは、本当に明るい青……雲一つない、夜明けの空みたいな色……プルシャンブルーは、とっても深い青で……ひんやり冷たい、海の色……フタロブルーは、すごく鮮やかな青で……澄み渡った空も、透き通った湖も、この色……」

「どれもいい色、なんだね。ゴメン、芸術があーだこーだとか言っておきながら、そんな色のことなんて考えたことなかった」

「ふふ……私は、このフタロブルーが、すごく好き、なんです。これだけでも、とっても綺麗な色、ですが……他の色と混ぜると、もっと違う表情を、見せてくれるんです。よく晴れた空は、明るいフタロブルーと、暗めのプルシャンブルーのグラデーションで……イエローと混ぜれば、桜の葉っぱみたいに強い緑も、稲の葉のように透き通った黄緑も作れます。少しのクリムゾンと混ぜれば、陽が沈む直前の空みたいに、美しい紫にもなるんです」

「そっか。単体でもいい色だけど、混ぜる用途もあるのか……」

「はい。それで、青蘭は、いろんな景色があるの、ここ数日で見てきました。色々な場所を、描いてみたいんです……。夕玄島から、青蘭島を見た時の、青枝山の緑と、晴れた空の青の、コントラスト、とか……鐘赤島の、色とりどりなお花畑と、白の世界への(ハイロゥ)が、一緒に映る光景、とか……。特別な光景で無くとも、海が綺麗な島々なので、そのためにも、青、沢山、欲しいです」

「もちろん構わないよ。その絵を飾るのが、今から楽しみになっちゃうよ。あ、急いで描いてってわけじゃなくて、深雪ちゃんが描きたい絵を、じっくり描くんだからね」

「……はい。楽しみに、していてくださいね」

 

 深雪は変わらず、呟くように言うと、彼女らしい、はにかむような笑顔をこちらに向けた。

 

 

…………

 

 

 少し暑い日の朝。いつもの通り市に行くと、珍しく大ぶりのシアンが売っていた。フタロブルーにほんの少量のサップグリーンとクリムゾンレーキを混ぜたような色の果実を少し眺めて、4個買った。自分以外誰も食べないだろうが、まあいいだろう。

 

 

…………

 

 

 6月に差し掛かった頃。リビングの壁に掛けられた、鮮やかで美しい油彩画を眺めながら朝食後の後片付けをしていると、深雪がやってきた。

 

「おはよう、深雪。今日は早いな」

「おはようござい、ます、先生。お邪魔、します」

「コーヒーでも飲んで始める?」

「はい。お願い、します」

 

 出会って2ヶ月と半分くらいが経ち、そろそろ深雪も余計な遠慮が無くなってきた。いつの間にかアルマも、彼女のことを「深雪」と呼び捨てにするようになり、深雪もアルマのことを「先生」と呼ぶようになった。距離が近くなっていると思うと、少し嬉しい。最近はよく彼女の笑顔も見られるようになった。

 

 αドライバーとプログレスとしての話をすると、実はアルマと深雪のリンク相性はかなり良かった。ただ、深雪のエクシードは使用機会が限定され、ともすれば使わない方がいい、とまで言えるほどのものだった。

 《有象無象の描き手(ドリーム・リアライザー)》。それは、絵に描いたものを実体化させる力。

 彼女が風景画を好んで描く理由がここにあった。エクシードの制御が上手くできない彼女は、物体を描いた時に不安定な状態で実体化させてしまう。だから、実体化することのない風景の絵ばかり描いていたのだ。

 アルマはそれを、否定しなかった。エクシードとの付き合い方を教えている彼だが、彼女のエクシードに対しては、普段のように強気の選択を考えることができなかったのだ。

 

 そんな深雪だが、今日は珍しく、個体に心惹かれたようだ。

 

「あ、そうだ。シアン冷やしとこ」

「シアン? 色、ですか?」

「色? あーそっか。この世界でのシアンは色のことなんだっけ。ほらこれ」

 

 アルマはそう言って、明け方に市場で買ってきた紙袋の中からそれを取り出した。やや濁ったような、それでも美しい空色の、真ん丸な果実だ。その果実に、深雪は好奇心をそそられた様に瞳を輝かせた。

 

「これ、黒の世界の果物でね。シアンっていうの」

「青い……きれいな、果物」

「どう、ちょっと食べてみる?」

「あ、あの……はい。食べたいです」

「よし来た。ちょっと見ててみ」

 

 アルマはシアンの下にボウルを置き、ナイフでそのヘタを切り落とした。切り口を下に向けると、そこから薄い水色の果汁が大量に溢れてきた。

 

「わっ……綺麗」

「シアンはすっごく水分を溜め込む果実なんだ。故郷じゃあ、水分補給に持ってこいなんだよ。天然の水筒みたいにね。ほら、ちょっと飲んでみ」

 

 ボウルに溜まったシアンの果汁を小さなグラスで1杯掬い、深雪に手渡した。彼女はそれを一口飲み……微妙な表情。

 

「……あ、あの」

「薄いよな、うん。そんなもんなんだ。じゃあ果肉はどうなの、って言うと、こんな感じ」

 

 今度はナイフで果肉を切り分け、また少し深雪に手渡した。彼女はそれを口に含み……微妙な表情は変わらない。本当に、よくよく味わえば甘いかも、というレベルなのだ。

 

「果肉も似たようなもん。ね、じゃあなんでこんなもん買ってきたかって言うと、こいつの美味さは種なのよ」

「種、ですか?」

「ほらこれ。ちょっと刺激強いよ」

 

 最後に果肉の真ん中の方から、ラムネくらいの大きさの薄黄色の小さな種を指で穿(ほじく)り出し、軽く水で洗って、一粒深雪に渡した。

 

「……噛むんですか?」

「そうだよ」

「はい――、~~~っ!!?」

「ね、刺激強いでしょ」

「は、はいっ……でも、甘酸っぱくて、おいしい、です」

 

 シアンは珍しく、その種子のみが食用に向いている果物だ。森の中で水を切らしてしまった時には水分補給できる果実として重宝されるが、そんなことを気にしない都市圏では、この種子を嚙み潰した時の弾けるような触感と、同時に口の中に広がる甘酸っぱさが人気となり、極めて薄味の果汁と果肉はほとんど捨てられていた。

 だがアルマは、別の理由でこの果実が好きだった。

 

「普通は種だけ食べるんだけど、俺は冷やしたこのシアンに、思いっきり噛みつくのが好きなんだよね」

「ん……ぶしゃーって、なりそう」

「それが面白いのさ。冷やすと少し甘みも増すし。そんで、冷えた果汁を飲みながら、柔らかい果肉を食い進んで、最後に種を齧るんだ。この世界ので例えると……スイカとかメロンに近いかな。ちょっと違うけど」

「ふふ……私も、ちょっと、やってみたいかも、です」

「んじゃあやる? 冷やしておくよ」

「あっ、でも……すみません」

「……いいよ、言ってみて」

「えと、その……そのシアンを、貸していただけません、か?」

 

 そう言ってアルマを見上げる深雪の眼差しの奥には、何か熱いものを感じた。そんな熱に冷水を掛ける真似など、彼にはできない。

 

「いいよ。どの皿に盛ろうか?」

 

 

…………

 

 

「描き終わり、ました」

 

 深雪がアトリエから出てきたのは、日が傾きかけた午後5時ごろのことだった。作業中は邪魔しないと決めていたが、それでもお昼に出て来なくて心配してしまった。聞いてみたら、やはり腹ペコらしい。

 

「んもー、お腹空いたら食べなきゃダメだよ。いい?」

「は、はい。ごめんなさい……でも夢中に、なっちゃって」

「ま、それもそうだよね。見せて見せて」

 

 深雪のアトリエに入ると、イーゼルに乗っているキャンバスには、質素な皿に乗った、3個のシアンの絵が描かれていた。どちらかと言えば抽象的なテクニックを用いる深雪が描いたにしては、形や凹凸・質感などの特徴が上手く捉えられていて、非常にリアルだ。それに……

 

「ちょっと、盛っちゃいました」

 

 キャンバスの上のシアンは、実物より少し青みが強かった。彼女の好きな、フタロブルーをふんだんに使ったのだろう。恥ずかしそうにはにかむ彼女が可愛らしくて、アルマは思わず彼女の頭を撫でてしまった。

 

「絵なんて盛ってなんぼでしょ。現実と全く同じなら、写真でいいし。描き手の伝えたいことが伝わるのが、いい芸術だと思うし。じゃあこれも乾かして、飾ることにしよう」

「あ、あのっ!」

 

 そこで深雪は、普段より大きな声でアルマを止めた。彼が彼女を改めて見ると、その頬がいつになく赤く染まっている。

 

「あの……先生。わ、私と、リンク、していただけません、か?」

 

 たどたどしいその言葉に、アルマはハッとした。そういえばそうだ。今回彼女は物体を描いた。よく見れば、キャンバス上のシアンは実物とほとんど同じサイズ。ということは――

 

「いいよ。じゃあ、手、繋ごっか」

「は、はい。……っ」

 

 アルマの差し出した手に、深雪が指を絡める。お互いを想い合う心と心が触れ合い、2人はそっとリンクする。

 深雪の心を感じた。(しん)(しん)と降る雪のように、静かで……それでいて、その内に熱い想いを秘めた心。

 逆に、深雪もアルマの心を感じたのだろう。彼女はそっと口を開いて、言葉を紡ぎだした。

 

「私、妹が、いたんです。小さい頃に、どこか、行っちゃって……今も、見つかってない」

 

 知っていた。彼女と知り合ったアルマは、改めて学園に提出された書類を読み、双子の妹と生き別れていることを知った。突然行方不明になり、捜索は行われたが、妹は終ぞ見つからなかった。

 そのことを知っているアルマは、敢えて答えない。

 

「今もどこかで、幸せに生きていてほしいって、思ってます。どこにいるのか、分からないけど……また、もう一度、会いたい、けど……」

 

 目を閉じた深雪の目尻を、涙が伝った。涙は頬を流れ落ち、アトリエの床に小さな染みを広げた。

 

「この、力は、妹が……(なつ)()が、大好きでいてくれた、私の絵を、現実にする、もの……いつか、また会いたいと、思ってるから、使う……」

 

 深雪は繋いでいない方の手をキャンバスに向け、その力を注ぎ込んだ。すると、まるで最初からそこにあったかのように、質素な皿に乗った3個のシアンが実体化していた。

 

「でも今は、先生の、ために……おひとつ、どうぞ」

「……ん、ありがとう……おっ?」

 

 彼女がシアンを1個手渡してくれた。手に持った瞬間に驚いたのは、それがひんやりと冷たかったからだ。手に取った質感はずしっと重く、皮のざらつきは本物より少し滑らかな気がした。絵具がまだ乾いていなかっただからだろうか。それにしても、ため息が出るほど美しい青のシアンだ。

 

「温度も再現できるの?」

「んー……分からない、けど、さっき、冷たいほうが美味しいって、言ってたから」

「覚えててくれたんだな。どれ……」

 

 アルマは、先ほど深雪に聞かせた通りの食べ方を実演して見せた。するとまた驚いたことに、本物そっくり……どころか、それ以上の果汁感だ。味もちゃんとする。溢れた果汁が床にびちゃびちゃと零れたが、ここはアトリエ。後で掃除すればいい。

 

「んーっ、やっぱこれだよ。まあ、下品な食い方なんだけどな。しかもこれ、実物より美味い気がする! 甘みが強いな!」

「ふふ……甘くなーれ、甘くなーれ、って思いながら、描きました」

「マジか。また描いてほしいけど、こんなに美味しいの毎回やってたら、元のシアンが食べられなくなっちゃうよ。それに、次に描いてくれる奴は、リビングに飾りたいし」

 

 そんなことを言いながら、アルマが深雪のシアンを食べていると、深雪も自分のシアンを手に取って……

 

「は、ぐっ……んっ」

 

 アルマの真似をして、思い切り噛みついた。皮を噛み破ると、ぶしゅっ、と果汁が飛び散る。果肉を嚙み千切ると同時に、床を濡らす。

 

「あはは、真似しなくていいのに」

「……冷たい。とっても、美味しい。それに、楽しい……!」

 

 その瞬間の深雪の笑顔は、それまでのどんな笑顔よりも素敵だった。果汁と絵具で汚れてしまって少しばつの悪そうな、けれどとても楽しそうな、そしてすごく幸せそうな、そんな満面の、弾けるような笑顔。

 まるでシアンの種のような深雪の笑顔を見て、アルマは、彼女のパトロン(αドライバー)になってよかったと、心の底から思った。

 

 

 床に零れた涙の染みは、フタロブルーのシアンの果汁が綺麗さっぱり塗り潰していた。

 


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